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「えっ?」
菫が思わず声をあげる。
「そんな! ご存じなかったんですか? 倫香さん」
三月に辞めて、七か月後の十月まで知らないなんて。
「そうなの」
倫香が困った顔でうなずいた。
「びっくりしたし、恥ずかしくて腹が立ったわ。どうしてこんな風に、会社の方の前で恥をかかされなきゃいけないのって。私は妻なのに。けど、道理で最近、会社からの問い合わせの電話がなかったわけよね」
「わかりようがないですよ」
慰めるようにリオが言った。
「銀行口座の内容をご存じないなら、社長を辞任したことを隠すのは難しいことじゃない。それが経済ニュースにならず、仕事関係の方と倫香さんがやりとりする機会もなかったら、なおさらのこと。旦那さんはそれまで通り、通勤を装っておられたんですか?」
「まんまと騙されてたわ。『リモートじゃできない仕事もあるんだ』なんて言われて」
倫香がためいきをついた。
「そうなると、ますます主人の行き先がわからなくて。小早川の両親は他界しているし、彼はひとりっ子で兄弟もいないの。親戚づきあいも、過去にトラブルがあったとかで全然ないし、親しいお友だちの名前も聞いたことがなくて」
困った顔で続けると、
「披露宴のお客様や年賀状のやり取りがあるのはお仕事関係の方ばかりだし。家のパソコンは、ウイルスが怖いからってプライベートでは使わない主義で、メールやアプリの履歴を見ようにもスマホは彼と一緒に行方不明」
疲れたようにかぶりを振る。
「丸一日たった火曜の朝になっても連絡がなくて、とりあえず、母に付き添ってもらって警察に相談に行ったわ。瑞樹は反対したけど、主人がどこかで倒れてたりしたら嫌じゃない? 私のせいみたいだもの」
(そういうこともあるか)
菫はますます倫香が気の毒になる。
故意ではなくとも、突き飛ばされて頭を打ったあとで夫の具合が悪くなったとしたら、倫香のせいということになってしまうだろう。
「だけど、おまわりさんには鼻で笑われちゃった」
倫香が目を伏せて微笑んだ。
「四十過ぎた男が夫婦喧嘩で二、三日帰ってこないくらいで、心配しすぎですって。そもそも、気絶だなんて大げさで、ご主人は酔ってその場で眠ってただけじゃないですか、なんて言われたのよ。そんな細い腕で押したくらいじゃどうもしませんよ、って」
苦笑して自分の腕をさすった倫香が、表情を曇らせた。
「だけど、そのまま何日たっても小早川は戻らなくて。迷ったけど、もう一度警察に行ったの。相手はこの前の人より年配のおまわりさんで、今度はわかってもらえるかもって思ったんだけど……」
困ったように細い首を傾げる。
「また追い返されたわ。ご家庭内のトラブルは、下手に警察沙汰にしない方がいいんじゃないですか、って。ニヤニヤしながら」
倫香が肩をすくめた。
「それも一理あるのよね。いくら会社のことは共同経営の方に任せきりで、おまけに退職したとはいっても、これが新聞沙汰になったりしたら会社の評判が」
「旦那さんは、お仕事を任せきりだったんてすか? 共同経営者に」
リオが口を挟んだ。
「ここ数年は、ずっとそうだったみたい」
倫香がうなずく。
「昔は主人がリーダー役だったようだけど。共同経営者の江口さんは、前の会社の後輩だったこともあって、主人に強く出られると言い返せないみたいで。主人は最近、口癖みたいに言ってたわ。株とかを売って、私とは別れて物価の安いアジアの国でのんびりしたいって。若い女性と一緒になるつもりだったのかも。江口さんもそう思ってらしたみたいだし」
「そうお聞きになったんですか? その方に」
リオの質問に、
「さっきの、主人の行き先を探して電話したときにね。例の銀座のお店にも、江口さんたちと仕事で行ったのが始まりだったそうだから。そうそう、『プチFIREだ』とか言ってたらしいわ、あの人。会社を辞めるとき」
倫香が馬鹿にしたような顔になった。
「離婚してもらえるものがもらえるなら、私だってその方がいいけど」
そうつけ加えると、
「これで、話はおしまい。わかってもらえたかしら? 私がどんなに困ってるか」
力なく倫香が笑った。
「……はい」
菫もしょんぼりとうなずく。
(困るよね、貴重品全部持って旦那さんがいなくなるなんて。しかも、知らないうちにお仕事も辞めてて)
「いくら警察沙汰を避けたいといっても、ずっとこのままというわけにはいきませんよね」
リオが静かに言った。
「ええ」
倫香が何度もうなずく。
「一刻も早く主人をみつけ出したいの、私。耐えられないわ。あの家で、あてもなく待ち続けるなんて」
そう言うと、ふとためいきをついた。
「一時は、例の女性と一緒かとも思ったんだけど。あの置物……“幸運の石”を持ち出しているから」
「石を、持ち出した?」
リオが鋭い目になる。




