そしてぼくは大人へ一歩踏みだす
怒涛の夏休みが終わった。諸々決着がつき、あとは出産を待つばかりだ。悩みのタネがなくなってぼくは受験に専念する。ねえちゃんも通信制の課題に取り組んでいる。産まれたらそれどころじゃなくなるから今のうちに、といって。ねえちゃんがまじめだ。腹をくくったらいろいろ吹っ切れたらしい。やればできるじゃん。
パパはことばどおり、帰宅時間は早くなり、ぼくの塾に車で迎えに来てもくれる。ときには淳を送っていくこともある。土日も家を空けることはなくなった。若干手持ち無沙汰である。ねえちゃんが買ってきた出産や命名の本を読んだりしている。それから、西松屋やドラッグストアへ行くのに車を出してくれる。
仕事へ行ったママの代わりに昼ご飯を作ってくれたり、遅番のときは晩ごはんも作る。カレーとか野菜炒めとか。ママには遠く及ばないが、それでもママの負担がいくらかでも軽くなるのならいい。
家にいるパパにぼくはいくらか戸惑っている。なんか圧迫感がある。家の中が狭く感じる。こんなものだっけ?
それくらい、この家の中にパパの居場所はなくなっていた。家でも会社でも針の筵。そのうち、血でも吐くんじゃない? 不倫っておそろしい。ぼくは絶対しない。
二学期が始まってねえちゃんのスマホには大量のメッセージが届いた。夏休みが開けたらいなくなっていたんだから、みんなびっくりして当然だ。
「返信がめんどくさーい」
学校を辞めることはマイピーとサーちゃんだけには言ってあった。あとリョウタとタイガ。かかわってしまったからしかたなく。ほんとうは自分のことなんか気にしなくていいのに、とねえちゃんは言ったけれど、マイピーとサーちゃんとは変わらずラインをしている。たまにカラオケにもいく。彼女たちがいてくれてとてもよかったと思う。リョウタとタイガからはたまにラインがくる。気にかけてくれているらしい。いいヤツだ。クソ和馬の友だちとは思えない。
返信したりしなかったりしていたら、徐々に着信はへり、一週間もしたら残っていたのはマイピーとサーちゃんだけになった。
「こんなもんなのかな」
ぽつりとねえちゃんが言った。
「よかったじゃんか。マイピーとサーちゃんが残って」
そう言ったら、ねえちゃんは「そうだね」と屈託なく笑った。
「和馬はどうしてるの?」
「知らない」
一刀両断だな。ラインはブロックしてるし電話は着拒してるし。リョウタとタイガからはシカトされているらしい。無理もないだろう。ねえちゃんが妊娠したのを彼らのせいにしてバックレたのだ。ゆるすわけがない。
「妊娠させてやり逃げ。なんてバレたら社会的死亡よね」
ねえちゃんが意地悪く笑う。うん、ざまぁだよな。
はじめ所在なさげだったパパも、しだいに家の中で落ち着いてきた。そっけなかったねえちゃんも、ちょっとずつ心をゆるしはじめている、たぶん。
パパも出産についていろいろと勉強している。ねえちゃんの体も気遣っている。
「前のお産は十五年も前だからもう忘れちゃったな」
そもそもパパは勉強したのかな。その疑問は飲みこんだ。せっかくのやる気を削いではいけない。
ぼくも、塾の帰りにだいぶ話をするようになった。学校のこと、勉強のこと、志望校のこと。ちゃんと聞いてくれる。向き合うって言ったのは、実行している。
でも、ママはまだどこか冷めている。会話もあまりない。質問と答え。それくらい。ママがゆるすかどうかはわからない。関係の修復は前途多難だ。
「どれだけ時間がかかっても誠意をつくすよ」
とパパは言った。ならはじめから不倫なんてしなければよかったのに。いいことなんかひとつもなかったじゃないか。大人の考えることはわからない。
九月の半ば、まだまだ残暑がきびしい。ねえちゃんのおなかはぽんぽこりんだ。しょっちゅうグネグネとうねっている。あんまり動きが大きいのでおなかの皮を突き破るんじゃないかとこっちがビビる。たまに様子を見に来るマイピーとサーちゃんもビビる。
「めっちゃエグイ」
「あんまり動くと痛いんだよね」
本人だけがのほほんとしている。予定日まではあと一か月あるけれど、もう産まれるんじゃないかと気が気じゃない。
ねえちゃんとパパは西松屋に行ってベビーベッドを買ってきた。二人で、ああでもないこうでもないといいながら組み立てている。っていうか、ねえちゃんは大きなおなかがつかえて、立ったり座ったりがたいへんだ。かわりにぼくが手伝った。気分転換だ。出来上がったベビーベッドにベビー布団を敷いて、ねえちゃんの部屋に置く。ねえちゃんの部屋は赤ちゃんのものでぎっちぎちだ。
「これでいつ産まれてもオッケー」
ねえちゃんは満足そうに笑った。
来月にはここに赤ちゃんが来るのか、と思えば不思議な気がする。ねえちゃんのおなかの中でグネグネしている生き物が実体を伴って出現するのだ。
ちょっと怖いが。
産むねえちゃんはもっと怖いだろうが。
ねえちゃんが満足したせいかどうか。
パパが迎えに来てくれて、塾から帰って来た九月の半ば。ぼくが玄関を開けて「ただいま」と言ったとたん
「ぎゃー! ママー!」
とねえちゃんの悲鳴が聞こえた。あわててくつを脱ぎとばしてかけあがった。ねえちゃんは洗面所から出たところにへっぴり腰で立っていた。
「どうした!」
ねえちゃんの足元に水たまりができていた。漏らしたのか?
「おしっこじゃないもん!」
ぼくの考えを見透かしたようにねえちゃんが言った。じゃあ、なんだ。ママが二階から駆けおりてきた。
「あっ」
水たまりを見て声をあげた。
「破水だ!」
ハスイってなんだ。
「どうした。だいじょうぶか」
車を車庫に入れて後から来たパパも駆け寄った。
「いたっ!」
ねえちゃんが叫んだ。
「えっ?」
「いたたた!」
ねえちゃんはおなかを抱えて九の字に体を折った。ヤバいんじゃないの、これ?
「じ、陣痛はじまったんじゃない?」
ママが言う。
うそ!
「びょ、病院!」
ママが叫ぶ。
「病院に連絡しないと!」
「きゅ、救急車呼ぶか!」
「待って待って。先に電話!」
パパもママもうろたえる。
ぼくはどうしたらいいんだ。とにかくねえちゃんをすわらせよう。
「歩ける?」
ねえちゃんは、痛い痛いと言いながら首を振る。イス! イスを持ってこないと! ママは病院に電話をしている。
ぼくは急いでリビングからイスを持ってきてねえちゃんに差し出した。
「すわったら汚れるよ」
「あとで拭くから!」
「えー。でもー」
変なところでねえちゃんが遠慮する。ぼくはキッチンからゴミ袋を持ってきて、ねえちゃんの腰に巻きつけた。
「ほら、これならだいじょうぶでしょ」
そう言ったら、ようやくねえちゃんはそろりそろりと腰をおろした。
「わかりました。すぐに行きます」
そう言ってママが電話を切った。パパは車を出しに外へ飛び出していった。
「啓太! 美結の部屋から入院セット持ってきて!」
ぼくは二階へ駆けあがってねえちゃんの部屋へ飛びこむ。机のわきに置いてあったキャリーケースの取っ手をつかんだ。赤ちゃんの産着やタオル、自分の着替えや洗面道具なんかを入れてある。それを持って階段を駆けおりた。歩けないねえちゃんをパパがお姫さま抱っこして外へつれて行く。
大人はこんなこともできるのか。パパはクソヤローだけど、こんなところはかっこいい。ちくしょー。
ママがドアを開けて待っている。
「このままお産になるわ」
ぼくはママのことばに凍りついた。
お産?
産まれるの? もう? ママが隣にすわる。がさごそとゴミ袋を鳴らして、ねえちゃんがママの膝に頭を乗せて横になった。
「安全運転でおねがいするわね」
ぼくが助手席にすわって、パパはエンジンをかけた。
「うん、安全に急ぐから」
病院まで二十分。長かった。永遠に着かないんじゃないかと思った。ねえちゃんは「痛い」というのをがまんしているけれど、だんだん息づかいが荒くなっていく。たまに耐え切れず「うーん」とうなる。ぼくは赤ちゃんがどうにかなるんじゃないかと気が気じゃない。
「ひっひっふーだよ」
ママがそう言いながら、ねえちゃんの背中をさする。ひっひっふー。ガチのやつだ。
ようやく病院に到着すると、入り口にはすでに車いすが用意されていた。時刻は夜の十時。にもかかわらず、二人の看護師がテキパキと準備をする。車からねえちゃんをおろし、車いすに乗せ中へ入る。ママとぼくは荷物をもって後に続く。
ねえちゃんはそのまま分娩室に入った。
ママとぼくは、車を駐車場に置いて遅れてやって来たパパと待合室で落ち着かないまま、長い時間を過ごすことになった。
赤ちゃんは、二千四百五十グラム、四十九センチ。産まれるのがちょっと早くて、体がちょっと小さい。でも元気だ。異常もなかった。よかった。ギリギリ早産なので保険適用。
「親孝行ねぇ」
様子を見にくる看護師が口々に言う。産まれた瞬間からほめられるぼくの甥っ子。生まれながらに優秀な? 甥っ子。
小さくて軽くて、簡単に壊れそうなぼくの甥っ子。それなのに泣き声は大きくて、ぼくの指をギュッとつかむ力は結構強くてびっくりした。みんなで散々大騒ぎして、泣いて笑ってけんかして、ようやくやって来たぼくの甥っ子。
よく来たね。ぼくはうれしいよ。
甥っ子は「翔」と名付けられた。「かける」じゃなくて「しょう」。ねえちゃんが考えた。二冊買った命名の本は、役に立ったのか立たなかったのか。
……安直な気がする。
「トップアイドルになるかもしれないし」
ねえちゃんが言う。
「メジャーリーガーになるかもしれないし」
それは翔平だな。うん、やっぱり安直だった。でもいい。なんか、大きな夢がありそうだ。飛び立ちそう。なによりかっこいい。少なくとも、ぼくら家族のアイドルではある。
元気に育て。そして大きくなれ。翔。クズヤローなんかになるんじゃないぞ。
今年も梅雨が明けた。明けたとたん、真夏の暑さが襲ってくる。
翔は十か月。この夏の暑さが落ち着くころには一才を迎える。ハイハイをはじめたと思ったら、もうソファにつかまって立っている。成長が著しい。
「んまー」とか「だあ」とか言うようになった。啓太と呼んでくれるのはまだまだ先のようだ。
赤ちゃんにはいろんなことが起きる。夜泣きはもちろん、急に熱を出したり、吐いたり。とつぜん、赤いプツプツができたり。そのたびに大騒ぎしていたねえちゃんも、いまではちょっとくらいのことじゃ動じない。
夜に突然熱を出しても、「熱さましを飲ませておけばだいじょうぶ」と言う。明日になっても下がらなかったら病院へ行く。だそうだ。
だいぶ母親も板についてきて、いっそふてぶてしいくらい。
ぼくもずいぶんと、お世話をしている。ふろ、ミルクに離乳食、おむつ替え。ウンチの始末だってちゃんとやる。将来結婚して子どもが産まれてもちゃんと面倒を見れるはず。奥さんより上手かもしれない。
おなかの大きいねえちゃんを白い目で見ていた向かいの老夫婦も、ベビーカーに乗った翔を見かけると目尻を下げる。おはようだの、今日もかわいいねだの。心の中じゃ、うるせぇと思う。ねえちゃんはそう思いながらも、ちゃんと笑顔であいさつを返す。ちゃらんぽらんなねえちゃんが、大人になった。
ぼくは、淳といっしょに第一志望に合格した。翔のせいで落ちたなんて言われたくなかったから、めっちゃがんばった。それに淳といっしょに高校に行きたかったし。
よかった。また三年間いっしょだ。親友なんて、こそばゆくて恥ずかしいし、なんかダサい。だから仲良しがちょうどいい。
おかげでメンタルと集中力は鍛えられたと思う。ねえちゃんも動じなくなったが、ぼくも動じなくなった。翔がちょっとくらい泣いても、ねえちゃんがついていればだいじょうぶ。ちょっとかわいそうだけど。震度三の地震くらいじゃなんともない。震度五だったらちょっとビビる。
ねえちゃんもいったん休んだ通信制を再開した。卒業の見込みもついた。子育てしながらがんばっている。そして卒業したら、翔を保育園にあずけて看護大学に通うと決めた。
若くして思わぬ妊娠をしたねえちゃんを、分け隔てなく接してくれた看護師さんにとても助けられたのだという。買い物に行っても、検診に行く途中でも、自分に向けられる非難がましい目がこわかったとねえちゃんは言った。
待合室で待っている間も、母親教室でも同じ妊婦なのにやはり若いというだけでちょっと距離を置かれる。妊婦同士の仲良しグループができていくのに、自分だけは蚊帳の外。それがつらかった。だから今度は自分がつらい人を助ける側になりたい。ねえちゃんがそう言った。
ねえちゃんは、もうちゃらんぽらんじゃない。
それならぼくは厚生労働省に入ろうと思う。ぼくも看護師さんたちにはとても感激したのだ。どこかたよりない、母親になりたての若いねえちゃんを、にこやかに笑いながら丁寧に指導してくれて、ときには励まし、ときには叱り、ぼくにまで「おじさんもがんばってね」と激励してくれたり。
ねえちゃんがそういう人になるのなら、ぼくもそれの手助けができる人になりたいと思った。
ママは、ケアマネージャーの勉強を始めた。たぶん先に進むための準備だ。厚生労働省は運命といっても過言じゃない。
ぼくはねえちゃんを助ける。ママも助ける。それがぼくのフツー。
それから空欄だった父親の欄に和馬の名前が書きこまれた。
「今さらだよね」
ねえちゃんはちょっと呆れている。ねえちゃんが子どもを産んだことは、すぐにみんなが知ることとなった。大きいおなかで歩いているところを目撃されたり、赤ちゃん連れのところを目撃されたりしたのだ。
それで学校の友人たちは、なぜ和馬が急にリョウタとタイガにシカトされたのか理解したのだった。けっきょく和馬は、ねえちゃんを妊娠させて見捨てたクソヤローとクラス中、いや学年中からクズ呼ばわりされ、ほかの学年からも後ろ指をさされることになったのだ。だからというわけじゃないが、元々はねえちゃんのことは好きだったわけだし、心配にもなって連絡をしてきたのだが。
今さらあやまられても、もうねえちゃんは先のことを決めてしまった。それは和馬のいない、ねえちゃんと翔二人の未来である。和馬の親も「結婚は勘弁してくれ」なんていうから、ママもパパもブチ切れた。
うちにかかわらなくて結構! と突き放したのだが、意外なことに和馬がここで男気を発揮した。(いや、おそいが)
「せめて形だけでも責任を取らせてくれ」
と頭を下げるので、認知することだけはゆるしてやった。
「別にいらないけど、あんたが泣いて頼むからしょうがなく認めてやるのよ」
ねえちゃんは腕組みをして仁王立ちでそう言った。和馬は泣いたわけじゃないんだけど。
「わたしは翔と二人で生きていくから、あんたはじゃましないでよね」
和馬はおとなしく、ハイと言った。母は強し。一度だけ翔を見せてやった。急に父親面されても困るのだが、やっぱり一度きりじゃあ、実感がわかないみたいだ。抱っこさせてやったけれど、おろおろするばかりだった。
おなかが大きくなっていく過程や出産の準備、お産がはじまったときの右往左往なんかをいっしょに体験しないと父親の実感てないんだろうな。妊娠が発覚してからの一連の騒動を思い出しながら、ぼくは思った。たぶん和馬よりぼくのほうが父親に近い気持ちを持っている。
パパは、翔がかわいくてしかたがない。「目に入れても痛くない」というやつだ。仕事が終わると速攻帰ってくる。甲斐甲斐しくおふろだおむつだと世話を焼く。休みの日には喜んで離乳食をあげる。
ママはそれをどこか冷めた目で見ている。今までぼくらを放っておいて、急にいいおじいちゃんぶってもね、とママが言った。ぼくもそう思う。
「使えるものは使えばいいのよ。お金も出してもらわなきゃ困るしね」
翔の面倒を見てもらいながらも、ねえちゃんも冷ややかだ。看護大学を出るまでは、パパが面倒を見る。晴れて看護師になったら、自立する予定だという。しっかりしたな、ねえちゃん。
無理に出て行かなくてもいいのに。ママもパパもそう言う。ぼくもそう思うけれど、ねえちゃんいわく散々迷惑をかけた「けじめ」なのだそうだ。
だいたいこの先ママはどうなの? パパをゆるしたの?
「父親としてはゆるすけれど、夫としてはゆるせないわね」
そういうものか。ぼくはだいぶパパとはふつうに話せるようになったけれど、ママとパパの間にはいまだに壁が立ちはだかっている。
パパは、ママが築いた万里の長城並みに強固で巨大な壁の前を、どこかに隙はないかとずっとうろうろしている。たぶんそんなものはどこにもない。パパもわかっているはず。
パパ。ベルリンの壁は壊れたけれど、万里の長城は壊れていないぞ。
ママは離婚を考えているんだと思う。今は猶予期間だ。ぼくとねえちゃんと翔。三人になにかしらの目途がついたら離婚は執行される。その「Xデー」がいつであるかは、ママが決めることだ。
パパがいくらかわいそう面を下げてうろつこうが、ママの意思は壁くらい強固だ。たとえ富士山が噴火しても、首都直下地震が起きても揺らがない。それでもなお、そのうちどこかにすき間ができるんじゃないかと、一縷の望みをかけてパパはさまよう。
男ってバカなのかな。パパにしても和馬にしても。嫌われて当然のことをしておいて、あとから後悔して頭を下げる。ゆるすわけないだろう。ぼくは女心をわかっているわけじゃない。でもそれくらいはわかる。
ねえちゃんはたくさん泣いた。ママは泣くことすらあきらめた。きっとぼくが知らないところでたくさん泣いたはず。
「お金だけ出してくれればいいわ」
もしかしたらゆるしてもらえるんじゃないか。パパがそんな望みを持つ程度に、思わせぶりな態度をとって、ママはねえちゃんと同じこと言った。そうして着々と来る「Xデー」に向けて準備を進める。女ってしたたかだ。
高校で同じクラスになった佐倉さん。ちょっとかわいい。ちょっと気になる。カノジョになってくれたらうれしいなって思う。
「おまえのおねえさんに似てるよね」
淳が言った。そんなことは断じてない。似てない、絶対。……たぶん。
もし佐倉さんがカノジョになったら、ぼくは何があっても佐倉さんを泣かせない。
高校に入って、ぼくと淳は引き続きバトミントン部に入った。入ってすぐの高総体の地区予選は一回戦敗退。
「やっぱ、ちょうどいいよな」
午前中で試合が終わり、ヒマを持て余した午後、スマホゲームをしながら二人でそう言って笑った。
あと三日で夏休み。自転車通学のぼくと淳は、汗をかきながら家にむかってペダルを漕いでいた。幹線道路をはずれ、小さな川を渡ったところでじゃあな、と手を振って右と左に別れた。
ぼくは川沿いの道を、鼻歌を歌いながら自転車を漕いでいく。
――先生、人生相談です。
――これでも、ほんとにいいんですか。
――このまま生きてもいいんですか。
――そんなのきみにしかわからないよ、なんて言われますか。
教えてくれる先生はまだ見つからない。ずっと見つからないのかもしれない。なにしろニーチェもフロイトも教えてくれないんだから。
――青空だけが見たいのはわがままですか。
「わがまま、上等ぉ!」
突然、わけのわからない衝動にかられて叫んだ。やけくそ気味に出した大声が、なんの引っ掛かりもなくすんなりと喉から出たのに、自分で驚いた。ここ数か月、ガラガラだったぼくの声は、変に裏返ったりしない、ちゃんとした若い男の声になっていた。
ぼくの声変りは完了したようだ。
気づいたらちょっとうれしくて恥ずかしかった。
言ってみたいことばがある。立ち漕ぎに変えて勢いをつける。すうっと目いっぱい息を吸い込んだ。それから一気に吐き出した。
「俺ぇーーー!」
ずっとあこがれていたんだ。ちょっと大人になった声で言ってみたかった「俺」。
すれ違う人々がビクッと跳ねてぼくを見る。たぶん中二病の痛いヤツだと思われたんだ。かまうもんか。
いつのまにか、ぼくの目の高さはねえちゃんとママと同じになっていた。もう家族で一番のチビじゃない。
ぼくは大人に一歩近づいたんだ。
……でも、ぼくはママのためにもう少しだけ子どものふりをする。
汗まみれのぼくは、やけに晴れ晴れとした気分で、刻々と濃くなっていく茜色の空にむかって、力いっぱいペダルを踏んだ。
おしまい