7-2.(2)
(そんなこと考えてたんだ、リオ)
リオの話を聞きながら、驚くと同時に菫は不思議な気持ちになる。
T駅のカフェで瑞樹と会ったあのとき、自分もリオの隣に座っていたのに。同じ話を聞きながら、リオと自分はまるで違うことを考えていたらしい。
「さて、ここで事件の日の話に戻ります」
軽い音を立てて、リオが両手を合わせた。そのままテーブルに肘をつき、リオはゆっくりと両手を組む。
「倫香さんによれば、彼女が家を飛び出したときに夫の小早川さんはその場に倒れていた。生死のわからない、というより、彼女の認識によれば呼吸のない状態で。その状況で救急車を呼ばなかったのはかなりまずかったとは思いますが、瑞樹さんによると彼女には元々精神的に少し不安定なところがあるのに加えて、それまでのDV等で相当追い詰められていたでしょうから、仕方がなかったとも言える。そして」
とんとん、とリオが組んだ両手の小指側をテーブルにあてた。
「瑞樹さんの家で二時間ほど過ごしたあとふたりが家に戻ると、小早川さんの姿は消えていた。その間に家に来た第三者はいないようだ。これは、お隣の犬が証人代わりですね。可能性についてだけ言えば、倫香さんのご両親なら犬に吠えられずあの家に出入りできたはずですが、高齢のご両親には娘婿をふたりで連れ出すような動機も体力もない。したがって、小早川さんは自力で家を出て行った可能性が極めて高いと思われる。そして」
とん、とリオが再度音をたてる。
「その後現在に至るまで小早川さんが姿を現さない、というのが、この事件における最大の問題なわけですが」
リオが俊介を見上げた。
「ミステリーを読まれるっておっしゃってましたよね、俊介さん。ブラウン神父はご存知ですか?」
「……いや。海外ものだよな? そういうのはあまり」
急に変わった話題に、俊介が軽く瞬きする。
「そうですか」
リオが残念そうにうなずいた。
「この事件について考えていたとき、僕はふと、友だちの影響で最近読み返したある推理小説を思い出したんです。チェスタトンって人の書いた、ブラウン神父という有名な探偵の出てくる小説の中に、心理的な盲点を扱った短編がありまして」
(え? ちょっと、何の話?)
話が大きく脇道にそれて、菫はぎょっとしてリオの顔を見上げる。
(ブラウンなんとかって……この前リオ、お昼にうろうろしながら、ミステリ研の神辺君とそんな話してたかも。けど、今はそれどころじゃ)
困惑した表情の菫や俊介に構わず、
「ネタバレ防止にタイトルは伏せますが」
にこやかにリオが続けた。
「とある犯罪が起こり、そのとき現場付近には何人もの人がいたのに、誰ひとり犯人を見ていなかった。一体、犯人はどうやって目撃されずに現場から逃げおおせたのか。つまり、『見えない犯人』についてのお話なんですけど。ブラウン神父は気づくんです。この犯人は、われわれがしょっちゅう目にしている人物なんじゃないかって。まるで、風景の一部みたいに」
「え?」
リオの話につい引き込まれて、菫が声をあげた。
「しょっちゅう見てる人?」
「そう」
リオが優雅にうなずく。
「人々にとって、その人物の姿があまりにも日常の風景に溶け込んでいたから。だから目撃者たちは、現場で犯人を見かけても、わざわざそれを証言しなかったんじゃないか、っていう話なんです。それで」
言葉を切ったリオが、ペットボトルのお茶をひとくち飲んだ。
「もしかしたら、このケースもそうなのかもしれない。僕はそう思ったんです。小早川さんの失踪事件には、あの短編と同じ要素があるんじゃないかって」
「……どういうこと?」
首を傾げた菫に、リオがにこりと笑いかけた。
「ブラウン神父のケースの犯人は、とある職業の人でした。当時の人々にとっては、身近な風景の一部といっても差し支えないほど、日常的に、それもあちこちで姿を見かけた職業の人です。とはいえ、お話の舞台と僕らの前にある倫香さんの夫の失踪事件は、時代も地域も違う。小説をそのままこちらの事件に当てはめるわけにはいかない」
(確かに)
菫がこくりとうなずく。
「『見えない犯人』、つまり、見慣れたいつもの風景の一部のように、そこにいても目撃者の意識にのぼらないような存在。今の日本で、そんな人って誰だろう? 日常的に、それもあちこちで見かける職業の人。そんな人いる? そう思ったとき、気づいたんです」
淡々とリオが続けた。
「今の日本で、しょっちゅう見かける職業の人。特に、あの小早川さんのおうちのそばで、事件のあったあの日あの時間に見かけてもまったく違和感のない姿。そう、それは」
リオが静かに視線を上げた。
「配達員ですね。宅配便の」
視線の先には、無言で見返す俊介が――大手運送会社P社に勤務する、宅配ドライバーの姿があった。




