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セージ、タイム、レモングラス

作者: 黒瀬 柩

「いつもの、頂きに参りました」


薄茶色の前髪で目元を隠し、少年が藤色のドアをノックした。乾いた木と、頼り無い骨の音。不安定な音。それが控えめに二回と、一回。男はこんなノックをする人間を一人しか知らない。


「どうぞ、入って」


男は確認するまでもなく応えた。温厚そうなその声を聞いて、少年は静かに部屋の中へと入ってくる。扉を極めて慎重に閉めて、ただでさえ細く小さな肩を、さらに丸めるようにして佇んでいる。男には、この少年がいつだってこの空間や、世界のどこにも自分の存在が許されていないのだと感じているように見えて、それが哀しかった。


「そんなに遠慮することはないよといつも言っているのに、君は変わらないね」


男が棚越しに少年に言う。その部屋にはいくつもの小さな引き出しがあって、そのひとつひとつにラベルが貼られている。そのほとんどが草花の名前だった。それが壁という壁、そして天井に至るまで続いていて、男は梯子に足をかけていた。少年はここへ来るといつも「古いものには精霊が宿ると信じている国がある」という話を思い出す。それをいつどこで誰から聞いたのか。今となってはそれを少年が思い出すことはできない。とにかくここにある引き出しは、まさにそういった感じがした。そのひとつひとつに精霊が宿っていて、必要なときに必要な引き出しが語りかけてくる。しかしこの部屋のどこかに本当に精霊が宿っているのだとしたら、それはむしろ引き出しの中身か、目の前にいる調合師の男か、そのどちらかにだろう。精霊が実在するかはわからないが、調合師が調合したハーブには確かに不思議な力がある。少年はその力を求めて、今日もここを訪れたのだ。


「すみません」


少年が言う。そのとき、ふと目をやったその先に、男の袖口から微かに覗く模様があった。調合師になると腕に波打つ渦のような模様が浮かび上がるという。そして経験を積むことで、その力が増すごとに。その模様は手首から肘へ、肘から肩へと広がり続け、それはその者が死ぬまで消えないらしい。男はいつも長袖を着ていたので、少年にはその男の模様がどれほどのものなのか知ることはできなかった。しかし彼のハーブの力は本物で、少年にはそれだけが重要だった。


「いや、謝ることはないんだよ。君は何も悪くはないのだから」


すみません。もう一度言いそうになって、少年は俯き、唇を噛んだ。


「最近、間隔が短いようだけど」


男はいくつもの引き出しを開け閉めしながら、少年に尋ねた。彼がここに通いはじめてからもう随分の年月が経つ。最初に、この扉から入ってきたとき。彼は真っ青だった。僕は泉を失った。この世でたった一つの泉を失ってしまった。そう言った。それから真っ青な顔を真っ青なままにして、端整な顔を少しも歪めることなく。ただ、だらだらと、その大きな目から涙を流し続けていた。彼の白く頼りない両の掌が意味もなく胸の辺りで天を仰ぐようにしていた。男にはそれが、彼が失ってしまったものを今なお探し続け、行き場をなくしているように思えてなんとも虚しかった。そして彼は、僕だけが守れたのに、僕は守らなかったと言った。男はそのときのことを今でもこうして鮮明に思い出すことができる。男は、そんな彼を、どうしても助けたかった。


「はい。もう、僕は駄目なんだと思います」


少年は俯くのをやめて、すっと前を向いてどこか遠くを見ながら言った。それを聞いて男はぴたりとその手を止めた。もうずっと前から、そんな予感はしていた。いつかこんな日が来てしまうだろうと、どこかでわかっていた。


「そうか。駄目なのか。調合を、替えてみようか」


男は独り言のように言った。いつもなら、いくつかの基本となるハーブと、セージに、タイムに、レモングラス。どんな理由があろうと調合師は訪問者に忠実でなければならない。そういう誓いがあった。


「例えばレモングラスを他の、そうだな柑橘系の……」

「駄目です」


少年は男の言葉を遮って、はっきりと言った。


「柑橘系は、駄目なんです。僕には光の影響が強すぎるんです」

「でも、明るくはなるだろう?」


男は困ったような顔をして少年に言った。


「だから、いけない」


男はそうか、と言って指先で引き出しをなぞるようにして他の組み合わせを思案する。


「ではタイムをやめてみようか」

「それは、できない。僕は時を遡らないと」


少年は言った。男はそのとき前髪の隙間から僅かに彼の目を見ることができた。その目はどこまでも暗く深く、頑なに見えた。そしてそこに強い意志をさえ感じた。男がどんなに手を尽くしたとしても、彼を説得することはできないだろう。そういう目だった。男は胸が痛くて仕方が無かった。彼は一つの過去から、もうずっと逃れられないでいる。あの日、ここを最初に訪れた日。誰に言うでもなく言った、泉を失ったという言葉。男はそれがどういう意味なのか、あれからずっと考えて続けていた。泉とはおそらく人の名前でもなければ湧き出る冷たかったり温かかったりする水のことでもない。これは彼なりの比喩なのだ。彼に潤いを与え、癒し、ときに暖める。そういう存在のことを言っていたのだろう。それが一体何なのかはわからない。ただ、彼はそれを、守れなかったとは言わずに、守らなかったと言った。彼は未だにその罪の意識を拭えないでいるのだ。


「君は、君の望む調合は、あまりに不幸で、あまりに救われない。誠実なまま、過去に囚われ、あるのは酸味と苦味だけ」


もうこんなこと。こんなことは。男は少年に気付かれないように、引き出しの縁に添えた手の力を強めた。


「それでも僕にはそれが必要なんです」

「でも、君はもう駄目なんだろう?ハニーブッシュはどうだろう。せめてリコリスか、ステビアでもいい」


男は少年にいくつかの提案をする。それはどこか懇願に似ていた。


「いいえ。それが僕の償いだから」

「そうか。君は」


君は罪人で、自らを裁く断罪人でもあり続けなければならないと。そう、思っているのか。そのとき男はひとつの短い息を零した。それは彼についての様々なことが、たった今全て腑に落ちてしまった。そういう息だった。しかしそうだとしても。彼のその罪が、どんなものであったとしても。あれからかなりの時が流れた。それにそんな業を背負い続けるには、少年はあまりに若く、美しすぎる。男はそう思った。


「いつものを作ろう」


男は静かに調合をはじめた。基本となるハーブと、セージに、タイムの代わりにトケイソウ、レモングラス。それにハニーブッシュを少々。調合師は訪問者に忠実でなければならない。なぜならば、調合師の力は強い影響を与えるからだった。タイムをトケイソウに替えただけで少年は今までとは全く違う影響を受けることになる。とくにトケイソウは滅多に使うことのない、とても力の強いハーブだった。これから彼は時を遡ることをやめて、代わりに時を前に進めることになるだろう。罪を忘れ、未来を生き、酸味や苦味は、甘味への道標となる。男は調合を終えて、いつものように袋に詰める。そしてそれを少年に「いつものだよ」と言って手渡した。少年はそれをいつも通りに受け取って、扉を目前にして立ち止まり、振り返るとこう言った。


「ありがとう。僕はもう駄目かもしれないから。これで最後になるかも知れないけれど、それでいいんです。この無様で情けなくてどうしようもない僕は、僕の一部に過ぎなくて。だからこそとても苦しい。でもその一部こそが僕で、僕たらしめているのだとわかったから。だから、駄目かも知れないけれど、いいんです。これが僕だから。だから、ありがとう」


そして少年は出て行った。調合師は訪問者に忠実でなければならない。その誓いを破ることの意味を男は今の今まで知らなかった。彼の罪を、代わりに背負おうと思っていた。彼はまだ若く、美しいのだから。過去に囚われ、その一生をかけて自分を罰し続ける姿なんて似合わない。そう思っていた。それに比べて自分は、自分の方が、ずっとそれに相応しいと。そう思った。若くて美しい彼には、輝かしい未来があるべきなのだと。そう信じた。そして自分の調合で、彼がこれから忘れる罪を、調合師が守るべきたった一つの誓いを破ることで背負い続けようと思っていた。しかしそんな単純なことではなかったのだ。その罪でさえも、彼の一部だった。そしてその罪から産まれた苦しみも、痛みも全て。それらは如何なる者であっても。それを彼が望まない限りは、忘れさせ、取り除いていいものでは決してなかった。たとえそれで彼が死んでしまったとしても。その終わりまで彼は彼であり続けることができた。男は気付いた。これから自分が背負うのは、彼が忘れる罪でなく、彼を殺した罪なのだ。 あの袋を、渡してはいけなかった。


「先生はどうしていつも自分にそんな調合をするの?セージに、タイムに、レモングラス?」


少年が薄茶色の前髪を耳にかけて、その大きな目で男を見つめる。あの後、あの調合で過去に囚われなくなった少年は、あの日までのことをすっかり忘れてしまっているようだった。覚えていたとしても関係ないと感じるようになっているはずだった。男はそういう調合をした。そして彼は別人のように明るくなり、未来について考え、毎日を前向きに生きるようになった。そしてある日、調合師になりたいのだと言って、ノックもせずに藤色のドアから飛び込んできたのだった。それ以来、少年は自分のことを先生と呼ぶようになった。少年は男を先生と呼んではいたが、むしろ兄と弟の関係に近かった。それでも自分が誰かに先生と呼ばれるのは奇妙な感じがした。そう呼ばれるのを受け入れられるようになるには、経験も歳も足りないと感じていた。しかし皮肉にも、あの日、誓いを破った日。調合師の証である模様は、今までにない程に長く大きく広がった。それは同世代の調合師とは比較にならない程に立派なものだった。


「せめてレモングラスを柑橘系の、そうだなオレンジピールとかにしたら良いのに。ただでさえ基本のハーブにはマロウブルーが入っているんだよ。本来なら癒してくれるはずだけど。青は不安定だから、先生の調合だと癒しとは逆の働きをしてしまう気がするんだけど」


訪問者のいない部屋の中で少年はカウンターの上に両肘を置いて頬杖をついている。


「そうだね。ちゃんと勉強してるみたいで感心した」

「僕の先生は優しいからね」


そう言って笑いかけてくる少年を見て、男は込み上げてくる感情を誤魔化すように、彼の頭をくしゃりと撫でる。すると少年は「早く僕にも模様が浮かんでこないかなあ。先生のみたいに」と言って自分の腕をぴんと伸ばして掲げてみせた。自分という人間は彼の評価に値しない。そのことを彼は覚えていられない。この調合はかつて彼が望んだものだということも、自分があの日いつものだと言って渡した袋の中身のことも。彼は何ひとつ覚えていないのだから。


「だけど僕にはこの調合で合っているんだよ」


男は諭すようにそう言った。そして「これ、袋に詰めてくれるかな」と、いくつかのハーブと袋を差し出した。少年は「はあい」と間延びした返事をしてそれらを受け取った。


「先生はどうしていつも長袖を着て模様を隠すの?格好良いのに。それに僕、実は先生の模様を見たことがあるんだけど他の調合師の倍はあるよね。もっと見せるべきだよ」


「あれは」


烙印。つい、そう零してしまいそうになってやめる。本来ならばその偉大さを示すはずの証が、自分にとっては恥ずべき罪の跡なのだ。そしてこの証は自分が死ぬまで決して消えることはない。


「あれは、見せびらかすようなものではないんだよ」


少年はハーブを詰めながら、残念そうに「そうなんだ」と言った。それが最後の袋らしかった。彼は手先も器用だし、勘も良かった。このまま続ければ、きっとすぐにでも証が現れるだろう。そう、男は思っていた。


「でも。僕はその時々で変えるけど、オレンジピールとハニーブッシュは絶対に入れてもらうよ。だってそのほうが絶対にいいよ。僕が調合師になったら、先生の分も作ってあげる」


無邪気な少年のその言葉を聞いて、男は繊細な何かに触れるように、慎重に。少年に尋ねた。


「柑橘系は、光の影響が強すぎるとは思わない?」

「でも明るくはなるでしょう?それはいけないこと?」


少年は不思議そうに言った。男は思わず溢れそうになった涙を咄嗟に堪える。そしてそのせいで喉を詰まらせていることを、少年に知られないようなんとか取り繕って、やっとの思いで絞り出すようにして言った。


「そうだね。どうだろうね」

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