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店の名は浮雲

作者: 味噌田楽

 いつもの昼休み、いつもの通り、いつものように僕はこの喫茶店にやって来た。店の名は浮雲。いつまで店が続くか分からないからという自虐めいた理由でそうマスターが名付けたらしい。しかしそんな思いとは裏腹に店は思いのほか繁盛し、今では眉まで白くなったマスターが息子に店を譲ることさえ考えるまで続いている。

 いつもの時間に浮雲にやって来た僕はいつものカウンター席に腰掛けた。店が繁盛しているとはいっても座る席が無いということはない。程々の繁盛だ。食うには困らないし満足のいく仕事もできる、良い状況だとマスターは言っていた。客としても、多少の賑わいがあった方が心地よい。落ち着いた内装と程よい賑わいが相まった店の雰囲気は快く、お茶も進むと言うもの。きっと、この雰囲気がまた浮雲に道行く人を呼び込む力となっているのだろう。


「やあやあ、今日もありがとうね。」

 マスターが笑いながらやって来た。

「アールグレイのホットのセット。これで合ってるね。」

 すっかり僕も顔なじみの様で、マスターは僕の注文を覚えているようだ。それどころかマスターの手は既に紅茶を淹れる準備を始めてさえいる。僕が頷くと、マスターは質問を続けた。

「セットの甘味は浮雲ロールケーキで良いやね。」

 お願いします、と僕は答えた。一応、質問という体こそとっているものの、実際は殆ど答えが決まっているようなものだ。浮雲ロールケーキこそ、この店の看板メニュー。かつて僕が気まぐれにロールケーキを頼まずにチーズケーキを注文したとき、今日初めての注文だとマスターは笑っていた。昼下がりに近づいた時間になってもチーズケーキという一般的なメニューが注文されないあたり、この店に来る客は本当に皆ロールケーキばかり好んで食べているのだろう。


 やがて僕の目の前にカップが差し出された。カップは紅色をした液体をたたえている。

「アールグレイのホット、お待ちどお様。」

 僕はカップを手に取ると一口、アールグレイティーを口にした。紅茶とベルガモットの入り混じった風味が体に染みこんでいく。続けてもう一口。昼食の後にはちょうど良い風味だ。思わずため息が出てしまう。だらしないような気もするが、間違ったことをしたとは思わない。これで良い。

「浮雲ロールケーキ、お持ちしましたあ。」

 はつらつとした声と共に厨房から女の子が出てきた。その手は一切れのロールケーキを載せたお盆を抱えている。彼女はカウンターにロールケーキの皿を載せるとペコリと一礼した。そして、そそくさと厨房へと戻っていった。

 僕はロールケーキを八分の一、フォークで切り取るとそれを口に運んだ。美味しい。生地にホイップクリームを塗り、その上にシロップ漬けの果物を並べて巻いた素朴なロールケーキだ。この店に来る客は皆ロールケーキばかり好んで食べているが、それも頷ける。

僕はロールケーキを飲み込み、紅茶を口に含んだ。口の中がロールケーキの甘さから

アールグレイの風味に移り変わる瞬間が僕は好きだ。この時、それぞれの美味しさが一段と際立つように感じるから。そしてその瞬間をより多く楽しみたいがために、僕はいつも紅茶とロールケーキをチビチビと食べている。


 昼下がりに片足を突っ込んだこの時間は僕と同じように、昼食後の気分転換にこの店を訪れる客が多い。店は忙しくなってきたようで、僕の食べている様を見ていたマスターもいつの間にか厨房で忙しく働いている。店内では女の子が注文を取ったり、品物を運んだりと忙しなく動き回っている。僕はそれを横目に見ながらロールケーキを食べていた。

 実をいうと、僕はあの女の子に恋をしている。愛らしい表情、鈴を転がすような声、熱心に仕事をする真面目さ、僕が初めて浮雲を訪れたその日から彼女のことが気になっていた。そしてそれから僕が週に二、三度はこの店を訪ねるようになってから半年が経とうとしている。彼女が目当てなのは言うまでもない。

 それなのに、僕は彼女の名前を知らない。この時間帯は店が混んでいて彼女は話どころではないからだ。それに僕の方もあまり店に居座っていると昼休みの終わりに間に合わないので時間がない。したがって、僕と彼女の会話と言えば挨拶と注文のやり取り程度のものだ。僕は彼女について何も知らない。夢、友達、好きなもの、それどころか彼女の歳さえ知らない。あの子のことをもっと知りたい、仲良くなりたい、そう思っていても思うようにはいかないでいる。

 ただ、それでも僕はあの子が好きだ。一生懸命に働く彼女の姿を見ていると、こちらも頑張ろうと気持ちになれる。彼女にはこのまま幸せに生きていってほしいと願う思いが湧いてくる。そして、その隣に寄り添って生きていきたいという望みも。なぜそれほどまでに彼女に入れ込んでしまうのか、僕は自分でもよく分からなくなる時がある。そんな時も、この店で元気に働く彼女の姿を見ていると、その姿そのものが理由だと不思議に納得してしまうのだ。


 そろそろ店を出る時間だ。僕は伝票を持ってレジに向かう。すると彼女がレジにやって来た。僕が慣れた調子で代金を支払うと、彼女はつり銭とレシートを手に爽やかに笑った。

「ありがとうございました。またどうぞ。」

「あ、また来ます。」

 思わず情けない声が出てしまった。僕は恥ずかしくて俯いてしまう。彼女は軽く頭を下げてレジを離れていく。それから少しの間、僕は一人レジでしばらく俯いていた。そして、まだほのかに熱い顔を覚ますために店を出たのだった。

 表に出ると少し冷えた風が僕の頬を撫でた。顔を上げると目の前にはいつもと変わらない秋晴れの空と街がある。僕は大きく息を吸い、そして吐いた。今度こそ、彼女と話をしようと言う思いを込めて。そしてこの店まで歩いた道を、今度は逆に歩き始めた。

店の名は浮雲、明日も知れない儚い雲。この日常がより好いように続いていくことを、僕は望んでいる。


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