5-1.(2)
「お金も体力もある成人男性が行方不明ということについて、現在僕の思いつく理由は三つ。家出、誘拐、そして殺人」
リオが顔の横で指を三本立ててみせた。
“殺人”
なにげなく口にされた言葉に、菫は息をのむ。
「一つ目の家出、これは蒸発って言った方がわかりやすいかな。具体的には、倫香さんが家を飛び出した後で息を吹き返した旦那さんが、自らの意志で家を出て、何らかの理由で倫香さんに居場所を内緒にしている場合。貴重品一式の入ったセカンドバッグと一緒に、なぜか例の“石”を携えて」
リオが首を傾げる。
「家出の理由は不明だけど、これまでの話だと、奥さん以外の女性と一緒に日本より物価の安い国で悠々自適の暮らしをしたいとか?」
「倫香さん、かわいそう」
思わずためいきをついた菫に構わず、リオが続ける。
「二つ目の誘拐については、これはちょっと可能性は低いと思うんだ。身代金目的なら、いまだに犯人側からの要求がないのは変だし、なにより、タイミングっていうか機会が限られすぎてる」
「タイミング?」
菫が不思議そうにリオを見返した。
「第三者による誘拐だとすると、あまりに都合がよすぎるっていうか。無理があると思うんだよね」
リオがうなずく。
「理論上は、倫香さんが四時すぎに家を出てから瑞樹さんと一緒に七時前に戻ってくるまでの、およそ三時間の間に、何者かが家に入って旦那さんをどこかへ連れ去った、ってことになるけど。都合よく、玄関の鍵も開けっ放しだったそうだし」
淡々とリオが続ける。
「ただ、いくら小柄でも、成人男性を拉致するってなかなか大変だよね。それも、相手のテリトリーである自宅で」
いなくなった旦那さんは、百六十センチあるかないかでやせ型だったとは聞いているが、女性や子どもに比べれば特別小さいわけではない。四十一歳なら体力もあるだろうし、大声を出して抵抗されることが想像される。そんな彼の身体の自由を奪って家から運び出すのは、相当大変だろう。
しかも、誘拐する側より家の内部に詳しい分、襲撃時に家のどこかに立てこもられ、その間に警察に通報される恐れがある。
「まあ、旦那さんが気絶したままだったり、意識を取り戻したばっかでふらふらしてたならありえなくもないけど。ただし、その場合でもご近所の目がある。今のところご近所からの通報はないって言ってたよね? 倫香さん」
「不審者情報とかがあれば、さすがに警察も動いてるだろうしね」
菫がうなずく。
「それにそもそも、そのとき旦那さんがひとりで家にいることや、鍵が開いてることを知ってる人が、どれだけいたのかって話」
リオが人差し指を顔の前に立てた。
「その日、奥さんの倫香さんだって予想してなかった時間に旦那さんは帰ってきたんでしょ? その上、倫香さんが突発的に、それも無施錠で家を空けたタイミングで、誘拐の動機を持つ誰かがさくっと旦那さんを誘拐する。ありえないよね、そんな偶然」
「そっかー」
感心してうなずいた菫に、
「最後は殺人」
リオがさらりと続けた。
「んーでも、これはもっと……」
「もっと?」
菫が首を傾げる。
「可能性として、なくはないけど」
リオが顔をしかめた。
「まず、生きたままだろうと死体だろうと、誰かが家から旦那さんを連れ出す、あるいは運び出すのが難しいのは、誘拐のときと同じだよね。ついでに、人ひとり殺すのもやっぱり大変。さらに」
リオの口がへの字になった。
「死体はどこ? って話。いくら小柄でも、殺した成人男性をどこかへ隠すのは大変でしょ?」
腕を組んだリオが、自分の言葉にうんうんとうなずく。
「その道のプロならいろいろとノウハウがあるだろうけどさ。昔ながらの山に埋めるとか海に沈めるとか、最近だと機械でどうにかするとか? でも、今のとこプロが旦那さんに手をかける理由がないんだよね。まあとにかく、生きてたら自分の足で歩いてくれるけど、死体になっちゃうと運ぶのも隠すのも重労働だよねって話。今だと気温が低いから、夏に比べれば保存は楽だろうけど」
恐ろしい内容をさらさらと語るリオを、
(……なんでそういうこと、普通に言えちゃうかな?)
おびえた顔で菫が凝視した。
気のせいか、お人形のような整った顔は、普段より生き生きしているような。
菫の視線に気づいたリオが、
「や、僕だって別にそんな、死体の保存とかに詳しいわけじゃないし!」
慌てたように手を振る。
「決して気分はよくないよ? こんな話」
「でもちょっと、楽しそうだった。神辺君とミステリーの話してたときみたいに」
じとりと見返す菫に、
「あ、スー、ここだよ」
焦った顔のリオが、話をそらすように目の前の住宅を指差した。
話しながら歩いているうちに、ふたりは倫香の家に着いていたらしい。
「ほんとだ」
よくあるタイプの黒い門とその脇の表札を見て、菫はつぶやく。
「小早川」と書かれた表札の下には、音声だけのインターフォンがついている。周囲に防犯カメラは設置されていないようだ。
ベンチャー企業創業者の家ということで豪邸を想像していたが、ごく一般的なサイズの二階建て。建て売り住宅らしく、両隣にも似たような家が並んでいる。
小さな門の数メートル先にある玄関ドアは、北向きの門とは垂直方向に、門を入って右向き、つまり西向きになっており、道路からはドアの中が見えないようになっている。
一階の道路側の壁の高い位置には、玄関の明かり取りと思われる小さな窓がついていた。
と、
「ワンワン! ワン!」
突然、激しい犬の鳴き声が聞こえてきた。
「リオ、あそこ」
小早川家の右隣の家の二階にある広いベランダで、手すり越しに茶色い小型犬が、菫とリオに向かって猛烈な勢いで吠えている。庭のある南側から東側にまで延びたベランダは、隣の小早川家の玄関と向き合っており、毛足の長い小さな犬は、ちょうどそのドアを見下ろす位置で、激しく吠えてはぐるぐると歩き回っていた。
驚いてそちらを見上げていると、インターフォンも押さないのに目の前の小早川家の玄関のドアが開き、倫香が出てきた。今日はピンクとベージュのフェミニンなワンピース姿だ。
「ごめんなさいね、びっくりさせて」
慌てたように言いながら小さな門を開け、倫香がふたりを敷地内に招き入れた。
その間にようやく犬が静かになったかと思うと、
「あらあ、こんにちは」
今度は中年女性の声が降ってきて、菫とリオは再び隣の家の二階を見上げた。
さっきの小型犬を胸に抱えたショートカットの年配の女性が、ベランダから倫香に向かって声を張り上げている。
「こんにちは」
ドアノブに手をかけたまま、困ったような顔で女性に頭を下げた倫香に、
「お友だち?」
女性は赤い縁の眼鏡越しに尋ねると、興味津々という様子で菫たちに目をやった。
「ええ。高校の後輩たちが遊びに来てくれて」
「まああ。そういえばあなた、お茶の先生をしてらっしゃるって聞きましたものね」
「いえそんな、たいそうなものじゃ」
倫香の返事にかぶせるように、
「ねえ小早川さん。それで、ご主人は……?」
眼鏡の奥の目をきょろきょろさせながら、隣家の女性が心配そうな声を出した。
「ええ、まだ」
弱々しく微笑んだ倫香が、身振りで菫とリオを玄関に招き入れる。
「では、ごめんください」
もっと話したそうな隣家の女性に頭を下げて、倫香がすばやくドアを閉めた。