10
「あ……れ……?」
茉理は寝ぼけ眼を指でこすった。
(わたし、どうしたんだろう)
まわりを見回すと、そこは自分の部屋。
すずめのさえずりと窓から差し込む朝の日差しに、彼女はぼけた頭をひねった。
(わたし、確か学校に行ったはず、なんだけど)
なのにどうして自分の部屋で、布団をかぶって寝ていたのか。
ベッドを見回しても、不審な物は何一つなかった。
斎が作って、自分のかわりに置いた身代わり人形なんてどこにもない。
(部屋に戻ってきた記憶がない、えーと、どうしちゃったんだっけ)
茉理は必死に記憶を探る。
あの精霊の少女の姿を思い浮かべ、彼女ははっと気がついた。
(そうだ、わたし、倒れたんだった)
あのとき。
せつなく悲しい少女の心の痛みに共感し、自分の中にも似たような想いを呼び起こしてしまった。
それがあまりにも痛くて辛くて、意識が薄れてしまったのだ。
(誰が運んできてくれたんだろう、遠野君?)
茉理は目を閉じ、一生懸命念じた。
『遠野君……遠野君、聞こえたら返事をして!』
何度も呼びかけたあと、少し困惑した声で返事があった。
『あ……後野さん? お早う。朝からどうしたの?』
『どうしたのって……』
斎の返事に首をかしげながら、茉理は言葉を送る。
『あのさ、昨日はごめんね。遠野君が運んでくれたんでしょ』
『え、何を?』
斎の答えに、ますます茉理は混乱した。
(変だわ。昨日のこと、遠野君は覚えてないの?)
恐る恐る彼女は聞いた。
『あのさ、遠野君、昨日の夜なんだけど』
『昨日の夜? 僕は本を借りに雅人先輩の所にお邪魔してたけど』
どうしたの? と優しく聞き返す声に、茉理は顔が赤くなった。
(やだよ、もう。もしかして、あれは夢?)
朝っぱらからとんでもない思念を送ってしまったようだ。
『後野さん、どうしたの? 大丈夫?』
心配そうな斎の声に、茉理は笑うしかなかった。
『えーと、ごめんなさい。わたしの勘違い。変な夢を見ちゃって……気にしないで』
『うん、じゃ、また学校でね』
斎の思念は消え、茉理ははあっとため息をついた。
(まったくわたしったら)
昨日のあれは夢だったのだろう。
いくらなんでもあんな時間に、斎が自分を誘うわけがない。
気合を入れて大きく伸びをし、茉理は起き上がってカーテンを開けた。
すがすがしい日差しを浴びて、少し頭が冴えてくる。
(久しぶりに良い天気だわ)
ずっと梅雨時のため雨が多かったが、今日はお日様が顔を出している。
茉理は微笑むと制服を手に取り、着替え始めた。
髪を編み、鞄の中身を確認して、ハンカチとティッシュをポケットに入れる。
(これで良しっと……あれ?)
ポケットを探って、茉理は蒼白になった。
(ないっ、あの鏡がないよ)
祖母からもらった先祖代々伝わる守り鏡がない。
(どうしたんだろう)
部屋の中をくまなく探したが、どこにもあの鏡は落ちていなかった。
(最後に見たのはいつだっけ)
昨日はあの精霊の少女の騒ぎで、一度も鏡を校内で取り出していないはず。
昨日、登校する前に確認したから、学校に持っていったのは確かだ。
(うわああっ、どうしよう。きっとどこかに落としちゃったんだ)
茉理は蒼白になって、朝ごはんも食べずに外に出た。
通学路から下を向いて、注意深く探す。
(ああっ、困ったわ。どうしよう)
彼女の頭の中は今、失った鏡のことでいっぱいだった。
一般生徒が登校する前に、帝は図書室に足を踏み入れた。
(状態は変わっていないようだな)
昨日の発見時点から、ここは一般生徒立ち入り禁止となっていた。
まだどこにも変化はなく、静けさで満ちている。
本はすべて本棚に納まり、薄緑のカーテンが片側に並ぶ窓を覆っていた。
帝はカーテンを一つ開け、明るい日の光を図書室に入れる。
精霊が囚われている壁際は、今は何も見えない状態だ。
ただ壁があるだけのようにしか目には映らない。
でも確かに彼女はそこに存在し、今も苦しみ続けているのだ。
(長引くとやっかいだ。あの精霊の状態だと、いつ自我を失くして暴走するかわからない)
自分の心が残っているうちはいい。
でもあまりの苦しみに自身の意識すら失くしてしまうと、精霊は恐ろしい闇の力となる。
苦しみと想いが強い分、怨念という闇の存在となって、すべてを破壊し始めるのだ。
(あいつには悪いが、さっさと結果を出して片付けないと)
すべてにおいて異常がないのを確認し、帝は生徒会室に戻ろうとした。
だがそのとき。
何かがちらりと意識に引っかかり、彼は精霊のいる壁の前に来た。
(ん? これは……)
壁の前に、きらりと朝の日差しを受けて何かが光っていた。
彼は丸い物体を拾い上げる。
その瞳が大きく見開かれた。
(これは! この鏡はまさか……)
茉理は肩を落として登校した。
結局鏡は見つからなかった。
(あーあ、大事な物だったのに)
しゅんとして教室の席に座る茉理に、能天気な声が送られてくる。
『はあーい、レディ、お早う。麗しき君に捧ぐ僕からのささやかな挨拶だ。受け取ってくれたまえ』
次の瞬間。
ドサドサドサッ。
「う……うっそーっ」
茉理の頭上から、いきなり大量の薔薇の花が降ってきたのだ。
頭から机から床から、茉理の半径1メートル以内が薔薇の花で埋め尽くされる。
『ふふふ……気に入ってくれたかな』
「な、な、な、なんだってこんなものを」
茉理は先ほどの沈んだ気分も吹っ飛んで、雅人に怒りを燃やした。
『ちょっと雅人先輩。いきなりこれは何のつもりですか』
『やだなあ、姫君への僕からの気持ちだよ。遠慮せずに受け取ってくれ。あ、足りなければもっと出してあげるよ』
『けっこうです。こんなはた迷惑な挨拶はいりませんっ』
ぶつぶつ言いながら、茉理は薔薇の花をせっせと拾い集めた。
(もう、こんなにどうしろってのよ)
「茉理……朝からすごいわね」
奈々やクラスメイトが、目を丸くして手伝ってくれる。
「さすが帝様、やることが違うわね」
「こんなに大量の薔薇をくださるなんて、後野さんがうらやましいな」
(うらやましいんだったら、代わってあげるよーっ)
茉理は心の中でうめいた。
皆、雅人ではなく帝からの愛の贈り物だと、きゃっきゃっと騒いで誤解している。
(もう、なんでもいいよ、なんでも)
説明する気も失せて、茉理は先生が来る前になんとかしないと、と必死に薔薇を回収した。
一時間目後の休み時間。
雅人は英司の姿に変身して、隣のクラスに移動した。
「直樹先輩、遊びに来ましたよ」
直樹は顔をしかめ、打っていたPCから顔をあげる。
教室のそこここで、きゃっ、英司君よ可愛いっ、などとささやかれる声に、彼はため息をついた。
「英司、ここは3年の教室だ。2年のお前がどうしたんだ」
「別に用事はないんですけどね。直樹先輩の顔が見たくなって」
大きな目を潤ませる英司に、直樹は憮然とした顔をした。
まさか英司君、今度は直樹先輩と? などと、ちょっとあぶない視線が跳んで来て、彼は更に不機嫌になる。
「いい加減にしろ。この馬鹿が」
どうせ帝から逃げるつもりなんだろう、とつぶやくと、英司はふふっと英司らしくない笑みを浮かべた。
「ご名答。さすが直樹先輩」
「言っとくが、俺は弁護も援助もしないからな。まったく余計なことに俺を巻き込むな」
「僕の弁護も援助もしないだろうけど、帝が熱くなったら止めてくれるだろう?」
それで十分、と英司は優雅に笑む。
「最初からばれてんだから、その姿をやめろ。全然、意味がない」
ため息をつかれ、英司はふふっ、と笑うと、パチンと指を鳴らした。
他のクラスメイトが驚く中で、彼は元の雅人に戻る。
「じゃ、休み時間は短いし、そろそろ行こうか」
「お前、一人で行け」
冷たい声で拒否する直樹の手を、雅人はつれないなあ、とぎゅっと握った。
「あ、おいっ」
直樹が止めるひまも与えず、彼はすばやく瞬間移動する。
「くそっ」
一緒に屋上まで移動され、直樹はうめいた。
「お前な」
「教室じゃまずいしね。ほら、来たよ」
雅人の目が、すっと細められる。
屋上のドアの前に、帝が腕組みをして立っていた。
(うわっ、相当怒ってるな)
雅人は肩をすくめた。
つかつかと雅人の前に来ると、帝は彼を睨んだ。
「雅人、貴様、どういうつもりだ」
「え、どういうつもりって?」
薔薇を片手にしれっと答える彼に、帝の怒りが爆発する。
「ふざけるな。あいつに、なんで薔薇なんか贈ったんだ」
「なんだ、帝、お前じゃなかったのか」
直樹が冷静な声で割って入る。
「1年生の間で朝からうわさになってたぞ。後野茉理に大量の薔薇を会長が贈ったと――女子はみんな、うらやましがってたな」
「へえ、そんなうわさが」
3年の教室まで広まるとはねえ、怖い怖い、と雅人は一向に動じずに笑う。
「俺はそんな物、贈っていない」
「おや、これは意外だね。贈り主は誰だろう。茉理姫に密かに想いを寄せる謎の貴公子でもいるのかな。ライバル登場で良かったじゃないか。君の恋心はいっそう激しく燃え上がることだろう。姫を想う気持ちの苦しさは恋の高まりとなり、君の心を狂おしくかき乱す……って、わっ、ちょっとタンマ!」
雅人の延々と続きそうなセリフの最中に、我慢出来なくなった帝の魔法攻撃が炸裂した。
手のひらから放たれた閃光が雅人を襲う。
でも雅人はすっと薔薇の花を前に出すと、閃光を真っ向から受け止めて消滅させた。
「ふふっ、威嚇射撃は僕には通用しないよ、帝」
「今度は本気の一発を見舞われたいらしいな」
更に怒りを燃やす帝に、雅人は優雅に微笑んで見せた。
「そう怒らないでくれ、帝。僕はね、茉理姫を少し元気付けたかっただけなんだから」
「……」
「彼女が昨日、少し力を落としてたのは知っているだろ? だから今日はどうかなって、ちょっと様子を見てみたかっただけなんだ。だって放課後、おそらく英司君からの衝撃な報告があるからね。それを受け止められるだけの力が戻っているかどうか確かめたかったんだよ」
帝はじっと雅人を睨んだ。
「本当にそれだけか」
「それだけだけど?」
薔薇の高貴な香りを堪能しながら、雅人はしらばっくれる。
「いつもそうそう俺の目がごまかせると思っているのか」
帝は鋭い視線で雅人を睨む。
「……」
さすがの雅人も、帝の態度に口元を引き締めた。
(まさか気付いたのか)
昨日の夜の一件は、うまくごまかしておいたはずだ。
例え宿直担当教師でも見破れはしないだろう。
じっと帝の目線を受け止める雅人の前で、帝は低い声でつぶやく。
「昨日の夜、何があった?」
「別に何もないけどね」
「白状しろ。茉理をどうしてあの精霊の元に近づけた!」
激しい怒気を込めて帝は叫んだ。
(あーらら、ばれてやんの)
雅人は、やれやれ、と肩をすくめる。
「降参、降参。でもどうしてわかったの?」
校内モニターもちゃんと細工しといたんだけどねえ、とつぶやく彼に、直樹の黒眼鏡が光った。
「ああ、細工してあったな。わざとおとといの映像が差し替えられていた。誰がやったのかまでは検討がつかなかったが、お前だったとはな」
ふう、と息を吐くと、雅人は軽く笑んだ。
「そんなに怒らないでくれよ、帝。僕だって正直驚いたんだからね」
「なんだと?」
「夜に茉理姫が、あの精霊に会いに行くとは僕も予想外だったよ。それほどにあの子のことを気にしているみたいだ。そう、自分の知らない間に君に処分されやしないか、とかね」
「なんだ、それは」
「それだけ彼女の君に対する信頼度が低いってことさ。ま、あの子の前で、あまりの悲惨さに気絶してしまい、それを僕が見つけて介抱し、家まで送っていったってわけ。あ、彼女は昨夜のことを夢の中での出来事だと思ってるから、そのつもりでね」
「……」
いまいち信用していない瞳に、雅人は苦笑する。
「やだなあ、そんなに僕って信用ないの? それなら君が茉理姫をちゃんと捕まえておけばいいのに」
「出来たらそうしたいとこだ」
らしくない言葉をつぶやくと、帝は踵を返す。
階段に消える彼の後姿を見送って、雅人はふうっと肩の力を抜いた。
「あーあ、なんかあっけなく収まったね」
「良かったな。乱闘にならなくて」
直樹が黒眼鏡のフレームに手をかけながらつぶやく。
「まあね。帝も少しは成長したかな。血気怒気を抑えるようになったしね」
「お前がわざと言わないでいたことにも気付いたようだしな。それをあえて聞かないように、早々と退散したんだろう」
おや、気付いてたんだ、と雅人は軽く眉をあげた。
「いくら何でも彼女が一人で夜、監視モニターと障害トラップ魔法を潜り抜け、校舎に侵入出来ると思うのか。当然、手引きした奴がいるってことだ。お前以外のな」
「おや、僕は問題外なのかい」
「お前がそんな危険なことを彼女にさせるわけはないことぐらい、帝にもわかってるはずさ。英司は過去に飛んできたから事情をよく知っているはずだし、わざわざ精霊の所に彼女を案内するぐらいなら、事情を先に教えるほうが手っ取り早いだろう。その気配もないとなれば、残るはただ一人」
直樹は目線を下に落とすと、ふっと笑んだ。
「あいつの俺達に対する信頼度は、まだ低いからな。今回の件はしょうがないだろうさ」
「彼には僕からきちんと説明させてもらったからね。本人も反省してたし、もう無茶はしないだろうよ」
見逃してやってね、と流し目で訴える雅人に、直樹はうなずいた。
「それにしてもお前、あまり茉理姫にちょっかいを出すなよ」
これ以上帝を刺激するな、と言われて、雅人は膨れた。
「どうしてさ。僕が茉理姫と仲良くして何が悪い?」
「悪くはないが、お前のはわざと帝を挑発するためにやってるじゃないか。一番たちが悪いぞ。あいつはただでさえ茉理姫との関係が思うようにいかずに悩んでいるんだから、これ以上揉め事の種を増やすな」
「ありがたき忠告だねえ。でも僕よりもっと強力かつやっかいなライバルが帝にはいると思うけど」
雅人の含み笑いに、直樹の目が吊り上がる。
「誰だ。早川明人、とか言うなよ」
茉理の初恋の少年の名をあげた直樹に、雅人はふふふ、と薔薇で口元を覆いながら笑う。
「違うよ。早川君は彼女よりも美しい妹姫に夢中だろ」
そして彼は、優雅にすっと薔薇の花を投げた。
花は屋上から下の校庭に向かって、ふわっと風に乗る。
そして校庭を横切る一人の生徒の足元に落ちた。
彼は目を丸くして薔薇の花を拾い、屋上を見上げる。
雅人は彼に向かって、片手を振ってみせた。
斎は笑むと、校庭から雅人と直樹に向かって頭を下げる。
「――まさか」
斎が薔薇を片手に校舎に向かうのを見下ろしながら、直樹はつぶやいた。
「さてね、これから面白くなりそうじゃない?」
こんな素晴らしい展開はドラマでもそうそうないよ、と雅人は片目をつぶってみせた。
(笑い事じゃないぞ。もしそうだったら、クリスティ一族内でも余計な波乱が起きてしまう)
心に不安を抱きながら、直樹は斎を見送った。




