フェルメウス1
意識が覚醒すると同時に、上体を勢いよく起こして左手を前に突き出す。何かを掴もうとして手を握るが、見事に空を切って空気が指や皺の間を通り抜けるだけだ。
汗をかき、息も荒い中、左手を顔の前まで移動させて、握っていた小さな拳を開く。柔らかく小さいが、指先なんかは皮膚が厚く、固くなっている。手の大きさはブルーレイのディスクで隠れるくらい小さく、僕はプロティアになったんだと実感せざるを得ない。
意識空間で意識を失う直前の温もりはまだ残っているような気がする。それに、最後のあの柔らかい感触は、予想が正しければ――そう思い、左手をそのまま左頬に触れる。予想は正しく、触れた頬は記憶の通りの柔らかさだった。プロティアは、僕が意識を失う瞬間、僕の左手を頬に当てて頷くことで、約束の了承の意を示してくれたのだろう。
「……絶対、取り戻して見せるからな」
誰にも聞こえないような声で呟く。左手を頬から離し、拳を握って胸の前まで移動させ、トンっと軽く胸の中心に当てる。これを体の奥底で眠っているだろうプロティアへ捧げる覚悟として、今僕が置かれている状況の整理へと段階を進めることとする。
服装は、ゴブリンと戦っていた時の恰好から防具と剣帯を取り外した、すなわち制服だけになっている。ポケットの手巾や肌着もそのままだ。恐らく、脱獄する可能性を考慮して、その際の足掛かりとなるものだけを回収したのだろう。
次に、ベッドを詳しく見てみる。僕が眠っていたのは、木造の直方体の台に麻布を被せただけの、簡素なベッドだ。プロティアの記憶を辿れば、このベッドは少なくとも学園のものでも、居候していた宿のものでもない。学園と宿のベッドは台の上に藁が敷かれてもっと柔らかいはずで、このベッドはそれと比べるとかなり寝心地は悪く、硬い。
少なくとも知らない場所だということは確定したため、辺りを見回してもう少し情報を仕入れる。左、右、正面の三方は石を積み上げた壁で出来ており、ベッドの対角に同様の壁で仕切られた場所がある。ベッドから降りて、靴が見当たらないため仕方なく裸足で冷たい、こちらも石を敷き詰めた床を歩いて仕切りまで移動し、仕切りの奥を覗く。そこは、地面に穴が開いているだけの、トイレと思われる場所だった。時代背景が中世ごろということもあり、まだ汲み取り式なのだろう。
あまり使われていないのか、臭いなんかはほとんどないに等しいが、やはり長居はしたくないためベッドの横へと戻る。道中――道というほどの広さはないが――ベッドに座っていた時の背後に当たる残りの一方に視線を向ける。最も僕が置かれている現状を詳しく表しているのが、この面である。横三メートル、高さ二メートル半ほどの面は、そのほとんどを金属の棒を十センチ間隔くらいで縦に嵌めた鉄格子だった。
「まさかの牢屋か……」
プロティアが何か罪を犯しただろうか、と記憶を探ってみるが、思い当たることはない。可能性があるとすれば昨夜だが、プロティアはむしろ街を救ったヒーローと言っても過言ではないはずだ。しかし、現実は牢屋に入れるというこの仕打ち……強すぎるから危険視されたか? いや、それならむしろ暴れないように丁重に扱うだろう。やはり何らかの罪を着せられているはずだ。
前世からの考えるときの癖で、右手で左肘を支えて左手を唇に宛がう。慣れている感覚に比べてふにふにと柔らかく、一瞬戸惑うが、この体については後回しだと自分に言い聞かせて僕に着せられた罪が何かについての予想に戻る。
戦闘について何か罪を着せられている、とは考えられない。森への被害は最小限に抑えたし、防壁を壊したのもゴブリンでありそれは共に戦っていた冒険者や衛兵が証明してくれるはずだ。だとすると、可能性が高いのはプロティアの謎能力、魔物の襲撃の察知能力だろう。この能力から罪を推測するとすれば、魔物を呼び寄せた罪だろうか。僕が今回の件の首謀者だから前もって知っていた、そして功労者として褒賞金を得ようとした……といったところか。
「……完全に冤罪だけど、プロティアですらちゃんと理解出来ていない未知の能力だし、この状況は仕方ないか。問題はどうやって無罪を勝ち取るかだな」
脱獄する、という案もあるにはあるが、これは出来れば最後の最後にしたい。それこそ、死刑のような判決を言い渡されない限りはしないでおきたいものだ。
最終手段について考えていると、カツカツという足音が近付いてきた。木製の靴底だろうか、などと考えながら視線を向けると、見覚えのある顔が鉄格子の向こうにあった。必死にプロティアの記憶の中で顔と名前を一致させる。思い出したところで、口を開こうとする――が、言葉が喉に詰まり、何も言えなかった。
原因としては簡単だ。僕がかなりのコミュ障であること、死ぬ前数年に渡ってほとんどまともに会話していないこと、結果として人とのコミュニケーションをどうすればいいか即座に思い出せないでいることだ。戦闘中は人とのコミュニケーションに意識をほとんど向けないでよかったのと、一時的にプロティアを演じていたから何ともなかったが、今は違う。少しの間誤魔化せたらいいという状況ではない。
とはいえ、ここで何も言わないのはどう考えても不自然だし、今後プロティアとして生きていく以上、この問題は早期に対応しなければならない。これはその第一段階である。懸命にプロティアのコミュニケーションを思い起こし、イメージを鮮明にする。そして、それを僕の全力をもって演じる。
「ギリュスルさんがここの監視なんですね」
出来る限り自然に、口角を上げ、子供っぽさを残しつつプロティアの発声方法に準えて言う。僕の呼びかけに気付いたギリュスルが、こちらに視線を向ける。もし転生前の僕がしたら発狂ものだな、などと内心思いながら、軽鎧を纏い直剣を腰に帯びたギリュスルの反応を待つ。
「ああ、起きたのか。いやなに、お前が起きた時に監視が顔見知りの方がいいだろう、と領主様が申されてな。俺もやぶさかではなかったから、受けたのさ」
「なるほど、それはありがとうございます。ボクも顔見知りがいてくれて、少し安心出来ました」
「? おう、それならよかった」
一瞬クエスチョンマークが浮かんでいそうな顔をしていたが、すぐに笑顔に戻る。何を疑問に思ったのか気になるところだが、今はいくつか聞きたいことがある。そちらを優先しよう。
「いくつか聞きたいことがあるんですけど、質問してもいいですか?」
「ああ、俺に答えられる範囲ならな」
「ええと、まず……あの場にいた人たちは、どうなりました?」
「自分のことより他人の心配が先か……随分と強く優しく育ったもんだな……」
しみじみ、といった感じでギリュスルが腕を組んでうんうんと頷く。プロティアがこの街に来て冒険者の指導を受けるようになった頃からすでに顔見知りだったみたいだから、かれこれ三年間成長を見てきたのだ。こうなる気持ちも分からなくはないが、今は話を進めてほしいものだ。
「と、悪い、質問に答えないとだな。全員無事だったぞ。俺たち衛兵はかなり傷を負っていたが、冒険者のウィザードが戦闘の最中でも回復をしてくれてたからな、全員命は助かった。ゴブリンに軽く恐怖を抱いた奴は何人か出ちまったがな。冒険者の奴らも無事だ。ホブ・ゴブリンとの戦闘で骨折や打撲なんかはあったが、こっちも治療が完了している。お前さんの姉も足の怪我はあったが、他は特に問題なく今は宿に帰ってる。ちゃんと治療を受けてからな」
あれだけの混戦だったのだから、一人や二人、犠牲者が出てもおかしくないと思っていたから、全員無事、というだけで一安心だ。ゴブリンが来る前から対応できていたこと、対魔物のエキスパートである冒険者をユキナが連れてきてくれたこと、被害が広がる前に一掃出来たことが大きかったのだろう。
「ならよかったです。一人でも犠牲が出たら、辛いので……次の質問ですが、ボクは何の罪で捕まってるんですか?」
「ああ、そのことか……今、プロティアには領地転覆罪の容疑がかかっている。言っちまえば、魔物を街に呼び寄せた疑いだな」
予想は当たっていたようだ。とはいえ、罪が分かってもどう無罪を証明するかが定かではない。能力を伝えてもいいものか分からないし、そもそも話したとして、理解を示してもらえるだろうか。もしダメだったとしたら、この能力を生かして領主の下で騎士団にでも入れてもらえないか打診してみよう。
「そんなことしてないんですけどね……あ、そうだ。ボクの装備って、無事ですか?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「あの剣、お父さんの形見なので、あまりぞんざいに扱ってほしくなくて……」
「なるほど、そういう……心配すんな、ちゃんと保管してある。場所までは言えんがな」
ギリュスルの言葉に、安堵の溜息を溢す。剣がなくなったとなれば、プロティアにもユキナにも面目が立たないと思っていたが、これなら大丈夫そうだ。
そうこうしていると、ギリュスルとは別の足音が近付いてきていた。ギリュスルの木靴と比べて足音は小さく、オノマトペにするならパタパタといった具合だろうか。鉄格子の間から音のする方を覗いていると、音の主が扉の奥から姿を見せた。それと同時に、ギリュスルがその場に跪く。念の為と思い、僕もその場に跪いて、近付いてくる足音に意識を向ける。
しばらく地面を見つめていると、視界の端に先の尖った革靴が入ってくる。中二病を患っていたころに調べた記憶を捻りだして、この靴がプーレーヌという中世の貴族が履いていた靴だということを思い出し、この人物が貴族である可能性に思い至る。跪いておいて正解だったかもしれない。
「目を覚ましたようだな。ギリュスル、他を見回っていてくれ。この少女と話をしたい」
威圧感のあるバリトンボイスに、ギリュスルが先程までの緩い声とは打って変わって、凛々《りり》しい声で「はっ!」と答えて離れていく。足音が鳴り止んだかと思うと、鋭い視線が向けられているような感覚がして背中に嫌な汗が噴き出す。しばらくの静寂により緊張感が増し、脈が速くなり頬を一滴の汗が伝う。
「プロティア、だな」
「は、はい」
話しかけられたことにより一層呼吸が浅くなり、喉の渇きを感じて唾を飲み込む。ホブ・ゴブリンとは全然違う質の圧迫感だ。ホブ・ゴブリンは殺意という形の威圧だったが、今感じているものは言うなれば存在感だ。格の違い、とでも言えばいいだろうか。
「そうかしこまらなくともよい、立ち給え」
言われた通り、その場に立ち上がる。そして、威圧感を放つ人物の姿を視界に捉える。先端の尖ったプーレーヌと思われる革靴を履き、綺麗な折り目のついたズボンはスラっと長い脚を隠し、腰には僅かに装飾のついたベルトを着けており左側には剣を一本吊るしている。瘦身を包む上着は軍服と思われるが装飾はベルトと同じく軽微で、むしろ上品と思わせるくらいだ。胸には家紋だろうか、金色の糸で盾形の枠に炎を模った細工があしらわれている。
装飾の少ない軍服の中では最も目立つ肩章が元々かなり広いであろう肩幅をさらに大きくしている。そのせいで細く見えるが、首も実際にはしっかりと鍛えられちょっとした丸太のようである。尖った顎には白と金が入り混じった顎髭が綺麗に整えられ、逆三角の輪郭のうちは、かなり整った顔立ちをしている。切れ長の目から発せられる威圧感は、ホブ・ゴブリンの殺意などゴマ粒かのように思わせる重さがある。髭と同じ色合いで短い髪は僅かにパーマがかかっており、プロティアの記憶にあるある人物が思い起こされる。
「私はフォギプトス・フェルメウス侯爵、ここフェルメウス領の領主だ。君には、アトラスティの父と言った方が分かりやすいかな」
そう、プロティアの友達兼ルームメイトであり、領主の次女であるアトラさんの父親だ。どことなく面影を感じなくはないが、この父親から生まれたアトラさんがあそこまで優しい雰囲気を持っているのが突然変異ではないかと思うくらいに圧が違いすぎる。
ここで怯んでいては、無罪証明など出来っこないぞ、と自分に言い聞かせて、この世界でも通用するのかは分からないが、地球ではカーテシーと呼ばれる、右足を半歩引き膝を曲げ、両手でスカートの裾を軽く持ち上げるお辞儀をして自己紹介に応える。
「プロティアです。ご用件は何でしょうか?」
フォギプトスが切れ長の目を細める。間違えたか、急ぎすぎたか、と焦りが湧き出てくるが、表に出ないように何とか抑え込む。嫌な沈黙が続き、一度喉の渇きを誤魔化すために唾を飲み込んだのとほぼ同じタイミングで、フォギプトスはふむと呟き瞬きをして元の目つきに戻る。大きく溜息を吐きたいところだが、今は我慢しなければ何が理由で首を落とされるか分かったものじゃない。
「何、先ほども言ったが、君と話をしたかっただけだ。こうして投獄しているのも、機会づくりの一環だと思ってくれ。領主というのはそうそう自由になれないものでな、こうでもしなければ特定の個人と顔を合わせることなど滅多に出来んのだ……とはいえ、君に掛けられた容疑は全くの嘘とは言い切れないものだがな」
いい迷惑だよこちとら! と、大声で言えたならどれだけ気が楽なことだろうか。とはいえ、元々深く疑っている様子ではないため、もしかしたら簡単に容疑を晴らせるかもしれない。さて、どう証明したものか。魔物の襲撃を察知した方法を説明してもいいだろうが、信じてもらえなかったら一貫の終わりだ。ここはまず、探りを入れるところから始めた方がいいだろうか。いや、この圧の中ミスもなくやれるだろうか、ただでさえコミュニケーションは苦手だというのに。
「まずは、礼を言っておこう。今回のゴブリンの襲撃、君のおかげで被害は最小限で済んだ。西門は修復が必要だが、数週間もすれば元に戻せる程度だ。犠牲者が一人も出なかったことに比べれば、安いものだ。ありがとう」
「あ、いえ……やれることをしただけですので」
街に魔物を誘き寄せた容疑のかかっている僕に対してもちゃんと功績を讃えてくれるあたり、誠実で、上に立つ者としてしっかりしているように思える。もしかしたら、この冤罪も本当に僕と話がしたかったからでっち上げたのでは……だとしたら尚更迷惑じゃい! 領主権限で普通に呼び出すとか、アトラさん経由で呼び出すとかあるだろう。やはり、本当に疑われているのだろう。
「それで、えっと……ボクに掛けられてる罪なんですが」
「ああ。君の主張を聞かせてもらおうか」
フォギプトスの目が細くなり、眼光が鋭くなる。それと比例するかのように僕が感じる圧も強くなり、再び背中を汗が伝う。心臓の鼓動が早くなり、まるで耳元で鳴り響いてるかの如くドクドクと音が脳を揺らす。拳を握り、目を閉じて、一度深呼吸をする。向こうに緊張が伝わってしまうだろうが、領主と向き合って緊張しない方が無理というもの。相手もこのくらいは目を瞑ってくれると信じよう。
「分かりました。ボクの主張は、完全な冤罪です。まず、ボクが魔物に街を襲わせる動機が不十分です。ご存じかは分かりませんが、ボクは以前シンド村で育ち、あの出来事も経験しています。わざわざ自分の辛い過去を思い出すようなことをするはずがありません。また、お金にも今のところ困っていません。学園も特待生で入学していますので」
手始めに、動機不十分の点で攻めてみる。だが、フォギプトスのギラつく瞳は揺らぐことはなく、鋭く僕を射貫くままだ。まあ、僕もこれで無罪を晴らせるほど簡単ではないことは分かっていたため、怯みはしない。
「一つ確認しますが、ボクの容疑を裏付けるような証拠はありますか? 例えば、森の中にゴブリンを誘き寄せるような仕掛け、ここ数か月の間に街から出て怪しいことをしていた記録がある、といったものです」
「今のところ見つかってはいない。騎士団の過半数を動員して捜査させているが、目ぼしい成果はないな」
「では、証拠不十分です。現時点でボクを有罪とするならば、完全なる職権乱用です」
これでも揺らぐことはない、想定の範囲内だ。証拠など探せばいつかは見つかるかもしれないのだ、あまり大きなダメージではないだろう。今有罪にするのは信頼を失墜させる可能性があることを示せられたなら、十分だ。時間稼ぎにはなる。
だが、こちらもそこまで手札があるわけではない。というかむしろ、真実を話す外にこの件に終止符を打つ手段はないように思える。この傍から見れば――当人である僕やプロティアから見てもそうだが――荒唐無稽な話を信じてもらえるかは、正直微妙であるが。さて、どう話したものか。
「あの、これから話すことは、信じられないかもしれないですけど、本当の話です。今回ボクに起きたことを嘘偽りなく話すので、聞いていただけますか?」
「ふむ、よかろう」
よかった、話は聞いてくれそうだ。少し安心しつつ、ここからが正念場と頭の回転を加速させる。昨日プロティアに起こったこと、プロティアの能力を脳内で文章へと書きだし、上手く説明できるように整理する。ここからが転生最初の大一番といったところだ、失敗すれば僕の、プロティアの命はここで潰えるかもしれない。
「ボクには、他の人にはないの――」
話を始めた直後、フォギプトスも通ったこの地下牢と思われる場所の入り口の扉の奥から、トタトタという足音と「お待ちください!」という女性の声が響く。何事かと僕とフォギプトス――恐らく、離れたところでギリュスルも――が視線を閉じられている扉に向けていると、大きな音を地下いっぱいに響かせて勢いよく開いた。
扉の奥から現れた、息を切らして両手を膝についている予想外の人物に言葉を失っていると、その人物が乱れた金髪を振り乱し、深く息を吸いながらバッと上体を起こし、フォギプトスには及ばないがよく似た眼光をこちらに向ける。そして、よく響く凛とした声が地下牢の空気を振るわせる。
「待ってください、お父様っ!」




