5-6.(1)
「えー、次に、このときの主人公『わたし』の気持ちについて。ここでは――」
櫻森学園高等部、二年八組の教室。あと十数分で、四時間目の現代文の授業が終わる。
窓際の席の菫は立てた教科書の陰で、
(えっとー)
OGの倫香の夫・小早川氏の失踪事件について、これまでにわかったことをノートにまとめようとしていた。
(今までに会った関係者は、倫香さんとその恋人の瑞樹さん。それに、元ホステスの架純さんと、瑞樹さんの友だちの俊介さんか)
うつむいた菫の横顔を、肩までの長さの髪が隠す。
癖のない黒髪を耳にかけながら、
(……大人も結構、感情的になるんだなー)
思い出して、菫はマスクの下でちょっと口をとがらせた。
高校生の今は、毎日感情が忙しいけど。いろいろ経験して大人になれば、そういうことはあまりなくなるのかと思っていた。
だけど大人にも、個人差とか地雷があるみたいだ。
行方不明の旦那さんを除けば、事件の関係者たちは皆二十代。菫から見れば立派な大人だけれど、突っ込んだ話を聞いていると、それぞれ第一印象とは違うところが見えてきて。
たとえば、昨日会った俊介は、クールに見えて愛が深いというか、なにかと親友の瑞樹のことをかばっていたのが印象的だった。それに、リオのおまけ的な立ち位置の菫のことも、ちゃんと気にかけてくれたし。
ふんわりイケメンの瑞樹の方も、恋人の倫香より俊介の方をずっと信頼しているようで。
(嬉しそうに言ってたな、瑞樹さん。俊介さんが、将来は宅配ドライバーとして独立するつもりだって)
互いに相手のいない場所で相手を大切にしているという関係性が、すごくいいと思った。きっと自慢の友だちなのだろう。
(私もそんな風になれたらいいなあ。百葉や朔と)
だが、そんな瑞樹は、倫香に対してはそこまで誠実ではなさそうで。おまけに、金銭目的で彼女の犯した殺人を隠蔽した可能性まである。
(ほんと、人は見かけによらないよね。って、瑞樹さんや倫香さんが犯罪者って決まったわけじゃないけど。それにあの家って、リオに言わせれば“開かれた密室”だし)
もしも事件が倫香による夫殺しで、犯行の舞台が自宅だった場合、リオの指摘した通り、遺体の処理が問題になるという。
(お隣のわんこがいるから、見ず知らずの人が出入りするわけにはいかないし。あの華奢な倫香さんが、ひとりで旦那さんを運べるわけないし。運ぶために遺体をバラバラにするとなると時間が……うわー、待って、無理!)
自分の想像があっさり自分の限界を超えて、菫はぎゅっと目をつむって首を振る。映画やドラマでも、スプラッター物は苦手なのだ。
それに、あの家には車もなかった。タクシーや自転車で遺体を運ぶわけにはいかないだろう。
『ケチなのよ、あの人。自動車は税金がどうとか言って』
夫の文句を言っていた倫香の顔を思い出したところで、
(架純さんも嫌ってたな、小早川さんのこと)
一時は彼の浮気相手と思われていた架純の顔が脳裏に浮かんだ。
(あの架純さんが、実は旦那さんとまだつながってて、このあとひそかにどこかで落ち合う予定……なんてことはないよね、さすがに)
コーヒーショップで菫たちに見せたあの嫌悪感は、ガチだったと思う。
(ていうか就活中だったしな、架純さん)
煙草をくわえる疲れた顔と、無個性な黒のスーツに全開のおでこ。あれが演技だったらやりすぎだ。
(そう考えるとほんと、いいとこなしなんだよね。小早川さんて)
性格は悪い、見た目も残念、お金はあるけどケチで、仕事も最終的には放り出している。友だちも趣味もなく、行きつけだったお店からは出禁を申し渡されていて。
(倫香さん以外、ご家族もいないし。もうこれ悪いけど、仮に殺されちゃってても正直誰も悲しまないんじゃ……)
不謹慎なことを考えかけて、いけないいけない、と菫は慌てて首を振る。
(あと、性格が悪いだけじゃなく、「異様にプライドが高い」って言ってたな、架純さん。小早川さんのこと)
そんな相手と離婚するしないでもめたら、確かに厄介なことになりそうだ。
架純によると、彼は酔うたびに、「俺はこんなちゃちな店で飲んでるような男じゃないんだ」とくだを巻いていたという。
なんでも小早川家は、江戸時代はどこぞの藩の御典医という家柄。倫香の夫である元の父方の祖父は、昭和初期の大病院の院長だったそうだ。
だが、その後若くして病院を継いだ父親の代で、終戦とその後の混乱により家は没落。医者にならなかった元は、両親が相次いで他界したあと、父親の弟妹である叔父叔母と遺産相続でもめ、故郷を捨てて親戚とは絶縁したのだという。
そこからベンチャー企業を立ち上げ成功するまでには、いろいろと苦労もあったことだろう。
(そういう話、知ってるのかなあ。倫香さん)
ノートに書き込みながら菫は眉根を寄せる。
もちろん、いくら苦労したからといって、妻へのDVが許されるわけではないけれど。
夫の失踪をきっかけに、倫香は実家の両親から離婚を勧められ、経済的な支援も受けているという。菫たちに高級ティールームでご馳走してくれるなど余裕があったのは、実家のサポートのおかげなのだろう。
(でもなあ。倫香さんはさっさと離婚して再婚するって息巻いてたけど、再婚するにも肝心の瑞樹さんはあんなだったし)
この状況だと、いっそこのまま旦那さんがみつからずに三年過ぎて、倫香さんと瑞樹さんの仲がもっとはっきりしたタイミングで離婚、っていうのが、一番平和かも。
(……って、それだとリオの調査が空振りってことになっちゃうか)
いけないいけない、と菫は再び口をへの字にする。
現時点で一番可能性が高いのは、リオの言った通り、あの日小早川氏が自分の足で家を出ていったというものだろう。彼が全財産に加えて例の“幸運の石”も持ち出していることも、その説に説得力を与えている。
となると、その後の彼の足取りをつかむのは、架純や元の会社の関係者が空振りに終わった以上、警察でもなければ難しそうだ。
それにしても、なぜ彼はそんなことを?
「んー、わかんない」
小声で言って頭を抱えた菫の上に、
「何がわかんないの?」
百葉の声が降ってきた。
「へ?」
思わず声をあげて顔を起こすと、
「とっくに終わってるよ? 授業」
腰に手をあてた百葉が、目の前でニヤニヤしている。
「授業中になんかこそこそやってた人は、気づかなかったかもしれないけどー」
「ええ?」
驚いて周囲を見回すと、クラスメイトたちは既に立ち上がって、それぞれにお昼の用意を始めていた。
「スー、お弁当」
大きなランチバッグをぶら下げた朔もやってきて、菫は慌ててノートや教科書をしまい立ち上がる。
「じゃーん。今日の新メニューはねえ」
さっきまでの困り顔はどこへやら。
三人でお弁当を広げながら、菫が得意げに説明を始めた。
「鶏レバーとキウイの、ヨモギモロヘイヤソースがけでーす」
うっ、と百葉と朔が息を詰まらせる。
料理名を聞いただけで消滅する食欲。新メニューの破壊力が半端ない。
「鉄分豊富なレバーの臭みを取るために、長ネギとショウガに加えて、隠し味にチョコレートを! そこにビタミンC豊富なキウイをあえて、ソースにはこちらも鉄分豊富なモロヘイヤをインしちゃった。風味づけにソースにヨモギも加えて、それを干し椎茸の出汁でー」
止まらない魔料理のプレゼンに、
「あ、あのさあスー」
菫の曲げわっぱから目をそらしながら、百葉が口を挟む。
「さっき、何悩んでたわけ? チャイムにも気づかないくらい」
新メニューから菫の関心をそらそうとする百葉が、カッと目を見開いて全力で続けた。
「例の調査? OGのダンナの」
「うん。……でも、無理ー」
思い出して、菫が机の上につっぷした。
「リオの話を聞けば聞くほど、いろんな可能性が出てくるんだよ。全員怪しく見えてくる」
「全員」
巨大なおにぎりを食べながら、驚いたように朔がつぶやく。
「さすがにしんどそうだよねー、リオ君の本気の推理につきあうのは。頭の回転、半端ないもん」
百葉も苦笑したところで、
「えー? 誰の頭の回転の話ー?」
菫の耳に、聞きなれた中性的な声が届いた。
「リオ」
振り向いた菫に、
「わあ、今日もまた独創的だね」
背後に立ったリオがにっこり笑うと、マスクを下げて、机の上の曲げわっぱに手を伸ばす。
「ヨモギの匂いがするー。さては、昨日の草餅にインスパイアされちゃった? うん、おい、し……」
懲りもせず顔を真っ赤にして倒れたリオが、息を吹き返すまでに三分ほどかかった。
「もうさー。ちょっとは学習しなよ、リオ君も」
「……懲りない」
「ごめんね、百葉ちゃん朔ちゃん」
もらったペットボトルの水を飲みながら、
「まだまだ修行がたりないなー、僕」
リオが、介抱してくれた百葉と朔に頭を下げる。
「大丈夫。慣れた」
あっさり言った朔が、いち早くお弁当に戻った。
「リオ、大丈夫? 試食してくれるのはありがたいけど、食べる前にちゃんと椅子とお水準備しなきゃ」
真顔で謎の説教をする菫に、にこにこしながらリオがうなずいているところへ、
「リオく~ん」
妙によく通る声がかけられた。
菫たちの前に、もはやお約束となった茶道部の真百合とその取り巻きが現れる。
途端に、リオの顔からすっと表情が消えた。
「久しぶりー。元気だった? 倫香さんからいろいろ聞いてるよ?」
息つぎなしで真百合に言われたリオが、
「うん」
目を合わさずに答えると、開きかけていたランチバッグを手早くしまった。
「ねえリオ君、倫香さんがさーあ?」
媚びた笑顔で話を続けようとする真百合に構わず、リオが立ち上がる。
「僕、七組に戻るね。じゃあスー、放課後また」
真百合たちには顔を向けずに手を上げると、リオは足早に廊下に出ていった。
「えー? ちょっと、なにあれー?」
遠ざかるリオの背中に、真百合が不満そうな声をあげた。




