気が付いたら封印されてて目が覚めたら明日は結婚式だと言われた件について
──ドカン、という音が遠くから聞こえた気がした。
「起きて、蜩」
誰かが肩を揺する。
ゆっくりと目を開ける。随分寝ていた気がする。頭がまだはっきりとしない。
ぼんやりとしたままの視界に美丈夫が映りこんだ。
黒鳶色の髪に臙脂色の瞳をした男だ。10代後半くらいだろうか。まだ若い。顔立ちは涼しげに整っており、私を見る視線は真剣だ。
──誰だろう。
小さく首を傾げると、男はほっと息をついた。
「立てる?」
差し出された手を取る前に、今の状況が気になった。
辺りを見回す。
私は床に座り込んでいた。白い壁、白い床。それだけしかない、白い小さな部屋だ。
壁に穴が空いていること以外は、ただの部屋である。
ここが何処だか分からない。全く見覚えがない。
身動ぎすると床についていた片手が動いたからか、カチャリと音が鳴った。
ぺたりと座り込んだ横に、長い鎖のついた手錠がある。
なんだろうと手を伸ばせば、目の前で弾けた。
「!?」
突然の出来事にびくっと肩を揺らすと、男が言う。
「触らないで。そんな忌々しいの」
男は道端の塵芥を見るような目付きで手錠だった残骸を見ている。
すっとその視線が私に移され、一瞬ひやりとしたが、男の表情は優しげなものに変わっていた。
「立てる?」
もう一度手を差し出され、今度は自分のそれを重ねた。
男は私の手をしっかりと掴むと、そのまま引き上げて─……
「ひぇっ!」
「ほら、ちゃんと捕まって」
横抱きに、された。
それどころかぎゅうと潰れそうな程に抱きしめられる。
流石に壊れてしまうのではと焦り、辛うじて自由になる左手で男の腕をとんとんと叩けば、男はゆっくりと弛緩した。
「……漸く。漸くだ」
「え?」
男が何かを言った気がして、その顔を仰ぎ見れば男はまるでとびきり機嫌の良い猫のような顔で笑った。
───その顔、もしかして。
見覚えのある笑顔に、私は彼がもしかすると知っている人物なのではないかと気付く。
口を開きかければ男の顔が近付き、ちゅ、という軽い音を立てて私の口の横に口づけを落とした。
「なっ、え…、は…?」
「本番は、ちゃんと明日まで我慢するから」
「え…………?」
私の頭の処理速度を超えて最早ついていけない。
だらしなく口を開けて男を見上げるしか出来ない私を横抱きにしたまま、男は壊れた壁から長い足で悠々と外に飛び出した。
その頃にようやく私の頭が追いつき、彼の名前を呼んだ。
「白夜様…?」
男は正解だとは言わなかったが、またあの笑顔を浮かべたから、私は自分が正しかったのだと知ることが出来た。
「結婚式は明日だからね、蜩」
***
白夜様との関係を述べる前に、私について語るべきだろう。
私─蜩と名付けられたこれは、人ではない。
人の形を摸し、人に近い思考回路と感情を持ってはいるが、私は人によって作られた人形である。
この世には異能という、只人が持たない不可思議な力を持つ人間がいる。
ある偉大な能力者によって作られた人形のうちの一体、それが私だ。
私以外にも同じような人形はいたが、全て破棄または壊れている。なので彼によって作られた人形の中で、未だに動いているのは私だけ。
私たちは作られてはいけなかった人形、らしい。
私を作った偉大な能力者は、私たちを強く作った。人間なら壊れてしまう力にも負けず、どんな人間すら返り討ちに出来るほどの力を持たせた。
それは、人間同士の争いを抑止するためだった。
能力者同士の争いは苛烈を極める。
能力者は己自体が武器のようなものだから、少し考えれば予想はできる。
かの偉大な能力者が生きていたときは能力者同士の諍いが特に酷く、有名な能力者の家が何家も断絶した。なぜ諍いがあったのかは知らない。
ただ多くの人間が死んだことは知っている。
一族郎党皆殺し、例え異能を持たない赤子であっても殺された。些細なきっかけから血を血で洗う抗争になり、誰も止めることは出来なかったという。
それを嘆き、阻止するために作られたのが私たちだった。
人間同士では止める人間にも被害が及ぶ。かの偉大な能力者でさえ、人間同士の柵を断ち切ることはできなかった。
しかし、人形ならばそれもないだろう。人形は家に属しておらず独立したものであり、復讐も生まれない。大きな力を見せつければ、争いも生まれなくなるのではないだろうか。そんな理由で作られた。
そしてその目論見は成功した。
自分たちよりも大きな力─特に殺戮に長けた力を持つ人形達を、人間は畏怖した。
争いは生まれなくなった。共に支え合う道を人間は歩み始めた。
私たちを作った偉大な能力者はそれを見届け、平和な未来を思い描き安心して息を引き取った。
それでもその平和に染みは生じた。
問題は、人形たちが強すぎて、かつ半永久的に活動してしまうことだった。
私たちは、私たちに攻撃した人間を対象とする。つまり攻撃さえしなければ、私たちからは何もしない。そんなふうに作られたが。
人間同士で平和になると、私たちの存在は邪魔でしか無かった。
いつ爆発するか分からない爆弾を持たされたようなものだから、その憂いは当然だろう。
色々な人間が私たちを壊そうとした。時にはそれによって人間同士の仲が深まることもあった。
人形は5体いた。
結局壊せたのは、4体だけだった。
能力者の力は平和になるにつれて弱まっていった。
残る一体(私)を壊せる力を持つ者は、もう生まれなくなってしまった。
だから私は私がいつか壊れるその日まで、偉大な能力者の家で人に恐れられながらお世話になっていたのだが。
「………世話係、ですか?」
思わず裏返ってしまった声で聞き返せば、微かに顔を青くした残夏家16代目当主はこくりと頷いた。
「左様。5年前の春先に生まれた幼子、それの世話をお前に命ずる」
何度も季節を繰り返したせいで記憶は曖昧だが、5年前の春先に誰かが生まれたらしい。それの世話を私が…?
「なぜですか?」
不思議に思うのは当然だろう。
誰からも恐れられる過去の遺産。それが私だった。
それに未来ある幼子の世話をさせるとは正気の沙汰ではない。人間にとって子供は宝のはずだ。わざわざその命を危険に晒すなどおかしな話だった。
「…………それは…」
16代目はそう言って口を噤んだ。
こころなしか顔色が先程よりも悪くなっているが、その理由は分からなかった。
視線をうろうろとさ迷わせたまま一向に口を開かない彼に私はため息をついた。
彼の肩が恐れを成したかのように揺れたが、自然な反応なので気にはしなかった。
「分かりました。16代目様の御命令に従いましょう。
その幼子の名は?」
「………残夏、白夜という」
「本日からお世話をさせて頂くことになりました。蜩と申します」
額を床に伏したままそう名乗る。しかし待てども返事は返ってこない。
頭を上げると、背を向けたままこちらの様子など全く気にせずに庭を眺めている幼子がいた。
「………白夜様」
名前を呼ぶとようやく振り返る。
その目は幼子とは思えないほど光が無かった。
まるで世界の全てに興味がないかのように。
「……だれ?」
「っ」
息を飲む。
目が合って初めて分かった。
この幼子、白夜様の持つ膨大な力。
平和になったこの時代では禁忌とも呼べるほどの大きな力に。
私たち人形が爆弾なら、この幼子はそれ以上。核兵器級だろう。
16代目様がなぜ言葉を詰まらせたのか、なぜ私のような危険物に世話をさせようと思ったのか、そのとき漸く合点がいった。
「お初お目にかかります。人形の蜩と申します」
「…」
無言の白夜様に1歩近づくと睨まれた。
「いらない」
「命令ですので」
そう言えば白夜様の周囲でぱちぱちと電気の爆ぜる音がした。
「っ」
彼自身の大きすぎる力が高ぶった感情によって溢れているらしい。
しかも白夜様が制御しているのか、私に触れるギリギリの部分に浮いている。この幼さで驚くべき操作力を持っているようだ。
──しかしまだ十分には出来ないのだろう。
力の塊─小さな電気の塊が私の髪にあたりバチリと音を立てて爆ぜる。白夜様が思わずと言ったふうに「あ」と小さな声を上げた。
髪がそこだけ弾け飛んだ。まるで銃に撃たれたかのような焦げ臭いにおいがただよい、右側の毛先が左に比べて短くなった。
それに呆然とする白夜様はきっと心優しい人間なのだろう。
私は心の中で小さく笑った。
──私を壊せるとしたらこの幼子しかいない。
「大丈夫ですよ、白夜様。私は人形なので」
顔面蒼白の白夜様の前で自分の髪が元に戻る。
人形は核を壊されない限り、こうして自動で補正能力がかかるのだ。ある程度の欠損までだが。
「おまえは…?」
漸く私自身を見る小さな子供。
この幼子の大きな力は今の能力者達には荷が重すぎたのだ。
現に彼の周りに人間は誰もいなかった。
この幼さで両親すら面倒を見ることを恐れたらしい。誰も近寄ろうとしなかった。
「お初お目にかかります。人形の蜩と申します。これからよろしくお願いいたします、白夜様」
彼はそれ程恐ろしく、危険な生き物だった。
けれどそれは壊れてもいい人形には相応しい役目だった。
きっとこれが最後の務めになるだろうと予想した。
最後まで精一杯彼と向き合い彼の力となろう。
彼が私を破壊できる力を身につけられるように。
そう誓った。
「白夜様、本日はどれになさいますか?」
「今日はこれがいい」
「はい、畏まりました。ええと、『かぐや姫』ですね」
白夜様は本を読み聞かせることを好んだ。
毎日庭を見てぼうっとしている彼に、「読書でもいかがですか?」と声をかけたのは最近のこと。
「ほん?」
「ええ。白夜様は何かお好きなジャンルはありますか?取り寄せを頼みましょうか」
「ほんって、なに?」
きょとんとこちらを見返してくる臙脂色の瞳に、私は絶句した。
日がな一日庭を眺めて退屈しないのかと思っていたが、もしかしてこの幼子は。
ふと思いついてしまった疑問を口に出す。
答えは案の定だった。
「白夜様は庭を眺めているのがお好きなのですか?」
「べつに。ほかにすることがないから」
興味のあるなし以前に、知識がない。
彼は娯楽の類を一切知らないようだった。
読書も、歌留多などの遊戯も、他の子供と遊んだことも、ひとり遊びも。
何一つ、知らなかった。
それを知ったとき、私は初めて彼を哀れだと思った。
彼は核兵器のような凄まじい力を持っているが、私とは違って人間だ。
人間は人間の中で共に支え合って生きるべきだ。
今は幼いから力の制御も不安定だが、彼自身が自分の力を制することができれば、彼はきっと偉大な能力者に並び立つほどの大器となるだろう。
その時にはきっと、他の人間も彼を讃えるはずだ。
だから彼のそばに人がいないのは一時的なことのはず。
だが人間同士のコミュニケーションは一朝一夕で身につくものでもない。
人間がこの幼子を恐れるというならば、私が代わりに彼に常識やコミュニケーションの方法を教えるしかない。
私が考えている間も辛抱強くじっとこちらを見ている幼子に、私は告げた。
「では、僭越ながら私が読書を教えましょう。読み聞かせ、などはいかがでしょうか?」
それから、幼子は読書という娯楽を覚え、読み聞かせを私にせがむようになった。
「そして、今度はかぐや姫は蓬莱の玉の枝を求めました」
「ほうらいってなに?」
私は少し考える。
私が作られてから、およそ何百年も経つが、このように子供の相手をする事はほとんど無く、そのため子供向けの言葉選びがよく分からない。
悩んでどうにか「天国、のような素晴らしい場所です」と答えた。
「どうして無いものだってわかっているのに、この人たちはうそをつくの?」
「……それは、それほどまでにこの人たちがかぐや姫と夫婦になりたいからだと思います」
「めおと?」
つい古い言い回し担ってしまった。
慌てて現代だとなんというか考えて訂正する。
「今風に言うと、結婚です」
そう言えばまだ聞き馴染みのある言葉だったらしく、一度白夜様は納得されかけたようだったが。
「どうしてけっこんしたいの?けっこんって、なに?」
再び閉口した。
人間の慣習を人形が人間に教えるというのは変な話だが、私しか答えられる者もいないのだから仕方ない。
なるべく子どもにも分かるような言い回しを考えて。
「結婚というのは…想いあった男女が……ええと、好きな人同士が、ずっと一緒にいる約束、でしょうか」
そう言うと、「ふぅん」とよく分からなそうな返事が返ってきた。
2人で歌留多もした。
「流石に二人でババ抜きは無理がありましたね…」
自分と相手しかいないから誰がババを持っているかすぐに分かってしまう。
よく考えたら分かる事だったのに、そこまで考えが至らなかった。
苦笑して札を纏めていれば、白夜様はそんな私に言った。
「にわを見ているよりはおもしろかった」
「……そう、ですね。
次は神経衰弱でもしましょうか。これならきっと、二人でも楽しめますから」
白夜様はひとりぼっちだ。
私のような人形としか遊び相手がいないことが不憫でならなかった。
ちなみに白夜様は記憶力がずば抜けて良いらしく、神経衰弱はとても強かった。
私は得意では無いので全く相手にならない事が申し訳なかった。
きっと私が相手では面白みがないだろうに、それでも白夜様は歳を重ねても度々私と神経衰弱をしてくれた。
「私が相手ではつまらなくないですか?」
ある時意を決してそう聞くと、白夜様は心外だとでも言うように不機嫌そうな顔をした。
「つまらなかったら何回もやったりしないけど」
それは言外にも私の相手がつまらなくない─つまり楽しいと仰ってくださったようで、私は密かに嬉しかった。
2人で色んな遊びをした。
白夜様が長じるに連れてその遊びも変化していった。
歌留多は勿論、あやとり、囲碁、チェス、将棋─…白夜様はいつしか一人でも庭をただ眺めていることは無くなった。
あの世界の全てに興味がないかのような、輝きのなかった瞳に少しずつ煌めきが生まれているように見えた。
……それはただの私の願望かもしれないが。
「あれの様子はどうだ?」
16代目様には定期的に報告を求められた。
「はい。健やかにお育ちです」
そう答えると、探るようにじっと見つめられた。
「能力の方は安定してきたか?」
「はい。白夜様は素晴らしい才能をお持ちです。
このまま長じれば、私を生み出したかの偉大な能力者に並び立つ日も来るでしょう」
決してお世辞ではなく、本当に白夜様はそれ程の才能があった。
異能というのは、力の大きさは勿論だが、本人の操作力が何よりもものを言う。
操作力が低いと大きな力を持っていたとしても宝の持ち腐れで、大した能力は使えない。
白夜様は大きな力とともに素晴らしい操作力を持っていた。
それは私を含めた誰かが教えたわけでもなく、彼が自然と身に付けたようだった。もしかしたら私が娯楽を教えるまで、彼は暇つぶしに操作力を磨いていたのかもしれない。
そう伝えれば、16代目様は無言で茶に手を伸ばした。
少しの間が空いたあと、ゆっくりと口を開く。
「……………いつできそうだ?」
一瞬何のことか分からなかったが、すぐに思い至った。
「あと3年もすれば、恐らくは」
白夜様が13になる頃には、残夏家の負の遺産─私という人形を壊せるようになるだろう。私はそう伝えた。
彼にはそれだけの力があり、彼以外にそれを成し遂げられる人間は今後もう二度と出てこない可能性が高かった。
それは限りなく確信に近い私の予想だった。
──白夜様が12の夏。
家族にも会えず学び舎にも通うことを禁止され、残夏家の敷地から出られない白夜様に、せめて夏らしいことをさせてあげたいと思ったのがきっかけだった。
「白夜様、川の近くで蛍が見れるそうですよ。行ってみませんか?」
残夏家の敷地内には小川が流れている。そこでは蛍が毎年見られるらしい。昔は夏涼みといって残夏家に縁のある人間を招いてちょっとした催しもしていた、ということをふと思い出したのだ。
みな綺麗だと言って笑顔を浮かべていた。
人間は発光する虫に対して何らかの感情を抱くらしい。
「…………蛍?」
読んでいた本をパタンと閉じると、白夜様はそう反芻した。
「はい。裏の山で見れると聞いたことがあります」
白夜様は何か言いたげに口を開けたあと閉じた。
そしてもう一度、今度は別の本を開いて少しばかり何かを考えているようだった。
「白夜様?」
気になって名前を呼べばなんでもないと言う。
「いいよ。行こう」
「はい!私がご案内します」
そして私は外に出る旨を手伝いの者たちに告げて、白夜様と2人夏の夜に連れ立った。
「暑いですが大丈夫ですか?」
「別に大丈夫だけど」
私は暑さを感じにくい。暑さだけでなく、外からの刺激に鈍いように出来ている。今も暑さを感じない訳では無いのだが、人間はもっと暑いはずだろう。
手ぬぐいを差し出すと白夜様は受け取ってくれた。
「そんなに遠くではないはずなので、もうすぐ着きます」
そう言うと手ぬぐいを首に掛けた白夜様に聞かれる。
「お前は蛍を見たことがあるの?」
「………いえ」
知識として蛍がどんな生き物かは知っている。
しかし態々見に行くなど考えたことは無かった。興味もない。場所を知っているのは人間の話を聞いたことがあるからだった。
私たちは殺戮の為に作られた人形である。
その役目が終わってしまった今、私は壊されるのを静かに待ち続けることしか赦されていない。
思い返せば、白夜様との毎日は長い長い終わりまでの道のりの中で、初めてのことだらけだ。
「私も初めて見るんです」
そう言って笑ってみせる。白夜様からの返答は無かった。
「確かこの辺りなんですが…」
暗がりの中でさらさらと川の流れる音がする。
ここで合っているはずだ。しかし目を凝らしても、蛍の黄色い光は影も形も見えなかった。
場所が間違っているのだろうか。
今日という日取りが悪かったのだろうか。
それとも、蛍はもういないのだろうか。
今更思い直す。
蛍の話を聞いたのはいつのことだった?
5年前?それとも10年前?
長命の私の感覚と世界の時間の流れる速度は違うことをすっかり忘れていた。
どちらにしろ、この場に蛍はおらず白夜様を徒労させたのは事実だ。
「………すみませんでした。白夜様」
頭を下げると白夜様は何も言わない。
怒っているのか、と顔を上げて私は驚いた。
「……………え?」
ぽわぽわした淡い黄色の光が幾つも宙に浮いていた。
さっきまで無かったはずなのに。
「どうして………?」
光に手を伸ばす。するとふわっと気を感じて、私は全てを察した。
「白夜様、これは」
「…………………こんな感じだろう?」
なぜかこちらを見ない白夜様が答える。
光は、蛍ではなかった。
白夜様が作り出したものだったのだ。
「………ありがとうございます」
本当は本物をお見せたかった。
もっと下調べをしておけばという後悔は勿論ある。
でも淡い光に照らされた時の白夜様の顔が少し得意げに微笑んでいるように見えて、私は何よりもそれが嬉しかった。
「とても綺麗です」
それから数日の後。
白夜様の部屋で一人で本を片付けているとき、私は真実を知った。
白夜様は不在だった。16代目様にお呼び出しされたようだった。白夜様も私も基本的にはこちらから接触は出来ないが、定期的に16代目様に呼び寄せられることがあった。
「あっ」
積み上げ過ぎたのか、本の塔が雪崩のように崩れた。
開きぐせのあるページがぱらぱらと開かれる。
一冊一冊畳んでいると、ある頁が目に止まった。
蛍の生態、と書かれた本の表題は『昆虫図鑑』。
閉じた表紙に見覚えがあった。
蛍の話をした時に白夜様が開いていた本だ。
夜に蛍が発光した時の様子という添え書きとともに、あの時見たような光景の写真が付いていた。
白夜様はこの本を見て再現したに違いない。
蛍の話をした時に、彼はこの本を開いて何かを考えていた。
それはきっと、力を使って編む方法を考えていたのでは無いか。
つまり、もしかすると、あの時点で彼は蛍が見ることが出来ない場合を既に想定していたのだ。
ということは無駄足になる可能性を彼は考えていた。それでも誘いに乗ってくれたということで。
「……」
私の胸に長い生の中で一度も感じたことのない何かが生まれた。
そっと本を閉じると、私はそれを本棚に戻した。
白夜様が13になった。
私の予想は現実となった。白夜様は私を作った偉大な能力者に比類するほどの大きな力と繊細な操作力を持つ人間になっていた。
そして私が最も危惧していた対人能力事だが、問題は無さそうだった。初めて会った時の感情の抜け落ちた人形のような彼は、今は姿かたちも見つからない。話しかければきちんと話を聞いてくれ、返事もしてくれる。
「白夜様、起きてください」
朝の挨拶もそこそこに布団に籠る白夜様を揺する。
彼は朝が弱い。
初めはそれを見せまいとしていたのだろう、私が尋ねる頃には既に起きていたのだが、いつの間にかこんな風に緩んだ姿を見せるようになった。
困るとは思いつつも、気をゆるしてくれているとは分かるから、怒るに怒れない。あの剥き出しの刃のような気配が向けられなくなったことは素直に喜ばしいことだと思う。
「白夜様、朝ですよ」
布団の上からぽんぽんと軽く叩くと、腕が伸びてきて私の手首に絡まる。
「ひぐらし……?」
「はい。おはようございます、白夜様」
「……………ねむい」
寝起きのせいか、舌っ足らずに何かを言う白夜様。手首をぐいと引かれて、私は咄嗟に白夜様の上に乗らないように体をひねって隣に横たわった。
「白夜様!危ないからやめてください!」
布団からひょっこりと顔を出してこちらを向いた白夜様に抗議すると、何故か彼は機嫌のよい猫のように目を細めた。
そんな顔をされると、許すしかなかった。
ため息をついて体を持ち上げる。
「起きてください、白夜様。朝餉にしましょう?」
「……うん」
白夜様は本当に立派な能力者になった。
もうすぐ。もうすぐだ。
もうすぐ私の役目は終わる。
白夜様が壊してくれる。その時、きっと白夜様は残夏家の他の者たちに、長年の頭痛の種だっただろう私を処分した偉大な能力者として受け入れられるだろう。
今の腫れ物に触るような態度も改められるはずだ。
私はその日が待ち遠しいはずだった。壊されることが正しい終わりのはずだった。
でも何故だろう。
その日が来なければいいと、ずっとこんな日が続けばいいと思う時もあるのだ。
白夜様がまた16代目様に呼び出されたので、私は部屋の片付けと掃除をしていた。
私と白夜様が出会い、5年以上ほぼこの部屋で過ごしてきたが、彼がこの部屋を出る日も近いだろう。
私は丁寧さを心がけて掃除をしていた。いつ掃除できなくなるのかは分からないから、常に綺麗にしておきたかった。
パン、と音を立てて襖が開く。
本邸に繋がる廊下に続いている襖だ。
「おかえりなさいませ、白夜、さま……?」
16代目様のもとに行っていた白夜様が帰ってきた。
振り向くと、その顔からまるで初めて会った時のように表情が抜け落ちていて。
「どうしたんですか?」
慌てて駆け寄ると身体ごと引き寄せられた。
背中に手が周り肩に白夜様の顎が乗る。いつの間にか、小さかったはずの白夜様の身長は私と同じくらいになっていた。
「は、白夜様…?」
いつにも無い白夜様の様子にただ不安だけが募る。
「白夜様」
「…」
ぎゅうと音が鳴りそうなほど強く。例え空気でも二人の間に入らないくらいに強く抱きしめられ、私は困惑するしかなかった。
寂しい子供時代を過ごした反動なのか、最近の白夜様は体に触れてくることが多いが、それにしてもこんな縋るような様子は初めてだった。
後ろに回した手で背中を撫でてみる。
当然ながら私は子供を育てたことはないが、こうして宥めている様子を見たことがあったのを思い出したからだった。
やがてふと拘束が緩み、白夜様が私を解放した。
「落ち着きましたか?」
そう聞けば白夜様は私の頬を指で撫ぜた。
「…………うん」
「それはよかったです」
白夜様がふと神妙な顔をして言った。
「お前の体は冷たいね。ひんやりする」
「人形ですから」
そんなことを言われたのは初めてで笑ってしまった。
そもそも、私はこうして人間と触れ合ったことがあっただろうか。
私を作った偉大な能力者でさえしなかった。
「……白夜様は熱いですよ」
それは私が初めて触れた、生きている者の命の温度だった。
次に16代目様に呼び出されたのは私だった。
開口一番に「あれが破棄を拒む」と、そう聞かされた。
あれ、とは勿論白夜様のことだ。そして破棄されるのは、私。
「拒むとは…………どうして」
「知らぬ」
私を、誰も壊せなかった過去の遺産を壊すことで、白夜様は皆に受け入れられる。
他の超能力者たちに尊敬される。そんな立場になれるはずだった。
なのにどうして。
言葉を失う私とは反対に16代目様は落胆した様子で何かを呟く。
「ようやっと悲願が叶うかと思ったが…こんなことならやはり赤子の頃に殺して仕舞うべきだったか。今からではそれも出来まい」
今の白夜様は最強だ。
恐らく現代において、彼を力でねじ伏せられるような、そんな能力者はきっと存在しない。
年々力の弱い能力者しか生まれなくなっている今、彼以上の力を持つ者が生まれることも恐らくないだろう。
私を壊せる力を持つのはもう彼しかいないのだ。
「……………私が、お話ししてみます」
彼と話すしか無かった。
どうして拒むのか、理由を知りたかった。
このままでは白夜様の立場も悪くなってしまう。彼は最強だから、恐れることではないのかもしれないが。
それでもできることなら彼には他の人間にも慕われて生きていってほしかった。
「白夜様、お話があるのですが」
16代目様の元を去り、部屋にたどり着いたところで私はそう声をかけた。
白夜様は今日も本を広げて読んでいたが、ぱたりと閉じると私を見て少しだけ表情を緩ませた。
「どうしたの、蜩」
「どうして16代目様の言いつけを、私を廃棄する事を拒むのですか」
何の気負いも無かった。
それがどういう結果を齎すのか考えていなかった。
その瞬間、ぐらりと地面が揺れた。
比喩ではない。本当に揺れたのだ。……のちに、それは白夜様の力によって起こされたのだと知ったが、その時の私は知る由もない。
「地震…!?白夜様、お立ちください!」
慌てて白夜様の元へ駆け寄り手を差し出すと、思い切り腕を引かれた。
踏ん張れず倒れ込む。何が起きたのか分からずに白夜様の方をふりかえると、上に白夜様が覆いかぶさってきた。
「蜩、何を言われたの?」
近くで見る白夜様は能面のようで、先程までの柔らかな雰囲気が嘘のようだった。
「ねえ、蜩?言ってみてよ」
「は、はくやさま…」
「どうして早く言わないの?言うだけだよ。簡単だろ?」
声は優しい。
でも目は氷のように冷えきっている。こんな白夜様を、私は知らなかった。
違和感を感じながらも私は再び同じ言葉を繰り返した。
「どうして……なぜ、私を破棄されないのですか。
私を廃棄できるのは白夜様だけです」
「……………それをお前は望むの?」
「…」
押し黙る私に畳み掛けるように白夜様が言う。
白夜様の腕に囲まれて、私は中途半端な体制のままそこから動くことも出来ない。
「物心ついた時からほとんど人に会うことも無く、常に恐れられ命の危険を感じて生きてきた。何も、娯楽も、人と話すことも知らなかった。
ただ生きていただけの僕に、全てを教えてくれたのはお前だ。
その執着を甘く見すぎだよね」
「白夜様、でも私は」
「お前が人かそうじゃないかなんて、そんな段階はとっくに越えているんだよ。人でもそうでなくても、ずっと僕の傍にいてくれたのは蜩だけだ」
お前だけ、と言われて胸が痛くなった。
彼には誰もいなかった。私はそれを知っていた。
近くにいたのだから当然だ。
だから、きっとここまで白夜様を追い詰めてしまった私や16代目様がいけないのだ。
「お前は知らないと思ってた。でもその様子だと本当は、自分が廃棄されることをずっと知っていたんだね。
それなのに僕にあんなに優しくしたんだ。
それをする僕がどんなことを思うかなんて全く考えていなかったんだ」
「はくやさま」
淡々と彼は言葉を紡いでいるのに、その様子が何故か痛々しく見えて、私はなんと言えばいいのか分からなかった。静止する私に白夜様はふっと語気を緩めた。
「でも残念。僕はお前のことを壊さない。絶対に。一生ね」
「そんな…」
どうして、という言葉を口にすると白夜様が声を上げて笑った。
「どうして?どうして分からないの?お前が人間ではないから?
でもいいんだ。分からなくてもいいよ。許してあげる。
だってお前を壊せるのは僕しかいないんだから」
「私を壊せばあなたはきっと偉大な超能力者として、他の人間にも受けいれられるんですよ!」
そう叫んでも彼には響かないらしかった。
「そんなのどうでもいいよ。要らない」
「なっ…」
「僕はお前がいればいいんだ。お前しか要らない」
「………」
「ねぇ蜩?ずっとこの部屋の中で2人でいようよ?それがいいよ。そうしよう?そうするから」
「駄目です…私は、私を壊して……」
「いい。蜩の意見なんて聞いてない。僕がそうするって決めたんだから、そうするよ」
白夜様は至近距離で私をじっと見つめると、私の上に倒れ込んだ。
ずしりとした体の重さを感じる。
13歳の白夜様の重さだ。燃えるように体が熱い。
生きている人間の重さだ。
「蜩。お前が僕を看取ってくれ」
それはまるで泣いているかのような声だった。
そして、それから外へと繋がる襖は閉ざされた。
私は部屋の外に出ることが出来なくなった。
白夜様は外に出られるようで、自分の食事をどこからか調達するとすぐに帰ってくる。今までは私がやっていた事だが、出られないのだから仕方がない。
何も無かったかのように私と接して、いつも通り本を読んでいる。
外はどうなっているのだろう。
外の人間も私が出てこないことには気付いているはずだ。
爆弾を抱え込んでしまった白夜様を、何と思うのだろうか。
だが白夜様の結界を破れるものなど果たしているのか。
このように大きな力を持つ人間が他にいるなんて考えられなかった。
私は白夜様に壊されなければならない。存在してはいけないものだから。
しかし、この部屋から出られないのであれば、もしかしたら。
それは存在しないことと同じ意味ではないか。
外の人間とは関わることができないのだから。
ずっと最後は壊されると、それしか道がないのだと思っていた。だからそんな事は考えたことも無かったけれど、いつしか思うようになってしまった。
もし、許されるのなら。
私はもっと白夜様と一緒に過ごしたかった。
彼と過ごす毎日は新鮮で、そう、人形には有るまじき事だけれど、きっと人間の言葉にするのなら。
とてもいとしかった。この日々をあいしていた。
表面上穏やかな日々は突然終わった。
白夜様が食事を取りに行っているほんの少しの間に、人が入ってきたのだ。
「お前が人形?」
開口一番にその人間はそう言った。
見た事のない人物だった。少なくとも残夏家の者ではない。
まさか白夜様の結界が破られるとは思っていなかったので、呆気にとられて見つめると、男は素早く8畳程度の部屋を見渡したあと、私の手を掴んだ。
「長居はできない。行くぞ」
「えっ」
手を引かれて外に出た。
「そと…」
思わずそう呟けば、「今だけ無効化してる」と返事が返ってきた。
「13でこんな能力を持つとか、末恐ろしいガキだよ」
「あなたは…?」
最強と思っていた白夜様の術を破る人間は、どこかに移動しながらも話してくれた。
「俺のことはいい。時間が無い。
俺はお前をここから連れ出してあのガキに見つからないように運ぶのが仕事さ」
「どこに、ですか?」
「さぁ?俺は言われた通りに動いているだけだからな。場所は知っているが、それだけだ」
残夏家の門を出て、車でどこかへ連れ出される。
その時には目隠しを強要されたので、私はどこへ向かっているのか分からなかった。
「着いたぞ」
男の声がしてまた歩かされる。
どこかに着いたらしく、男は足を止めた。
「連れてきた」
「おお、本当にやり遂げるとは…!」
「もう二度とやりたくねぇよ。というか俺の命、ちゃんと保証してくれるんだよな?」
俺、あれに目をつけられたら死ぬと思うんだけど、と男が軽口をはたく。
「ビザを用意した。これで国外へ出ればいいだろう」
「あーよかった。流石に国外には追って来ねえだろ」
男が遠ざかる気配がした。彼はこの場から退出したようだ。
「……16代目様」
男と話している人間の声に聞き覚えがあった。
返事は返ってこなかったが、16代目様はこの場にいるらしい。
恐らく彼だけではない。目隠しされているが、気配的に私は複数人に囲まれているようだった。
何をされるのか。
私は廃棄されるのか。
白夜様が拒んだから。
しかし、複数人がかりで私を壊せるのなら、とっくにやっているはずだった。
「なにを……」
「………あれがしないというのなら、私たちにも考えがある。
ただ問題を先送りにしているだけに過ぎないが…」
ぶつぶつと16代目様が何かを言っている。
耳をすまそうとして身じろぐと、私の額にひんやりとした何かが触れた。
そして、そこからの記憶はない。
冒頭に戻る、という訳だ。
「はあ、3年、ですか…?」
「そう。3年。お前は封印されてたんだ」
白夜様に横抱きのまま連れてこられたのはどこかの屋敷。
恐らく、残夏家の持ち物ではない。旅館のようだった。
目を白黒させる私を他所に、白夜様は私を部屋へと案内すると、備え付けの露天風呂に入るように言った。
言われた通りに風呂に入り部屋へと戻れば夕飯らしき支度がされており、白夜様に何故か再度に抱き上げられ膝の上に乗せられた。
それも気になったが、まず状況を説明してほしかったのでそちらを優先させた。
白夜様によると、私は封印されておりあれから3年経ったらしい。
あの真っ白の部屋はその封印の部屋だったようだ。あの部屋に行った記憶は無いので、恐らく私を眠らせたあとあの部屋に運んだのだろう。
16代目様が言っていた"考え"とは、私を眠らせることだったのだ。
そこまでようやく事態を把握したあと、ふと疑問が湧いてきた。
「あの、白夜様」
「なに?」
器用にも私を膝に載せたまま食事をする白夜様が手を止める。
「封印を破ってよかったんですか?」
思い切り壁に穴を空けていたのを見た。
封印が16代目様の意向なら、それに逆らって良かったのだろうか。白夜様が咎められないのだろうか。
そう心配になったのだが、白夜様はあっけらかんと言い放つ。
「あぁ、別に大丈夫。許可は取ってあるから」
「………それならよいのですが」
私を封印したときの16代目様は苦渋の決断のような雰囲気だったのだが、そうでもなかったのだろうか。
疑問は募るがまた会った時に聞けばいいだろう。
「ええと、明日以降の動きを教えてください。
残夏家に帰るのですよね?ここは一体、」
とりあえず明日からどうすればいいのかと思いそう口を開いた瞬間、ぱっと白夜様の手が後ろから伸びてきて、私の口を覆った。驚いて言葉が途切れる。
そして全く関係のないことを思った。
「……」
手が、大きくなっている。
あれから3年。白夜様は16。もう体つきは完全に成人男性のものだった。
「蜩」
静かに名前を呼ばれて私の口を塞ぐ手から視線を上げる。
「あの家は帰る(・・)ところじゃない」
「?」
「それに、明日は結婚式って言わなかった?」
「っむ!?」
つい口を塞がれていることも頭から吹き飛び声を出せば、言葉にならない音が零れ落ちた。
目を白黒させる私を見て白夜様が機嫌良さそうに目を細める。
「楽しみだね」
───結婚式。
結婚をする男女が行う誓いの式。招待客の前で夫婦になることを誓う。
それが私の知る結婚式だ。古くは結納と呼ばれていた。他人同士の縁も繋ぐ、人にとってはとても重要な契約のこと。
暗がりの中隣で眠る白夜様を見つめる。
言葉を失った私に気づいているはずなのに、白夜様はそれ以上説明をせずに就寝してしまった。
まだ日が沈んだばかり。いくら何でも就寝時間にしては早すぎるが、白夜様は何も言わない。
私は人ではないので、あまり睡眠をとる必要は無い。それでも全く取らないと不調が出るから、こうして形だけでも毎日寝る行為は必要だった。
どういうことなんだろう。
白夜様の考えていることが全く分からなかった。
じっと寝顔を見つめて、ある事に気づいて忍び笑いが零れた。
「………ふふ」
すやすやと安堵した表情は驚くほど3年前から変わっていなかった。
布団を鼻の下まできっちりと被る癖も同じだ。
「3年……」
でも、3年経って変わったこともある。
昼間見たときの身長。口を塞がれたときの手のひらの大きさ。ふと見上げたときの、視線の高さ。
「子どもの成長は、早い」
長い時を生きてきた私にとって、3年なんて一瞬だ。何しろその百倍は生きてきたから。稼働時間が長くなるほど、記憶は降り積もり圧縮される。だから3年封印されていたと知っても、少し長く寝たくらいの感覚しかない。
でも人にとっては違うのだと思い知らされた。
「……」
私は寝ている間に白夜様の貴重な3年間を見逃してしまった。
そう考えて初めて、封印されていたことを惜しいと思った。彼の成長を私は近くで見守りたかったらしい。
───人形のくせに。彼の親でもないのに。
「うぅん…」
白夜様が寝返りをうつ。
さら、と黒鳶色の綺麗な髪が顔にかかった。
そっと手を伸ばしてそれを払おうとすると、ぱっと手を取られた。
「だれ」
「っ!失礼、しました」
まさか、起こしてしまったようだ。
聞いたことも無い鋭い声に、たじろいで謝れば無言が返ってきた。
「は、はくやさま…?」
怒っているのだろうか、と小さな声で名前を呼ぶと月明かりで臙脂色の目がゆらゆらと揺れているのが見えた。
「……………ゆめ?」
暫くののち、そう言葉が返ってきてその舌っ足らずな口調に、つい口元が緩む。
そうだ、白夜様は寝起きが悪かった。
また3年前と変わっていないところを見つけて何故だか嬉しい気がした。
「夢ではありません。すみません、起こしてしまいました」
白夜様は手を離すとぼんやりと私を見つめてきた。
「……ひぐらし?」
「はい」
そっと顔にかかった髪を退けてやる。今度は止められなかった。
失礼だとは思いつつ未だ寝ぼけた様子に笑いながら返事をすると、今度は白夜様のほうから手を伸ばしてきた。
「ひぐらし」
「はい、ここに」
そう言うと、彼は私の頬に触れた。
「ひぐらし」
「はい」
「本物…」
「はい……………おそらく?」
3年の間にどうやら私の偽物が出現していたらしい。そんなことをする理由は全く思いつかない。何故だろうか。
白夜様は考え込む私を見て驚くほどふんわりと、柔らかく笑った。
「よかった」
それを見て、私は一瞬息をすることを忘れた。
初めての感覚だった。
それは驚きだったのだろうか。困惑だったのだろうか。
分からなかった。
分からないけれど、胸が痛かった。
壊れてしまうかと思った。
「はくやさま……」
名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに口角を上げる。
そして再び私の手を今度は指を絡めて握ると、満足気に目を閉じた。
程なくしてすぅすぅと穏やかな寝息を耳にしながら、私も目を閉じる。
握られた手が熱くて、なぜか涙が出そうになった。
***
結婚式というのは聞き間違えではなかったらしい。
「結婚式するよ、蜩」
「……………はあ……」
「行くよ」
「えっ、今からですか?」
思わずそう言ってしまったのは無理もないはずだ。
今はまだ朝日すら指していない、夜中。
日付は変わっているのかもしれないがまだ夜だ。
「いいから」
そう言って白夜様に手を引かれる。
どこかの部屋に向かうのかと思えば、向かった先は外だった。
暗い夜道を私は目が効くからいいが、白夜様も見えているかのようにすいすいと進む。月明かりがあるとは言え、白夜様は足を取られることも無い。
水の流れる音もするのでどこかに川でもあるのだろうと推測できた。
それにしても、どこに向かっているのだろうか。
「白夜様、どこに…」
「もうすぐ」
そう答えた白夜様が足を止める前に、私は気付いた。
「白夜様、あれは…!」
興奮してしまい声を上げる。思わず彼を抜かして駆け出した。
白夜様が笑った気がした。
暗闇の中を飛ぶ黄色い光。
消えては現れ、一定の感覚で宙を舞う光。
──私が見せようとして、失敗した、いつかの夏の記憶。
「蛍………」
本物の蛍だった。
「白夜様」
思わず名前を呼ぶ。
さくさくと足音が聞こえて白夜様が後ろに立ったことが分かった。
「……ねえ蜩、僕と結婚してくれる?」
蛍をじっと見つめる私に白夜様は言った。
ふと、今なら答えてもらえるかもしれないと思った。
「どうして結婚なんですか?」
黄色い光が舞う。
幻想的で、でも実際は虫が光っているだけ。それだけのことだ。けれど。
私は今それを綺麗だと思った。まるで人間のように。
「だって結婚は"思いあう2人がずっと一緒にいること"なんでしょ」
思ってもみなかった返答に私は息を飲んだ。
───それは。
記憶にあった。
そうだ。『かぐや姫』を読んだ時に聞かれて、私はそう答えた。
結婚式は、思いあう人間同士がずっと一緒にいるために結ぶもの。
「でも、それは人同士の話で」
私がそう言えば聞きたくないとでも言うように言葉を被せる。
「蜩?言ったよね?お前が人間かどうかなんて僕には関係ないって」
「…」
関係ない訳ないのに。私は人形で、物なのに。
「蜩だけだったんだ。お前だけが、僕の側にずっといてくれた」
───彼だけだ。白夜様だけが、私の側にいてくれた。
「お前は僕を恐れなかった。僕を排除しようともしなかった。それどころか、」
───私は恐れられる存在だった。壊されるべき存在だった。終わりをいつも待っていた。
でも。
「お前は庭を見つめてるしか能のない僕に、色んなことを教えてくれた。お前が僕に人間らしさを与えてくれたんだ」
白夜様は終わりを待つ私に怒った。
それどころか絶対に壊さないと言った。
本当に眠りに着いた私を起こしてしまった。
白夜様のせいで私は人間らしくなってしまった。
壊れかけているのかもしれない。
そしてそれはきっと白夜様のおかげだろう。
本来の人形は人間に従順に作られていたはずだから、こんな事を考えるのは間違っているのだ。
「………ずっと、お傍にいてもいいのですか」
「寧ろ離れるなんて許さない」
「でも、私は壊されるべき存在で」
「そういう奴らはもういないよ。だからもう大丈夫だと思って起こしたんだ。
それともお前はそれを望むの?」
静かな問いかけ。
以前にも同じことを聞かれた。
その時の私は黙ることしかできなかった。
だけど、本当は。もし、許されるのなら。
こんな事を思ってしまう私は、やはりとっくに壊れているに違いない。
「私は………白夜様のお側にいたいです」
そう言った瞬間、後ろから白夜様に抱きしめられた。
相変わらず白夜様の体は熱かった。
「蜩」
「はい」
「嘘は無しだよ」
「はい。人形は、嘘をつけません」
私は人形。人を殺して、壊される日を待つ人形。
壊されるべきだった人形。
そしてきっと本来の人形には持ち得ない物を獲得してしまった過去の遺産。
そのせいで、きっといつか壊れるだろう。
私に感情を教えた人間は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ結婚してよ、蜩」
「………はい」
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本当は蛍は日没後2時間くらいがよく光ってるらしいけど、そこはフィクションなので。
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