フェルメウス3
突如フェルメウス家の地下牢に現れたアトラさんの声の残響が、しばらくの間鼓膜を揺らす。僕の頭の中には、なぜアトラさんが? 今日は授業あるし、そろそろ始まる頃では? アトラさんが授業をサボるなんてあり得るか? などの疑問がいくつも浮かぶ。もちろん、僕とアトラさんは一方的に初対面だが、上級貴族かつ領主の娘、そしてプロティアの記憶を頼りに考えたら、アトラさんが授業をサボるなんてことはないだろうと結論付く。ゆえに、今の状況に僕はかなり混乱している。
鉄格子の向こうにいるフォギプトスも僕と同じく動揺しているが、その理由としては別のようだ。左手で目を覆いながら、「どうして私の家族はこうも……」と嘆くように、すぐそばの僕ですら聞き取れるか怪しいくらいの小声で呟いた。一度盛大に溜息を溢したかと思うと、左手を下ろして視線をアトラさんへと向けた。既に先ほどまでの鋭い目つきに戻っている。
「アトラ、なぜここにいる? そろそろ授業が始まる頃合いだろう」
フォギプトスが問いかける。質問が投げかけられて、一分ほどアトラさんは息を整えていたが、整うと同時にスッと直立し父と向かい合う。数秒見つめ合ったかと思うと、アトラさんはゆっくりとこちらへ歩みを進め、フォギプトスの一メートルほど手前で静止し、頭二つ分近く上にある鋭い目に怯むことなく視線を合わせる。
「大切な友達が家族により投獄されたと聞いたので、駆け付けました。お父様、プロティアさんがお金や名声欲しさに魔物を誘き寄せたと疑っているそうですが、私はそのようなこと、あり得ないと断言しますわ」
アトラさんが姿を見せた時と異なり、はっきりとした通る声で告げる。そう言ってくれることは嬉しいが、何を根拠にしているのか分からない以上、無邪気に喜んではいられない。この後の流れ次第では、僕が話そうとした能力の話を切り出せなくなる可能性もある。
「ほう、断言か。理由を言ってみろ」
フォギプトスの目が細くなり、上から見下ろすように実の娘であるアトラさんを睨む。実際に向けられているのはアトラさんだが、隣から見ている僕でさえ意識していなければ一歩後退ってしまいそうな威圧感だ。この圧力を真正面から受けながら、アトラさんは一歩も引かないどころか、大きな吊り目を先程よりも細めて睨み返している。家族だから慣れているとか、貴族として様々な環境に身を置いてきたから問題ないとか、理由はいくつか考えられるが、そんなものは抜きにしてアトラさんの胆力に僕は感心した。
「分かりました……プロティアさんが優しい方だからです。昨日一日、私はプロティアさんと共に過ごしましたが、その中で何度も優しさに触れました。そのような方が、お金や名声のために人命を危険に晒すとは思えません」
それは無理があるよ、アトラさん……。まるで子供のような論理展開に、少し呆れてしまう。まるでも何も、アトラさんはまだ十歳の子供であることに違いはないから仕方ないのだが。
「それはお前の感想だろう。なんの根拠にもならん」
なんだろう、そんな感じで論破する人いたな、などと思いながら、どうやってプロティアの能力の話を切り出すかを考える。アトラさんが言い返されても怯んでいない様子を見るに、恐らくまだ何かあるのだろう。それによってもし何かマイナスに触れるようなことがあってはたまったもんじゃないが、かといって貴族親子のやり取りに介入していいものか、貴族制度など既に廃れていた日本から来た僕には分からない。
どうしよう……と右手で肘を支えた左手で唇に触れながら考えていると、アトラさんが再び口を開いた。次の根拠が出てくるようだ。
「では、プロティアさんがシンド村で生まれ育ったということはどうでしょう」
「あれ、そのこと、話しましたっけ?」
あ、と思ったころには遅い。プロティアの記憶にも話した覚えがなかったため、つい気になって聞いてしまっていた。僕の発言に反応した二人が、視線をこちらに向ける。
「いえ、あなたの口からは聞いていませんわ。ただ、何度か訪れる機会があったので、その時にあなたを見かけましたの」
「な、なるほど」
確かに、この見た目だ。それに、シンド村に住んでいたころは手伝いが済んだ後はよく宿の前の切り株に座ってのんびりしていたようだし、かなり目立っていただろう。アトラさんが見かけていても不思議ではない。
僕の疑問には答えたため、一度お辞儀でもするかのように目を伏せてから、再びフォギプトスの方へ向く。そのフォギプトスも、僕の方から視線を外して、アトラさんと向かい合う。
「シンド村は三年前、ゴブリンによる襲撃で沢山の人が亡くなり、逃げられた子供や女性も生まれ育った場所を追いやられることとなりました。プロティアさんも、この件の被害者です。辛い過去を再現するかのようなことを、するとは思えません」
「普通の感性を持っているならな。残念だが、世の中には辛い記憶よりも金や名声を優先する者がいることも事実だ。それに、そのことは既にプロティアが告げている。根拠にはなり得ないだろう」
フォギプトスが言い終わると、アトラさんは眉間にしわを寄せ、歯を食いしばる。これなら十分根拠になり得ると思っていたのだろう。しかし、やはり親であり大人であるフォギプトスの方が上手だ。これ以上はもう子供の駄々《だだ》こねとそう変わらないやり取りになりかねないだろう。そろそろ頃合いかもしれない。
一度深呼吸をして、プロティアのキャラクターを憑依させる。碌に人と話せない空翔の意識を内へ追いやり、誰とでも気さくに関われるプロティアへと意識をシフトする。強張っていた表情筋が緩み、自然と口角が上がる。先程までのプロティアを演じていた感覚を完全に取り戻した。閉じていた目を開き、アトラさんに視線を向ける。
「アトラさん、来てくれてありがとうございます。凄くうれしかったです。おかげで、勇気をもらえました。なので、安心してください」
「……何か、あるのですか? 無罪になれる根拠が」
「はい、ちょっと嘘か誠か信じがたいものではありますが」
アトラさんに微笑みかけてから、視線をフォギプトスへ移す。横目にこちらを見る鋭い視線は、相変わらずナイフどころか日本刀並みの切れ味を持っていそうだが、精神的にはずっと年下のアトラさんが怯みもしなかったのだ。僕も負けてられない。
「先ほど言いかけたことの続きを、話してもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わん」
やっぱ怖い! とは思うものの、ここで引き下がっていては無罪など勝ち取れない。余裕を見せるべく微笑を浮かべて、アトラさんが心配そうに見つめる中、フォギプトスと視線を交わす。
「ボクには、少し特殊な能力があります。まだ効果は検証中なので確実ではありませんが、今のところ分かっていることは、この能力は魔物の襲撃が起こる約一時間前になると、何の前触れもなく涙が零れるというものです」
能力の内容を聞いたフォギプトスの目つきが、僅かに鋭くなる。信じてもらえていないのか、はたまた何か他の理由があるのか、僕には見当がつかないため、ただただ信じてもらえていることを祈るばかりだ。
「昨夜の件も、この能力で察知して先んじて対応しただけです」
「……プロティアさん。とても信じがたいのですが、本当なのですか?」
眉をハの字に下げて、アトラさんが聞いてくる。無言で頷いたが、アトラさんがそう感じるのは無理もない。僕もプロティアも姉のミリアも、この能力については理解が及んでいないし、何なのか分かっていないのだから。
とはいえ、これが事実である以上、これ以上の弁明は難しいだろう。フェルメウス家の捜査が完了するのを待つしかなくなる。しかも、相手は貴族だ。何らかの手を加えて、処刑なり煮るなり焼くなり好きに出来てしまうだろう。叶うならば、ここで無罪放免となってしまいたい。
「……話は分かった。では、こちらからも一つ頼ませてもらおう。左手を見せてもらえるか?」
「え、左手、ですか……」
まあいいですけど、と呟きながら、謎の古傷が掌から甲へと貫くように残る左手を、鉄格子の間から外に出してフォギプトスに見せる。角ばった大きな右手で僕の左手の指先を優しく掴み、見やすいように数十センチほど持ち上げる。五十センチ以上身長差があるため、僕が左手をほぼ真上に上げないと目元まで届かないが、フォギプトスは腰を屈めて自ら顔を手に近付ける。もっと唯我独尊のような人と思っていたが、意外と紳士的なのかもしれない。
掌、手の甲と順に僕の手を返してじっくり一分ほど眺め、見たいものは見終わったのか、フスと鼻から息を吐いて目を閉じたかと思うと、僕の手を解放した。触れられていた箇所は、少しヒンヤリとした冷たい感覚が残っている。
フォギプトスは瞼を上げて、僕とは百八十度反対の方向に目を向ける。数秒視線を右へ左へと動かしていたが、すぐに一点に向けて動きを止める。
「ギリュスル、プロティアの牢の鍵を持ってきてくれ」
視線の先でほかの牢屋を見回っていたギリュスルに向けて、先ほどまでより張った声で要求する。すぐに「はっ」という聞き覚えのある声が聞こえ、ジャラジャラという金属がぶつかり合う音が近付いてくる。ギリュスルが僕の牢に辿り着く頃にはこの鉄格子の扉を開ける鍵が見つかったのか、音は収まって籠手を着けた右手に一つの鍵が握られていた。
「貸したまえ。私が開けよう」
フォギプトスが出した右手に、ギリュスルは右手に持つ上部が三つ葉のクローバーのような形の飾りがつき、逆端は凹のような形の出っ張りがあるよくある鍵を乗せる。鍵を受け取ったフォギプトスが、一歩扉の方へと近付き、鍵穴へと鍵を差し込む。奥まで入ったのか、差し込む動きをやめて今度は右へと回す。ガチャ、という音がすると、ギィと蝶番の軋む音を鳴らしながら、扉が開いた。
出ていいのか確認するためにフォギプトスに視線を向けると、出たまえとでも言うかのように小さく頷く。大丈夫なようなので、空いた扉から牢屋の外に出る。
「すまない、君に冤罪をかけてしまったようだ。今回の件は詫びよう」
そう言って、フォギプトスが頭を下げる。
「え、あ、えっと……なんで、ボクの話を信じてくれたんですか?」
領主、そして上級貴族の謝罪という日本人として絶対に経験のない状況に居たたまれず、お茶を濁すべく質問する。頭を上げたフォギプトスが視線を僕に向けるが、一瞬考えるように視線を右に逸らす。何か言いにくいことなのだろうか、と疑問に思っていると、鋭い視線が僕の方へと戻る。
「いずれ話す機会があるだろう。齢十の娘に話すことではないのでな」
精神的には二十なんですけどね、と思うが、もちろん向こうは僕が転生者であることは知らないし、言っても信じてもらえないだろう。それに、余計立場を悪くする可能性だってある。ここは黙っておこう。
しかし、十歳の少女に話すには早い、か。貴族であるフォギプトスが知っているということは、この傷はもしかして貴族に関連するものなのだろうか。アトラさんが知らないのは、子供だから? プロティアが捨て子であることとの関連はあるのだろうか……情報が少なすぎる。プロティアの本来の身分とこの左手の傷については、冒険者として活動を始めたら本格的に調査するとしよう。その頃には、フォギプトスも傷についての話をしてくれるだろう。
「分かりました」
「では、二人とも、風呂に入ってくるといい。そのままでは気持ちが悪いだろう。それとプロティア、君とは少し話がしたい。学園にはこちらで伝えておくから、今日はここに泊まるといい」
「……え?」
予想外の提案――提案というには僕が口を挟む余地はなさそうだが――に、「えええぇぇぇ――――!?」という僕の絶叫が地下牢に木霊した。