フェルメウス6
それにしても、今思えば大変な目に遭ったものだ。上級貴族であるアトラさんと二人っきりでお風呂に入り、裸の付き合いをし、更には背中を流し、背中合わせでお湯に浸かっていたのだから。考えるだけで、湯船から出た今になって逆上せてしまいそうだ。
タオルで濡れた体や髪の水気を取り、バスタオルを体に巻いた状態で、僕は今脱衣所にてアトラさんの髪を魔法で乾かしている。方法はドライヤーと一緒だ、温風で水分を蒸発させる。
「髪を乾かしてくださり、ありがとうございます、プロティアさん。本当に、魔法って便利ですのね」
「あ、ああ、はい、どういたしまして……学園でも、言ってくれたらやりますよ」
「本当ですか? ぜひお願いします!」
声を弾ませながら、アトラさんがこっちを見て胸の前で手を合わせ、満面の笑みを浮かべる。まあ、喜んでくれるなら別にそのくらいはやぶさかではない。一緒にお風呂はしばらくはお断り願いたいものだが。
「いつもはどうやって乾かしてるんですか? アトラさんもボクと同じくらい長いですし、なかなか乾きませんよね」
「自然乾燥ですわ。一般的に魔法を一度に沢山使える人は、そう居ませんの。大抵はすぐに魔力切れを起こしてしまいますので。フェルメウス家にも魔法使いはいますが、皆有事に備え普段は使わず、温存しています。魔力切れを起こしては、命を危険に晒しますから。ですので、私も含め、我が家は皆自然乾燥です」
自然乾燥は髪や頭皮に宜しくないからあまりしない方がいいけど、この時代では仕方ないのだろう。ドライヤーどころか電気で動く機械などないのだから。魔道具はあるようだが、これもさっき言っていた有事に備えて魔力を温存するため、使えないのだろう。いずれ、魔法や魔力の仕組みを解明して、魔道具を使って誰でも好きなだけ魔法が使えるように出来るといいが。研究課題がひとつ増えてしまった。
実際、この世界の魔法や魔力というものはどういった存在なのだろうか。前世で読んでいた異世界ものでは、正直はっきりしないものが多かった。魔石や魔鉱石みたいに、石になっていた以上物質として存在しているだろう作品もあったし、よく分からない謎パワーや謎エネルギーみたいな作品もあった。
先の戦闘から、剣に魔力を纏わせられていた以上、この世界の魔力は物質である可能性が高い。しかし、それが地球でも既知の原子から成り立っているのか、それともこの世界特有のもので地球では存在し得ないものなのかまでは分からない。
それに、魔法の原理も全く想像つかない。魔力という一つの物質から、火や水、風、土、更には治癒や時空への干渉まで出来るらしいが、どのような原理でこんなに多様な現象を引き起こしているのか。謎だらけだ。これらもいずれ判明すればいいのだが、現時点ではどのように解析するかも見当がついていない。電子顕微鏡なんて便利なものはないし、僕が死んだ時代が百だとすれば、ゼロとは言わないが一や二からのスタートとも言えるかもしれない。
「プロティアさん、また考え事ですか?」
「……んぁ、すみません、どうかしましたか?」
これは魔王を倒せ、の方が楽なお願いだったかもなぁ、と辟易としていると、アトラさんが話しかけてきた。
「そろそろ乾いたと思うのですが、どうでしょうか?」
そう言われて、髪を梳くように指を生え際から先へと通してみると、確かに乾いてしまっていた。位置を調整しやすくするために魔法の出どころとして翳していた右手を下ろし、同時に魔法も止める。左手を全体的に沿わせて、乾き切っていないところがないか確認する。
「うん、乾いたな」
無意識に、ほとんど音にもならない、口を動かしているだけのようにも見えるくらい小声で呟く。まだ季節柄、朝夕は冷えるため、乾き残しがないよう手で髪を梳いてしっかりと確認する。頭皮から毛先まで、濡れているところは無さそうだ。
「なんだか、頭を撫でられているみたいで、嬉しいですわ」
「え、そ、そですか?」
「ええ。あまり経験がないので、くすぐったくもありますが」
昔妹に髪を乾かしてやったあと、頭撫でて―とよくせがまれていたせいだろうか、撫でながら乾き残しを確認することが癖として残っていたのかもしれない。悪いことをしてしまったかな、と心配になったが、可愛らしく歳相応にはにかむアトラさんを見て杞憂かな、と思い直す。
先に着替えてきますね、と言って脱衣所に用意されていた着替えの下に駆け寄っていくアトラさんを尻目に、紐でまとめていた髪を下ろして自分の髪も魔法で温風を作って乾かしていく。さっきまでアトラさんが座っていた椅子に腰かけ、風の位置や向きは何となくで調整する。前世でも実際にこのくらいの長さの髪の女子を見たことがある。僕は魔法で楽しているが、その女性達はドライヤーで十分近くかけて乾かしていると思うと、よくやるもんだと思うと同時に尊敬する。
「……何してるんですか?」
紺色の所々にフリルが施されたワンピースに包まれたアトラさんが、いつの間にか横に立って髪を乾かしている僕を眺めていた。ほう、と呟きながら、中腰になって魔法で作る温風で靡く白髪を見つめている。
「いえ、魔法はこのように手を翳さなくても使えるんですね」
アトラさんが、右手をさっきまで僕がしていたように頭上でうろうろとさせる。その様子が可愛い上に少し面白く、噴き出してしまいそうになるのを堪えながら説明する。
「ああ、それは位置の調整がしやすいからしていたんですよ。自分でするには、見えないし腕も疲れるので、イメージだけでやる方が楽なんです」
そう説明すると、なるほどと呟いてから右手を膝について上下左右に振れる髪を静かに見つめる。やりにくいなー、そう思うが、ここで文句を言えるほどの勇気は僕にはない。あと数分の我慢と自分に言い聞かせて、アトラさんから視線を逸らして魔法に集中する。
五分ほど魔法の強さや位置を変えていると、手で触った感じ髪は完全に乾いていた。やっとアトラさんの観察地獄から抜け出せられる、と心の中で安堵する。魔法を消滅させて、巻いているタオルが緩んでいないことを確認してから、椅子から立ち上がる。
「乾いたので着替えてきますね」
アトラさんにそう告げて脱衣所の端にある籠に近寄り、僕にも同様に用意されていた着替えを手に取る。薄ピンクの上下セットの肌着に、純白のアトラさんが着ているものと同系統のワンピースだ。まさかとは思うが、この肌着はアトラさんのものだろうか。新品ならまだしも、もし普段使いしているものだとしたら本当に使っていいのだろうか。
「先日新しく買ったものですので、どうぞお気になさらずお使いになってください。もし気に入ったのなら、差し上げますよ」
「あ、そうなんですね。じゃあ、使わせてもらいます……いただくのは申し訳ないので、洗って返却しますね」
背後から話しかけてきたアトラさんに返答すると、そうですか、と笑みを浮かべる。アトラさんに背を向けたままショーツに足を通し、体に巻いていたタオルを床に落として、形状はスポブラに似た上の肌着を身に着ける。ブラを身に着けるのは、男として抵抗はあるものの、プロティアの感度を考えれば着けないでいることは自殺行為だと思い至り、覚悟を決める。
中世ヨーロッパの肌着って地球ではどうだったっけ、と思い出してみるが、少なくとも今着ているようなものではなかった気がする。パッと思い出せたのはカボチャパンツなどと呼ばれるドロワーズだが、女性はドレスの下はノーパンだったなどの記述にも見覚えがある。そう考えると、この世界は中世ヨーロッパよりは下着の開発は進んでいるのかもしれない。素材も綿だし。
トランクスを愛用していた前世に比べて圧倒的に布面積の少ないショーツと、精神的には初めて身に着けるブラの締め付けに違和感を感じるが、こればっかりは女性として生きる以上慣れるしかない。我慢しつつワンピースを頭から被る。ネックホールから頭を出して、まとめて持っていたウエストから下を手を離して重力に任せて下ろし、袖に腕を通す。服の中に取り残された後ろ髪を、項と髪の間に両手を入れて上に持ち上げるようにして外に出す。
「似合ってますわよ」
「あ、ありがとうございます」
褒められたことに素直にお礼を返し、自分の立ち姿を見下ろす。汚れ、皺ひとつない純白の、長袖で足首近くまで丈のあるワンピースは、同等以上に白い髪と調和している。眩しいくらいに真っ白なものだから、僕はホワイトホールか、と突っ込みを入れる。心の中で。
「では、お父様が待っているので移動しましょうか」
「あ、はい」
脱衣所を出て行くアトラさんの後を駆け足で追いかけ、入り口で少し遅れてブーツを履き終えてから、斜め後ろに位置取って、歩くアトラさんに速度を合わせつつ進む。木造の床を踏みしめつつ、視線だけを動かして白い石造りの壁や天井を見ながら、前を揺れる紺色のスカートと金色のウェーブのかかった髪に付いて行く。
しばらくフェルメウス家の居宅を観察しながら進んでいると、二つほど先の扉の前に一人、黒いワンピースの上に白い僅かに装飾の施されたエプロンを着た、クラシックなメイド服と思われる服装をした女性が立っていた。僕とアトラさんが近付くと、背筋を伸ばしたまま腰から深く頭を下げて礼をする。
「中で旦那様がお待ちです」
「ありがとうございます、ウェルシャさん」
頭を下げたまま、左手を扉を指すように向けて、僕達が入りやすいように横に除ける。ゴスロリなメイドは昔秋葉原に行ったときに見たことがあるが、こういった本物のメイドを見たのは初めてだったので、表情に出ないよう気を付けつつ、おぉ……とちょっとした感動を覚える。
入りましょう、そう言って中に入るアトラさんのお陰で正気に戻り、ウェルシャさんと呼ばれたメイドに一礼してから、アトラさんに続いてワインレッドのカーペットが敷かれた部屋の中に入る。
「……来たか、アトラ、プロティア」
羊皮紙を見ながら頭を抱えていたフォギプトスが僕とアトラさんを迎える。眉間には先程地下牢で見た時よりも皺が寄っており、あの羊皮紙に書かれている内容が彼にとってあまり喜ばしくないものであることを物語っている。気にはなるが、巻き込まれたくないので触れないでおこう。
「お父様、それは?」
「何、お前には関係ない事だ。気にしなくとも良い」
「そう言われても気になります」
「……壊れた防壁と西門の修繕費だ」
唇を尖らせたアトラさんに押し切られ、フォギプトスが答える。昨日の記憶を思い出してみるが、確かにかなり盛大に破壊されていた。あれを直そうと思ったら、かなりの費用が必要になることは一目瞭然だ。頑張れ、領主様。
ゴブリンが攻めてきたことを知らないのか、アトラさんは眉をハの字にして首を傾げている。説明するつもりはない、この話はここまでだ、とでも言わんばかりに、フォギプトスは手に持っていた羊皮紙を背後に控えていたウェルシャとは別のメイドに渡す。羊皮紙を受け取ったメイドは、一礼してから部屋を出て行った。
「二人とも、座りたまえ」
アトラさんは何を隠しているんだとでも訝しんでいるのか、怪訝そうな表情を浮かべているが、机の傍らに置かれた赤ワインを注がれたワイングラスを手に取り、数度小さく回してから口に運ぶフォギプトスを見て追及は諦めて奥の椅子に座る。これは僕に追及のタゲが回ってくるんじゃないか、やめてくれよ。そう思うが、恐らく逃れられないだろう。僕も諦めて、三つの椅子のうち空いている手前の椅子を引いて座る。
「さて……プロティア、先にも言ったが、もう一度言っておこう。今回の件、町と人的被害を最小限に抑えたことを感謝すると同時に、冤罪を掛けたことを謝罪する。これについての褒賞金と謝礼金は、用意出来次第君に贈与する」
フォギプトスが椅子から立ち上がり、一度深く頭を下げる。地下牢でも見た光景だが、上級貴族が頭を下げるという光景は、恐らく何度見ても慣れることはないだろうを。
「あ、えと、その……今回のことはボクが勝手にやったことですし、冤罪も領主様が危険を排除する為のことだと思いますし……」
「受け入れてもらえているなら、ありがたい。金額については冒険者ギルドの相場と照らし合わせ、こちらで決めさせてもらうが、構わないか?」
「あ、はい、もらえるだけでありがたいので」
壊れた防壁や西門の修繕もあるだろうし、そう多くはもらえないかもしれないが、今のところお金には困っていなさそうなので少しでももらえるなら十分だ。
表情は読み取りにくいが、少し安堵のような雰囲気を醸しながら着席するフォギプトスを尻目にアトラさんを見ると、状況が理解できないことを快く思っていないのか半目で僕を見つめていた。唇を尖らせていることで緩和されているが、顔が整っているためにちょっと怖い。後で話しますので……と視線で送ったのが伝わったのかは分からないが、短く息を吐いていつもの愛想のよい微笑を浮かべた表情に戻る。フェルメウス家に来てから幾度目かの安堵の溜息を心の中で零す。