覚悟する
夏休みまであと三日。和馬はねえちゃんを避けている。話がある、とねえちゃんが言ったらラインも無視。電話も出ない。学校でも顔を合わせないように避けまくる。なにか察したようだ。身に覚えがあるんだろうか。
でもそれでは済まされない。夏休みに入る前に話をつけておきたいのがこちらの意向である。
妊娠がわかってからめそめそしていたねえちゃんは、意を決した。いつもつるんでいるマイピーとサーちゃんに妊娠を伝えた。和馬と付き合っているのだから、とうぜん父親も和馬である。
二人はこの期に及んで逃げ腰の和馬に腹を立てた。和馬の友だちの、リョウタとタイガを引き連れて和馬を取り囲んだのだ。その剣幕に和馬はビビった。そうして和馬は、逃げないようにリョウタとタイガにがっちりと両脇をはさまれて捕まった犯人にようにうちに連行された。
そこでママに強制的に電話させられて、両家面談を決められたのだ。
面談は明日の夜八時。
「なんでうちが行かなくちゃいけないの? むこうが来て頭を下げるのが筋じゃない?」
ママが怒っている。話の流れでこっちが出向くことになったらしい。
「和馬もだけど、親も無責任よね。事の重大さをちゃんと認識してほしいわ」
怒りマックス。クソオヤジは仕事で行けないと、言ったらしい。こんな大事なことなのにママに丸投げ。ねえちゃんが心配じゃないんだろうか。
「ぼくも行こうか」
なんの助けにもならないが、数は多いほうがいいかもしれない。
「だいじょうぶよ。ありがとう」
そう笑うママがちょっと痛々しい。
ほんとうにぼくは無力だ。
翌日の晩。ねえちゃんは泣きながら帰って来た。
ああ、うまく折り合いがつかなかったんだな、と思った。けれど、話はそんな生易しいものじゃなかった。
「父親は俺じゃないって言ったのよ! あのクソヤローが!」
ママがキリキリと歯噛みしながら言った。ママの口から「クソヤロー」なんてことばが出るなんて。
「はあ?」
なんでいまさらそんなことを言うのだ?
「リョウタともタイガともつき合っていたんだろうって」
「はあ?」
寝耳に水だ。昨日の逆恨みか?
うえぇぇー。またねえちゃんが泣きだした。
「ひどいよー。そんなことしてないもーん」
たしかにねえちゃんはちゃらんぽらんだが、だらしないわけじゃない。
和馬がそんなふうにいうものだから、むこうの親もうちは責任が取れないって言ったそうだ。
「何股もするおたくの娘さんが悪いんでしょう、って言ったのよ。あの母親!」
ひどい。それはあまりにもひどい。責任逃れするにしても、そこまでねえちゃんを悪く言う筋合いはないだろう。和馬もクソだが、親もクソだな。クソ家族。オヤジといい和馬といい、なんでうちのまわりにはクソヤローばっかりなんだろう。
はっ!
ぼくも? ぼくもクソヤローだろうか。たいして長くもない今までの人生を振りかえってみる。
自分ではクソ事案は思い当たらないけれど、他人から見たらあるのかもしれない。急に不安になる。
「最初からあてにはしていなかったけれど、これはあんまりだわ」
「ごめんなさいー」
ねえちゃんが泣く。
「あんたがそんな子じゃないのはわかってるから」
うえぇぇー。
「だから、あんなヤツと金輪際かかわっちゃダメよ!」
うわーん。
「やだあー。もう、やだあー!」
ねえちゃんは子どもみたいに盛大に泣きはじめた。
「こんな子、産みたくない! もういやだ!」
「美結!」
「子どもなんかいらない!」
「美結!」
ママの声に厳しさが増す。
「いやだあーーーー!」
ねえちゃんは、テーブルの上のリモコンやティッシュなんかをママにむかって投げ始めた。
「美結!」
ママがそれをよけながら、ねえちゃんを止めようとする。
「いやーーーー!」
ねえちゃん、大混乱。テーブルの上になにもなくなると、今度はソファのクッションや、新聞、果ては植木鉢まで手当たり次第に投げ始めた。
ガシャーン!
陶器が壊れて派手な音を立てる。
「美結! やめなさい!」
ママが押さえつけようとするけれど、ねえちゃんは止まらない。両手を振り回して大暴れする。
「いいかげんにしなさい!」
うわーー!
うわーー!
動物みたいに絶叫するねえちゃんとママは、正面からつかみあっている。腕や髪をつかんで、もはや取っ組み合いの大ゲンカだ。いつの間にかママも泣いていた。ママはドライで、ドラえもんの映画だって泣かないのに。どうしていいのかわからないぼくの涙腺も限界だった。
ダサい。泣くなんて。
「ねえちゃん! おなか!」
とにかくおなかは守らないと。ぼくはなんとか二人を引き離そうと間に割って入ろうとした。めちゃくちゃに振り回すねえちゃんの手が、頭や肩にぶつかったけれどそんなことに怯んじゃいけない。
「ねえちゃん! あぶない! おなかに当たるから!」
「はなせーー! ばかやろーー! ふざけんなーー!」
泣きわめくねえちゃん。いいかげんにしなさい、と押さえようとするママ。二人を止めようと割って入るぼく。修羅場、あるいはカオス。
しばらく三つ巴のバトルが続いたが、やがてねえちゃんはやがて力尽きてすわりこんでしまった。ぼくとママもようやく手を離した。
それでもねえちゃんは、まだ「ふぇー。ふぇー」と力なく泣いている。ぼくもママも涙でぐちゃぐちゃの顔でぜえぜえと肩で息をしていた。
あたりは、ひどいありさまだった。割れた食器と植木鉢。つぶれたティッシュの箱。リモコンから飛び出した乾電池。イスは倒れテーブルは位置がずれ、いろんなものが散乱していた。
まるで竜巻の襲来か、ゴジラの襲撃にでもあったようだった。
「ママー」
幼稚園児みたいに小さな声でねえちゃんが呼んだ。ママはずりずりと這いずってねえちゃんに近寄った。
「ママ。どうしよう」
ママはねえちゃんを抱きしめた。
「だいじょうぶ。みんなで一番いい方法を考えよう」
「ママ、こわい」
ねえちゃんは、ほんとうに幼稚園児になったみたいだ。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。とママは呪文みたいに言いつづけた。
ぼくは無力だ。無力なぼくは、とりあえずねえちゃんがすわれるように、ソファの上をを片づけた。
「うっわ。どうしたんだ」
クソオヤジが帰って来た。リビングのドアを開けて、開口一番にそう言った。今日はクソ和馬と話し合いだと知っていたはずなのに、今ごろお帰りとは、いいご身分だな。
「なにをどうしたらこんなことになるんだ?」
説明なんかできるわけない。自分でもどうしてこうなったのか、わからないんだから。でも少なくとも、あんたがあきれ顔で言う権利はないはずだ。
「ちゃんと片づけろよ」
三人ともだまっていると、オヤジはしかめっ面でそう言って、リビングには一歩も入らずにドアを閉めた。それからトントンと階段を上がる音が聞こえた。
ぼくは奥歯が割れるんじゃないかというくらい強く噛みしめた。耳のあたりで、ギリっと音がした。
こいつ、ゆるさない。こいつも不倫相手の女も。
殺してやる。
今夜も眠れない。腹がたってしょうがない。ねえちゃんのなにが悪い。いや、悪いけれども。和馬にも腹が立つ。その親にも腹が立つ。クソオヤジにはもっと腹が立つ。
赤ちゃんに障るからとねえちゃんを休ませて、ぼくとママはリビングを片づけた。なにもかもやる気が失せて、散乱したものを機械的にゴミ袋につっ込んだ。それから掃除機をかけ、床を拭いた。
これでいいか。その程度には元どおりになって、ママと二人でカップラーメンを食べた。
無言のまま、ずるずるとラーメンをすすった。時折、ママが鼻もすすった。ぼくも鼻をすすった。鼻水が出るのは、辛いラーメンのせいだ。
世界中が敵になったような気がした。ぼくとママは二人っきりで、ねえちゃんを守らなくてはいけない。
「受験なのにごめんね」
ママが言った。ぼくは小さくかぶりを振った。
眠れないままベッドの中で、里子と養子を検索した。
里子。仕事と住むところを見つけて、子どもと安定した生活ができるようになるまで、どこかの誰かに育ててもらうこと。
養子。子どもを望む、どこかの誰かに引き取ってもらうこと。戸籍は養父母に入る。養子にも二種類あって、普通養子縁組と特別養子縁組。
普通養子縁組は、戸籍に生みの親の名前が記載されるけれど、特別養子縁組では生みの親の名前は記載されない。つまり、その時点で生みの親との関係はいっさい切れてしまう。
あとから会いたいと思っても、二度と会えない。そういうことだ。
どうなんだ。どれがいいんだ。
わからない。
もし自分で育てるとしたらこの家でだよな。ねえちゃんが赤ちゃんを産む。この家に赤ちゃんが来る。おぎゃあ、おぎゃあと泣くんだよな。この家で。赤ちゃんが。
ぼくもなにかしら手伝うべきだろうか。そうだろうな。
なにを? おむつ替えとか? ミルクをあげるとか?
産まれたばかりの赤ちゃんて、どんなだ?
そもそも、ねえちゃんがママになるって、どういう状況なんだ? 想像もつかない。
あれ? ねえちゃんがママになって、ママもママだな。ママが二人になるのか? ん? ママのママはおばあちゃんだな。ママはおばあちゃんになるのか? うそ。じゃあ、ぼくらのおばあちゃんは? 産まれてくる子から見たらママのママのママだ。ひいおばあちゃん?
考えれば考えるほど、はてなマークが増えていく。
だいたい僕が気づかなかったら、ねえちゃんはどうしていたんだろう。どこかの時点で話しただろうか。そうだろうな。そうだろう。そう信じたい。
死体遺棄。
そんなことばが頭をよぎった。たまにニュースになる。こっそりと赤ちゃんを産んで棄てるやつ。まるでゴミみたいに。
ねえちゃんはそんなことはしない。しないはず。絶対。たぶん。
気づいてよかった。この先どうなるにしても、ねえちゃんが犯罪者になることはない。
ねえちゃんにしたら、思いがけないバレ方をしたのかもしれないが、それでもよかったとつくづく思う。
ママは子育ての経験があるから安心だよな。
パパは。
……いいや。クソオヤジだもん。
夏休みまであと二日。ねえちゃんは学校へ行くのを辞めてしまった。
児童相談所の相談の結果は、おおむね検索通りだった。決めるのはねえちゃんだけれど。どの道を選ぶにしても、出産前後は学校は休まないといけない。自分で育てるとなったら休学あるいは退学。
退学だろうな。たぶん学校はゆるしてくれない。
「通信制に変える方法もあるんだって」
ケロッとしてるな。ねえちゃんの声が明るい。夕べ散々大暴れしてすっきりしたのか?いい気なもんだ。
「通信制?」
聞いたことはある。学校に通わなくていいヤツだ。単位を取ればいいヤツ。
「高二の一学期まで通ったとして、残りの単位はあと半分だって」
「子育てしながらでも、二年くらいで取れるんじゃないかって」
それならちゃんと卒業できるじゃないか。ママもちょっと肩の力が抜けたかんじがする。高卒であれば、進学にしろ就職にしろ中退よりもずっと道は開ける。
「そうなれば、自分で育てる選択肢も出てくるわよね」
なるほど。天からクモの糸が降りてきた。拾う神あり。
「どの道を選ぶにしても、美結が後悔しないようにね。ママは美結を助けるからね」
ねえちゃんはもらってきた母子手帳を、ぺらぺらとめくっていたけれど、その手を止めて手帳の表紙をじっと見つめた。
「うん。ありがとう」
「……ぼくも、なにか手伝えることがあったら」
クスっとねえちゃんが笑った。
「ガキンチョのくせに」
うるさいわ。自分だってガキのくせに。
「ごめんね、迷惑かけて」
急にしおらしくなられてもこまる。
「平気だよ、これくらい。ぼくは頭がいいから」
精一杯強がった。
パパはあいかわらず、ママに任せっきりだ。ママがいちおう報告はしているけれど、父親としてその態度はどうなんだ。ただ聞くだけで、うんうんと相槌をうつなら近所のおじさんといっしょだ。ねえちゃんが母親になろうとしているのに、それじゃあ示しがつかないだろう。
ぼくとしては、ママみたいに親の責任というものをちゃんと見せてほしいのだ。ねえちゃんを心配して、ねえちゃんのために怒って、病院やら役所やらを駆けずり回るような姿を。
ねえちゃんのために、本気で泣くような姿を。
ママに全部押し付けて、一人こそこそと逃げ腰の父親の姿は見たくない。家族の顔色をうかがうような父親は見たくないんだよ。ねえちゃんだってそうなはず。
「いいのよ、アレは」
ママは放棄している。
「お金だけ出してればいいの。それしか価値がないんだから」
ママ、きびしい。パパ終わってるな。でも現実に、いろんなことを相談しなくちゃいけないのに、それはパパ抜きである。いまや完全に部外者扱い。
このままじゃ、家に帰ってこなくなるんじゃないかな。本気でぼくらを見捨てるかもしれない。身重のねえちゃんすらも。
いや、そんなのゆるしちゃダメだ。親としての責任を全うしてもらわないと。
夏休みに突入した。暑さに拍車がかかる。
――先生、人生相談です。
――この先どうなら楽ですか。
――そんなの誰もわかりはしないよ、なんて言われますか。
(引用 「ヒッチコック」ヨルシカ)
そんな歌詞が心に刺さる。
感動とは違う刺さり方。身につまされる刺さり方だ。
誰か正解をください。
「こらー。そんなの飲まないの」
ねえちゃんが冷蔵庫の前に立って、モンスターエナジーをぐびぐびと飲んでいる。ねえちゃんはモンスターエナジーが好きだ。たぶん一日一本飲んでいる。部活もしていないし、勉強だってたいしてするわけじゃないのに、エナジー補給いらないだろ。
「エナジー必要よ。赤ちゃん育てているんだから」
開き直った。
「赤ちゃんは美結が食べたもので育つんだから、体にいいもの摂らないとダメよ。黄色い赤ちゃん産まれたらどうするの」
ママがおそろしいことを言う。ねえちゃんは眉間にしわをよせて、しばらくじっと缶を見ていたけれど、そのまま冷蔵庫に戻した。
信じたんじゃないだろうな。
「そ、そうだよね。ちゃんと栄養のあるものにしないとね」
「そうよ。冷たいジュースばっかり飲んでちゃダメよ。飲むんなら麦茶にしなさい。百パーセントジュースとか」
「う、うん。わかった」
ママが腹巻みたいのを買ってきて、ねえちゃんはそれをしている。ちょっと堅めの腹巻、あるいはやわらかめの腰痛コルセットみたいなやつだ。妊婦の大きくなったおなかをささえるんだそうな。
そんなものがあるんだな。
「これからもっと大きくなるんだから、腰に負担がかかるのよ」
もろもろバレて気が緩んだせいか、一気におなかが大きくなった気がする。今でも十分大きいが、もっと大きくなるのか。妊婦大変だな。
ねえちゃんはここ何日か、赤ちゃんのエコー写真や書き込んだ母子手帳をぼうっとながめてすごしていた。書き込んだ文字は、まるっとしたいかにも女子高生な文字だ。母子手帳には不似合いだ。
「アプリにすればいいのに」
おいおい。いや、ありか? もう誰かが開発しているかもしれない。
父親の欄は空白だ。
「ママ」
夏休みに入って一週間ほどたった晩、夕飯を食べながらねえちゃんがママを呼んだ。
「あのね」
ああ、決めたんだな。そう思った。
「赤ちゃん、自分で育てたい。迷惑かけるけど」
ねえちゃんは、まっすぐにママの顔を見つめた。そうか。ねえちゃんはママになることを選んだのか。ふしぎなことに、ぼくはなんの抵抗もなくすんなりと受け入れた。
「そう」
ママの声も穏やかだ。
「ママもできるだけ手伝うから。大変だけどがんばろうね」
「うん」
ねえちゃんは素直にうなずいた。
ねえちゃんが写真や手帳を見る顔つきで、ぼくもママもなんとなくわかっていたのかもしれない。
「ぼくも、できることがあったら手伝うよ」
そう言ったらねえちゃんは、ははっと笑った。
「あんたは受験に専念してよ」
もちろんそのつもりだが、余裕があるかもしれないし。
「なるべくじゃまにならないようにするから」
そう言ったねえちゃんにぼくは胸をはった。
「それくらい余裕だよ」
翌日、ねえちゃんとママは学校へ行って、通信制への編入の手続きをした。