1-3.(1)
「はいこれ。五時間目までに返してよ」
「サンキュー、スー」
翌朝、菫は窓際の自分の席で、机の中に入れっぱなしにしている物理の教科書をリオに渡していた。
「たまには家で物理でも読もうかなって、この前持って帰ったら、そのまま忘れてきちゃってさー」
頭をかいて笑うリオに、
「なにそれ。教科書『読む』とか、意味わかんない」
そばにいた百葉が眉をひそめると、
「……活字中毒」
隣でぼそりと朔もつぶやく。
そのとき、
「えー!」
廊下側の席で、女子たちの大きな声が上がった。
「ほんと?! マユちゃん」
「そうなの。うちのOGの、従姉のお姉ちゃまに聞いたんだけど」
媚びるような複数の声に、やけに活舌のいい太い声が得意げに答える。茶道部の當山真百合と、その取り巻きたちだ。
父親が大手企業の役員だという真百合は、両親をはじめ親戚にこの学園の卒業生が多く、先生方にもコネがあるとかで、周囲を見下すような言動が多い。
女子アナを目指していると公言しているだけあって、小さな顔やきれいな脚は確かに目立つが、品のない目つきと抑揚のありすぎる独特の話し方がそれらを台無しにしている。
とはいえ、いわゆるスクールカースト上位層であるのは間違いない。
「そんなことってある?」
「ショックー。あの倫香さんが」
なにやら騒いでいる取り巻きたちに、
「ほんとだよね。私も超ショック」
オーディエンスを存分に意識した声で相槌をうった真百合が、肩の長さで切り揃えた重たげな髪をかき上げて続けた。
「倫香さん、誰か旦那さんの行方を探してくれる人に心当たりはないかって、お姉ちゃまに連絡してきたんだって。そりゃまあ、お金払って探偵雇うとかもできなくはないけどー、できればあんまり騒ぎにはしたくないじゃん?」
「だよねー。知らない人に内輪の話はちょっと」
「お金とか、ぼったくられたらやだし」
取り巻きたちが同調する。
重々しくうなずいた真百合が、
「それでちょっと思い出したんだよねー、私」
不意に、窓際の菫たちの方に顔を向けた。
「一年のときの、リオ君の推理。すごかったなーって。ほら、琴美の指輪がなくなったとき」
リオを見ながら続ける真百合に、
「ああ、あれねー」
「すごかったよね」
周りの女子たちが同意する。
「だから、リオ君に協力してもらえたらなーって。ほら、彼なら倫香さんにとっても後輩で、しかも未来のKIRIYAのトップでしょ? 信用なら申し分ないわけじゃん?」
真百合が得意げに眉を動かした。
「なるほど!」
「いい考え!」
ようやくそこで、背後で何やら自分の話が勝手に進められていることに気づいたリオが、
「え?」
不思議そうに真百合たちを振り向いた。
その途端、
「ねえリオ君」
待ってましたとばかりに真百合が声をかけ、取り巻き二人を引き連れてリオに向かって歩きだす。
逃げ道をふさぐようにリオの正面に立った真百合が、隣にいる菫たちを無視して、彼に話しかけた。
「今の話、聞こえてたと思うんだけど。協力してくれない? リオ君」
「えーと。ごめんね、何の話?」
真百合の圧に思わず一歩下がったリオに、
「助けてあげてほしいの。卒業生の倫香さんのこと」
「茶道部の練習に来てくださる、とっても素敵なOGなんだよ?」
取り巻きその一とその二が口々に言う。
「ちょっと。ふたりとも、それじゃ何の話かわかんないじゃん」
悠然と取り巻きたちに苦笑してみせた真百合が、リオを振り向いた。
「あのね、リオ君。私の従姉に、ちょうど十歳上のお姉ちゃまがいるの。もちろん、うちの学校のOG。そのお姉ちゃまのお友だちで、倫香さんって方がいらして、茶道部の先輩なんだけど」
芝居っけたっぷりに間を取って、真百合が続けた。
「今、ご主人が行方不明なんだって」
なんとも唐突な話に、リオをはじめ菫たち一同はあっけにとられる。
「……そうなんだ」
話の行き先が見えないまま、とりあえず相槌をうったリオに、
「置き手紙とか、心当たりもなくて」
得々と真百合が続けた。
「警察には届けたんだけど、家庭内のトラブルってことでろくに調べてもらえなかったんだって。だからっていきなり探偵とかに頼むのも、なまじお金持ちなだけに他人に内部のことを話すのは抵抗が……あ、倫香さんのご主人って、経営者の方なのね」
相変わらず目的のみえない真百合の言葉に、仕方なくリオがうなずく。
「そこで私、思いついたんだけど」
黒いマスクの上の目を光らせて、真百合がリオに一歩近づいた。
リオが慌てて一歩後ろに下がる。
「リオ君に、協力してもらえないかなって。リオ君って去年、そこらの探偵よりずっとすごい推理力発揮したじゃない?」
「え?」
リオが不思議そうに首を傾げた。
「ほら、琴美の指輪がなくなったとき」
自信満々に続けられて、
「……ああ。あのとき」
ようやく思い出したらしく、リオが渋々うなずいた。