フェルメウス7
一度僕から視線を離したアトラさんだったが、あっと何かを思い出したかのように再びこちらを向く。今度はくりっとした目はちゃんと開かれていて怖さは全くないが、常識が若干欠けているような感じのするアトラさんが何を言うのか、という別の怖さが湧いてくる。
「状況が状況でしたので訊きそびれて忘れていたのですが、プロティアさんが使っている『ボク』というのは何ですか? 文法から一人称というのは分かるのですが、一人称の多いフォーティラ語でも聞いたことのないものでしたので」
「……え?」
無意識に右手で肘を支えた左手を唇に触れながら、ここまでの会話を思い出してみる。確かに、僕は全ての会話でプロティアが使う一人称の私――発音は「ライ」らしい――ではなく、前世から使っていた僕を使っていた。この世界……というより、この国の公用語であるフォーティラ語は文法や発音が日本語とよく似ているためか、違和感なく使ってしまっていた。こんなの、完全に中の人が変わっていると教えているも同然じゃないか! そう思い至り、顔からサーっと血の気が引く感覚がした。
――な、なんとか言い訳しないと!
「こ、これは、えと……そう! 私ってみんな使うじゃないですか、ボクは平民ですし、カルミナやイセリ―みたいに特徴付ける要素がないので、誰も使っていない一人称を考えたんですよ!」
「……あなたほど特徴塗れの方も、そういないと思いますが」
これはミスったか、と乾いた笑みが零れる。転生者だということをどう説明したものか。せめて性別は偽っておかないと、一緒にお風呂に入ったことを追及されたら終わりだ。脳内をそんな思考が駆け巡る。これはまさに、転生した瞬間終わったわその三だ。一はホブ・ゴブリンに攻撃が通じなかったとき、二は牢屋に投獄されたと気付いた時だ。
「ですが、『ボク』という一人称の柔らかく、どこか力強さの感じる雰囲気はあなたによくお似合いだと思いますわ」
「あ、ありがとうございます……」
……追求されなかった。人生で一番盛大に溜息を吐きたい気分だが、ここは心の中だけでやるとしよう。はああああああぁぁぁー。
「話は済んだか」
フォギプトスの本意かは分からないが威圧を感じる問いかけに、アトラさんが平然と「はい」と答える。フォギプトスは了承の意を一度目を閉じるだけで示し、入口近くに立っているウェルシャに視線を向ける。
「ウェルシャ、二人に飲み物と菓子を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
深々と一礼をしたウェルシャが部屋から出て行く。しばらくの間沈黙が続き、気まずい空気が漂う。左側ではフォギプトスが背筋を伸ばしたままグラスに入ったワインを少量、口に含む。空気の重さを作り出している原因であろう威圧感は変わらず、重厚な雰囲気を出している。右側に視線を向けると、お菓子と聞いて嬉しいのか、アトラさんが先程までより口角を上げて、小さく左右に揺れていた。親子だからこの程度の沈黙は何ともないのかもしれないが、巻き込まれる側の身にもなって欲しい。早く帰ってきて、ウェルシャさん!
この空気に耐えるべく素数を数えて約五分、そろそろ覚えてないところに突入するから円周率にシフトするかと思っていたところに、ウェルシャが台車で、アニメのアフタヌーンティーなどのシーンでよく見かける、ハンティスタンドという名の何段かの台――今回は三段だ――にお菓子を乗せ、ワインが入ったグラス二つと共に部屋まで運んで来た。ハンティスタンドにはスコーンなどの焼き菓子や、リンゴのような果物が盛られている。
そういえば、プロティアはお酒を飲んだことがあるのだろうか? 中世では水の代わりに、ワインやエールのようなお酒を老若男女問わず飲んでいたはずだ。アトラさんも何も言わずお菓子に目を輝かせているし、ここでもそれは常識なようだ。ただ、プロティアの記憶を見る限り、お酒を飲んだことはないように思える。シンド村に住んでいた頃も、フェルメリアに移り住んでからも魔法で作った浄水を常飲している。
「……どうしよ」
折角出してもらったのだし、ここで飲まないのは失礼だろう。しかし、子供のうちからお酒を飲むのは現代知識のあるボクに言わせてもらえば御法度だ。出来れば避けたい。
「どうした、酒は苦手か?」
ワインを眺めて考え込んでいたボクを見て疑問にでも思ったのか、フォギプトスが聞いてくる。雰囲気のせいで極道なんかと間違えそうになるが、これでも領主なのだ。周りを見る能力には長けているのだろう。ボクとしてもこの質問はありがたかった。
「あ、えと、普段は魔法でお水を作って飲んでいるので、お酒は飲んだことなくて……それに、子供のうちはあまりお酒は飲まない方がいいって言われていて」
「ふむ、そういうことなら無理に飲まなくともよい。ウェルシャ、別のカップを持ってきてもらえるか」
「……あの、子供のうちからお酒は飲まない方がいいって、本当ですか?」
さっきまでウキウキで体を揺らしながら満面の笑みを浮かべていたアトラさんが、その笑顔を引きつらせて恐る恐るといった様子で手を上げる。こっちの世界でも意見を言うときは手を上げるのだろうか、という疑問はさておき、ボクが今プロティアであるということを前提で説明しなくてはいけない。そもそも、説明しようにも肝臓などのこの世界での言葉をプロティアが知らない以上、具体的には説明できないが。
上手い言い訳はないか、プロティアの記憶を辿ってみると、プロティアがお酒を飲まない理由が姉のユキナによりあまりよくないかも、と言われたかららしい。これを少し脚色して使わせてもらうことにする。
「お酒って、飲むとほとんどの人が普段と違う様子を見せるじゃないですか。ですので、もしかしたら体に良くない影響を及ぼすんじゃないかなぁ……と、姉が言っていました」
な、なるほど……と息を多めに含んだ声を溢したアトラさんが、上げた手を下ろしながら、引きつった笑顔のまま目の前のワインに目を落とす。浄水の技術がまだしっかりしていないだろうから、水ではなくお酒を飲むのは時代柄仕方ないが、今の話を聞いた以上アトラさんがお酒に拒否感を感じてしまうのは当然のことだろう。ここは、その拒否感を作ってしまったボクが責任を取らねばなるまい。
「あの、一緒にいるときだけになりますが、よければ今後はボクがお水を作りましょうか?」
「……頼んでもよろしいでしょうか?」
これまでお酒を飲んできたことでどんな影響があるのか、とでも想像したのか、若干涙目になりながらアトラさんが尋ねてくる。もちろん、断る理由などない。
「はい、任せてください」
「……ウェルシャ、二つだ」
「畏まりました」
今のやり取りから、アトラさんもお酒は飲まないだろうと判断したのか、フォギプトスがウェルシャへの指示を変更する。ワインの入ったグラスをボクとアトラさんの前から静かに取り、部屋の中から出て行く。今度も数分で帰ってきて、空のグラスを替わりに置いた。
ボクとアトラさんの前に一つずつ置かれた空のグラスに、魔法で空気中から集めた水分をまとめて入れる。水分だけを凝縮しているため、空気中の塵などが混ざることは、少なくとも作った直後には有り得ないため、十分に飲める水であろう。
少し高さのある位置から入れたため、溢れはしなかったものの右へ左へと揺れる水が落ち着くまでしばらく眺めていたアトラさんが、いざ尋常に勝負、とでも言わんばかりに覚悟を決めた顔でグラスを手に取る。ゆっくりとグラスを口に近付け、薄桃色の柔らかそうな唇に触れさせ、傾けて水を少量口に含む。グラスを口から離したアトラさんは、目を閉じて数秒間水を口の中に含んだまま動きを止める。そして、約十秒ほど経ってゴクリと飲み込んだ。
「ふぅ……なんと言いますか、あまり味はしませんね。不味くはありませんが、美味しいとも言い難い感じですわ」
「あはは、まあ、そうですね……」
空気中から作ったこともあり、ミネラルが一切含まれていないからだろう。現代では逆浸透膜を使ったRO水などという、ミネラルや不純物を一切含まないものもあるそうだが、それに近いものだと思う。水の味は含むミネラルの量や比率で決まるものだから、今ボクとアトラさんが持っている水は完全な無味無臭であろう。ミネラルを含まない水を飲み続けるのもあまり体に良くないらしいし、今後は地中の水を取り出して浄化する魔法でも開発してみようか。
アトラさんに続いて、ボクもグラスの中の水を口に含む。確かに、味は全くない。少しひんやりとした液体が口の中を潤し、喉の奥へと流れていくという感じだ。日本で綺麗なミネラルウォーターに慣れていた身としては、かなり物足りない感はある。
「プロティアよ、お前はどれくらい魔法が使えるのだ?」
「え? ええと……どうでしょう。エネルギー切れで使えなくなることはありますが、魔力切れは起こしたことがないと思います」
プロティアの記憶を見ても、今まで魔力切れという状態に陥ったことはなさそうだ。指導してくれていた冒険者から魔力切れの感覚を聞いたことがあるようだが、その時の説明は「体は全然動くけど、魔法を使おうとすると全身がズンって重くなる感じ」だそうだ。
対して、プロティアが魔法の使いすぎで経験した感覚は、どれも頭が回らなくなって、魔法を使おうとせずとも体が重くなる感覚だった。だから、聞いた話を信じるならば恐らく魔力切れではないのだろう。ファンタジー物でよく見る魔力切れやMP切れは、どちらかというとプロティアが経験したものと似ているようにも思うが、実際は魔力ではなく体内のエネルギーが切れているのかもしれない。まあ、魔法の原理が分からない以上なんとも言えないが。
「実質無限、ということか……どうだ、一つ提案なのだが、今すぐとは言わない、学園の卒業後にでもフェルメウス騎士団に入るというのは」
「え、あー……」
断れる訳がなかろう。相手はマジモンの上級貴族だし、なんならこっちは平民だし、そもそも陰キャに提案を断れるようなコミュ力などない!
「待ってくらふぁいおとうふぁま!」
「……飲み込んでから話せ」
焼き菓子を口いっぱいに頬張ったアトラさんが、地下牢に登場した時と同じセリフで、全く真剣味に欠ける滑舌でフォギプトスを呼び止める。リスのように膨らませた口をもごもごとしばらく動かし、ごくんと一気に飲み込む。初めより三分の一ほど減ったグラスの中の水をさらに半分ほど、今度は優雅に飲み、一度ふぅと息を溢してからフォギプトスに向き直る。口の端に食べかすがついているのはご愛嬌という奴だろう。
「プロティアさんは平民です。対して、お父様は侯爵……これだけの身分の差があっては、お父様にとっては提案だとしても、プロティアさんにとっては強制と大差ありませんわ」
あんたが言うかそれを、風呂でのこと思い出せ! という感情と、ありがとうアトラさん、助かった! というアンビバレンスな感情が入り混じり、複雑な気持ちになる。ただ、実際に助かったことは事実なので、ここは感謝しておくとしよう。ありがとうアトラさん!
「プロティアさんはどうお思いですか?」
両手で先端が欠けた焼き菓子を持ったまま、アトラさんがこちらに振り向いてフェルメウス騎士団に入る、という提案についての意見を求めてくる。ここまでお膳立てしてくれれば、さすがのボクでも多少の本心は話せる。
「お誘いは嬉しいのですが……この先、やりたいことがたくさんあるので、騎士団に入るのは出来ればお断りさせていただけるとありがたいです」
「そうか。そういうことなら無理には言わん」
水を一口含み、緊張ですぐに乾いてしまう口の中を潤す。短く息を吐いて、グラスを机の上に置く。視野の右端では、一仕事終えた、とばかりにアトラさんが食べかけだった焼き菓子を満足げに頬張っている。一口が大きいのか、今回もリスのように頬が膨れている。そういえば、昨日の夕食はそんなことなかったように思うが、もしかしたらお菓子を食べるときだけの癖なのだろうか。だとしたらなんとも可愛らしい。
「アトラよ。プロティアと二人で話がしたい。好きなだけ菓子を持って行っても構わん、席を外してくれ」
「……私には聞かせられない話、ということですか?」
「ああ」
今度はしっかりと口の中のものを飲み込んでから尋ねたアトラさんの質問に、フォギプトスが間髪入れることなく答える。アトラさんが少々口を尖らせているが、ウェルシャが用意した皿に菓子をいくつか取り分け、ウェルシャを従えて部屋から出て行った。それに続くように、フォギプトスの背後に立っていたメイドも部屋を後にする。




