赤い妖精
「……誰もいないな」
午前の座学、午後の鍛錬を終え、女子風呂の脱衣所に入る。他の生徒はほとんどが疲れてダウンしていたため、誰も入ってこないうちに先にお風呂を済ませておきたかったのだ。
入浴セットを手に、靴を脱いで脱衣所の中に入る。疲労で重たい体に鞭打ちながら進むと、洗面台の横に小さい鏡が一つあることに気付いた。サイズは三百×三百五十くらいだが、金属を磨いただけのものではなく、ガラスに金属をメッキしたもののようだ。反射の感じからして銀メッキか? 地球だと十九世紀の前半に銀鏡反応による銀メッキ鏡が作られるようになったが、この世界ではもう作られているのだろうか。
他の生徒が触れたのか、皮脂などで若干汚れてはいるものの、少し使う分には気にはならない。ふとあることに思い至り、周囲を今一度見回す。誰もいない。
「……仕方のないことだ。そう、これは、仕方のないこと」
そう言い聞かせて、ボクは目を閉じたまま身に着けている衣類を脱ぎ、下着姿になる。仕方のないこと、そう心の中で呟きながら、意を決して目を開ける。鏡には、昨日アトラさんに借りた下着を身に着けた、プロティアの上半身が映っていた。
ふんわりとして、少々ごわついてはいるものの長く綺麗な白髪。眉と目の間で切られた前髪の下には、長い睫毛にルビーと見紛う深紅の瞳を持つ、少し目尻の垂れた子犬のような大きく愛らしい目。日本人っぽさを感じるのは、その下の小ぶりな鼻のせいだろうか。唇は薄く、色も薄ピンクで可愛らしい。顔の輪郭は少し丸く、頬はマシュマロのように柔らかそうだ。というか、実際柔らかい。
分かってはいたことだが、鏡に映ったプロティアは本当に美少女だ。子供時代でこれなのだから、将来は芸能界に入っても難なく人気が出てしまうだろう。まあ、この世界に芸能界とかないし、もしやるとしたらアンソロジーとか二次創作とかそういった類でだろう。いや、そもそも一次創作どころか現実だし。創作ですらないし。
心の中でノリツッコミをしつつ、視線を鏡から下に向ける。一番に目に付くのは、スポーツブラに似た肌着に包まれた、男子のそれと相違ないなだらかな胸だ。まあ、まだ十歳なのだからこんなものだろう。カルミナは特異例だし、既に成長が始まっているアトラさんやイセリ―は個人差でしかない。きっとこれから大きくなるのだろう。ボクとしては邪魔だからこのままでも全然いいが。
その下は、割れてこそいないものの、一目で鍛えていると分かる細いウエストだ。くびれはくっきりと見て取れ、子供に多い寸胴体型とは似ても似つかない。更に下は、前世とは違い膨らみのない布面積が少ないパンツ、そして身長における割合を見れば、あと二、三十センチ身長が伸びれば美脚と称されそうな細い脚と続く。
こうしてまじまじと見てみると、プロティアの見た目はまさに女子の理想と言えそうな見た目をしている。くびれははっきりあるし、腕や脚は健康的に細く長い。お腹回りも全くたるんだりしていない。後五年くらいしたら、絶対モテるだろう見た目をしている。
「正直、男子にモテるのは避けたいけどな……」
苦笑いを浮かべつつ小声で本音を溢す。何せ、ボクは精神的には男なのだ。性的嗜好は普通に異性だったし、BLにも一切の興味がない。おとこの娘ならギリ許容出来るかもしれないが。
「でも、女子として振る舞う必要があるし、多少は覚悟しておくか……」
「男が女子に扮してる、なんてバレたら大変だものね」
「そうそう……――っ!?」
辺りを見回す。しかし、脱衣所には誰もおらず、気配も感じない。
「こっちよ、こっち」
声が聞こえた方に視線を向ける。洗面台の方に向くが、ボクは元々洗面台のすぐそばにいるから誰かがいるはずもない。焦りで唾を飲み込みながら右へ左へと顔を動かしていると、再び先程のソプラノボイスが聞こえてくる。
「下よ。鏡を見なさい」
言われるがまま、鏡に視線を向ける。
「初めまして、プロティア……いえ、ソラトさんと呼べばいいかしら?」
揶揄うように微笑みながらボクの名前を呼ぶのは、手のひらサイズの半透明の羽が生えた人、言うなれば妖精のような何かだ。妖精(仮)は上体を支えるように両手をついて、鏡のフレームに腰かけている。思色の髪に、黒を基調とした百合のようなドレスに身を包んでいる。蘇芳色の鋭い吊り目は怪しい灯りを孕み、不敵な笑みをよりいかがわしくさせている。
「出来ればプロティアでお願いしたいですね。それより、あなたは? 妖精か何かですか?」
「ご名答。私は妖精のピクシル。言ってしまえば、あなたの補助役ね」
ピクシーのピクシル……覚えやすい名前だなぁ。などと一瞬現実逃避をしたくなったが、ボクの正体を知っている以上どんな弊害を生むか分からない。ここは落ち着いて対処すべきだろう。
「補助役……っていうのは、どういう意味ですか?」
「意味も何も、文字通りよ。遠い昔に、あなたの家系にいずれ現れる転生者を手伝えって言われたのよ。だから、補助役」
「その手伝うように指示したのは、誰?」
「……さあ、教えないわ。守秘義務があるもの」
「……そんな命令をわざわざ聞く理由は?」
「行き場がないのよ、昔色々とやらかして妖精の集落を追い出されたから。それに、信頼してた人の頼みなのよ。だから聞いてあげてるの」
いくつか質問を投げてみたが、ますます怪しくなってくる。補助役という響きは惹かれるものがあるが、こればっかりは怪しすぎて頼っていいものか判断しかねる。
ただ、誰かが来る前にお風呂を済ませたいためあまり長引かせたくはない。早いところどうするか決めなければ。
「ボクとしては、正直なところ君は信用出来ない。転生したばっかりで色々と知りたいことは多いけど、信用できないのはいただけないかな」
「あらそう。じゃあ、あなたが本当は男であることを言い広めるしか……」
「ままま待った! 落ち着こう、落ち着いて話をしよう……!」
さすがにボクが男であることを言い広められるのはたまったもんじゃない。カルミナは案外受け入れて普通に接してくれるかもしれないが、イセリ―は対応が悪くなるかもしれないし、アトラさんに至っては首が飛びそうで想像もしたくない。
というか、もし学園にいる間に中身が男だとばれた場合、アトラさんに許されたとしてどうなるのだろうか。体自体は女子のものだから、さすがに男子として扱うということはないと思うが、純粋に女子として扱うということも難しいだろう。最悪、扱いに困ったということで退学させられるかもしれない。
「……ボクが男であることを黙っていてくれる条件は何?」
「難しいことじゃないわ。あんたのサポーターとして私を傍において……あとは、食事をちょっと分けてくれたらいいわ。存在を維持するのに必要だから」
「な、なるほど……」
そこだけを聞くと、悪い条件ではない。近くにいてもらって食事を分けたら、いくらでも情報や援助が得られるのだ。しかし、どれだけいい条件だろうと信用できないのでは傍に置いておくのは難しい。それに、情報の質なんかも気になるところだ。
「情報の質が気になるの?」
「んなっ」
思考を読んだ? それとも鎌をかけたのか?
「思考を読んだのよ。生物の思考ってのは、多かれ少なかれ放出される魔力に含まれるものなの。まあ、ほぼ全ての生物はそんな微細な魔力の変化は読み取れないけど、魔力からなる私達妖精は別。どんなに弱い思考でも、例外はあれど正確に読み取れるわ」
ということは、ピクシルの前ではどんな思考も筒抜けということか。味方に居れば心強いが、敵に回ったらおしまいな能力だ。どれだけ綿密な作戦を立てても、全てばれてしまうのだから。
「それで、情報の質だったわね。これでも私、四千年は優に超えて生きてるわ。妖精はあなた達肉体を持つ生物と違って、記憶を忘れることはないのよ。だから、情報の質はこの世界で随一と言って差し支えないわ。それに、さっきも言った通り妖精は魔力から成り立つ存在よ。魔法に関しては私に勝る存在はいない。どう? これでもまだ断る?」
……ここまでくると、断る理由がない。むしろ、何故これだけの存在がボクの補助役なんかに収まろうとするのか疑問なくらいだ。いっそのこと、ボクを下僕のように扱って自由にすることだって出来るだろうに。
「はぁ……私にそんな欲求があると思う? 四千年も生きてたら大抵のやりたいことはやり終わってるし、些細なことで感情が動くこともないわ。最近はずっとぶらついて時間を潰してたくらいだから、あんたのサポーターになるのは丁度いい暇潰しよ。人間と一緒にいると色々と面白いことが起こるのはこれまでの経験から分かってる事だし、あいつと同じ世界から来たのなら、それなりに楽しいことは確約されたようなものだもの」
「あいつ? やっぱり、この世界にはボクより前に転生者がいたの?」
「どちらかというと転移ね。と言っても、何千年も前の話よ。途中で行方不明になったし」
「そっか……」
そんなに前に転移した、ということは、ボクとは違う時代の人だろう。この世界と前世の世界がどれくらい時間の進みに差があるのか分からないから時代の差を計算出来ないが、少なくとも数世代や十数世代は違っていてもおかしくはないはずだ。
しかし、これでボクより前に同じ世界から来た人がいたことは確定した。英字のアルファベットの存在や、聞き覚えのある魔物の名前なんかもそれが原因なのだろう。それだけ前の世代が、現代の異世界テンプレを知っているのかという疑問は残るが。
「で、私をサポーターとして傍に置くのか、あんたが男であることをばら撒かれるか、どっちにするの?」
「その二択、ほとんど選択の余地ないだろ。強制というか、脅しもいいところだぞ」
「あら、じゃあ広めちゃおうかしら」
ニヤリと右の口角を上げ、目を細めたピクシルがすぅと深く息を吸う。
「分かった、分かったから! ボクとしても、君みたいな補助がいてくれるのはありがたい。これからよろしく、ピクシル」
握手が出来るのかは分からないが、とりあえず右手を差し出す。ピクシルは短く溜息を吐いて、二対の羽で浮かび上がりボクの右手の上に乗った。とても軽いが、重さがないわけではない。数百グラムくらいはありそうだ。
「よろしく、プロティア」
後ろで腕を組み、少し前傾姿勢になったピクシルが淡いな笑みを浮かべてそう返した。ありがたい存在になるのか、それとも悩みの種となるのか。今はまだ何とも言えないが、味方でいてくれるならこれ以上ない強みだろう。上手くやって行けるよう、頑張ろう。
「ふぇぶしっ!」
不意に鼻がムズムズして、盛大にクシャミをしてしまった。跳んだ唾液がピクシルへと向かうが、ピクシルは躱すこともなく直撃――したかと思ったが、唾液はそのまま通り抜けていった。その上、飛んでいる訳でもないのに重さも感じ無くなっている。
「さっきまで実体だったけど、今はあんたが見えるように魔法を使ってるの。あと、いつまでもそんな格好でいたら風邪引くわよ」
――誰のせいだと思ってんだこのチビは。
半目でピクシルを睨みながら、スっと右手を引いた。ピクシルはそんなこと気にも止めず、その場でホバリングするのだった。なんかムカつく。