カルミナとイセリー3
ミナと私が知り合ったのは、私の四歳の誕生日にお父さんが服を買いに連れて行ってくれた時だった。ケルシニル、フェルメリアでも人気の呉服店だ。
お店に行くと、週に数回は街の散策をする私ですら会ったことのない、真っ黒な髪のお人形さんみたいな子が服の陳列を手伝っていた。私は自分が誕生日プレゼントの服を買いに来たことも忘れて、その子に釘付けになった。お話がしたい、友達になりたいと、今までにほとんど感じたことのない思いが、その落とした服を拾おうとしている怯えた表情の子に対して沸き上がった。
「あの、まだ開店前でして……」
「ん? そうか。あとどのくらいで対応出来る?」
お父さんと店主さんの会話から、どうも開店前に来てしまったらしい。でも、この子と知り合えたのはそのせいなのだとしたら、むしろありがたかった。気になったらとりあえず動いてみる。当時の私はそんな性格だったから、黒髪の少女にも、臆することなく話しかけた。
「ねえ、一緒に遊ぼ?」
拾った紺色の服を胸の前に抱えたその子は、何を言われたのか理解出来ていないのか、一重の私と違ってくりっと大きな目を限界まで見開いて私の顔をじっと見つめてくる。涙で潤んだ瞳は窓から入る光の反射で白と黒のコントラストがとても綺麗で、じっと見ていると吸い込まれそうだった。
女の子が視線を店主さんへ向ける。胸が高鳴り、落ち着きがなくなりそうになるのを必死に抑えながら、小刻みに震える私のものではない小さな手を握る。
「あなた、名前は? 私はイセリ―!」
名前を尋ねてみると、視線がこちらへ戻ってくるが右へ左へと数秒間泳ぎ続ける。俯きがちにやっと私に視線が向くと、もごもごと口を動かして吃っていたが、ついに名前を教えてくれた。
「え、ぅぁ……カルミナ、れす……」
カルミナ……うん、いい響き。
「カルミナ……いい名前だね!」
口の中で、カルミナ、カルミナ……と忘れないように繰り返す。数秒で舌に馴染んだため、握ったカルミナの手を少し引く。
「よし、行こ!」
「うえ、うあっ」
前のめりになってこけそうになったところを抱きかかえて受け止め、はらりと落ちた紺色の服はそのままに、手を引いて店の外へと連れ出す。
「怪我しないようにね」
カルミナの母親がそう言ったことはギリギリ聞き取れたが、その後、ケルシニルで何があったかは知らない。少なくとも、私がお店に戻った時にお父さんはいなかったし、家に帰れば私の好きそうなデザインの服が買われていた。
この日は街の散策をして終わったが、その日以降も私はカルミナを色んな所へ連れ回した。どうしてそんなにカルミナのことを気に入ったのかは、正直分からない。ただ、カルミナと一緒にいることが、他の何よりも楽しかった。
内気で、臆病で、ちょっと驚かしたら目をウルウルさせて私にしがみついて来て、スキンシップで胸とかを触っても顔を赤くして恥ずかしがるけど、私ならいいって言ってくれて。ミナは私にとって、友達以上の特別な存在だった。揶揄い甲斐はあるけど、どこか守ってあげたくなるお人形さん。大好きで、ずっとずっと大切にして、絶対に手放したくないもう一人の家族。そんな感じだった。
いつまでも、こんな毎日が続いたらいいな。毎日、続いてほしいな。そう祈り続けていた。でも、祈りは届かなかった。
三年前、私はシンド村に住んでいたおばあちゃんのところに遊びに行っていた。当時、私は周りがちょっと引くくらいにおばあちゃんっ子で、何か月かに一回お母さんと一緒におばあちゃんのところに行くことを、この上なく楽しみにしていた。
「ねえおばあちゃん、森の方行きたい!」
歳はもう七十を過ぎていたおばあちゃんだが、子供の私が一日中連れ回してもまだ元気が残っているくらいには体力のある人だった。だから、私はこの日も一日中連れ回すつもりだった。西の森は深く入ってはいけない、と村では言われていたけど、そう言われると行きたくなってしまう子供だったので、駄々を捏ねて、入ってすぐのところまでという条件付きで、おばあちゃんに付いて来てもらった。付いて来てもらう、つもりだった。
「ミナったら、この前火の魔法を使おうとして失敗してね。どかーんってなって……全身煤だらけになっちゃったの」
「愉快な子ねえ」
もうすぐ村の西端に着く。おばあちゃんといつも通り思い出を話しながら、ゆっくりと歩く。おばあちゃんと手を繋いで、おばあちゃんの笑顔を見上げて、ゆっくりと進む。
「私も髪とかちょっと焦げちゃって。一緒にお風呂に――」
突然のことだった。おばあちゃんが、私を包み込むように、抱き締めてきた。直後、おばあちゃんの服で音が聴き取り辛くなった耳に、どすっという音が聞こえる。それと同時に、ちょっとした衝撃がおばあちゃんの方からくる。何が起きたのか分からないでいると、おばあちゃんは抱擁を解いて、中腰になって私と目線の高さを合わせた。皺だらけの顔には、さっきまではなかった汗が大量に流れていた。
「振り返らずに、向こうへ走りなさい。絶対に、こっちを見てはだめ」
「え……どういうこと?」
「行きなさい」
この時、初めておばあちゃんの目を怖いと思った。おばあちゃんは私を反対方向へ体の向きを反転させて、背中を押した。躓きそうになりながらも、こけないようになんとかバランスを保つ。おばあちゃんの方を見ようと思ったが、直前のおばあちゃんの目が脳裏に焼き付いていて、出来なかった。言われた通り、走り出した。
さっきまでゆっくり歩いていたせいか、脚が上手く動かせなかった。何度も絡まりそうになりながら、でもなんとか耐えて走り続けていた。でも、五十歩もしないうちに、遂に転んでしまった。短パンを履いていたから膝を擦り剝いてしまったけど、そんなことは気にならなかった。起き上がるときに、つい振り返ってしまった。そして、見てしまった。
緑の肌をした人型の何かが、おばあちゃんに寄って集って木の棒や剣を叩きつけている。涎を撒き散らし、ギャッギャと耳障りな笑い声を高らかに響かせながら、何度も何度もおばあちゃんを殴りつける。頭の中に、やめて、もうおばあちゃんをいじめないで、助けて、そんな思いがずっとぐるぐると回る。そんな数秒の間にも、緑の化け物の周りに赤い水溜りが広がっていく。
光景を受け入れられず、その場で座り込んでしまう。声も出せず、体も動かず、瞬きすらも忘れて、振り下ろされる木の棒を、剣を、広がる赤い液体を、頭の中が削られるような気色悪い笑い声を、なす術なく記憶として刻み続ける。
どれくらいそうしていただろう。赤い水溜りが広がらなくなり出すと、一匹の化け物の目線が、私へと向いた。時間が止まったかのように動けなくなっていた私の体が、その瞬間大きく震えて、突き動かされるように、化け物から、恐怖から、……おばあちゃんだったものから逃げた。今までにないくらい、全速力で。現実から目を背けるように、下を向いて。
気付けば、私は村の東端で脱出用の馬車の荷車に揺られていた。俯いたまま、ブレる視界で横目に周囲を見回す。ほとんどが子供で、女性や高齢者も乗っていた。見覚えのある宿屋の子もいる。泣いている子、呆然としている子、それを宥める大人の人。でも、この時の私には、周りの人なんてどうでも良かった。だって、亡くなっちゃったから。大好きな、本当に大好きな、大切な人を、おばあちゃんを失ったから。目の前で、何もできず、ただ命が果てていくのを見ていることしか出来なかったから。
私が西の森に行こうなんて言わなければ。私がもっと周囲に注意を払っていれば。私がもっと強ければ。私がもっと、もっと……後悔は、尽きなかった。
せめて、私が先に気付いていれば、一緒に逃げられたかもしれない。せめて、武器の一つでもあれば、助けが来るまで耐えられたかもしれない。せめて、せめて、せめて、責めて、責めて、責めて、責めて……。
フェルメリアに戻って、お母さんと弟と合流して、家に帰って。私は、一言も話さず、部屋に籠った。頭の中は、自分を責める言葉ばかり。体は、もう動かない。動きたくない。何かしたら、また大切な人を失うかもしれないから。もう、何もしたくない。もう、誰も失いたくない。もう……死んで、おばあちゃんのところに行って、おばあちゃんに謝りたい。
家に帰ってしばらくして、ミナが私の部屋にやってきた、らしい。後にお母さんから聞いたことで、この日から毎日会いに来てくれていたそうだ。だけど、私はそのことを全然認知せず、ほぼ寝ておらず、飲まず食わすで頭がぼーっとしている中、一切動かずに横になっているだけだった。
そのまま何日経ったか分からないけど、そろそろ死ぬんじゃないかと思い始めた頃、五月蠅いくらいの大声でミナが部屋に入ってきた。そして、開口一番散歩に行こうと言い出した。この時はさすがに認知していたけど、もうこのまま死んでしまいたいと思っていた私は、無視することにした。どうせミナじゃ、これ以上のことはできない、そう思ったから。
だけど、この日はいつもと違った。無視を決め込んだ私の肩に触れてきた。その瞬間、私の全身を貫くかのように恐怖が迸った。
「いやっ!」
私は、今までにないくらいの大声を出した。まあ、体の状態的に、出せてなかったかもしれないけど、そのくらいの感覚でミナを拒絶した。
壁にめり込みそうなくらい寄りかかって、恐怖で震える体を、これ以上なく縮こまるように抱きかかえた。乾燥して痛む目で、ミナを初めて、睨んだ。
ぼやける視界に映ったミナの顔は、とても悲しそうだった。でも、別によかった。このまま私から離れてくれれば、私はもう、辛い思いはしなくて済むから。そう思った。思ったのに、ミナは私に近付いて、抱き締めてきた。最後におばあちゃんに抱き締められた時とは違って、とても力強く、だけどおばあちゃんと同じで優しさにあふれていた。
「辛いよね、悲しいよね……あたしじゃ、イセリ―がどれだけ苦しいのか、分からない。けど……ううん、だから、教えて。全部受け止めるから。一緒に、背負うから」
ミナが、そう言った。その瞬間、私の中でずっと蟠っていた何かが、一気に決壊した。嗚咽が漏れて、乾き切ったと思っていた目から涙が溢れた。無意識にミナの背後に手を回し、抱き締め返していた。
「わた、私が、おばあちゃんを、死なせたの……っ。私のせい、で、おばあちゃん……私が、行っちゃいけないって、言われてた、森に、近づい……た、から……おば、ちゃ……」
「うん、うん……」
途切れ途切れに、何があったかを話す。上擦った声で、掠れた声で、ミナの服が涙と鼻水で汚れているのも気付けず、ミナの優しさに包まれながら、思いの丈を少しずつ、少しずつ零していく。全て語り終えた後も、涙が枯れた後も、私はミナの胸の中で泣き続け、気が付けば、眠りに落ちていた。
その次の日からも、ミナは毎日のように私の家に来るようになった。でも、ミナは今までのミナではなかった。明るく、元気で、ちょっと強引な、まるで以前の私のようになっていた。その理由はすぐに予想がついた。私を元気付けて、以前の元気な私に戻ってほしいから。多分、ミナを外に無理矢理連れ出した、いつかの私の真似をして私の心を開こうとしているのだと。
そのことはすぐに分かったけど、私の心に出来た傷はそう浅いものではなかったらしく、昔のように振舞おうとすると、どうしても胸の奥がざわついて頭の中が真っ白になり、呼吸すらも出来なくなってしまうほどだった。
だから、ミナのためにも早く元に戻りたかったけど、それは叶わなくて、結局長い間ミナを苦しめてしまうことになった。ミナは隠そうとしていたけど、私の見えないところで表と内の差異により生じた違和感から、何度も吐いたり、体調を崩したりしていたことを知っている。
冒険者学園に行こう、という提案を受けた後から、吐く回数が徐々に減っていくことに、少しずつ恐怖も感じていた。このまま、ミナはミナじゃなくなってしまうのではないか。そんな焦燥感に何度も駆り立てられたけど、それでも私は昔のように振舞うことは出来なかった。ただ、ミナが変わっていくことを、見ていることしか出来なかった。