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「え?」
菫が小さく声をあげる。
息をしていなかった。それはつまり。
「主人よ。小早川のこと」
倫香が投げやりな口調になった。
「主人を気づかせようとしたとき、怖かったけど指をかざしてみたの、私。倒れてた彼の鼻先に。思いっきり腕を伸ばして」
倫香が嫌そうに顔をしかめる。
「感じなかったわ、息を。それに胸も……主人はジャケットを着てたから、そんなにはっきりわかったわけじゃないけど。上下、してないように見えた」
倫香が両手で胸を押さえた。
「気づいて、頭の中が、真っ白になって……それで私、そのまま、お友だちのところへ逃げ出してしまったの。幸いまだ家に帰ったときの格好だったから、バッグにお財布やスマホも入ってた。それで、駆け込んだ先のお友だちの家で」
「お友だち、ですか」
リオが口を挟んだ。
はっとしたように口をつぐんだ倫香が、
「……ええ、なにか?」
開き直ったようにリオを見返す。
「なるほど」
うなずいて、リオが続きを促した。
「……その、お友だちの家に行って。ああ、その人はうちから歩いて行ける距離のワンルームに住んでるんだけど」
勢いをそがれながらも倫香が話を再開した。
「というより、うちを飛びだしてふらふら歩いていたら、いつの間にかその人……瑞樹のアパートの前にいて」
(よかった)
菫がほっと安堵の息を吐いた。
(近所に、倫香さんが頼れるお友だちがいて)
こんなにショッキングな目に遭ったあと、頼れる相手が近くにいたというのは、不幸中の幸いといえるだろう。
「その友だちの部屋で、その前に起きたことを説明したの。しばらくして、私が少し落ち着いたところで、一緒に家の様子を見に戻ろうって、か……その、お友だちが言いだして」
舌がもつれたのか、倫香がぎこちなく言い直した。
「タクシーを呼んで、ふたりでうちに戻ったの。近くだからもったいないけど、歩いて帰る元気がなくて」
(倫香さん、かわいそすぎる)
同情のあまり、菫は涙ぐみそうになる。
(怖かったよね。何も悪いことしてないのに)
「瑞樹に頼んで、先に玄関に入ってもらったわ。どうしても、どうしても怖くて。ちょうどドアの鍵も開けっぱなしだったし。それが気になって戻ったのよね、元々。そしたら」
そこで倫香が、唇を噛んで目を伏せた。
厚手の白いテーブルクロスの上に置いた両手が、固く握りしめられる。
「――いなかったの、あの人」
「え?」
菫がぽかんと口を開けた。
隣ではリオも、さすがに驚いたように目を見開いている。
倫香が、険しい表情でふたりを見返した。
「いなかったの、主人が」
眉をひそめて、小さくかぶりを振る。
「私だって信じられなかったわ。倒れてた場所、ええとだから、玄関を入ってすぐの廊下には、彼の姿も……血の跡も、とにかく何もなくて」




