4-2.(1)
「ごめんなさいね。突然、こんな」
「いえ」
倫香に細い眉を下げられて、菫は焦ってかぶりを振る。
高校の最寄り駅であるT駅前の、ホテルのティールーム。その奥にある個室で、菫はリオと並んで腰かけ、「倫香さん」こと茶道部OG・小早川倫香と対峙していた。
聞こえるか聞こえないかの音量で流れるクラシックと、紅茶の香り。
席に着いてマスクを外した倫香は、ほっそりしたあごと花びらのような唇の持ち主で、マスクイケメン/美女を見慣れた菫を感動させた。
菫とリオの前には、湯気を立てる紅茶と、美しく盛りつけられた「季節限定・和栗とチョコレートのスペシャルパフェ」が並んでいる。セット価格税抜三七八〇円、菫のおこづかいではちょっと厳しいスペシャルなおやつだ。パフェの先にはもちろん、感染症対策のアクリル板が設置されている。
校門の前で待ち伏せしていたらしい倫香に頼まれて、話を聞くだけという約束で、ふたりは彼女とここでお茶を飲むことになった。
例の「探偵ごっこ」は断ると固く決心していた菫だったが、十も年上とはとても思えない少女のような風情の倫香に「頼れる人が、おふたりしかいなくて」と涙ぐまれると、どうしても断りきれなかったのだ。……断じて、高級パフェに釣られたわけではない、と思いたい。
「ごめんね、リオ」
泣き落としに弱い自分につきあって、文句も言わずここまで来てくれた隣の席のリオに、菫はこっそり耳打ちする。
バラの模様のティーカップに口をつけていたリオが、ちらりとこちらに目をやって微笑んだ。茶色い睫毛が、白い頬に淡い影を作る。
「急な話におつきあいくださって本当にありがとう。おふたりとも、とっても親切なのね。茶道部の當山さんに聞いた通りだわ」
向かいの席で、倫香がはかなげに微笑んだ。
(當山さんめ、勝手なことを)
菫は胸の中で毒を吐く。
「恐れ入ります」
隣のリオがにこりと笑うと、
「どんな話を聞かれたのか、わかりませんけど。僕たち、當山さんとはあまり親しくなくて」
けん制するように言った。
「あら、そうなのね」
それをさらりと受け流した倫香が、優雅な仕草でカップを手に取り、パフェの代わりに頼んだハーブティ―を一口飲む。
「霧矢君は、家柄も成績も素晴らしい上に、すごい推理力を持った男の子だって聞いてるわ。甲斐さんは、そんな霧矢君ととっても仲のいい幼馴染だって」
「僕に関しては買い被りですね」
苦笑して、リオがテーブルの上で手を組んだ。
「率直に申し上げて、ご期待に沿えるとは思えませんが。それでもよろしければ、お話をうかがいます」
「ありがとう」
気落ちした素振りもみせず、倫香が笑みを浮かべた。
「私のことは、名字ではなく名前で呼んでいただけると嬉しいわ。私も、下のお名前でお呼びしてもいいかしら? ええと、リオ君と、菫さん?」
交互にふたりの顔に目をやった倫香に、
「もちろん」
リオが白い顔に「社交用」の笑みを浮かべる。菫も慌ててうなずいた。
「じゃあ、早速だけど」
倫香がカップを脇にやり、正面のリオに向かって身を乗り出した。
倫香の本気を感じて、菫は背筋を伸ばす。
「主人がいなくなったのは先月、十月の十八日なの。名前は小早川元、四十一歳。いわゆるベンチャー企業の共同経営をしていて、私とは十四歳離れています」
どことなく後ろめたそうな顔になった倫香が続けた。
「私、親の勧めでお見合いしてすぐに結婚したの。大学を出て父の会社の関連会社に入って、一年もしないうちに寿退社。子どもは、残念ながらまだ」
倫香が諦めたような笑みを浮かべる。ピンクのリップを塗ったあどけない顔は、子どもを持つような年齢には見えない。
菫にはよくわからないが、二十二、三で結婚して二十七の今まで「残念ながら」授からないということは、なにか妊娠しにくい状態なのかもしれない。
「春田町ってわかるかしら。家はそこなの。結婚が決まってすぐ、主人は私に相談せずに戸建てを購入していて。気づいたときにはもう、式の日取りも決まっていて、話が違うって言ったのになんだかんだと言いくるめられて」
春田町は、このT駅から徒歩で五、六分の場所にある落ち着いた住宅街だ。菫たちの高校にも近く、倫香が茶道部の練習を手伝いに来てくれるというのもわかる。
とはいえ、ベンチャー企業の経営者が住むには少々意外というか、地味な立地という印象は免れない。ターミナル駅であるZ駅に直通の電車があるこのT駅は、住んでみれば案外便利な場所ではあるけれど。
「結婚後、夫はよく言ってたわ。子どもが小さいうちは田舎でのびのび、小学校からは資産運用も兼ねて都内のタワマンに移るって。……私には、ひとことも相談なく」
不意に、倫香が眉をひそめた。
「最初から、あの人は私になんて興味なかったのよ。私の実家のそばに家を建てようとか、年に二回は海外旅行をとか、調子のいいことを言ってたのは式を挙げるまで。結婚の目的は、うちの父のS製薬副社長っていうコネクションと、若い妻を世間にみせびらかしたかっただけ。それに何より、子ども」
「……あの、倫香さん?」
急に激しい口調で夫を非難し始めた倫香に驚いて、菫は思わず声をかける。
「モラハラっていうんですってね。主人みたいなのを」
頬を紅潮させて倫香が言った。
「簡単に言えば、嫌がらせ。……結婚してしばらくしても妊娠しなくて、私たち病院に行ったの」
いきなり超プライベートな話題になり、菫は困って隣のリオに目をやる。
リオは動じた様子もなく、倫香の話に耳を傾けている。
「私の方に少し、妊娠しにくい傾向があるみたいで」
悔しそうに倫香が続けた。
「その頃からよ。『何の取り柄もない女と、若いからすぐ妊娠するだろうと思って結婚したのに、不妊なんて想定外だった』って。冗談みたいな言い方ではあるけど、しょっちゅう言われるようになって」
「そんな」
思わずつぶやいた菫を、
「ありがとう、菫ちゃん」
涙を浮かべた目で倫香が見上げた。
「他にも、いろんなことを言われたわ。妊娠できないのは、結婚前に他の男性となにかあったせいじゃないかとか。とんだ金食い虫だとか。私が専業主婦になるのは、お見合いのときからの約束だったのに」
「それはひどい」
リオが低い声でつぶやく。
「しばらく通院したけど、なかなか結果が出なくて今はお休みしているの」
倫香が続けた。
「そのうち、子どもがいないならこんなに必要ないって生活費も減らされるようになった。家計は全部主人が管理してて。仕方なく、この一年くらいは使わなくなった昔の服やバッグをフリマアプリで売ってお金にしてきたの。他にも、ビーズで作ったアクセサリーを売ったり」
「ご実家には相談されなかったんですか?」
尋ねたリオに、倫香がかぶりを振った。
「うちの親はふたりとも古風で、それまでになにか相談しても、とにかく我慢しなさいって言われてたから。経営者はストレスが多いものだからって。でも、主人がいなくなってからは……ああ、いけない」
われに返ったように、倫香が顔の前で手を合わせる。
「その前に、主人がいなくなったときの話をしなくちゃね」
「ええ、ぜひ」
リオがうなずいた。