フェルメウス4
シュルシュル、と衣擦れの音が背後から聞こえてくる。僕は今着ている学園の制服の前ボタンに触れたまま硬直しつつ、後ろにある気配に意識を向ける。
「んっ……ふぅ」
少し色っぽい声に、肩がビクッと跳ねる。心臓の音は、かれこれ十数分間高鳴りっぱなしだ。
僕は今、フェルメウス家の脱衣所にいる。背後にいるのは、言うまでもなくアトラさんだ。
冤罪を認められ、牢屋から出た僕は、この屋敷の家主であり街の領主、そしてアトラさんの実の父親であるフォギプトス・フェルメウスにより、二人でお風呂に入ってくるように言われた。アトラさんが学園からここまで走って来たらしく、汗をかいていたことと、僕が昨夜の戦闘からそのままだったため、そのように配慮してくれたのだろう。
だが、僕にとってその配慮は、少なからずありがたくないものだった。何せ、僕は数時間前まで成人男性だったのだ。碌に女性経験もないまま死んだ以上、相手は十歳とはいえ女性と裸の付き合いをするなど、性欲的には問題なくとも、精神的にもたない。しかも相手は貴族だ、何か間違いがあれば首を撥ねられる可能性だって大いにある。
断って別々に入るようにするか? とはいえ、この状況は配慮の上でのことだ。どんな形であれ、断れば失礼に当たるだろう。それにお湯はフェルメウス家の人が入れてくれた以上、冷めてしまうなどして無駄には出来ない。というか、ここで断れるなら陰キャなどやっとらん。どこぞのヒーローもそう言っていた。やはりここは、魔法でなんとかするしか……そう思い悩んでいたためか、僕は背後に気配が近寄っていることに気付けなかった。
「いつまでそうしているのですか?」
「んぃ──────ッ!?」
少し弾んだ声音が鼓膜を揺らした直後、背筋と脳内に電流が走るかのような感覚が伝い、言葉にならない悲鳴をあげる。
なんだ、今の……ゾワゾワというか、ゾクゾクというか、形容し難い感覚がしたぞ。というか、具体的に例を出すならばエクスタシーのような快感……?
未だ視界がパチパチ弾けるような感覚が残る中、僅かに残った冷静な思考を先程の刺激が何かを理解するために総動員する。感覚から察するに、恐らく僕は悪戯の定番である背中に指を伝わらせるというやつをされたのだろう。昔、妹にされたことがあるので、どのようなものかはなんとなくだが覚えている。感覚としては、ゾワゾワという悪寒と、ふわっという浮遊感のようなものが同時に来る。だが、先ほどの感覚はそれを数倍、ことによっては数十倍にしたのではないかと思えるほどのものだった。
体中の力が抜け、その場に蹲る。少しずつ息を整えていき、冷静さが徐々に平時へと戻っていく。
女子というものはこんなに敏感なものなのだろうか。いや、服の上から背中をなぞられただけで立っていられなくなるほど敏感なのは、それこそエロゲの世界や何らかの特異体質でしかありえないだろう。
「その、大丈夫ですか? すみません、その、凄く集中していらしたので、少し悪戯をしてみたくなってしまい……プロティアさん、とても敏感なのですね。私もお姉様に何度もされているので、どのような感覚がするかは知っていますが、あのような反応をなさるとは思いませんでしたわ」
視線を合わせるようにアトラさんがしゃがみこんで言う。何も身に着けていないため、色々と見えてしまいそうなのを視線を逸らして見ないようにしつつ、今の言葉を吟味する。アトラさんがこの世界において平均的な敏感さだとすれば、プロティアの体は人より数段敏感だということになる。魔物の襲撃を察知する能力はありがたいが、人より感度が高いという体質は、この世界の文明を進歩させるという僕の使命において、一つもメリットが思い浮かばない。体を売って金を稼げとでもいうのだろうか。お断りだ。
やるつもりは微塵もないが、もし胸や下腹部を触ろうものなら、どうなるのだろうか。長らく鳴りを潜めていた僕の性的好奇心が、トランス・セクシャルというありえない状況に陥ったことによって復活してしまう。いくら魔法の才に恵まれ、剣士としても十分な実力を持っていても、先程のような些細な刺激で戦闘不能になってしまってはたまったもんではない。もし最初から性的な目的で狙われて反応に遅れでもしたら、僕は成す術なくいいように扱われてしまうではないか。
「……対策を練らないと」
アトラさんに聞こえたかは分からないが、小さい声で呟く。しかし、対策と言っても体質を変えるなど容易なことではない。考えられる手立てとしては、前もって危険を察知するという予防形式くらいだろう。その察知方法はプロティアの索敵を使えるようになれば問題ないだろう……僕に使えるのか分からないが。
「へくちっ」
隣から可愛らしいくしゃみが聞こえてくる。アトラさんはズズっと鼻を啜り、ブルっと一度体を震わせて熱を作ろうと手で二の腕を擦る。いい加減お風呂に入らねば、このままではアトラさんが風邪を引いてしまいそうだ。ここは、精神的には大人の男として覚悟を決めよう。体もだいぶ元の感覚に戻ってきたことだし。
少しふらつきながらも立ち上がり、制服の前ボタンを外していく。全て外し終え、ポロシャツと似た上着を脱ぐ。スカートも留め具を外し、足元へと落とす。これで、ブラとショーツという下着だけの姿となった。ここで、次の躊躇ポイントがやってくる。僕は、プロティアの裸を見てもいいのだろうか。
TSには、二つのパターンがある。一つは、何らかの外的要因で、本人の体が異性へと変化してしまうものだ。こちらはまあ、元は自分の体なのだから、何をしようと問題はないため、踏み止まる理由は異性の体という未知の体験くらいだろう。対して、もう一つは今僕が直面している状況、全くの他者である異性になるというものだ。この場合、体は自分のものではないため、トイレとか、お風呂とか、言ってしまえば秘部や裸を見たり触ったりしてもいいのか、という議題が生じる。
すぐに、それこそ数時間や数日で元に戻れるのなら、まあトイレはともかく、お風呂はいいだろう。だが、僕の場合は元に戻れるか定かではなく、何なら死ぬまでプロティアとして生きる必要があるかもしれないのだ。つまり、裸を見て、触るのは仕方のないこと。
再び覚悟を決めて、目を閉じてスポーツブラに似た肌着を脱ぎ去る。そして、勢いそのままショーツも下ろす。意を決して目を開けて、自分の体を見下ろす。なだらかな胸部、歳の割に引き締まってはいるがまだくびれはほぼない腹部と続き、前世では息子のあった部分が何もないことも確認する。かなり躊躇っていたが、いざ見てみると十歳の少女ということもあり、何の問題もなかった。平均的ではないが、子供の体の範囲内だ。
ビビりすぎか、と内心安堵しながら、脱いだ服を脱衣所の入り口近くにある目の前の籠に入れる。フェルメウス家の使用人が洗濯してくれると移動中に言っていたため、次袖に手を通すときにはこの土や血で汚れた服も、ある程度綺麗になっているだろう。
「では、入りましょうか。髪はこちらで結わえてくださいませ」
そう言ってアトラさんが紐を渡してくる。一方の端が輪を作るように縫われており、もう片方の端をここに通して引っ張ることで縛る仕組みのようだ。使いやすいように考えられて作られてるな、とは思うが、前世では一般的に使われていたゴムという便利なものは、まだないそうだ。そのうちゴムの木を探して作るとしよう。
紐を受け取り、アトラさんを真似て左腕に巻き付けてから、先に風呂場へと向かい始めたアトラさんの斜め後ろに駆け寄る。真後ろからだとお尻を見てしまいそうで、申し訳ないし。
歩く速度を合わせつつ、横目でアトラさんの横顔を眺める。金髪碧眼ということでどことなく欧州のような雰囲気はあるのだが、輪郭や顔立ちに関しては一概にそうとは言えない。目の周りはどちらかというとアジア寄りだろうか。眉と目の間が開いており、眉の部分の骨が出っ張ってもいない。ただ、鼻が高く堀が深いところは欧州の方らしくもある。輪郭はどちらかというと丸く、こちらはアジアの方が近いだろうか。
どちらが近いかと言われると、微妙なラインだな……そんなことを考えていると、視線を感じたのかアトラさんがこちらに顔を向けて、眉をハの字に下げて微笑を浮かべる。
「どうかしましたか? 私の顔に、何かついていますの?」
「あ、いえ……綺麗なお顔だな、と眺めていました。すみません」
本心を述べつつ、ほぼ反射的に謝罪をする。
「……謝ることはありませんわ。ありがとうございます。ですが、そういうプロティアさんは私よりも可愛らしくありましてよ?」
「うえぇ……? そうですか?」
褒められたことに少し照れたのか、まだお風呂の熱さに当てられたわけでもないのに少し顔を赤くしたアトラさんが、仕返しとばかりに目を細め口角を上げて言い返してくる。
アトラさんは可愛さと綺麗さどちらも併せ持っているように思える。対してプロティアは……と、昨日初めてプロティアと話した時や、今朝の精神世界でのことを思い起こす。確かに、言われてみればプロティアはどちらかというとアジア――というか日本人に近い顔立ちで、童顔だ。目鼻立ちははっきりしているのだが、全体的に小ぶりだからそう感じるのだろう。まだ実物を見ていないから断言は出来ないが、プロティアは僕が知っている人の中でもトップクラスに可愛いかもしれない。
「……アトラさんより、という部分は否定しますが、可愛いという点に関しては同意します。ありがとうございます」
「あら、自分で自分を可愛いというほどに自信があるのですね」
僕の場合は完全に客観的な意見なんだけどね。そう思いつつ、自分の見た目に自信がありそうなアトラさんに先程の仕返しの仕返しとばかりに言い返してみる。
「そういうアトラさんも、自信あるでしょう?」
「ええ。貴族たるもの、己の見た目に自信なくしてやっていけませんわ」
二人顔を見合わせて、ふふっと笑みを溢す。ああ、こうして誰かとふざけた言い合いをしたり、笑い合ったりするのはいつぶりだろうか。こんなやり取りをできる人が、何人いただろうか。それこそ、幼かった頃の妹くらいではないだろうか。アトラさんは、人の感情を読み取る力が強いのか、こちらの様子に合わせた返答をしてくれる。それに、友達という近しい距離感だからこそ、話しやすさがある。生涯を通して友達がいなかったに等しい僕にとっては、まだ距離感を掴み切れてはいないものの、家族以外で初めて笑い合える相手が出来たのかもしれない。プロティアの友達が、アトラさんでよかった。
浴室に繋がる木製の扉を押して開け、中に入っていくアトラさんの斜め後ろをついていきながら、そんな感慨に耽る。
物思いから現実へと意識を戻し、浴室の中を見渡す。
「おぉ……」
流石上級貴族の住居のお風呂と言うべきか、旅館の大浴場には及ばないが、町のそれなりの規模の温浴施設の浴場と大差ないほどの広さがある。扉の近くは横長の足場となっており、日本の温泉のようにシャワーはない。恐らく、まだそこまでの技術がないのだろう。だが、足場を三、四歩進んだところには既にお湯が張られており、その広さは百平米近くあるかもしれない。
足場から湯船まで、すべてが大理石で作られており、もっと強い光源があれば反射で目がやられてしまいそうなほどに白い。湯船に近づいて、お湯に手を浸けてみる。特に変哲のないお湯のようで、温泉ではなさそうだ。
「広いでしょう? 学園のお風呂よりも広いんですのよ。こんなに広くても、一度に入るのは数人で、ただお湯を作る方々が大変なだけですのにね」
「魔法で入れているんですか?」
「いえ、魔道具ですわ。あれを使いますの」
そう言って、いつの間にか桶を二つ重ねて持っていたアトラさんが、僕達が立っている方の壁の下の方、ほぼ中央にあるダイヤモンドの指輪を思い起こさせる形状の石の嵌った装置を指さす。そこに二人で近寄り、屈んで覗き込んでみる。石の中には円の内外に文字や幾何学図形などで成り立った文様が描かれており、装置は地下に繋がっているように見える。
「数人がかりでこの石に魔力を流し込み、地下に貯めている水を温めて湯船に移していますの。私は魔法が使えませんので、その苦労は計り知れませんわ。少なくとも、この業務を終えた方々は、いつもぐったりとしているところを見ています」
「なるほど」
いくつもの魔法を組み合わせる、なんて高度なことはせず、魔道具に魔力を流すだけで作業を終わらせているのか。規模によっては効率的かもしれないが、このサイズとなるとただただ大変というアトラさんの意見に賛同だ。僕だって出来れば、魔法でこのサイズの湯船をお湯で満たすなんてことはしたくない。
「では、髪と体を洗ってから入りましょうか」
そう言って渡してくる桶を一つ受け取る。その中には、乳白色の石鹸が一つ入っている。どうするのかとアトラさんを見ていると、溢れそうなくらいにお湯が入った湯船に近寄り、桶の中の石鹸を横に置く。桶にお湯を掬い入れ、肩からかける。そうやって全身を濡らすと、桶を置いて椅子代わりにし、石鹸を左手に取り右手を擦り付け、再び石鹸を置いて両手を擦って泡立たせる。そして、ある程度泡立ったところで手でそのまま体を擦り始めた。
「……素手なのか」
「? プロティアさんはいつも、どうやって洗っているのですか?」
やばい、聞こえてた、と思うも既に遅く、慌てて記憶の中のプロティアの入浴シーンを――申し訳ないと思いながらも――思い出す。泡立った髪の毛を尖らせて遊んだり、泡のついた手を重ねてから円を作ってそこに出来た薄い石鹸の膜に息を吹きかけてどれだけ膨らませるか試したりしている、いかにも子供らしい記憶がいくつも思い浮かぶが、どれも素手で洗っている。ここで「素手ですね」とだけ答えたら、さっきの独り言は何だったのか怪しまれるかもしれない。アトラさんに疑われないよう何か言い訳を考えなくては。
「えと、素手ですね。アトラさんは貴族なので、家ではもっとこう、へち……じゃなくて、ふわふわで泡立ちのいい道具でも使ってるものと思ってたので」
一秒にも満たないくらいの速さで言い訳を考え、アトラさんの質問に答える。ヘチマと言いそうになったが、こっちの世界にあるか分からないし、そもそもヘチマは日本語なのだから伝わるはずがないため堪えた。
アトラさんは僕の返答に、左腕だけ泡に塗れたまま動きを止め、「なるほど」と小さく呟きながら丸くしていた目を少し細める。視線を僕から外し、左手で右腕を擦り始めて数秒してから、続きが返ってくる。
「そのような道具があれば便利なのですが……世の中、そうなんでも便利に、とはいきませんわね」
「……そのうち作られると思いますよ。人間って、便利のためなら魔法なしで魔法みたいなものも作っちゃうので……多分」
実際、地球でも蒸気機関だの宇宙船だのインターネットだの、作られるまでは恐らく夢物語で魔法のようなものだっただろう。だが、僕が死ぬまでにそれらは人間の手によって開発され、さらに便利になっている。この世界の人も地球人と同じく「楽したい」という本質を持っているのなら、いずれはスポンジくらいすぐに作られるだろう。……文明を進めてくれという神からの頼みの意味を無視すれば。
とはいえ、アトラさんはそんな世界のことは知らないのだ、変に思われないためにもお茶を濁しておくことにする。異世界人だと、男だとばれでもしたら大変なことになるからな。
いつまでも突っ立っていてはおかしいので、アトラさんに倣って桶に溜めたお湯で全身を濡らし、桶椅子に座って泡を作る。いざ腕から綺麗にしよう、と思ったところで、隣のアトラさんが「あっ」と声を出したため、体を洗うというTSにおける階層ボスに挑もうと集中していたせいで、肩がビクッと跳ねあがる。何事かと視線を横に向けると、目をキラキラと輝かせたアトラさんがこちらを見ていた。
「な、なんでしょう」
「プロティアさん、私の背中を流してくれません事?」
「はい!?」
唐突な提案に、裏返った声が出る。急に、なんで、何がどうしてこうなった、と頭の中をクエスチョンマークが飛び交い、状況の理解がまだ出来ないでいる。
「友達はお風呂で背中を流し合うものだと聞いています! 本当は私がプロティアさんのお背中を流したいところですが、先程のようになっては大変ですので、お願いしてもよろしいでしょうか?」
アトラさんがプロティアの友達でよかった、僕はさっきそう思った。前言撤回だ。アトラさんは友達に対して知識が偏ってるから、今後苦労する気しかしねえ。ここは断ろう。アトラさんの柔肌を素手で洗うなど不敬通り越して死刑だ。うん、断ろう。
少し落ち着いた頭でそう決意し、目を閉じて体ごとアトラさんの方に向く。そして、言うぞ、と心の中で何度も唱えてから、息を大きく吸い、目を勢い良く開けて口を開く。
「あっ……」
目を開けた瞬間、視界にアトラさんの見開かれたクリっとした瞳がキラキラと輝いているのが見える。何も言えないでいると、視界の端でアトラさんの肘から泡の塊が一つ足元へと落ちた。
「……喜んで」
ここで断れる勇気があるなら、前世で最初から友達作って楽しくやれてたよこんちくしょう。