4-2.(2)
「さっき言った通り、主人とはずっと折り合いが悪くて」
倫香が急に小声になった。
「家庭内別居みたいな状態だったの。元々、彼はカレンダーや私の都合に関係なく、仕事も遊びも自分がやりたいときにやる人だから、家にいる時間や曜日もまちまちで。……それに、どうやら夜のお店に女性がいたみたいで」
(うわあ)
眉間にしわを寄せた菫の隣で、
「不妊治療中の妻に暴言と経済DVをはたらいておいて、ご自分は浮気」
淡々とリオが言う。
大きくうなずいて、倫香が続けた。
「先月のその日は、日曜日だったわ。夕方、家に帰ってきた小早川と喧嘩になって。買い物から帰って玄関先であれこれ片づけてたときに、運悪く主人が帰ってきたの」
倫香がためいきをついた。
「まだ四時くらいだったのにお酒の匂いをさせてたから、思わず私、嫌な顔をしちゃって。そしたら、誰のおかげで飯が食えると思ってんだって怒鳴られたの。けど、あの人が仕事って言いながら遊び歩いてるって知ってたのよ、私。会社の人から、何度も電話がかかってきたんだもの。社長は今どちらですか、って」
思い出して改めて腹が立ってきたのか、倫香が険しい顔になる。
「だからそう言ったら、カッとなった小早川が……信じられないわ」
倫香が両手で自分の肩を抱いた。
「靴を履いたまま上がり框に上がってきて、殴ろうとしたのよ、私のことを。赤い顔で、お酒臭い息を吐きながら。前にも殴られそうになったことがあるから、私も必死で」
「そんな。倫香さんみたいな華奢な人に?」
ショックで目を見開いた菫に、
「ふふ。チビなのよ、あの人も」
倫香が顔に冷たい笑みを浮かべた。
「お見合いのときは百六十五センチって言ってたけど、ほんとは百六十もあるかどうか。細いのに、お腹だけは出てて。若い頃はそれがコンプレックスだったみたいで、その反動か、仕事で成功したらお金をひけらかすような遊び方を始めたみたい」
吐き捨てるように言うと、
「……それで私、そのとき、殴られる前にこっちからやらなきゃって、思いっきり主人を突きとばしたんだけど」
倫香が話を元に戻した。
「反撃されるなんて、思ってもいなかったんでしょうね。主人は仰向けに倒れたの。元々、酔ってふらついていたし。……それで運悪く、廊下に置いていた置物に頭をぶつけて」
「置物?」
不思議そうにリオが尋ねた。
「ええ」
倫香が嫌そうに眉をひそめる。
「こう、手のひらに乗るくらいの大きさかしら。白っぽくて台座のついた、水晶玉みたいな石なの。“幸運の石”って小早川は言ってたわ」
「幸運の石」
菫が目をまるくする。
「銀座のお店で女の人にもらったんですって。ほんと、バカみたいよね」
うんざりした顔になった倫香が、
「うさんくさくて、嫌で嫌で仕方なかったわ。お掃除の邪魔だし」
ためいきをついた。
「しかも、よりによってその石に頭をぶつけるなんて。まあ、石がなくてもフローリングにはぶつけてたんでしょうけど。それはともかく」
一呼吸置くと、
「ばたんと廊下に倒れて……目を閉じたまま、動かなくなったの。あの人」
倫香の口調が変わった。
「いくら呼んでも目を開けなくて。それを見て、私、怖くなって」
その場面を思い出したのか、小さな顔からは血の気が引いている。
「血は出てなかったと思うから、脳震盪でも起こしてたのかしら。とにかく心配で。ほら、打ちどころが悪くて、ってこともあるじゃない? 頭って。それで私、なんとか主人を気づかせようとしたんだけど」
倫香が顔をしかめた。
「途中で急に、怖くなったの。主人は気絶したふりをしてるだけで、私がそばに行ったらカッと眼を開いて、また髪を掴んで殴ろうとするんじゃないかって。前のときみたいに」
「……倫香さん」
呼吸が浅くなった倫香に、菫が心配そうに声をかける。
「『やっぱり馬鹿だなお前は!』って。いつもみたいに、下品な声で笑うのまで聞こえてきそうで」
小さな手で、倫香が顔を覆った。
「だけど同時に、主人が死んじゃってたらどうしようって考えも起こって」
「パニックを起こしたんですね」
リオが静かに言った。
「……ええ。きっとそうね」
倫香がゆっくりと顔を上げる。
「とにかく怖くて……そのまま私、家を飛び出してしまったの」
「そうだったんですね」
リオが落ち着かせるように相槌をうった。
「すごく怖かった……それに……」
倫香の目が、逃げ場を探すように左右に揺れる。
「ここから先は、記憶がはっきりしないの。だから、私の勘違いかもしれないのだけど」
「構いません」
リオがうなずく。
「……息を、していなかったと思うの。あの人」
ささやくような声で倫香が言った。




