私の婚約者は一度だけ「一生のお願い」をしてもいいとおっしゃいました
エファス王国には四季があり、今は春――桜並木は鮮やかな桃色で彩られている。
満開の桜の中を、二人の男女が歩いていた。
子爵家の令嬢フィア・レーベンと伯爵家の令息アウリオ・ヴァルシュ。
フィアは肩にかかるほどの艶のある黒髪、ラベンダー色の瞳を持ち、神秘的な容姿をしているが、性格は明るく溌剌そのもの。動きやすい青のドレスで元気よく歩いている。
アウリオはさらっとした耳を覆うほどの金髪、琥珀色の瞳で、シャープな印象の令息であった。清潔感のある白いスーツを愛用している。
二人は先日婚約したばかりであり、今日はデートの真っ最中であった。
「桜が綺麗ですね。こうしてアウリオ様と歩いているだけで楽しいです!」
フィアが笑うと、アウリオも柔らかな笑みを返す。
「私もだよ。一歩歩くごとに幸せが増していくようだ」
「ふふっ、アウリオ様ったら……」
照れる仕草を見せるフィア。
「でも、本当に幸せです。婚約式でも誓いましたが、私はアウリオ様を一生愛し続けたいと思います!」
アウリオはうなずく。
「一生といえば……“一生のお願い”ってあるだろう?」
「あ、ありますね! 一生のお願いだから……って、私も友達からされたことがあります!」
「うん。だけど、あれは本来なら“一生に一度のお願いだから”ぐらいの重みがあると思うんだ」
「そうですね。といっても、私の友達は乱発してますけど……」
二人はフフッと笑う。
「だから君も私に一度だけ“一生のお願い”をしてもいいことにするよ。そのお願いがどんなものであろうと、私は必ずやり遂げる」
「え、本当ですか!?」
「うん、君がどんなお願いをしてくれるのか、楽しみに――」
「だったら私、パンケーキ食べたかったんですよね。さっそく一生のお願いを……」
いきなりの一生のお願い発動に、アウリオは焦る。
「ちょっと待った! パンケーキに使っちゃうのかい!?」
「はい、気になるお店があるので……」
「それぐらいなら一生のお願いを使わなくてもいいよ。さっそく二人で行こう」
「いいんですか? やったぁ、ありがとうございます!」
フィアは満面の笑みで喜ぶ。
一方のアウリオは愛する人へのとっておきのプレゼントのつもりで“一生のお願い”の権利を贈ったのに、パンケーキで消費されなくてよかったと心底ホッとした。
この日、二人で食べたパンケーキはとても甘く美味だったことは言うまでもない。
***
およそ半年の交際期間を経て、二人は結婚式を迎えた。
両家の人間が見守る中、フィアとアウリオは祭壇の前に立つ。
純白のウェディングドレスを纏ったフィア、白いタキシードを着こなすアウリオ。互いが互いの姿に心を奪われ、じっと見つめ合っている。
司祭がおごそかに告げる。
「ではお二人とも、神の前で愛を誓い合って下さい」
まずはアウリオが言葉を紡ぐ。
「私は本日この時この場より、我が妻フィアを生涯をかけて愛し続けることを誓います」
フィアも同じように誓いを口にする。
「私も本日この時この場より、我が夫アウリオを生涯愛し続けることを誓います」
アウリオがフィアの頬に右手を伸ばす。フィアはその右手を両手で掴む。
お互いに「もうあなたを離さない」というかのような光景に、出席者たちも温かな眼差しになる。
「アウリオ様」
「ん?」
「私、アウリオ様から頂いた“一生のお願い”をここで使おうと思っていたんです。幸せにして下さいって。だけど、やめました」
「どうして?」
「だって……一生のお願いを使わなくても、私、幸せになれちゃいそうですから!」
湧き上がる幸福感を抑えきれないという笑みを見せるフィア。
アウリオはそんな彼女に改めて恋をしたという気持ちでささやく。
「必ず幸せにするよ」
「はいっ!」
そして、二人は口づけを交わし――式は和やかで温かなムードのまま終わりを告げた。
***
結婚してからのフィアとアウリオはというと――多忙であった。
アウリオは次期当主として本格的に領地経営に携わり、事務仕事から領地の見回り、さらには他の領との交流など、様々な業務をこなさねばならない。
書斎にて、アウリオが書面に目を通し、頭を悩ませる。
「作物の取れがよくない……税を軽くして、農家に補助金を出すしかないな。しかし、そうなると、福祉や公共施設に回す金が……」
領地経営に絶対の正解などない。
常に頭をフル回転させなければならない日々が続く。
そこへ、フィアが紅茶とお菓子を持ってくる。
「あなた、一休みしたら?」
「……ああ、ありがとう」
フィアとの休息が、数少ない安らぎの時間といえる。
「一つ一つ、こなしていきましょうよ」
「え?」
フィアの言葉に、アウリオはきょとんとする。
「領地の問題を全部まとめて一気に片付けるなんて、どんな名領主だって無理です。だから、無理をせず、一つ一つこなしていきましょうよ。まずは農家の方々を助ける方法を考えましょう」
「……そうだね。ありがとう」
目の前にはバラバラになったパズルがある。どこから手をつけていいかも分からない。
そんな状況で、フィアは優しく一つのピースを手渡してくれた。
まずはこのピースをどこに置くか考えよう。次を考えるのはそれからだ。
アウリオはフィアのおかげで、地に足をつけることができた。
アウリオは時には民のために身銭を切ることも厭わなかった。
その結果、フィアにしわ寄せがいってしまうこともある。
「すまない。結婚記念日にとプレゼントを考えていたんだけど、私財を用水路建築に投入してしまって……」
フィアは全く気にしていないという風に笑う。
「いいんですよ。今、領地が苦しい時だって分かっているし、あなたが思う存分自分の道を歩んでいることこそが何よりのプレゼントですもの」
「フィア……!」
感極まって、アウリオはフィアを抱き締める。
フィアも夫の体温が心地よく、ゆっくりと目を閉じる。
プレゼントは、これで十分――
領民を想い、領地を潤す。この長く険しい道を、夫婦は二人三脚で歩む。
その代償として、かつて交わした“一生のお願い”の約束は、すっかり忘却の彼方にあった。
***
だが、こうした苦労は徐々に実を結んでいく。
アウリオとフィアの献身的な領地経営は、領民のモチベーションを高め、ヴァルシュ家の領地は農業的にも産業的にも文化的にも、飛躍的な進歩を遂げた。
正式に家督を継いだアウリオは、今や街を歩けば誰からも慕われる領主となっている。その妻であるフィアも人気は高く、領民の少女はこぞって「フィア様のような女性になりたい」と言うほどだ。
二人は子宝にも恵まれた。
男子が二人、女子が一人。
長男は理知的に育ち後継者としてめきめき成長し、次男は自由人気質だが文化的才能がありやがて詩人として歴史に名を残すことになる。長女もまた、夜会にてある侯爵家の令息に見初められることができた。
フィアとアウリオは二人三脚で大勢の笑顔を生んだ。
夫婦が老境を迎え、領地は安定し、子供も成長した頃、それは起こった。
――アウリオが倒れたのである。
***
秋が深まった頃、世間は紅葉が美しいが、アウリオはベッドに横たわっていた。
かつてはあれほど輝いていた金髪は淡さを帯び、紅顔といえた顔も、かつての面影を残しつつも痩せ衰えている。
その傍らで、頭に白髪が混じるようになったフィアが、夫の容態を見守る。
チャームポイントであるラベンダー色の瞳がかすかに潤んでいる。
「すまない、フィア……。これから二人で老後をという時に、こんなことになってしまって……」
フィアは夫の手をぎゅっと握る。かつての頼もしさは感じられなかった。
「医者の見立てでは、今年の冬を越せるかどうかというところらしい。覚悟はしておいて欲しい」
弱々しい夫の言葉に、フィアはうなずく。
だが――
「……ついさっき思い出しました。あの時の約束」
「約束?」
「一度だけ“一生のお願い”をしてもいいって。それは必ずやり遂げるって」
アウリオの目が丸くなる。彼も忘れていたようだ。
「今のあなたにお願いするのは残酷なことかもしれません。だけど言わせて下さい」
「ああ、いいとも」
「生きて」
「……!」
「生きて、また一緒に桜を見ましょう。それが私の“一生のお願い”」
フィアの目から涙がつたう。
自分がどれほど過酷な要求をしているのか分かっているのだろう。だが、あえて言った。
今から桜を見られる頃まで半年近くある。今のアウリオにとってはあまりにも長い。
だが、先ほどまで虚空を見つめていたアウリオの瞳に、にわかに光が宿る。
「まったく……とんでもないところで使ってくれたものだね。“一生のお願い”を」
「自分でもそう思います」
「だが、約束は約束だ。このアウリオ・ヴァルシュ、妻からの“一生のお願い”を無下にしてしまうほど、ろくでなしではない」
フィアは確かに感じた。
握っている夫の手に熱が、生気が宿ったのを。
この人はきっと約束を守ってくれる――そう確信するには十分すぎるものだった。
***
それから半年が過ぎた。
領内の桜並木を、年老いた夫婦が歩いている。
茶色いブラウス姿のフィアと、グレーのスーツ姿のアウリオ。
二人の足取りは決して早くはないが、しっかりしている。
満開の桜を見て、アウリオがつぶやく。
「まさか本当にまた桜を見られるとはね」
フィアがわずかに口角を上げる。
「お医者様もビックリしていましたね」
「ああ、悪いことをしてしまったかな?」
医者はアウリオの回復ぶりに驚いていた。
まだ安心できるとはいえないが、このままいけば来年、再来年の桜を見ることも可能ではないか、とのこと。
「奇跡を目の当たりにした気分、だなんておっしゃってましたね」
「ああ。だけど奇跡なんかじゃない。私はただ君の“一生のお願い”を叶えただけの話さ」
「ええ、そうですね。あなたはきちんと約束を果たしてくれました」
フィアは再び桜を見る。
鮮やかなピンクの花びらが、二人を祝うようにひらりと舞い落ちてきた。
それを目で追いながら、フィアはつぶやく。
「私は最高の“一生のお願い”をしましたわ」
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。




