4-2.(4)
「旦那さんが倒れたときに、出血はなかったんですよね」
落ち着いた声でリオが口を挟んだ。
「ええ。血は出てなくて、眠ってるだけみたいで、なのにあの人、息をしていなくて……まるで、怖い夢の中みたいで。だから逃げ出してしまったんだもの、私。瑞樹のところへ」
倫香がまた両手で肩を抱いた。
「とにかく、慌てて家の中へ入ったわ、私。なにがなんだかわからなかったけど、でもきっと主人は、息を吹き返して家の中で休んでるんだと思って」
その状況ならそう考えるのが自然だろう。倫香の言葉に菫も大きくうなずく。
「ああでも、ひとりで入ったわけじゃないの。瑞樹に家の中までついてきてもらって……今思うと、すごく動転してたんでしょうね、私。そんな状態で、瑞樹を家に入れるなんて」
倫香が苦笑して肩をすくめた。
「そのあとは、これまでにお伝えした通りよ。結局主人は、小早川は、どこにもいなかった」
「えっ?」
菫がふたたび声をあげる。
どこにも、とは。
「家の中はどこも、私が飛び出したときのままだった。あの人の姿がなくなった以外は。キッチンの調理台の上に置いてた、夕飯用のお肉のパックまでそのままだったわ。あの頃はもう気温が低かったから、二、三時間出しっぱなしでもいたんではいなかったけど」
十月中旬の夜といえば、山に近いこのあたりはかなり気温が下がる。
「家を空けていらしたのは、二、三時間だったんですか?」
リオが尋ねた。
「ええ。か……瑞樹が、そう言ってたわ」
倫香が口ごもりながら答える。
「『もう、二時間もたったから』って。瑞樹の部屋でそう言われて、嫌だったけど一旦うちに戻ることにしたの。ずっと鍵を開けたままだと不用心だから、って説得されて。家に着いたのが、七時前だったかしら。主人が帰ってきたのが四時頃だったから、留守だったのは三時間くらいね、やっぱり」
倫香が記憶を辿るように視線を上に向けた。
「だけど結局、主人はどこにもいなかった。まるで、はじめから帰ってきてなんかいなかったみたいに」
不満げに倫香が首を振る。
「そんなはず、ないのに」
リオが無言でうなずいた。
「私の気のせいだ、って瑞樹は言ったわ。主人が、その、息をしてなかったっていうのは。あの人は気絶してただけで、動転した私が彼の呼吸に気づかなかったんだって。胸の上下だって、スーツの上からじゃわからないって」
倫香が口元をゆがめる。
「だって、胸に耳をつけるなんて嫌だったんだもの。でもとにかく、主人が死んだっていうのは私の勘違いで、実際には気絶してただけっていうのが、瑞樹の意見だったの。私が家を飛び出したあとで主人は意識が戻って、どこかへ出掛けたんだろうって」
迷うような目になった倫香が、
「『いくら当たりどころが悪くても、大の男が頭をぶつけたくらいでそうそう死んだりしない』ですって」
一息に言うと、
「でも、そんなはずないって思うのよ。私」
かぶりを振る。
「仮に、死んではいなかったとしても。失神するほど頭をぶつけたのよ? すぐに外出なんてするかしら、それも夜に」
(確かに)
菫は大きくうなずく。
旦那さんはかなり酔っていたとも聞いている。そんなときに自宅で失神などしたら、よほどの用事がない限り、その夜は家で休むのではないだろうか。
「それに、彼はすごく臆病で。だからいつも貴重品を、肌身離さず持ち歩いてたわけでしょう? 銀行印から何から、例のセカンドバッグで」
真百合から聞いていると思ったのか、倫香が菫たちに苦笑した。
(ああ、あの件)
無言でうなずいた菫に、リオが隣から不思議そうな視線を向ける。
「當山さんから聞いてた、その話」
菫が小声で告げると、リオが驚いたように片眉を上げた。
「ごめん、言ってなくて」
真百合の話は、リオに伝えるつもりがなかったから。
困った顔になった菫に、
「いいけど」
面白くなさそうな顔でリオがつぶやく。
「失礼しました。続きをどうぞ」
リオが正面の倫香に目を戻す。
少し冷静さを取り戻したらしい倫香が説明を続けた。
「とにかく、家にいないってことは、瑞樹の言う通り主人は死んでなかったってことよね。だから私、主人がどこかの救急外来に行ったんだろうと思ったの。その日は日曜日だったし、時間も遅かっただろうから。気の小さいあの人が気絶なんてしたら、横になって休むか、病院に行くかだと思って」
家でもみ合いになって倒れたのが午後四時過ぎだから、意識が戻ったときには時間も遅くなっていただろう。
「あの人は弱ってるんだって思ったらね。不思議と、主人のことがあまり怖くなくなったの。もちろん、私のせいで気絶したんだから、顔を合わせたらいつも以上に責められるでしょうね。だけど、主人が死ななかったってわかったら、ほっとしたのと同時に、なんだか怖がるのがばかばかしくなって」
倫香がくすりと笑う。
「いくら男としては小柄でも、私みたいに非力な女に突き飛ばされて気絶するなんてね。全然強くない、あの人。そう思ったの」
遠い目で言う倫香の表情は、妙にすがすがしい。
「それで、その夜はそのまま、小早川が戻るのを待つことにしたの。瑞樹は自分の家に戻らせて。あの人にも自分の用事があるしね。……だけど」
倫香が続けた。
「朝になっても、主人は戻ってこなかったの」
ぎょっとして、菫が目を見開く。
「さすがに心配になって、嫌なこと言われるのを承知で、スマホにメッセージを送ったり、電話をかけたりしたわ。でも既読はつかないし、電話も留守電のまま」
倫香が眉を下げた。
「その日は月曜日だったから、一応、会社にも問い合わせたら……とっくに、この三月に主人は仕事を辞めてるって言われて」