序章~始まりの過去~
古びたドアを開けると、本たちの香りがする。
胡桃色の棚に収まったたくさんの書物たち。
心躍る物語が、未知なる知識が、心に染みる感動が、時を越えて一冊に納められている。
『まるで魔法だ……』
この室に来ると、彼はそう思った。
幼い頃からずっと本は彼の友だった。
何も干渉せず、裏切ることもなく、ただ変わらず自分に語りかけてくれるもの。
今日もそんな彼らを求めて、自分はここに来た。
静かに席で本を読む他の生徒達の横をすり抜け、彼は一番奥の棚に向かう。
そこは貸し出しデスクからも図書室に設置された読書席からも死角になっていて、棚と棚の間に入り込むと誰の目からも見えなくなる。
一番大好きな本の並ぶ場所に、彼はそっと足を踏み入れた。
そこに並んだ本のジャンルはほとんどが実話で、過去に偉大な業績を残した魔術師たちの物語である。
日記や魔術書、彼らの伝記などが、古い書物の形をとって納められていた。
彼は指を本の背表紙に滑らせ、今日はどの世界に足を踏み入れようかと目を凝らす。
そのとき――。
『グスン、グスン……グスッ……』
本当に小さな声が、棚の奥の壁から聞こえてきた。
彼は本を選ぶのをやめ、目を見張る。
棚と壁のわずかな隙間から、少しだけ光がもれていた。
外の木漏れ日かとも思ったが、別に棚の後ろに窓があるわけでなし。
不思議に思ってしゃがみこみ、彼は隙間を覗いてみた。
「!」
小さな少女が、隙間の中で泣いていたのだ。
(これって……人間じゃないよな)
彼は黙って考え込んだ。
魔法を使えば、もちろん体を縮めて棚の隙間に入ることぐらい出来るだろう。
でも少女が身に纏う高貴な光、背に生えた翼。
ゆるやかに輝いて流れる金色の髪、細い体にまきつけた銀色のローブ。
どうみても人間とは思えなかった。
(妖精みたいだな)
彼は、黙って彼女の泣くのを見守った。
静かにか細い声で、彼女は泣いている。
あまりにも悲痛な声で――。
彼はなんとかしてやりたいという衝動にかられた。
そう思わせる何かが、彼女にはあった。
でも自分に何が出来るだろう。
まだこの学校に入って一年と少し、魔法もそんなに使えない。
三年になれば選択科目で専門系統の魔法授業があるのだが、彼はまだそれを受けることは出来ない。
ある程度名の知れた魔族の家ならば、幼い頃からみっちり魔法の修行をするものだが、彼はつい最近自分が魔族の子孫だとわかったばかりの何とも頼りない存在だ。
(こいつって、僕の言葉わかるのかな)
彼は、そっと彼女に話しかける。
「ねえ……」
少女は、はっと顔をあげた。
紫水晶の瞳が大きく見開かれる。
その美しさに、しばし彼は我を忘れた。
彼女は少しの間、彼をみつめていたが、小さな口でつぶやく。
「わたしのことが、見えるのですか」
「うん」
彼はためらいもなくうなずいた。
少女は小首をかしげて、彼を見上げる。
「あの、そちらに行っても、いいですか」
「え……いいけど」
彼の返事に、少女はすっと立ち上がって棚の隙間から出てきた。
(うわあっ)
彼は思わずその場にしりもちをつく。
まぶしい光が棚の隙間からあふれ、彼の目を眩ませた。
驚き、のけぞる彼の前に、少女が立っていた。
棚の隙間に入っていたとは思えないほど、自分たちとまったく同じ大きさになって。
光を納めると、彼女はにっこりと笑う。
「ごめんなさい、驚かせて」
「い、いや……」
彼は、初めての経験に口をあんぐりと開けたままだ。
彼の前に膝をつき、少女は顔を覗き込んできた。
「久しぶりです。わたしの姿が見える方にお会いするのは」
「そ、そうなんだ」
寂しそうに微笑む彼女に、彼は息を吸い込み、気息を整える。
「僕、よくここに来るんだ。その、本が好きだから……君は?」
彼女は黙って瞳を閉じた。
「わたしは……」
彼女の唇が震える。
しばらくすると、少女は顔を覆ってその場に泣き崩れた。
「ど、どうしたの? 具合でも悪いの?」
彼は必死に声をかける。
「僕、まずいこと聞いちゃったのかな……ごめん」
しんみりとつぶやく彼に、少女は首を横に振った。
「ごめんなさい。あなたのせいではありません。わたしの大切な物が無くなってしまって」
「大切な物?」
「本です。わたしは、ある魔術師の魔術書を守る守護精霊だったのです。でも」
少女は悲しそうに言葉を紡いだ。
「誰かがこの図書室にあった本を持っていってしまったのです。もう半年も前のこと――とても魔力のある方で、わたしの守護魔法をはずして本を持ち去りました。そのときから、わたしと本は引き離されてしまったのです。お亡くなりになったご主人様が、わたしに最後の頼みと託した本だったのに……グスッ」
少女は溢れる涙を堪えきれず、また激しく泣き出した。
「泣かないで。きっと誰かが借りていったんだよ」
彼は優しく少女に話しかける。
「たぶん返すのを忘れているんだ。僕も一緒に探してあげるよ」
「本当ですか」
彼女は顔をあげ、嬉しそうに微笑んだ。
「本当に? 本当に探してくださいますか」
「うん」
彼はそっと小指を立てて、彼女の前に出した。
「それはなんですか」
「これはね、人間同士が約束するときに、小指と小指をからめるっていうのがあるんだよ。それでつい」
彼は顔を赤らめた。
何気に出してしまったが、精霊に人間の『指きりげんまん』などわかるわけもない。
彼はあわてて手を引っ込めようとしたが、少女は笑むと、そっと自分の白い手を出した。
彼と同じように小指を立て、そっとからめてくる。
ひんやりとした彼女の指は何故かとても尊いものに感じられ、神聖な誓いをたてているかのようだ。
彼は黙って彼女を見つめる。
互いに目が合い、微笑みあった。
(僕がきっと見つけ出してみせるよ、君の大切なものを)
少年の瞳に固い決意が宿る。
初めて誰かの為に何かをしたいと思った。
自分を必要としてくれる存在なんて、今までいなかったから。
――それはずっと一人だった彼に、大切な存在が出来た瞬間だった。




