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「聞いて聞いてー!」
昼休みが始まったばかりの教室。
友だちと一緒にお弁当を食べるため机を動かしながら、甲斐菫は弾んだ声をあげた。
「久々の新作なんだ!」
白いマスクの上からのぞく、くりっとした目。制服の紺のブレザーの背中で、癖のない黒髪のポニーテールが揺れる。
「ああ……お母さん、出張?」
微妙な笑顔で答えたのは、モーブピンクのマスクをつけたダンス部の岩田百葉。複数開いたピアスと明るい色のツインテールが印象的だ。
「そうなの」
力強くうなずくと、菫がもうひとりの友だち真柴朔を見上げる。
「もー、楽しみで楽しみで。昨日は二時まで考えちゃった、新メニュー」
「……すごいね」
百葉と同様困ったように微笑んだ朔が、そっと目をそらした。
長身でショートカット、日焼けしたノーメイクの顔に、菫と同じシンプルな白マスク。ビジュアルも口数の少なさも百葉と対照的な彼女は、少林寺拳法部のエースだ。
「さすが元料理部だよねー」
朔に同調した百葉の目も、わかりやすく泳いでいる。
私立・櫻森学園高等部。
昼休みを迎えた二年八組の教室では、生徒たちがあちこちに集まって昼食をとっていた。
「こういうの、正直どこまで効果あるのかわかんないけどさー」
三つ合わせた机の間に手際よくアクリル板を立てながら百葉が言う。
「お金ある学校でよかったって思うよね。おかげでしゃべりながら食べれるもん」
視線の先には、感染症対策のため各自の机の上に設置された超高性能小型空気清浄機。磨きこまれた床や高い天井のあちこちでも、大型の空気清浄機が動いている。
九十九・九パーセント以上のウイルス除去効果を誇るこれらの対策により、この学園では従来通り、友人たちと会話をしながら食事を楽しむ環境が保たれているのだ。
「都立高校行った子に聞いたんだけどさー、お弁当は“黙食”だって」
百葉の言葉に、
「なにそれ?」
菫は首を傾げた。
初等部から持ち上がりの菫や朔と違い、百葉は高校受験で入ってきた外部生だ。
「感染予防に、黙って食べんの」
百葉が眉をひそめる。
「それも、机もくっつけないで、みんな授業中みたく前向いたまま食べるんだって」
「……きつ」
朔が目を見開く。
「そういえば、うちの雪弥と美月も、ピアノ教室の友だちからそんな話聞いてきてた」
思い出した菫も大きくうなずいた。
「休み時間も、地元の小学校ではあんまりくっついて遊ばないよう言われてるみたい」
年の離れた双子の弟妹が、近所のピアノ教室で仕入れて来た話だ。
「予防のためならしょうがないけど、そんな我慢してんのに大人は飲み会とかやってんのが腹立つよねー」
百葉が顔をしかめる。
窓際の菫の机を後ろ向きにしたところへ、向かい合わせにした百葉と朔の机を合わせ、三人はアクリル板を挟んでそれぞれの昼食を開いた。
春先からの、新型コロナウイルス感染症の世界的な流行。
この櫻森学園高等部でも、一時は様々な制限を強いられたが、裕福な家庭の生徒が多く知名度も高い、いわゆるセレブ校ならではの資金その他を活かし、アルコール消毒やアクリル板から一人一台以上の超高性能空気清浄機の設置まで、可能な限りの様々な対策を講じることによって、十一月初めの今では、ほぼこれまで通りの学校風景を取り戻している。
例年と異なるのは、換気のために一日中窓が開けられていることくらいだろうか。
向かい合わせの二つの机の短い辺に面した、いわゆる「お誕生日席」である菫の右斜め前、窓を背に座った百葉のうしろで、校章入りのカーテンが風に揺れている。
菫は通学用のリュックから水玉模様のランチバッグを取り出した。
今月半ばに部活動を引退したばかりの、料理部元部長の菫の趣味は、料理・スイーツ作り全般。中でもお弁当の新メニューの開発には、部活のなくなった今も情熱を燃やしている。
だが、その内容にはいささか難があり、普段のお弁当作りは母親の厳格な監視下で行われているのが不本意なところだ。
住み込みのお手伝いさんがいるセレブ家庭の生徒も多い櫻森学園に通う菫だが、サラリーマンと大学教授の共稼ぎ夫婦である両親の暮らしぶりは堅実で、毎日のお弁当は主に母親が担当している。
そんな母親の不在時は、おっとりした父親に頼み込んで、自由に創作の翼をはばたかせる絶好のチャンス。
「じゃーん。今日のお弁当はねー」
さりげなく話題をそらそうとした友人たちの気も知らず、菫は自慢の曲げわっぱの蓋を開けて、渾身の新メニューを説明し始めた。
「甘じょっぱく煮たプチトマトとこんにゃくと金柑を、疲労回復効果の高い豚肉で巻いてー。その上に、野菜の王様・ブロッコリーと岩海苔の、ガーリック風味のソースを……」
「……」
「……」
自由すぎて恐怖でしかないその内容に無言でおののきながらも、怖いもの見たさでつい弁当箱の中に目をやってしまう、百葉と朔。
渋い曲げわっぱの中で、「豚ロースの、甘じょっぱく煮込んだプチトマトとこんにゃくと金柑巻き~ブロッコリーと岩海苔のガーリックソースを添えて~」が、謎色のソースをまとってつやつやと輝いている。
出張中だという菫の母親に知られたら、味とコストと食文化という多方面からの説教必至だ。
「……ええと、スーってさ。料理研究家、目指してるんだっけ?」
こわばった笑顔で尋ねた百葉に、
「いやー、そこまでは決めてないけど。レシピのストックは、できるだけ貯めとこうかなって」
菫が照れ笑いした。
「それに、単純に楽しいしね。栄養価が高くて美味しくて斬新な組み合わせ考えるの」
ピュアな目で続けた菫に、
「……そっか」
絶望と慈愛の入り混じった表情で朔がうなずく。
友人のピュアな心を傷つけたくないのはやまやまだが、栄養価と斬新さはさておき、美味しさが一向に見えてこないのはいかがなものか。朔と百葉は目を見合わせてそっと肩を落とした。
そこへ、
「えー、それ何ー? 食べていい?」
菫の背後から、柔らかな声が掛けられた。
「リオ」
振り向いた菫が目を見開く。
「どうもー」
いつのまにか菫の後ろに立っていた細身の男子生徒が、三人に向かってひらひらと白い手を振った。
マスクをつけていてもわかる、甘く華やかな顔立ち。色白というより全体的に色素が薄いようで、大きな瞳は明るい琥珀色、ウェーブのかかった柔らかそうな髪も茶色がかっている。
ぱっとスポットライトが当たったような引力を持つ彼に、
「あー! リオ君じゃん」
「今日もかっこいい!」
気づいた派手な女子たちが、教室のあちこちで騒ぎ始めた。他の生徒たちも、菫たちの方に目をやる。
周囲のそんな雰囲気とは対照的に、
「また来たの?」
椅子に座ったまま彼を見上げた菫が、ややぞんざいな口調で言った。
「もーリオ、うちのクラスばっか来てて大丈夫? ちゃんと自分のクラスに友だちいる?」
「だって、スーに会いたくなったんだもん」
菫のすげない態度に動じず、リオと呼ばれた男子生徒が三人の机に近寄り、猫のような目を細める。