8-1.(2)
数秒後、
「あー。空気、うっまー」
菫の背後でのんきな声が響いた。
「ありがと甲斐さん。おかげで教室の空気、超良くなったわ」
振り向くと、ミステリ研究会の神辺君が大きく伸びをしていた。
机の上に並べて置かれた文庫本と弁当箱。黒縁眼鏡の奥から菫に向ける目が、いたずらっぽく笑っている。
「ちょっと、なにあいつ!」
神辺君をにらみつけた真百合を、
「マユちゃん」
取り巻きたちが慌てて引き止めた。
「え? なに?」
不満げに振り向いた真百合が、
「……あ」
いつの間にか教室内の他の生徒たちから冷たい視線を向けられていることに気づいて、口を閉じる。
「――出よ!」
悔しそうに真百合が席を立った。
「なにあいつら。頭おかしいんじゃないの?」
言い捨てて廊下に出ていった真百合と取り巻きたちに、
「チッ」
菫の隣に来ていた百葉が舌打ちした。
反対側に立った朔も、無言で真百合たちの後ろ姿を見送る。
「もういいよ、百葉」
菫が苦笑した。
ほんとはもっと、言いたいことがあったけど。とりあえずリオを馬鹿にするのをやめさせることができたから、今日のところはよしとしよう。
……でも。
(怖かった~)
気が抜けた途端、へにゃへにゃとその場で腰を抜かした菫を、百葉と朔が両側から慌てて支える。
「……よく、頑張った」
微笑んだ朔が、そっと菫の頭を撫でた。
教室から追い出された形で廊下を歩いていた真百合たちの前に、
「當山さん」
曲がり角の向こうからリオが現れた。
「リオくーん」
途端に、今しがたの教室内での発言が嘘のように、真百合が媚びた声を出す。
「ねー、聞いてリオ君。ひどいんだよ、甲斐さんってさあ」
勢いよく言いながら近づいてきた真百合に、
「偶然だね。僕も聞いてほしいことがあるんだ、當山さんたちに」
笑みを浮かべたリオが、それ以上近寄られるのを拒むように手のひらを向けた。
「用務員の大倉さんにお願いして、調べてみたんだ。この間のスーの机」
「机? ……ああ」
聞き返した真百合が、ようやく思い出したらしく取り巻きたちと目を見合わせる。
「思い出した? 誰かにカッターでメッセージ刻まれてたやつ」
静かな声で言ったリオに、
「メッセージって」
あきれたように真百合が笑った。
「いたずらでしょ? あんなの」
「だよねえ」
取り巻きたちも同調する。
「そういう見方もあるかもね」
うなずいてリオが言った。
「ねえ當山さん。コロナ禍で、毎日生徒が帰ったあと、業者の人に教室をアルコール消毒してもらうようになったよね。ドアや窓に教卓、生徒ひとりひとりの椅子と机の上も」
「え、うん」
ぽかんとした顔で相槌をうった真百合に、リオが続ける。
「あの日の前日に二年八組の消毒をした業者さんに確認してもらったら、教室内は普段通りで異常はなかったって。だからきっと、そのあとだったんだね。スーの机を犯人がカッターで傷つけたのは」
リオの言葉に、真百合が再度取り巻きたちと目を見合わせる。おそらく、自分たちのしたことを思い出しているのだろう。
「おかげで、僕のアイディアが活かせそうなんだ」
リオが嬉しそうに言った。
「當山さん。指紋とか掌紋って知ってる?」
「……指紋なら知ってるけど」
慎重な口ぶりの真百合に、リオが笑みを深める。
「机の上が拭かれてたのと、事件のあと机を誰もさわれないように保管してもらってたおかげで、犯人たちの指紋や掌紋が結構きれいに取れそうなんだ、スーの机から。あ、掌紋っていうのは手のひらの模様のことね。指紋や声紋みたいに、個人の判定に使えるんだよ」
「え、そんな」
心当たりがあるのだろう。真百合が慌てた声になる。
「生徒の指紋とか調べるってこと? 犯罪でもないのに、やりすぎじゃない? ただのいたずらじゃん」
「そうだね。ただ、用務員の大倉さんって、元刑事さんで」
リオがうなずいた。
「激務を支えてくれた奥さんが倒れて、この学校に転職したんだって。あの人の話なら、警察も真面目に受け止めてくれるかもしれないんだ。ただのいたずらって決めつけずに」
真百合と背後の取り巻きたちの顔から血の気が引く。
「ねえ當山さん。“脅迫罪”って知ってる?」
真百合の顔をのぞきこんだリオが、
「簡単に言うと、誰かの命とか名誉とかを害するって脅迫した罪なんだけど」
静かに口角を上げた。
「ばっちり該当してるんだよね。あの机に彫られてた、『殺ス』って文字」
まるで笑っていない琥珀色の瞳に見据えられ、真百合たち三人は言葉もなく凍りついた。