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日本に存在する唯一の魔法学校、私立クリスティ学園。
幼稚部から大学まであるこの学校は、国内に現存する魔族の子息たちのための学び屋だ。
日本で指折りの財力を誇る伊集院財閥が創設したこの学園中等部1年A組の教室は、放課後のざわめきに包まれていた。
そんな中――。
「はああああっ」
大きなため息が教室に漏れる。
授業が終わり、皆、開放感に浸っているところなのに、ため息の主は憂鬱そうだ。
窓辺を向いて、教科書もそのまま、後野茉理はまた深くため息をつく。
(ああっ、ついに放課後になっちゃったな)
外は梅雨時のこととて、しとしと雨が降っていた。
(わたしも魔法が使えたら、この窓から浮遊して逃げ出すのに)
雨が降っていてもかまわない、そんなことまで思ってしまう。
「茉理、茉理ってば」
友人 川本奈々の声に、茉理はそっちを見た。
彼女はすでに鞄を持ち、くいくいっと指で扉の方を差す。
「帝様、待ってるわよ」
「……」
「もう、往生際が悪いなあ。わたしなんてうらやましいくらいなのに」
帝様が待っていてくださるなんて、きゃっ、と奈々ははしゃいでいるが、茉理にとってはそれこそがため息の原因だった。
(うっ、あのとき、やっぱり負けておけばよかったな)
粋がってイベント通過を果たしてしまい、彼女は見事にこのクリスティ学園中等部のキングたる生徒会長 伊集院帝の彼女になる権利を手に入れた。
しかし茉理は、彼女になりたくてがんばったわけじゃない。
(彼女になりたくなくて頑張ったのに――ああっ、どうしてこういう結果になるわけ?)
わたしの苦労は何だったんだ、とこぶしを固めて、机に叩き付けたい心境だ。
クリスティ学園の生徒会長 伊集院帝は、伊集院財閥の跡取りにして、名門魔族クリスティ一族の本家の血を引くただ一人の少年だ。
魔族は自分の魔力をすべて子孫に伝達させるためには、運命に定められた相手を正しく選び、結婚しないといけない。
運命の相手との子どもでなければ、魔力をすべて受け継ぐことは出来ないのだ。
クリスティ本家には、なんとしても魔力をすべて子孫に伝達させねばならないという堅い掟があった。
それゆえ帝は、毎年『運命の相手』かもしれない候補者を選出し、選ばれた少女と一年の間、本気で付き合わねばならないという一族の掟に従っていた。
そしてなんともはた迷惑なことに、今年は茉理が選ばれてしまったのだ。
(なんでも言うことを聞いてくれるって言ってたのに……)
選考イベントを勝ち抜いて彼女となった少女の頼みなら、なんでも聞いてやると彼は言った。
ゆえに彼女は必死に勝ち抜き、最上階のゴール――生徒会室に辿りついた。
そして彼に頼んだのだ。
『絶対に彼女にしないでくれ』と。
早い話が彼を見事にふってしまったわけで、いたくプライドを傷つけられた帝は、次の登校日に家の前に押しかけて彼女に宣言した。
『絶対に彼女にしてみせる』と。
(もう嫌!)
茉理はのろのろと鞄に教科書を詰め込む。
「後野さん、後野さん」
別なクラスメイトが寄ってきて、耳打ちした。
「早く行った方がいいよ、帝様、すっごくいらいらしてる。また扉、壊されちゃうかも」
茉理はうーっとうめき、支度を急いだ。
なかなか出てこない彼女にしびれを切らし、彼が思わず教室の扉に怒りをぶつけたことも3度ほどあった。
そのたびに新しい物が取り付けられて、1年A組だけ扉が真新しかったりする。
「あ……後野さん」
「もう、今、行くってば」
茉理はイライラ気味につぶやくと、鞄を勢いよく持った。
彼女に声をかけた少年は、一瞬ビクっと身をすくませる。
「あ、小坂君? ごめん」
茉理は少年――学級委員の小坂正一のおびえた顔に、あわててあやまった。
「ちょっといらいらしてて……何か用?」
笑顔を向けると、正一は少し言いにくそうに顔をゆがめ、いいや、とつぶやいて去っていった。
(変なの)
茉理は首をかしげる。
絶対何か言いたそうだった。
(会長のことじゃなさそうだったな。なんだろ?)
茉理は不思議そうに、教室を出て行く小坂正一を見送った。
「遅い」
「別に待っててもらう必要はないんですけど」
廊下に出るや否や腕を捕まえられ、茉理はぶすっとして答えた。
「会長、もういい加減にしてください。わたし、あなたとお付き合いしないってはっきり言ったじゃないですか」
「俺もはっきり言ったばずだが。お前は俺の『女』にすると」
全然引きもしない彼に、茉理は腕を振り払い、だっと走り出す。
「俺から逃げられるとでも思ってるのか」
階段を勢いよく降りていく彼女を、すばやく帝は追いかけた。
当然また捕まえられる――はずなのに。
「帝様」
「うっ……円城寺」
階段を下りたところで、帝の前に目を潤ませた元カノが立ちはだかる。
「どけっ」
「帝様、お願いです。もう一度、わたしにチャンスをください」
彼女はがばっと帝に抱きついた。
「離れろ。お前とはもう終わったはずだ」
「確かに後野さんとの勝負には負けましたけど、でも後野さんは帝様との交際をきっぱりお断りされたんでしょ。どうしてそんなに彼女を追いかけ回すのですか」
「いいから付きまとうな」
「いいえ、わたし、どうしてもあなたをあきらめられません。後野さんとお付き合いしないのなら、またわたしを彼女にしてください」
「嫌だと言ってるだろう。俺の女は『茉理』だけだ」
はたからみたら目を覆いたくなるような状況だったが、帝はなんとかからみつく円城寺美奈子を引き離し、昇降口に出る。
「茉理」
叫んだが、時すでに遅し。
彼女はもう玄関からダッシュで逃げだしてしまっていた。
「くそっ」
彼はすばやく自分の靴箱に走りよる。
「待って~、帝様―っ」
後ろから追いかけてくる鼻にかかった甘え声にうんざりしながら、彼はすばやく靴を履き替え、上履きを放り込むと玄関を飛び出した。
はあ、はあ、はあ、はあ。
茉理は全速力で校門まで駆けていく。
傘はさしてるのかどうなんだが――走った勢いで、少女の制服はびしょびしょだった。
後ろに帝の気配がないのを確認し、彼女はほっと一息ついた。
(きっと円城寺先輩に捕まってるんだわ)
それもそれで、どうかと思うが。
彼女はほっと額の汗をぬぐうと、傘を持ち直して歩き出した。
校門の横に立つ桜の大木の下で、立ち止まって靴ヒモを結び直す。
そのまま桜の木を見上げ、彼女はふっと表情を緩めた。
(初めて会長と会ったときは、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったな)
茉理が初めて、ここの門をくぐった日。
この桜の木の上に彼がいたのだ。
そして彼女に優しく話しかけてくれた。
あれからまだ2ヶ月しか経っていないが、茉理には何世紀もたったかのように思える。
2ヶ月の間に彼女が体験したことと言ったら、今までの人生13年にも匹敵するかと思われるほどのことばかりだったのだ。
すべてが始まったのは、この木の下から――。
茉理は、重なりあう枝の間から曇った灰色の空を見た。
まるで今の自分の心のように空は泣いている。
(会長は、どうしてそんなにわたしを彼女にしたがるのかな)
それが彼の自尊心のためだということは、茉理には胸痛いほどわかっていた。
本当は、帝は誰とも付き合いたくないのだ。
でも家のため、一族の掟のために、彼は必死に自分を縛っている。
そのために今まで苦しんできた人なのだと、茉理は知ってしまった。
己の心を二つに分裂させてしまうくらいに。
だからこそ彼の申し出を受けるわけにはいかないのだ。
(だって会長にとっては、すべては嘘。どうせ一年限りのお芝居に過ぎないんだから)
選ばれた少女との交際期間は一年。
その間、彼は例えどんなに相手を嫌っていたとしても、好きだと言ってくるのだ。
(そんなこと、わたしは会長にして欲しくないんだけどな)
もっとお互いに自由な関係があるはずなのに――。
茉理はため息をつくと、校門を見た。
(あ……)
少女の瞳が揺れる。
門のところに、早川明人がいた。
誰かを待っているようで、彼は門にもたれて軽く目を閉じている。
雨に打たれて、茉理より更にひどい状態だった。
(お兄ちゃん)
茉理は胸が痛くなった。
初恋の人。
小さい頃、いつも一緒に遊んだ優しい男の子。
彼に会いたい一心で、この学園に来たというのに。
「お兄様」
茉理の背後から弾んだ声が聞こえた。
彼女の胸が、きりりと締め付けられる。
(早川さんだ)
お嬢様のように清楚で綺麗な少女、早川響子が、小走りに校門に駆けていく。
彼女を見つけ、明人は嬉しそうな顔をした。
二人は一つの傘に仲良く連れ立って、門をくぐっていく。
何気にしっかり腕を組んでいるところをみて、茉理は思わず桜の木につかまって胸の痛みを抑えた。
(お兄ちゃんは、今は早川さんのことを――)
何故かは知らないが、再開した明人は、あれだけ仲の良かった茉理を綺麗に忘れてしまっていた。
今、彼の心を占めるのは、再婚相手の連れ子にして義理の妹、早川響子だけ。
ふう、と茉理はため息をつく。
(ま、しょうがないよね。もし本当にお兄ちゃんに、わたしとの記憶があったとしても)
魔力ゼロ、家だってきわめて平凡な普通の家庭。
容姿も普通で何の取りえもない自分と比べて、早川響子は輝いてみえた。
魔族の中でも名門の家柄で、校内でも1,2を争う天才魔術師。
そしてあのたぐいまれなる美貌。
誰だって男の子なら彼女を間違いなく選ぶだろう。
そう思ったら、余計に肩の力が抜けた。
辛そうにたたずむ茉理を、すっと背後から誰かの腕が包む。
「え?」
手のひらがそっと茉理の目を覆い、周りの景色から遮断した。
「お前……まだあの男のことを」
耳元にささやく声は、苛立ちに満ちている。
帝は身を震わせる少女をぎゅっと抱きしめ、思いを込めて言った。
「見るな、あんなの。お前は俺だけ見ていればいいんだ」
「……」
茉理は体中が熱くなる。
傘も差さずに飛び出してきたらしい、今、彼は頭の先からずぶぬれだった。
その腕はとても優しくて、まるで本当に愛されているかのようだ。
でも。
(全部、嘘! たった一年限りのお芝居なんだから!)
このままごとみたいな恋愛ごっごに、心かき乱されるなんて冗談じゃない。
茉理は思いっきり力を込めると、彼の腕を振り解いた。
「会長。もうやめてください」
「嫌だ、絶対にお前は俺のものにしてみせるからな」
「そしてどうするんです? 一年後は」
「何」
帝の顔が険しくなった。
「一年後はどうするんですか。わたしとの交際期間が終了したら、また例のイベントをやるんでしょ」
「ああ、そうだな」
「そしてわたしとはきっばり別れて、別な女の子と付き合う。そうでしょ」
「そうだ」
それの何がおかしい、と肯定する帝に、茉理は激しい怒りをぶつけた。
「もう嫌なんです。本気でもない気持ちなんて、もらったって嬉しくありません」
「茉理」
「わたしもあの円城寺先輩みたいになったら嬉しいですか、会長」
「それは困る」
帝は考え込んだ。
「一年後にはちゃんと別れてもらわないとな。いちいち付きまとわれるのはごめんだ」
「だったら、最初から付き合わない方がいいでしょ」
茉理は激昂し、彼に自分の差していた傘を差し出す。
帝は自然にそれを受け取って、茉理の上にも差しかけた。
彼女はすっと傘の下から抜け出す。
「おいっ、送ってやると言ってるのに」
「けっこうです。さようならっ」
彼女は思いっきり叫ぶと、走って門を出て行った。
「あーあ、帝、今日もふられちゃったんだ」
くすくすくす。
背後からの軽い笑い声に、帝は顔をしかめた。
振り向くと、ゆるやかな金髪を肩に垂らして優美な微笑を浮かべた先輩がいた。
「あげくに傘まで恵んでもらうとは。君、今回はかっこいいとこなしだね」
「うるさい」
彼は思いっきり叫ぶと、薔薇の花模様のなんとも派手な傘を睨んだ。
「お前こそさっさと生徒会室に戻れ。まだやることがあるだろうが」
覗き見なんかしてんじゃねぇ、と叫ばれて、雅人は肩をすくめる。
「いやあ、あまりにも君の努力が報いられないのが悲しくて、ついつい見守ってしまったよ。怒らないでおくれ、僕の大切なみ、か、ど」
ふうっと耳元に息をかけられ、帝は怒って雅人を突き飛ばす。
「っぶないなあ」
「ふざけるな。そういう態度は慎むように言っただろうがっ」
「でも最近帝は全然僕と遊んでくれないんだからね。茉理姫はかり追いかけて、つれないったらありゃしない。今日はもうふられちゃったんだし、これから僕と気晴らしに出かけないか」
帝はぐっと雅人を睨むと、踵を返して校舎に戻っていった。
(ふふっ、相当苛立ってるね。ま、無理もないか)
連日の茉理の心を振り向かせる作戦は、ことごとく失敗に終わっている。
毎朝、家の側まで車で迎えに行っては逃げられ、休み時間ごとに教室に押しかけては無視され、ランチのお誘いももすっぽかされ、放課後一緒に帰ることもままならない。
ここまで手こずるなんて初めてのことだ。
(そろそろあきらめるかい? 帝。いいや、君のことだから余計に心を燃え立たせるだろうね。ふふっ、明日が楽しみだな)
ひとごとのように微笑むと、雅人は薔薇を取り出して水溜りの中にひらりと落とす。
(こんな薄汚れた水の中でも、薔薇の花は引き立ってみえる。誰かを恋する気持ちっていうのは、いつも変わらず咲き誇るものさ。帝、君もそろそろ本当の恋を知ってもいい頃じゃないかな)
雅人は大人びた笑みを浮かべて、水を跳ね返しながら生徒会室に去っていく水色の傘を見守った。




