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対決する

   


 腹をくくったら、ねえちゃんとママは一転明るい。楽しそうに出産の準備をしている。

「え? もう?」

「ちょっとずつ買っていかないと。早産になることもあるんだし」

 さらっとママは言ったけれど、早産? 早く産まれるの?

「そういう可能性もあるから準備は早めにしておくのよ」

 そういうものか。ぼくも病院でもらってきた「出産準備リスト」を読んでみた。

 肌着。ベビー服。肌着とベビー服ってなにがちがうの? おむつ。おしりふき。おしりふきっておしりをふくの? ほにゅうびん。消毒液。ほにゅうびんって消毒するの? 

 わからないことだらけだ。


 ねえちゃんとママは、西松屋でベビー服と肌着を買ってきた。

「ぽぽちゃんの服じゃないの?」

 ぼくはそれを広げてみた。

「ちげぇよ」

 こんなに小さいのか。

 いや。この大きさのものがおなかに入っているのか。で、産むのか。なんだかショックだ。

「ねー、かわいいでしょう?」

 ベビー服はやわらかいTシャツの生地みたいにふわふわだ。手触りがよくてついフニフニと握ってしまう。

「手垢つけるな」

 ごめんなさい。頬ずりするところでした。白いのが二枚、クリーム色のが二枚、水色のが二枚。

「とりあえずこれくらいね」

「ええ? まだ買うの?」

「そうよ。一日に何回も着替えるんだから」

 そういうものか。その意味は産まれてからよーくわかった。おしっこやうんちがもれたり、飲んだミルクをげふげふしたり。たいへんだな、赤ちゃん。

 ねえちゃんの部屋には、日に日に赤ちゃんのものが増えていく。準備は着々と進んでいる。パパ抜きで。

 ママはパパをあきらめてしまった。ねえちゃんもママがいれば何とかなると思っている。

 でも、それじゃダメなんだ。




 二週間の夏期講習が終わり、塾はいつもどおり火曜と金曜の夜だけになったけれど、自習室はいつでも使える。家にいても、イマイチ集中できなかったりするから、昼間は自習室に行く。図書館は結構混んでいて、早く行かないとすわれない。そのために一時間も前から並ぶなんて本末転倒もいいところだ。その点、自習室は空きがあるし涼しいし、わからないことがあれば先生に聞きに行ける。サイコー。


 そんなふうに午前中を過ごしたぼくは、近くのマクドナルドで淳といっしょにお昼を食べていた。お昼のセットを注文し、二階席へ上がった。

 なるべく端っこの席を陣取り、半分ほど食べたところでおもむろに話を切り出した。

「パパをなんとかしようと思う」

 淳のおとうさんとうちのパパはぐうぜんにも同じ会社だ。二人で話していて判明したのだ。

 だからパパの不倫疑惑は、淳経由で淳パパにも伝わっている。そしてその不倫相手は淳パパの部下だったという驚くべき事実! 部署内ではうっすら噂にはなったらしい。が、パパも木村彩花という不倫相手もうまく立ち回ったあげく、噂自体うやむやになったという。

 そっちはうまくやるんだな。腹の立つ!


「確固たる証拠がなくてのらりくらりとかわすんだってさ」

 腹の立つ! だが「うやむや」は「うやむや」でしかない。完全に立ち消えたわけじゃないのだ。

「だからさ、子どもの出番なわけよ」

 そう言ったぼくに、淳は首をかしげる。

「ぼくの言うことなんて所詮子どもの戯言だ。証拠なんてどうでもいい。言ったもの勝ちさ。でも確実にダメージは与えられる」

「……どうやって」

 淳が眉をひそめる。


「相手の女に会いに行く」


「ど、ど、どこに?」

「……会社に」

 淳はのけぞった。

「受付で呼び出してもらえばいいだろう」

「……無謀だよ」

「子どもを無下にはできないだろ?」

 子どもが涙ながらに「パパを返せ」とうったえれば周囲の同情を買うはず。証拠なんかなくたって二人の立場は相当ヤバくなるはずだ。「のらりくらり」は通用しない。


「相手の女も見てみたいんだよ、家庭を壊すのがどんな女なのか。そして、自分が壊した家庭がどうなっているのか、突き付けてやるんだ。自分だけがのうのうと生きてるなんてゆるさない」

 実際はママもねえちゃんも、パパ抜きで楽しくやっているけども。

「うまくいくかなぁ」

 淳がしかめっ面をした。よほど不安なんだろう。

「相手は魔女だよ?」

 淳が言った。

「魔女ぉ?」

「そうだよ。そんな女、魔女に決まっているじゃんか?」


 魔女と聞いて、大きな赤いリボンが頭に浮かんだが、そっちじゃないな。毒リンゴを持った方だ。ん? 毒リンゴを持ったのは腰の曲がったおばあさんだな。おばあさんと不倫するか? しないな。

 ぐるぐるぐる。頭の中で「魔女」がまわる。

 じゃあ、あれだ。アンジェリーナジョリーだ。

 頭の中で、パパがアンジェリーナジョリーに羽交い絞めにされている。

 あの魔女をなんとか片づけなければ。

 片づけたところで、うちの家族が元に戻るかは別の話だが、それでもパパにはちゃんとねえちゃんとママに向き合ってもらわないと困るのだ。

「いやな思いするだけじゃない?」

 淳の心配はもっともだ。だけど、もう逃げるのはゆるさない。

 ぼくがやらなければ。


 淳のパパが協力してくれることになった。

「子どもをこんな矢面に立たせるのは気が進まないなぁ」

 と言いつつも、自分も立ち会うから、と約束してくれた。よその子のわがままにもちゃんと向き合う、いいおとうさん。どこかのクソオヤジとは大違い。うちのパパもこんな人だったら良かったのに。

 それと合わせて、淳が魔女のインスタをさがし出した。木村彩花という名前と、会社名から当たっていく。けっこう無防備に晒している人はいるもので、同じ会社の女子社員が数名ヒットした。そのフォロワーを探していくと、いた。アカウント名がAYAKA―923K。その数字に見覚えがあった。パパの誕生日だ。九月二十三日。Kは紘司のK。パパの名前。どっぷり浸ってやがる。ムカつく。


 投稿写真をたどっていくと、あるある。匂わせ写真というやつが。人気のスイーツやカフェごはん、コスメに混じって彼女の部屋の中、男の肩とか足とかわざとらしく写り込んでいる。Tシャツでくつろぐ姿。着替えが常備してあるのか。

 これ、パパか?

 なんだろう、このがっかり感。まさか喜んで写っているわけじゃないだろうな。そうじゃないにしても、こんな写真晒されて平気なんだろうか。いいおっさんのくせに。孫も産まれるっていうのに。


 情けない。

 っていうか、いろいろと画策して噂をもみ消したんじゃなかった? なんでわざわざ晒してるの? わざと? 誰に見せつけてるの?

 もっとゆるせないのは、「彼からもらったプレゼント」というやつ。指輪やネックレス。

 中学生になってから、ぼくはパパからプレゼントなんてもらっていないぞ。ママも、ねえちゃんも。別にほしいわけじゃないが、家族の誕生日はシカトしているのに、魔女にはやるのか。サイテー。クソオヤジ。

 その首元のネックレスをぎゅうっと締め上げてやりたくなった。

 夏休みの間に、決着をつけなくては。




 会社が夏期休暇に入る少し前、決戦当日。淳と淳のパパの協力の元、ぼくは会社へ乗り込んだ。平日の午前中。もちろんママには内緒だ。いつものように自習室へ行ってくると、ウソをついて家を出た。

 淳と二人で、電車に乗って都心のオフィス街にやって来た。その一角にある大きなビルがパパたちの会社だ。いかにも上場企業なそのビルの前でぼくと淳は顔を見あわせるとたがいにうなずいた。淳がいてくれて、とても心強い。


 よし!

 グッとこぶしを握って、自動ドアが開くのを待つ。入ってきた場違いな子ども二人を、受付のおねえさんが怪訝な顔で迎えた。二人でその前にならんで立った。淳が言う。

「父に忘れ物を届けにきました」

 淳が名前と部署を告げると、おねえさんがにっこり笑って承ってくれた。内線で連絡してくれる。少し待つとエレベーターから女がひとり降りてきた。一度立ちどまってロビーを見わたした。


 ……あいつか。


 ぼくも淳も、グッと身構えた。「手が離せないから、かわりに受け取ってきてくれ」と淳のパパに言われた魔女が、それが策略であるとは気づきもせずに、のこのことやって来たというわけだ。ぼくら二人を見つけるとコツコツとヒールを鳴らして向かってきた。

「駒沢課長の息子さん?」

 魔女は、ぼくと淳を交互に見ながら言った。中学生が二人いるなんて聞いていないから迷っている。

年はよくわからないけれど、たぶんアラサーってやつ。きりっとした感じのきれいな人。ブラウスとパンツ。軽い茶色に染めた長い髪を耳にかける。デキる女。そんな感じ。アンジェリーナジョリーのような妖艶さはまったくない。


 ていうか、何個下だよ。一回り以上下だろう。スケベクソオヤジ。

「あんたが木村さん?」

 ぼくは淳を押さえて一歩前に出た。

「あっ、え?」

 いきなり不躾な言いかたをされて魔女が戸惑っている。

「ぼく真山の息子です」

 名乗ったら魔女が目を瞠った。ぼくはドラゴンに挑む勇者のように魔女を睨みつけた。


「どうも。父がとぉーってもお世話になっているみたいで」


 さらに一歩詰め寄る。

「あっ。いえ、そんな」

 なにも言えないだろうな、魔女め。

「あっ、逆? こっちが世話してやってんのかな? プレゼントあげたりとか」

 受付のおねえさん二人が、なんだか心配そうにこっちを見ている。

「ぼくは、今年も去年も誕生日プレゼントなんかもらってないけどね」

 ぼくはたたみかける。

「どういう気持ちなのかな。家族を差し置いてしゃしゃり出るって。優越感?」

 言ってるうちになんだか猛烈に腹が立ってきた。


「息子にはあげないのに、わたしにはくれたのっていう優越感なのかな?」

「子ども相手にどうなの、そのマウント」

「勝ったって満足してる?」

「子どもにもうちのママにも勝ったって思ってる?」

 激しいことばを投げつけるぼくは今、この魔女に負けず劣らず醜い。

「うち、今いろいろ大変なんですよ。それなのにパパはママに丸投げでね。ぼくも大変なんです。受験生だから。誰かのせいでパパが家庭を放棄しちゃってるから、ぼくら三人きりで支え合わないといけないんです」

 後ずさる魔女。


「うちのねえちゃん、子どもが産まれるんですよ、十月にね」

 魔女はふっと息をのんで、目を見開いた。あれ? 聞いていなかったのかな? まあ、孫が産まれるなんて若い恋人に言えないか。

「孫が生まれるんですよ。うちのパパ、おじいちゃんになるんです」

 ぼくの膝はガクガクだ。平静を取り繕うのに必死。


「孫のいる人と不倫するってどうなんですかね」

 声が震えないように、いっしょうけんめいがんばって声を張る。地区予選よりずっと緊張する。

「まさかぼくに弟か妹ができるなんてないよね」

 魔女の血の気が引いていく。あれ? まさかね。カマかけただけだよ?

「孫と愛人の子どもがタメってウケるんだけどー」

 わざとチャラい感じで言ってみる。

「まさかそんなバカなマネ、するわけないよねー。みっともない。っていうかさあ、あんたもいい年じゃん」

 魔女が真っ青になってぶるぶると震え出した。ぼくは子どもだから、セクハラもモラハラも知りません。


「いい年して独身だから不倫なんてするんじゃないの? まともな恋愛してさっさと結婚したら?」

 ぼくは「被害者」という正義をふりかざして、「無知な子ども」の仮面をかぶって、でも明確な悪意を持って彼女を斬りつける。「子ども」で「被害者」はいい盾だ。ぼくはそれを最大限に利用する。ぼくにはそれがゆるされるはずだ。

「ああ、啓太くんも来てたのか。悪かったね、つき合ってもらって」

 淳パパ登場。思わずビクッとした。

「おそいから様子を見に来たんだよ。あれ?木村さん、知り合いなの?」

 青ざめた魔女に、しらっと声をかける淳パパ。そこへ。


「なにしてるんだ!」

 パパが走って来た。

 やばい。想定外だ。ぐうぜん、外から戻ってきたところらしい。やばい。どうしよう。パパのいないところで、魔女を成敗する予定だったのに。

 っていうか、いま怒鳴った? ぼく、怒られた?

「なにしてるんだ」ってなに? なんで、ぼくが怒られるの? ぼくが不倫相手に接触したから?

 魔女はだまって青ざめた顔でパパを見ている。なんなの? そうやっていればパパが助けてくれるの? 息子じゃなく、自分を助けると思っているの? 


 ……今のパパなら、そうするかもしれないな。

 いっしゅん、しぼんだ怒りがまたふくらんでくる。

「ああ、うちの息子に忘れ物を届けてもらったんだよ。啓太くんにもつき合わせちゃって申し訳なかったね」

 淳パパの助け舟。

「え? 息子?」

 パパははじめて淳に目をやった。

「息子たち、同級生なんですよ。中学校に入ってからずっと。知りませんでした?」

 塾もいっしょだもんね、と絶妙にマウントを取る淳パパ。だいたいパパはぼくとねえちゃんの友だちなんか知るわけもない。聞かれたこともないし。


 会社のロビーというのは意外と人通りが多い。ぼくが大見得切ったせいで注目を集めている。

「だ、だからって」

 だから、なんだ。なんなんだよ!

「なに、焦ってんの? 来たらまずかった? それともぼくが木村さんと話したのがまずかったの? 話しちゃいけなかった?」

 一方的にまくし立てたらパパが怯んだ。

「失礼します」

 魔女は、小声でいって走り去った。


「あっ、ちょっと」

 パパが呼び止めたけれど、魔女はそのまま開いたエレベーターに飛び乗った。

「どうぞ。行けば? ぼくはかまわないよ」

 ぼくは思いっきりふんぞり返って言ってやった。息子にそう言われても、さすがに残してはいけないらしい。パパはすごく苦々しい顔をぼくに向けた。カッとなった。


 なんだよ。世間体を気にして愛人を追いかけられないからってそんな顔をぼくにむけるの? 誰もいなかったらぼくをおいてあの女を追いかけたの? ぼくより大事? ママよりもねえちゃんよりも、あの魔女が大事なの?


 ふざけんな!


 溢れそうな涙を歯をくいしばって耐えた。淳がぼくの腕をギュッとつかんだ。それが怒りやら悔しさやら悲しさやらでぶっ飛びそうなぼくを、現実につなぎ止めてくれた。


「ねえちゃんは腹をくくったよ。あのちゃらんぽらんでふわふわなねえちゃんが、現実と向き合って母親になるって決めたんだ! 赤ちゃんを育てながら高校も卒業する。がんばるっていったんだ! だからぼくもママもねえちゃんを支える。そう決めた! パパは……。あんたは? あんたはどうなんだ? まだ逃げるのか!」


 ギリリとパパを睨みつけた。

「ぼくはただ、新しい命をいっしょに迎えたいだけなんだ。望まれた命じゃなかったけど、それでも家族全員で、よく来たねって笑って迎えたいんだ。それのなにがいけないの? そんなにむずかしいことなのかな!」

 まくしたてたら、ゼイゼイと息が切れた。涙がこぼれないようにぼくは必死だ。泣くなんてダサいことはできない。


「それなら、もういい」

 ぼくはなにも言わないパパを睨みつけた。ぼくの剣幕にパパは呆然と立ち尽くしていた。

「ぼくらは三人で生きていく。あんたはもういらない」

 淳の手が震えている。悪かったな、こんなしょうもないことに巻きこんで。受付のおねえさんが二人で手を取り合って涙を流している。ぼくのかわりに泣いてくれているんだろうか。

「よくがんばったな。えらいぞ」

 淳のパパが、ポンとぼくの肩をたたいた。

「あとは大人にまかせろ」

 そう言ってエントランスの外まで送ってくれた。とちゅうで「かっこよかったぞ」と知らない人に声をかけられた。

 いや、めちゃくちゃかっこ悪いだろ。はずかしい。

 淳のパパは別れ際に財布から五千円を出して淳に渡した。

「うまいものを食べろ。うまいものを腹いっぱい食べて、今日は休め。そんでまた明日から勉強をがんばれ」

 ありがとうございます、と頭を下げて地下鉄の駅へ向かった。


「ごめんな、巻きこんで」

 そう言ったら淳は首を横に振った。

「こっちこそなんの役にも立たなくて」

「いや、いてくれてすごく助かった」

 淳が腕をつかんでいなかったら、感情の暴発にまかせてみっともなく喚き散らして木っ端みじんに砕け散っていた。

「なら、よかった」


 中学生の考えるおいしいものなんてたかが知れている。ましてや都心のオフィス街のレストランなんて敷居が高くて入れたものじゃない。

 電車に乗って、家の最寄り駅まで帰った。電車の中では、次の模試の出題範囲とか、夏休みの課題とかそんな話をしてやりすごした。さっきまでの非日常的なことを話すには感触が生々しすぎた。

 それから駅前のなじみのあるファミレスに入った。メニューの中でいちばん高いステーキを注文した。デザートにティラミスも頼んだ。子どもだけでそんな注文をするのは、ちょっとドキドキした。

 それでも余ったお金は、合格したらカラオケに行こうと約束した。

「じゃあ、また明日な」

「うん、今日はありがとう」

 手を振って右と左に別れた。




「啓太くん、震えてましたよ。気付きましたか」

 啓太と淳を見送って、駒沢は真山に言った。

「ああ、はい」

 真山はうなだれていた。

「どれだけの思いでここに来たんでしょうね」

 真山はことばもない。


「その啓太くんの決死の覚悟を、わたしは無下にはできませんよ。人事に報告します。まあ、ロビーでこれだけの騒ぎを起こしたらだまってても人事にとどくでしょうが」


 俺は啓太のなにを見ていたのだろうな。真山は思う。いつの間にか一人でこんな無謀ともいえる行動をするようになっていた。もう親の庇護のもとに、ぬくぬくとしているだけの子どもじゃなかったのだ。

 成長していたんだな。そんなことにも気がついていなかった。いや、見なかったのだ。目をむけなかったのだ。


「啓太くんの将来の夢、知ってますか」

 聞かれて真山はだまって首を横に振った。

「官僚だそうですよ。国家公務員上級試験に合格するんだってがんばっているんですよ」

 そんなのははじめて聞いた。

「おかあさんが安心するだろうからって。おねえさんにも、産まれてくる甥っ子の助けにもなるからって」

 バットで頭をフルスイングされたような気がした。息子がそこまで先のことを考えていたなんて。家族のことをそこまで考えていたなんて。自分が知らないことを、友だちの父親が知っていたなんて。

 立っているのがやっとだった。

 エレベーターを待つ間に向けられたロビー中の視線は、軽蔑の中に憐みが混じっているような気がした。




 家に帰ったら、ママにめっちゃ叱られた。淳のママから連絡がいったらしい。

「子どもがそんなことしなくていいの」

 わかってます。

「まったく無茶をして」

 ごめんなさい。

「相手の女に傷つくようなこと言われたらどうするつもりだったの」

 言い負かすつもりだったよ。

「もう、美結も啓太も心配ばっかりかけて」

 ほんと、ごめんなさい。そして目を赤くしたママは最後に言った。


「そんなことさせてしまってごめんね。ありがとう」

 また涙が出そうになった。ねえちゃんはニヤニヤしながら、あれ以来、手つかずで冷蔵庫に眠っていたモンスターエナジーをぼくに差し出した。

「やるじゃん」

 うるせぇ。

 あとから聞いたが、ママはとっくに証拠を押さえていたらしい。タイミングを見て、パパに離婚と慰謝料を、木村にも慰謝料を請求するつもりだったと言った。

 タイミングってねえちゃんとぼくの卒業だったんだろう。妊娠が発覚して、その「タイミング」は大幅にずれることになったけれど。




 パパと木村彩花に処分が下った。

 パパは部署移動と降格。木村は地方の子会社に出向。本来はパパも転勤のはずだが、高校生の娘の出産準備のため、家にいられるように温情をかけられたそうだ。

 ぼくがロビーで繰り広げた「啓太劇場」は、瞬く間に社内で噂になり、子どもに不倫の始末をさせた。とパパと木村は非難ごうごう。非常に非情な立場になった。

 ロビーには結構人がいたからな。受付のおねえさんたちも同情してくれたみたいだし。


 ぼくは無力な子どもだけれど、それを逆手に取ることもできるんだ。ぼくのこざかしい計画は、見事に大人たちの憐憫の情をついて成功した。

 結局木村は、退職したという。公衆の面前であれだけなじられて平気なほど、面の皮は厚くなかったようだ。ざまぁ。

 一人会社に残るパパは針の筵だろう。


 でもパパは、その筵から降りることはしなった。相当居たたまれないことは想像できたけれど、ちゃんと会社に行っている。

 それからぼくたちに、申し訳なかったと頭を下げた。

「今さらでも、できることは何でもやるから」

 一番大変なところは終わっているんだけれどね。和馬の親と対決するときに、いてほしかったよ。ぼくたち三人は、幾分冷ややかにそのことばを受けいれた。もちろん、魔女とは二度と会わないと誓約した。彼女がほんとうに妊娠していたのかは聞いていない。聞く必要もない。どうであっても落とし前は自分でつけろ。ねえちゃんとちがって大人なんだから。


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