発覚する
ねえちゃんが妊娠した。どうすんだ、高校二年生。
気づいたのはぼくだ。
梅雨が明けたとたん始まった暴力的な暑さに、息を切らした塾帰り。今年の梅雨明けは例年よりちょっと早いらしい。夏休みまであとすこし。はやくエアコンの恩恵のあずかろうと家のドアを開けた。「ただいま」あいさつは形式的。ドアを開けたら自然と口から出てくるもの。
スニーカーを脱いで、どたどたと大股でリビングにむかった。ドアを開けると体中が一気に冷気に包まれた。リュックをおろすと、蒸し上がった背中がスースーする。
「はあー」
しばらくエアコンの下で目を閉じた。
ねえちゃんはふろ上がりで、バスタオルをターバンのように頭に巻いて、手にはモンスターエナジーを持っていた。
それはいい。でもいくらふろ上りだからといって、その格好はいかがなものか。ノーブラのキャミソール。ショートパンツ。姉とはいえ、中三男子は目のやり場に困る。
いや。
そこじゃない。
ぼくは動きを止めて、じっと見つめた。
なんだ、その腹。
ポッコリしてるよな。かなり。
「あっ」
凝視したぼくの視線に気づいて、ねえちゃんはあわてて手で隠したが、もうおそい。
その腹がなにを意味しているのかは中三男子だってわかる。目と口が自然とあいた。そして次の瞬間
「ママーッ!」
思わず叫んだ。まだ声変りの兆しもないぼくの声は大声を出すと甲高い。
「啓太、だまれー!」
ねえちゃんは、ぼくの口をふさごうと飛びかかって来た。
「うわっ」
ぼくはとっさによけた。ガタン! ゴツッ! テーブルやイスにぶつかる。落としたモンスターエナジーが転がっていく。ふたを開ける前でよかった。
「だって!」
ぼくは抵抗を試みた。
「だってじゃないっ!」
「ヤバいじゃんか、その腹! ママッ!」
ぼくとねえちゃんはつかみ合いになった。
「なに騒いでるの」
二階からママが降りてきた。たぶん洗濯物をたたんでいたんだ。
「ママッ! ねえちゃんが妊娠してる!」
「ダメ―!」
ふたりの声が重なると、どっちがどっちだかわからない。
ママはぽかんとした顔で突っ立っていた。じっとぼくの顔を見た後、視線をねえちゃんに移した。顔を見て、それから腹へ視線をおろす。かくすように腹を抱えたねえちゃんの両手を、ぼくが後ろからつかんで大きく開いた。ばんざいされるネコみたいに。ポッコリとふくらんだおなかがあらわになった。
「ほら!」
目って、ほんとにまん丸くなるんだな。ママの顔を見てそう思った。それからママは大きく息を吸い込んで両手で口を覆った。
あんまり動かないから、そのまま石かなにかになってしまったのかと思った。ねえちゃんは観念したのかおとなしくなった。
「……な、なんで」
ようやくママはそのひとことをしぼりだした。
「……えっと、ヤ、ヤッたから?」
きまり悪そうにねえちゃんが言ったが、そういうことじゃないと思うぞ。
っていうか、ヤッたんだ。ねえちゃん、処女じゃないんだ。それもショックだ。なんだよ、もう大人になったのかよ。
「……い、いつ」
またもやしぼりだしたママのひとこと。
「ク、クリスマス?」
おかしい。おかしい。動転したママの質問もおかしいが、答えるねえちゃんもおかしいぞ。
「そういうことじゃなくて!」
ようやくママが我に返った。
「いつからなのよ! 何か月なの、そのおなか!」
「わ、わかんないよ」
「……わかんないって」
ママはその場にがっくりとひざをついて座りこむと、そのまま顔を手で覆ってしまった。
ねえちゃんの腕をはなしたぼくは、その手のやり場に困って宙ぶらりんに立ちつくす。
「最後に生理が来たのはいつなの」
顔を上げたママはねえちゃんに聞いた。
「えっと。たぶん冬くらい?」
「冬って! 一月も三月も冬なのよ! ぜんぜん違うじゃない!」
ママが声を荒げた。ねえちゃんの肩がビクッとはねた。
「う……。こ、今年は来ていないかな」
はあ、とママがため息をついた。
「どうして生理の管理もできていないの」
「……だってぇ」
「だってじゃなくて! ちゃんと手帳につけておきなさいよ」
「……手帳なんか持ってないし」
「アプリでも! スケジュールの!」
「うぇ……」
ママのあまりの剣幕に、ねえちゃんがめそめそしはじめた。それを見て、ママがまたため息をついた。
「じゃあ、もう七か月くらいじゃない」
こういう話を、ぼくが聞いていてもいいんだろうか。でも今さら席を外すわけにもいかなくて非常にいたたまれない。
ちゃらんぽらんなねえちゃんが、ちゃらんぽらんなマネをして妊娠した。
ヤバい。かなり。
「……なんで、こんなになるまで、だまってたのよ」
ねえちゃんが言えなかった気持はわからなくもない。ママがいろんなことで、いっぱいいっぱいだったのを知っているから。ママも余裕がなかったんだ。話しかけるのをためらうくらい。
原因はパパだ。
いつも帰りが遅い。十一時を過ぎるのがあたりまえ。ぼくもねえちゃんもすでに部屋へ入っているから、顔を合わせることはない。土日も仕事だといって出かける。顔を合わせるのは平日の朝に、儀礼的におはようというくらい。毎朝交通指導のおじいさんに、おはようございますと言うのと同じだ。ここ一年か、一年半くらい。「おはよう」以外のことばを最後に交わしたのはいつだったろう。それくらい、パパはぼくらに興味がない。
パパは仕事が忙しいんだといっている。僕も最初は、そんなもんかと思っていた。が、そんな生活が一年も続いたら、いくら中学生でもさすがにおかしいと思う。
なぜパパは家にいない。
「不倫してるのよ」
いつか、ねえちゃんがこっそりとぼくに言った。
「ええ? 不倫って?」
聞き返したぼくに、ねえちゃんはしたり顔で言ったのだ。
「女よ。女がいるのよ」
ねえちゃんは、パパのスマホの通知画面に「会いたい」とか「好き」とか「昨日の夜は」とかいうヤバめのメッセージを見たといっている。「昨日の夜」どうしたんだ。そんなのママには言えない。
ぼくだって「不倫」くらい聞いたことがある。具体的なことはわからないけれど、パパにカノジョがいるってことだろ。
いや、わかんない。なんでそんなことするんだ。ママが大事じゃないのか? ぼくは? ねえちゃんは?
中学生になってさすがに親子で出かけることはなくなったけれど、でもぼくともねえちゃんとも、ママとすらいっしょにいるよりもその彼女といたいってこと?
パパにとってぼくらってその程度のもの?いなくなってもかまわないもの?
ねえちゃんの勘違いであってほしい。そんな期待はかなわなかった、たぶん。現にママはほとんどパパと口をきかなくなってしまったし、ねえちゃんも露骨にパパをシカトする。そんな現実にがっかりしたぼくも、話しかけることはやめてしまった。どうせ、返ってくるのは生返事だし。
家庭内は最悪に険悪だ。
ぼくの家、真山家は崩壊寸前。かろうじて四人家族の形を保っているだけだ。
確かめることはできなかった。ひとことパパに聞けばいいのだけれど、「そうだ」と肯定されてしまえばその場で一発アウトだ。その途端、ギリギリ保っていた形も完全に崩壊する。
だからといって「ちがう」といわれても、たぶんぼくはごまかしたんだなと思ってしまう。それはそれでアウトだ。自分の不都合を、ウソでごまかす父親なんてどうあってもゆるせるわけがない。
どっちにしろ、そんな恐ろしいことはできなかったのだ。
だからますますパパは家を空ける。
この破綻した家族が元にもどることがむずかしいのは、子ども心にもわかる。
不倫したから破綻したのか。破綻したから不倫したのか。どっちが先だったんだろう。
いつのころからか、ママはぼくら三人とパパの洗濯物は分けるようになった。柔軟剤も別。パパのは「超消臭。汗も脂も」とかいう強力そうなやつだ。ぼくの服が甘いフローラルな匂いなのはちょっと困る。学校ですれちがいざまに、「真山くん、いい匂いがするね」なんて女子に言われたら恥ずかしくってしょうがない。じゃあ、パパのといっしょに洗うかと言われれば、それはそれでいやだ。ママのチームに入れてほしい。
「どうして別なの?」と聞いたら、パパは臭いからね、とママがいった。末期だ。
こんな状態だから、離婚もそう遠くないと思ってしまう。ママがそう決めたのなら受け入れる。このままでママがしあわせじゃないなら仕方がない。ぼくはずっとママの味方をする。そう決めている。マザコンというならいえばいい。なにが悪い。
中学校の入学式のときはこんなじゃなかった。三人でなかよく笑いながら写真を撮ったのに。居合わせたほかの家族と、「入学式」の立て看板の前で、写真の撮りあいをしたのはパパだった。
あの家族はもう壊れてしまった。残念だけど。
今はねえちゃんをバカ呼ばわりしているけれど、あのころはねえちゃんだってまじめだった。勉強だってちゃんとしてたし、部活の吹奏楽もがんばっていた。クラリネットに選ばれたと張り切っていた。高校も吹奏楽の強いところに入るんだって言っていたのに。
ねえちゃんがやさぐれたのは、パパのせいだ。おかしくなりつつある家庭の空気を敏感に感じ取ってしまったのだ。反抗期も相まって、なにもかも投げやりになって、勉強もしなくなった。高校もどこでもいい、といって下がった成績で入れる中の下レベルの公立高校に入った。高校に入ってからも部活なんかやるわけもなく、放課後はカラオケだゲーセンだ、と遊び歩いている。
そんな中で同級生の和馬とつき合いはじめたのが去年の秋くらい。
家にいても、ずっとスマホを手放さない。SNS。ゲーム。ライン。
たまにぼくと話す。学校の愚痴。友だちの愚痴。和馬ののろけ。
「あんたはがんばりなよ」
そう言う。託されてもこまる。
自分だって、やさぐれていないでがんばればいいのに。
ママはパートに行く。ねえちゃんとぼくの学資のためだ。二人とも大学に行けるように、給料がいいからと、介護施設で働いている。
ぼくには家庭の経済事情はわからないけれど、もしかしたら離婚後の収入のためかもしれない。
おかげでぼくは学習塾にも通えている。ぼくが目指すのはAランクの公立高校だ。それから国立大学へ進学して、国家公務員上級試験に合格する。そして官僚になるのだ。そうすればママの老後は安心だ。パパをあてにしてはいけない。親孝行なぼく(ママ限定)。ねえちゃんは自分で何とかしろよな。
そんなふうに殺伐とした家庭内で、さらなる火種をまくことをためらったねえちゃんの気持はよくわかる。
が。
「和馬くんには言ったの?」
「……う、うん」
ママが聞いたのに、ねえちゃんの答えは煮え切らない。
「言ってないの?」
「きっ、きっ、きっ」
どうした、ねえちゃん。
「きっ、聞くには聞いた」
「聞く?」
質問と答えが合っていない。
「あ、赤ちゃんができたらどうするって聞いた」
また遠回しな。
「そんなわけねぇだろうって言われた」
それで言い出せなくなっちゃったのか。ママのこめかみがぴくっとした。
「なに? その無責任な言いかた」
「ひっ、避妊はちゃんとしたんだよ」
「ちゃんとしたらできるわけないじゃないの!」
「うぇ……」
ねえちゃんのべそがぶり返す。中三男子、避妊の話をされてもこまります。だいたい和馬、ロクなヤツじゃないな。チャラいヤツだ。ねえちゃんといっしょのところを、二回ほど見かけたことがある。髪茶色いし、前髪長いし、シャツの襟ぐずぐずだし、へらへらしてるし、頭悪そうだし。
顔はまあまあ。ジャニーズの誰かみたいだ。ぼくよりずっと背も高い。なにより大人の声をしている。ちょっとカッコいいかもしれない。ちくしょー。
ねえちゃん、趣味いいな。いや、悪いのか? ほんとにあいつが好きなのか? とりあえず、ティッシュの箱をねえちゃんの前に置いた。ねえちゃんは、勢いよく五枚引き抜くとぶうっと盛大に鼻をかんだ。
「とにかく」
ママは、はあっとため息をついた。
「和馬くんと親御さんと相談しないと。それから病院」
病院と聞いて、ねえちゃんはぽかんと口を開けた。
「病院?」
「そう! 病院! ちゃんと診察してもらわないと!」
「診察?」
ねえちゃんは「こだま」かっていうくらい首をかしげている。
「そうよ! 赤ちゃんが元気かどうか見てもらって、予定日も聞かなくちゃ」
ねえちゃんの目がこれでもかっていうほど大きく開いた。
「よ、よ、予定日」
「そう。出産予定日」
出産? うそだろ。子どもを産むの? ねえちゃんが? ぼくは息をのんだ。高校生だよ?
うぇぇーー。しばらく呆然としていたねえちゃんはとうとう本格的に泣き出してしまった。
「ちゅ、ちゅ、ちゅ」
どうした、ねえちゃん。
「中絶できないの?」
ひい! 中絶? ぼくの人生にそんなことばが出てくるとは思いもしなかった。
「バカッ!」
ママの顔が般若になった。
「そんなに大きくなったらもう無理なのよ。産むしかないの! だいたいなに? 気軽に中絶なんて言わないで。命をなんだと思っているの!」
ものすごい剣幕でママが怒った。でも中学生、高校生が想像できる命なんて、犬や猫がせいぜいだ。人の生死なんて身近にある事じゃない。お葬式だって出たことがないんだもの。交通事故で死ぬかもしれない。災害で死ぬかもしれない。そう言われても、ママやパパやねえちゃんが、あるいは学校の友だちが死ぬことなんて想像もできない。
「やだあ」
ねえちゃんは子どもみたいに、わんわんと泣いている。鼻水と涙でぐじゅぐじゅだ。
怖かったんだろうな。誰にも言えなくて、日に日に大きくなるおなかを抱えて、どうすることもできずにただ見ているしかできなかったんだな。
今日、ぼくが気づいてよかった。
「向こうのおうちとも話し合って、これからのことを決めないと」
「こ、これから?」
ぐじゅぐじゅの顔でねえちゃんが聞いた。
「そうよ! あんた、十七才でシングルマザーになるの?」
……シングルマザー? きょうは別世界のワードがぽんぽんと飛び出すな。
「けっ、けっ、けっ」
……ねえちゃん。
「結婚ってこと?」
ママはムッとして、つっけんどんに答えた。
「そうよ」
聞いたねえちゃんは、また盛大に泣きはじめた。
「やだあ」
いやなのかよ。しょうがないか。高校生だもんな。学校辞めて、結婚して子ども産む。学校辞めるのか? 高校中退? マジか。さっきまでの常識が覆されていく。
高校中退っていったらあれだ。ヤバ目の高校に入ったヤバ目のやつが、ヤバ目の人たちとつるんでフェードアウトしていくやつ。新宿あたりにたむろしているやつら。
マジ? ねえちゃん、そのカテゴリーに入るの?
高校卒業して、大学に行って、どこかの会社に就職して、結婚して子どもが産まれる。
それがフツーだろ?
ねえちゃんはフツーじゃなくなる。その弟のぼくもフツーじゃなくなるのか?
不倫して家庭を顧みないパパもフツーじゃないのか?
じゃあ、うちはフツーの家庭じゃないのか。
え? フツーってなに。
「ごめんね、こんなになるまで気がつかなくて」
ふいにママが言った。えずきながらねえちゃんが顔を上げた。
「どうするのが一番いいのか、ちゃんと考えよう」
泣きながらねえちゃんはうなづいた。ぼくはなにをすればいいんだろう。
ぼくは無力な子どもだ。きょうはじめて思い知った。
「ただいま」
突然声をかけられて三人とも飛び上がった。パパが帰って来た。こっちの話に気をとられて気がつかなかった。
パパはリビングのドアに手をかけたままつっ立っていた。
もう十一時を過ぎていた。
「……どうしたんだ」
しゃくりあげるねえちゃん。半泣きで青ざめたママ。ことばをなくしたぼく。この惨状にパパも呆然としていた。
ぼくはママの顔を見た。どうしよう。なんて説明すればいいんだ。ママは気持ちを落ち着かせるように、ふうっと息を吐いた。
「美結が妊娠した」
そう聞いてもパパはしばらく動かなかった。
「え?」
聞き返したパパの顔はひどく間抜けに見えた。この中で、パパだけが異質だった。完全なる部外者。
「美結が妊娠した」
ママはもう一度言った。
「はあ? うそだろ?」
パパは素っ頓狂な声をあげて、ねえちゃんをまじまじと見つめた。
「うそだろ?」
もう一回言って、今度はねえちゃんのおなかを見た。ねえちゃんは片手でおなかをかばうように抱えていたけれど、ぽっこりは十分見てとれた。
パパはしばらく呆然としたあと
「ちゃ、ちゃんと調べろよ」
目をそらしてそう言った。
「なにかの間違いかもしれないし」
そのまま「あー、暑かった」なんて言い訳めいたこともごもごとつぶやきながら、二階へ行ってしまった。ママとねえちゃんとぼくを残して。
ぼくらはその場に立ちつくすしかなかった。
うそだろ。
今度はぼくがつぶやいた。この期に及んで逃げるのか。自分だけ。
置き去りにされたねえちゃんの涙は止まってしまった。ママの深いため息は、あきらめというには切なすぎた。
パパ。
いや。
クソオヤジ。
死ねよ。
朝起きたらあごが痛かった。口が開かない。無理に開けようとすると、ごりっと音がして激痛が走った。ぼくは口を開けるのをあきらめて、かろうじて開いた一センチほどのすき間で今日一日過ごすことにした。だいじょうぶ。水は飲める。
よく眠れず、ともすれば吐きだしそうになる悪態を、歯を食いしばって耐えていたせいだと思う。
人生で初めて、眠れない夜を過ごした。いつもはベッドに入ると次の瞬間には朝になっているのだが。タイムリープしているんじゃないかと常々思っている。
それが、夕べは腹が立ったりくやしかったり、ねえちゃんの行く末を案じたりで、いつになっても眠気はやって来なかった。ベッドの上で、あっちへごろごろ、こっちへごろごろ。そろそろ夜が明けるだろうと、何度思ったことか。ところがいつになっても部屋の中は暗いままだ。この部屋だけ時間が止まっているんだ、きっと。
気を紛らわそうとユーチューブを見たりしたけれど、全然気は紛れないくせに動画もイマイチおもしろくなかった。いつもは大笑いするゲームの配信すらクスリとも笑えない。動画は視界を滑っていくばかりだった。一時間ほど見て、スマホの電源を切った。
部屋の中が薄明るくなったころ、やっとすこしまどろんだ。
朝の食卓にはいつもどおりの朝食がならんでいた。ただそれはぼくとねえちゃんと、クソオヤジの三人分。ママの分は? と聞きたかったけれど、ママの醸し出す空気に恐れをなして聞けなかった。クソオヤジと同じテーブルにはつかない、と決めたのかもしれない。
クソオヤジは、ものすごい勢いでごはんと味噌汁だけをかき込むと、「いってきます」と席を立った。いつもの時間よりもずいぶんと早い。「そそくさ」のお手本みたいだった。
ぼくもママも「いってらっしゃい」とは言わず無言のまま背中を睨みつけた。
すぐにねえちゃんがリビングへ降りてきた。たぶんクソオヤジが家を出ていくのを待っていたんだろう。ちらっと顔を見たら、ひどく目が腫れていた。一晩中泣いていたんだろうな。ちょっとかわいそうになった。
いや。自業自得だが。
ママの目も腫れている。夕べこの家で眠ったのはクソオヤジだけだろう。
「美結」
もすもすとごはんを嚙んでいるねえちゃんをママが呼んだ。
「きょうは学校休んでね」
ねえちゃんは箸を持ったままぴくっと動きを止めた。
「……病院に行くの?」
「そう。ママ、きょう仕事休みだからちょうどよかった」
「うん。ごめんなさい」
ねえちゃんはきのう大泣きしたせいか、今朝はやけに殊勝だ。
「啓太もごめんね。なるべく迷惑かけないようにするから」
そんなこと言われたら、なんて返していいのかわからない。うん、とあいまいにうなずいて残りのごはんをかき込んだ。というか、卵二個使いのデラックス卵かけごはんを一センチのすき間から流しこんだ。
どこかふわふわとした足取りで学校にむかったものの、授業が手につくわけもなく、仲良しの駒沢淳に「なにかあったの」と聞かれたところで答えるわけにもいかず、また不意に腹立たしさがこみあげてきてぎゅっと歯を食いしばったり、まったく落ち着きのない一日だった。
「ねえ、だいじょうぶ? ほんとに変だよ?」
昇降口でくつを履き替えながら、淳が心配そうにぼくの顔をのぞきこむ。淳とは一年生のとき同じクラスになって、たまたま部活も同じで、それからずっと仲良しだ。バトミントン部。選んだ理由も同じ。
運動部なのにゆるいから。
ぼくはスポーツがそんなに得意じゃない。だからガチのサッカー部とか野球部とは無理。あれは運動神経のいいイケてるヤツがやるものだ。
かといって、文化部はなんかやだ。美術部とか科学部とか、ほぼ帰宅部。ちょっとバカにされている。
「何部?」
「科学部」
「ああ、へえ」
うすら笑い。
その点、バトミントン部は運動部。一応。地区予選は一回戦負け。ぎりぎりだいじょうぶ。中の部活だから日焼けもしないし、埃をかぶることもない。遅くまでやることもないから塾に行くのも余裕だ。
なんとなく淳には同じ匂いがして「どうしてバド部にはいったの」と聞いたら、淳はにやっとして言ったのだ。
「だってちょうどいいじゃん」
それ以来淳にはちょっと心をゆるしている。
だからぼくの家庭の問題もそれとなく話してある。まいるよねー、なんて深刻にならないように。
淳が心配してくれるのはありがたいのだが、だからといって、夕べのことを話せるかといえば、それはまた別の話だ。先のことが決まったら話すかもしれない。悪いけど。仲良しだからといって、話せないこともあるんだ。そんなこともあるんだな。ぼくははじめて知った。淳はそんなあいまいなぼくになにも言わなかった。ちょっとした罪悪感と居心地の悪さを抱えながら、橋のたもとで手を振って右と左に別れた。
長い長い一日を終えてやっと家に帰った。ねえちゃんはどんな診断を受けたんだろう。知りたいけれど、知るのは怖い。
「ただいま」
玄関を開けると、しょうが焼きの匂いがした。ナイスタイミングの帰宅だったらしい。ぼくもねえちゃんも大好きなヤツだ。きっとママが気を遣ったんだ。
先に自分の部屋に行ってカバンを置き、Tシャツとハーフパンツに着替えてリビングへ降りた。ドアを開けるとエアコンの冷気が心地いい。
話を聞くのが先か、しょうが焼きを食べるのが先か。
「先に食べちゃおう」
ママが答えを言ってくれた。テーブルについてあたたかいご飯と味噌汁を前にすると、落ち着いて食事をするのが昨日以来だったと気がついた。夕べは上の空で、朝ごはんも給食も食べた気がしなかった。
グウっとおなかが鳴った。ひさしぶりに空腹を感じた。いつの間にか、口は開くようになっていた。
ねえちゃんも部屋からおりてきて、三人で晩ごはんを食べた。とくに話すこともなく黙々と食べ終え、ねえちゃんが後片づけを手伝った。その後に話を聞かせてくれるんだろう。
ソファにすわってぼんやりとバラエティ番組を見ていた僕の前に、ねえちゃんがぺらっとした紙を一枚差し出した。
「これ、赤ちゃん」
ぼくは目を瞠った。
「……人じゃん」
それはテレビとかで見たことがある、グレーのモヤモヤした写真だった。エコーとかいうやつ。そこに写っていたのはくるりと丸まった明らかな人間だった。
「男の子なんだって。ほら、これがチンチン」
指で指されれば、なるほどそんなものが見てとれる。
「マジか」
ねえちゃんの腹の中に、これがいるのか。思わずその腹を凝視してしまう。
「動くんだよ」
そう言って、Tシャツの上から腹を撫でた。
ちょうどそのとき、ねえちゃんの腹がぐねりとうねった。
「あっ、ほら!」
衝撃が走った。ねえちゃんの腹が生きている。生きて動いている。ぼくは息をのんだ。
マジか。理解の範疇を超えている。
「予定日は十月の半ばだって」
ママが言った。今、二十八週目、七か月。
あと三か月でぼくはおじさんになるらしい。
「元気でよかったわ、美結も赤ちゃんも」
「お医者さんに怒られちゃった」
ねえちゃんがぺろりと舌を出した。ここまで放置したら怒られるでしょうね。どちらも元気でよかったですよ、まったく。
「産んでからが問題なのよね」
ママが続ける。
「自分で育てるのか、養子に出すのか、里子に出すのか」
自分で育てるのはわかる。養子と里子ってなんだ。なにがちがうんだ。
「児童相談所が相談にのってくれるんだって」
え? それって虐待された子どもを助けるだけじゃないんだ。
待てよ。ねえちゃんも子どもだ。まだ未成年だし。高校生だし。産まれてくる赤ちゃんも子どもだ。
どっちも児童相談所案件なのか?
「ほんとは今日、区役所に行って母子手帳もらってくる予定だったけど、病院に時間かかっちゃってね。疲れたから明日にしたわ。明日母子手帳もらって相談してくる」
児童相談所に母子手帳。世の中ぼくの知らないことだらけだ。