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雪の大地に咲く花よ  作者: 詩月
6/14

6 明日の約束


 ノクスヴァル公爵邸に、ヴァルカディア公爵家の使者が訪れたのは昼前のことだった。 


 王家の使者ではない。それだけで、セレフィーナは胸の奥に小さな違和感を覚えた。

 書斎の机に置かれた封書は、白地に深紅の封蝋。

 刻まれているのは、ヴァルカディア公爵家を表す狼の紋章だった。


「……王命、ではないのですね」


 思わず口をついた言葉に、父アーデルハルトは静かに頷く。


「あぁ。ヴァルカディア公爵家ユーフェイン様から、我が家へ宛てた正式な婚約の打診だ」

「正式な……」

「だが、強制ではない」


 その一言で、空気が変わった。


「断ることもできる。文面にも、はっきりそう記されている」


 セレフィーナは、ゆっくりと封書へ視線を戻す。

 紙一枚のはずなのに、そこには確かな重みがあった。


 ——逃げ道が、最初から用意されている。


 それは、貴族の婚姻においては、むしろ異例のことだといえる。


「……あの方らしいですね」


 自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。

 父は何も言わず、ただ娘を見ている。判断を委ねる、当主ではなく父の目だった。


 セレフィーナは封を切る。

 中に収められていたのは、過不足のない文章。家同士の釣り合い、政治的な影響、領地の事情——すべてが簡潔に、しかし誠実に記されていた。

 そして、最後に。


『もしこの話が、貴女の望まぬものであるならば、その選択を、私は尊重する。そのうえで、昨夜の行動について責任が問われるなら、すべては私個人が引き受ける所存である』


 ——息が、わずかに詰まった。


 守る、と言う人は多い。だが、退路を先に示す人は、ほとんどいない。


「……お父様」


 顔を上げると、アーデルハルトはすでに察していたように口を開いた。


「ユーフェイン様は、噂になることも承知の上で行動されていたそうだ」

「……」

「だが、それを理由にお前を縛るつもりはない。断れば、この話は無かったものとして処理される」


 優しすぎる、とセレフィーナは思った。けれど、その優しさは胸の奥で小さな火花となって弾けていた。

 断れる。安全な道を選べる。

 それでも、あの夜の馬車で感じたものが、頭から離れなかった。

 踏み込みすぎない距離。

 対等に話そうとする姿勢。

 そして——守る覚悟を、先に背負う背中。


「……この気持ちは何であるのか、分かりかねるのです。閣下が嫌いというわけではなく、むしろ……尊敬しているのですが」


 正直に言った。

 父は、すぐには答えなかった。しばらくして、低く穏やかな声で言う。


「そんなものだろう。何も命を懸けて戦いに行くわけではないんだ。お前が幸せになる道を選べばいい」

「……」

「選び、歩くうちに形になる……私とお前の母もそうだった。苦労ばかりかけてしまったがな」


 アーデルハルトは、暖炉の上の写真を見ながら言った。

 セレフィーナから見ても、両親は仲のいい夫婦だった。しかし、領内で蔓延した疫病の対応に奮闘していたセレフィーナの母は、過労がたたって亡くなってしまった。

 アーデルハルトは母が亡くなってからも後妻を迎えることはなく、首から母の愛用していた家族写真のロケットを下げている。今も、暖炉の上に並べられた写真を見る目はとても優しくそして寂しげである。




 ——幸せになる道。それを考えているうちに、いつの間にか夜が明けていた。


 ——コンコン


「お嬢様、おはようございます。入りますよ」


 侍女のリリーが部屋に入ってくる。


「おはよう、リリー。……って、その花はどうしたの?」


 リリーの両手の花束はもちろん、さらには廊下に至るまでたくさんの花々が置かれている。


「屋敷の皆が驚いています。ヴァルカディア公爵家からお嬢様宛にたくさんの花々が送られてきていますよ!」


 セレフィーナが部屋の窓から外を見ると、屋敷の門の先にまだまだ馬車が連なっている。


「……もしかして、これ全部なの?」

「はい。バートンさんが確認されて、十五台分の馬車が来ていると。公爵閣下はお嬢様を本当にお慕いされているのですね」


 その通り。これを見れば、誰もが社交界での噂を真実だと思うはず。ユーフェイン閣下は、社交界の噂から守ってくださっているのね。思えば、元婚約者のハーマインは、一度もこのような贈り物をしてくれたことなどなかったわね。

 このときセレフィーナは、たっだ数日前の出来事だというのに、婚約者だったハーマインのことをすっかり忘れてしまっていたことに気がついた。


 するとその時、リリーの手にしていた花びらが何やらかさかさと揺れて、セレフィーナの元へ飛んできた。


「きゃっ!」


 セレフィーナの前には小さな赤いてんとう虫が飛んでいる。


『セレフィーナ嬢、贈り物は届いたようですね』

「その声は、ユーフェイン様? 一体どうやって声を?」

『魔法師達が開発した魔導具です。距離が離れた相手と意思疎通を図ることができる道具なのです』


 ヴァルカディア公爵領は、魔獣に対する国防の要衝。王都の魔法師団とは別に、戦術に特化した魔法師を持つことが許されている。

 こうした魔導具も、そうした土地ならではの開発なのだろう。


『朝から驚かせてしまい申し訳ありません』

「いえ、このようにたくさんの花々をありがとうございます」

『婚約の書状の方は、そちらに届きましたか?』

「はい。あの、閣下……」

『急ぐことはありません。書状にしたためた内容はすべて私の本心です。ですが、この婚約に関して優先事項第一位はあなたの意思です。もし、婚約を望まないときは、断って構いません。何よりあなたは先日まで長年の婚約者がいらっしゃったのです。私は気長に待つつもりですよ』

「……」


 セレフィーナは胸がぎゅっと締めつけられるような思いで言葉を紡いだ。


「閣下からのお申し出をとても嬉しく存じます。ですが、私は……私はまだ婚約というものに臆病であるのです。ハーマインとの婚約は家同士の約束のようなものでしたので」

『……悩んでくださるのは、セレフィーナ嬢が真剣に向き合ってくださっているからでしょう。それだけでありがたく思います』

「いえ、そんな……」

『セレフィーナ嬢、実は私はもう時期ヴァルカディアへ帰らなくてはなりません。雪深くなると山越えが難しくなりますから。そこで明日。私に一日あなたと過ごす時間をいただけないでしょうか?』


 明日——その一言が、胸の奥で静かに反響した。

 断ることもできる。選ばなくてもいい。


「……一日、ですか」


 セレフィーナの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。けれど胸の内では、小さな波が何度も打ち寄せている。


『ええ。できれば公爵としてでも、噂の男としてでもなく。ユーフェイン個人として、あなたにデートを申し込みたいのです』


 言葉の選び方が、相変わらず誠実すぎる。

 あくまでセレフィーナの意思を優先し、正面から向き合おうとする——それは、容易なことではない。


 リリーは息を潜め、花束を抱えたまま二人のやり取りを見守っている。


 セレフィーナは、窓の外に連なる花の馬車へと、ふと視線を向けた。

 華美な権威の誇示ではない。社交界での婚約破棄などは、大抵女性の方に難ありと噂されるのを全面的に配慮してのことだ。

 これほどに大事にしてもらえるほどの何かを、私は閣下に差し出せるのだろうか。


「……お願いがあります」


 気づけば、そう口にしていた。


『お願い、ですか』

「はい。明日、私と剣を交わしてくださいませんか?」

『……セレフィーナ嬢と私が、ですか?』

「私もノクスヴァルの人間として、武術には心得があります。お願いします」


 一瞬の沈黙。

 だがそれは、ためらいではなかった。


『……承知しました。場所は……当家では少々目立ちすぎますのでノクスヴァル家の庭園をお借りしても? あなたの望む形で剣を交えましょう』


 即答だった。


『それと——』


 てんとう虫の翅が、かすかに震える。


『もし明日一日を過ごした結果、やはり婚約を望まれないとしても』

「……」

『その結論を、私は尊重します。今日と同じように』


 胸の奥で、何かがほどける音がした。


「……ありがとうございます、閣下」


 その言葉に、作法以上の感情が滲んでいたことを、セレフィーナ自身が一番よく分かっていた。


『では、明日。セレフィーナ嬢』

「はい。……また明日」


 小さな赤いてんとう虫は、ふわりと宙を舞い、花束の中へと溶けるように消えた。

 室内に戻った静寂の中で、セレフィーナは深く息を吐く。


「お嬢様……」


 リリーが、恐る恐る声をかける。


「……ええ。」


 迷っている。けれど、逃げてはいない。

 選ぶ自由を与えられたとき、人は初めて自分の本心と向き合う。

 それは、誰かに決められる道ではない。安全でも、楽でもないかもしれない。それでも、自分で選び、自分の足で歩く道。


 セレフィーナは、窓辺に置かれた一輪の白い花を手に取った。指先にほのかな香りが残った。

 明日、その答えの輪郭が、少しだけ見える気がしていた。

 

次回投稿は少し遅れます。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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