5-2.(2)
「こちらが、先日お話ししたお友だちの」
倫香の言葉に続いて、
「副島瑞樹といいます」
二十代半ばくらいに見える男性が軽く頭を下げる。
霜降りグレーのパーカーに細身のブルージーンズ。白いマスクを取ると、整った優しげな顔立ちが現れる。控えめな笑みを浮かべているが、緊張しているのが菫にも伝わってきた。
倫香の二歳下の二十五歳だという彼は、T駅そばに工学部キャンパスのある国立N大学の大学院生で、この春、博士課程に進んだところらしい。
(イケメン院生と年上の美貌の人妻の、不倫カップル……)
菫の頭の中で、センセーショナルな文字が躍る。
菫の向かいのソファに腰を降ろした瑞樹が、菫とリオの視線を避けるように目を伏せた。
キッチンから四人分の紅茶とクッキーを運んできた倫香が、瑞樹の隣に座り真剣な表情になる。
「リオ君、菫ちゃん……好きな人がいるの、私」
背筋を伸ばして切り出した倫香に、
「倫香さん」
瑞樹がうろたえた声を出した。
「大丈夫よ、瑞樹」
倫香が瑞樹の顔に手を伸ばし、目の上にかかっていた髪をそっと横に流す。
「本当のことを話すわ、私。でないと解決しないもの」
きっぱりと言う倫香に押し切られ、年下の愛人が困った顔でうなずいた。
「彼とは、駅ビルの書店で知り合ったの」
倫香が膝の上で両手を組み合わせた。キャンディのようなピンク色のネイルが、部屋の照明を受けて光る。
「一年くらい前になるかしら。ちょうど、主人に生活費を減らされて困り始めた頃。そのお店でバイトしていた瑞樹に手芸雑誌のことを質問したら、丁寧に対応してくれて。それからも何度か顔を合わせる機会があって、そのうちに」
倫香が菫とリオの顔に目をやる。
「汚いって思うかしら、こういう話。でも、遊びじゃないの。主人のせいでボロボロだった私を、彼は支えてくれたわ。今はまだ学生だけど、いつかは私、瑞樹と」
「倫香さん」
瑞樹が倫香の細い肩になだめるように手をかけた。優しい声とは裏腹に、目尻の垂れた彼の目には焦りの色が浮かぶ。
ようやく口を閉じた倫香が、うつむいて細い指で目元を拭った。
「彼の家は、ここから徒歩で二十分くらいのところにあるワンルームなの。あの日、気づいたら私、彼の部屋の前にいて。瑞樹は私の話を聞いて、『君は悪くない』って言ってくれたわ。そのあと、コンビニでわざわざ私の好きなお茶を買ってきてくれて、私が少し落ち着いたところで、一旦この家に戻ろうって」
倫香がそのときのことを思い出そうとするようにあたりを見回す。
「この家に瑞樹が来るのは初めてだった。あのときもあのうるさい犬が吠えて、奥様もベランダに出てこられて……それどころじゃなかったから、ろくに相手にしなかったけど」
倫香が疲れたように髪をかき上げた。
「そのあとは、今までに話した通りよ。主人はいなくて、瑞樹を家に帰して、私は後日警察に。瑞樹には止められたけど」
「まだ早いって思ったんです」
困った顔で瑞樹が言った。
「ご主人は社会的地位のある方だし、財布からパスポートまで貴重品はいつも携帯されていると聞いていたので、外泊されるにせよあまり心配はいらないかと」
「そうよ」
馬鹿にしたように倫香が言う。
「誰のことも信用していないの、あの人は。だから誰からも信用されないのよね」
「……とにかく、そういうわけで僕は引き止めたんですが。彼女の意思は固くて」
苦笑した瑞樹を、
「だけど、あなたの言う通りだったわ」
甘い表情で倫香が見上げた。
「まだ早いって言われたんだもの、警察で。その日だけじゃなく、次に行ったときでさえ。便利なものね、肩書って。たとえ『元』経営者でも」
皮肉な口調になった倫香に、
「ショックだったでしょうね」
リオが静かに言った。
「旦那さんが、知らないうちに会社を手放しておられたとお聞きになって」
倫香が大きくうなずく。
「どうしたらいいのかしら。あの人ったら、私にはほんのちょっぴりの生活費しか渡さないくせに、何もかも持っていなくなるなんて。光熱費なんかは主人の口座から引き落としになっているはずだけど、他にもいろいろ……」
そこで倫香が口調を変えた。
「実家で懇意にしている弁護士の先生には、万が一主人がみつからなかった場合、七年たつと死亡扱いになるって言われたの。それならむしろ、それでいいって、最初はそう思った。あの人と、これ以上顔を合わさずに縁を切れるならって」
「失踪宣告ですね。失踪者は死亡されたとみなされ、残された方々は遺産も相続できる」
さらりと相槌をうったリオに、
(ちょっとリオ、なんでそんなこと知ってるわけ?)
菫はぎょっとする。
「でも」
倫香が首を傾げた。
「これまでの主人の暴言とか、お金を十分もらえなかったことを実家で話したら、それはDVになるって先生が。それを理由に離婚することができるんですって。だったら、なんとか主人をみつけだして、七年も待たずにさっさと別れたいって思ったの」
心なしか目力の増した倫香に、
「なるほど。ああ、そういえば」
思い出したようにリオが言った。
「先ほどは七年のケースでしたが、三年以上の行方不明の場合、裁判で離婚が認められるそうですね。こちらなら七年も待たず、直接やり取りすることもなく、離婚できる」
「……ええ、そうね」
倫香が目を伏せる。
「失礼しました。ご存知だったんですね」
リオがにっこりした。




