3 無意識の感情
馬車が動き出すと、祝賀会の喧騒は思いのほかあっさりと遠ざかった。
窓の外を流れる王都の灯りを眺めながら、ユーフェインはふっと息を吐く。
……静かだ。
北の遠征帰りでも、ここまで気を張らされることは少ない。
「……本当に、ありがとうございました」
向かいに座るセレフィーナが、改めてそう言った。
社交の場で聞いたどの言葉よりも、飾りのない声音だった。
「礼はいらないと言ったろう」
「ですが、何度でも言わせてください。今夜、閣下がいなければ……私は、あの場に一人で立たされていました」
その言い方が、妙に率直で。
被害者ぶるでもなく、感情に溺れるでもない。
「……貴族の令嬢というのは、もっと泣くものだと思っていた」
「そう振る舞う方が、都合がいい場面も多いですから」
小さく笑う。
計算ではない、素直な表情。
――変わった人だ。
そう思った瞬間、ユーフェインは、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
馬車の揺れが、ほんのわずかに変わった。
道は平坦なはずだ。
「……御者」
声を出しかけた、その時。
鋭い気配。
森でも戦場でも、嫌というほど慣れた――刃に似た、悪意の輪郭。
考えるより先に、体が動いていた。
—ガン
鈍い音が響き、馬車の外壁に何かが当たる。
「伏せろ!」
ユーフェインは即座に立ち上がり、セレフィーナの前に身を投げ出すように庇った。
剣に手をかけ、扉の向こうを睨む。
だが――続く気配はない。
数拍。
御者の声が震えながら響く。
「か、閣下……石が、投げ込まれたようで……人影はありません」
……牽制か。
それとも、試し。
ユーフェインはゆっくりと息を整え、剣から手を離した。
「怪我は?」
「ありません」
そう答えたセレフィーナは、蒼白ではあったが、声は揺れていなかった。
「……怖くなかったか」
「もちろん怖いです。でも」
一瞬、言葉を探すようにしてから、彼女は続けた。
「閣下が前に立たれたとき、不思議と……大丈夫だと思えました」
その言葉が、胸に刺さる。
守ったから、ではない。
庇ったから、でもない。
信じられたと言われたことが。
ユーフェインは、はっきりと自覚してしまった。
自覚した途端、頬の奥がじわりと熱を持った。
夜気は冷たいはずなのに、火種を抱え込んだように、その熱が皮膚の下に滲んでくる。
——馬鹿な。
ユーフェインは、無意識に視線を逸らす。
戦場で血を浴びても、氷雪の中に立っても、こんなふうに顔が熱くなることなど、なかった。
北の雪原で、仲間の背を預かるときの感情とも違う。
戦の前に剣を握る高揚とも違う。
失いたくないという、明確な衝動だった。
「……今夜は、もう少し急がせよう」
「はい」
それ以上、言葉はなかった。
だが、馬車の中の空気は、先ほどまでとは確実に変わっていた。
ユーフェインは窓に映る自分の顔を見て、苦く笑う。
まったく。
血と雪の中では、こんな感情、芽吹きもしなかったというのに。
――王都は、厄介だ。
そして。
あの令嬢は、もっと厄介だ。




