他人事だと思ったら―3―
長らく更新できず、申し訳ございませんでした。「他人事だと思ったら」第三話です。
かなりの長文が続いてしまいますが、最後までお読みいただけましたら幸いです。
◇01
厳かな雰囲気の空間には、一人分の足音しか響いていない。
各騎士団の詰め所と真央国騎士団総本部はいくつかの回廊で繋がっている。ヨシュアはそこを総本部に向かって歩いていた。
上司であり、この国の第三王子であるビャーコフ殿下に、「客人方の動向」に関する経過報告書を提出するためである。
ヨシュアは情報戦略部隊長という仕事柄、総本部に出入りする機会が多い。
総本部は、複数の騎士団を統括する機関であり、各騎士団から提出された情報が集約・保管されている他、合同作戦や騎士団全体についての会議を行っている。
機密性が高く閲覧制限のある情報はヨシュア自身が足を運ぶ必要があったし、ビャーコフ殿下の補佐として会議に出席することもあった。
だから、ヨシュアが封筒を抱えて歩いていても珍しくはない。厳しい表情で近寄りがたい空気を纏っていたとしても、今現在の真央国の状況を鑑みれば不自然でもない。
……ただし、それらはあくまでも「外面」の問題だ。表情にこそ出していないが、ヨシュアは動揺していた。
従順だと信じていた妹の突然の反抗と、彼女を手元に置き続ける計画を立てていたことが、本人や父親に知られていたことに。
ヨシュアと辺境伯は、仕事以外では淡白な親子関係だった。お互いに多忙なこともあるが、幼少時代の過去も影響していた。
元々生粋の仕事人間である辺境伯は、家庭の問題から目を背けていた節がある。そのことが原因で、ヒィナが養子として来る以前のヨシュアは、助けてくれなかった父親を内心嫌っていた。
それでもヨシュアは、辺境伯の心境を理解することはできた。「あの女」が妻では、家に帰りたがらない気持ちも分からなくはない。その上、辺境伯は分家筋から来た婿だったので家には夫人の味方が圧倒的に多かった。
子供のわりに達観した父親への理解と、心に抱えていた負の感情よりも優先すべきこと――妹の存在と次期当主及び騎士としての使命感――が見つかったおかげで、関係が深まらずとも、父親への嫌悪感は薄らいでいき、「貴族としては」理想的な協力関係を築いて現在に至っている。
その辺境伯が、自分の計画──ヒィナの縁組みを最終的に失敗させて、自分の傍に置き続けること――を知っていたとは思いもよらなかった。
この一年、顔を合わせ、言葉を交わす機会は何度もあった。事務的な報告が大半だったが、辺境伯がヒィナの護衛騎士着任について何か言うことも、顔に出すこともなかった。
(昔から、興味や関心のないことには本当に何もしない人だったが……だったら、何故騎士団の人事に口を出しだ? 父上の立場なら可能ではあるが……)
辺境伯は主に二つの任が与えられている。各地の主要防衛線一帯の領地経営と、防衛線を守護する『軍』の指揮・統率である。
軍には国境防衛を担う騎士団の他に、辺境伯家が地元の平民を中心に募った兵士団が所属している。
国に仕える騎士と、貴族が家ごとに雇う兵士では、立場や施される訓練、与えられる任務も異なっている。
違いが多いため、衝突や軋轢が出ないよう調整するのも辺境伯の仕事だ。ちなみに、アレジオン辺境伯は若かりし頃、騎士や軍の指揮官を歴任していたし、ヨシュアやヒィナも幼少期には兵士達と同じ訓練を家の教育で受けた経験を持っている。
本来、騎士団の最上位に立つのは総団長だが、軍に所属している騎士団は、その任務期間中は辺境伯が総団長と同等に近い権限を持って統率している。
それ故に騎士団との繋がりは深く、人事への干渉が十分可能である。
だが、今まで妹の面倒の一切はヨシュアが見てきたのだ。今更、彼女を別任務に推薦してまで、ヨシュアの行動を妨害するとは考えにくかった。
……否、辺境伯家の世間体を考慮したとすれば有り得る。最初から離縁ありきの婚姻をさせようなど、罪ではないが周囲の印象が悪くなるだろう。
もちろん、ヨシュアとて自身の行為がかなり危ない橋を渡っている自覚はあった。
だからこそ慎重に行動し、相手にも利のある取引の体をとる・アレジオン家は自分という嫡男がいるから維持できる・ヒィナは騎士の任をもって貴族の義務を果たさせるといった、幾重もの大義名分を用意していたというのに。
(父上も言いたいことがあるならば直接言ってくだされば良いものを! そのせいで、このような有事の時に私用で悩まなくてはならなくなったのだ!)
仕事も私事も上手くいかない苛立ちばかり募る。優先順位を違えたわけではないのに、国の大事だというのに、家庭の問題でこれほど悩まなくてはいけない自分が情けなかった。
悶々としている間に、一際大きな扉――騎士団総本部への入り口にたどり着いた。
深呼吸をして、自分を落ち着かせる。私情にかまけている暇はない。
この書類を総本部にいるビャーコフ殿下に届け、今後の対応についても改めて指示を仰がねばならないのだ。
荒む心を落ち着かせ、ヨシュアは扉を開けた――。
◇02
総本部の会議室は、参加者の人数や立場などが考慮されて、広々とした空間になっている。
「失礼します」
礼儀正しく入室したヨシュアがビャーコフ殿下を目線で探すと、彼の隣――場所としては一番の上座――に予想外の人物が座っていた。
真央国第一王子、セイリオス・ハルシオン・セントラル殿下。
側室腹――とはいえ実家は侯爵家――の王子ではあるが、文武共に卓越した才能を持ち、シュザ第二王子と共に王太子最有力候補となっている。
否、シュザ王子があのような不祥事を起こしてしまった以上、彼の立太子は確実だ。つまり、実質この国のナンバー2と呼んでも過言ではない。
本来ならこの場にいるはずのない存在に、表情には出さずとも戸惑うヨシュアに声をかけたのは、ビャーコフ殿下だった。
「ヨシュア、よく来た。こちらに来て報告を」
「承知いたしました」
一礼しつつ、改めて室内の状況を把握する。
ビャーコフ殿下とセイリオス殿下の他にいるのは、真央国騎士団の総団長と副団長、セイリオス殿下の側近達。
子息が原因で立場の苦しくなっている総団長の顔色は悪い。副団長が側にいるのは、彼のフォローのためであろう。
上座にいるセイリオス殿下の後方を近衛騎士が固め、文官の側近も邪魔にならない位置に立っている。側近達は一様にヨシュアを見ていたが、表情からは読み取れないものの、何かしらの思惑を持っているのは察せられた。
ただの「会談」や「会議」の類ではないことは明白であり、自然とヨシュアの気も引き締まった。
ビャーコフ殿下の後方に立つと報告書を読み上げ、時折来る参加者からの質問や補足説明を求める声にも如才なく答えていく。
一通り終わると、ビャーコフ殿下が手元の資料を一部ヨシュアに渡した。このまま会議に参加しろ、ということだろう。
ヨシュアは一騎士団の部隊長ではあるが、この場にいる者達は皆それより上の立場の者ばかりである。そんな自分が何故、とも思ったが、上司であるビャーコフ殿下の指示なのでおとなしく従う。
他の参加者が話し始める前に資料にさっと目を通して内容を把握する。そこには、現在の状況が記されていた。
・関係者への事情聴取が全て終了したこと。シュザ王子が凶行に走った原因は、政争のストレスがアイリーン大公夫人を見かけたことで爆発したためと判明。
・アイリーン大公夫人に対して、「個人的に」国王夫妻が謝罪。現在、南星国からは大公を通して抗議が来ているが、開戦の事態はひとまず避けられている様子。
・現在、御前会議ではシュザ王子及び婚約者を始めとする側近達の処遇について議論がなされている。
「…………」
どうやら一触即発の状態は辛うじて免れたようだ。そうなると、この場は第二王子派の騎士達の処遇を話し合うためのものだろうか? しかし、それならば初めから「そういう」目的だとビャーコフ殿下は告げられるはずだ。これでは建前を作ってまで、ヨシュアを呼ぶ意味が無い。
疑問を抱くヨシュアを傍目に、口を開いたのはセイリオス殿下だった。
「さて、今日この場に集まってもらったのは他でもない。我が国の窮地を救うため、今後の対応策を話し合うためだ」
室内の空気が引き締まった。ヨシュアも視線をセイリオス殿下の方へ向けることで意識を集中させる。
「先方はシュザ達の処罰を任せる、と言ってくださっている。幸い行為は未遂で済んだうえ、負傷者も出ていない。だが、被害者が我が国の公爵令嬢であったと同時に南星国大公夫人であることは、決して無視できない。南星国はもちろんのこと、各国の目もある。圧倒的にこちら側が不利だ」
セイリオス殿下の言うことはもっともである。
アイリーン嬢は、かつて不敬すれすれの行為をして婚約を破棄され、国を追放同然で出て行った身だ。
しかし今回、招待客という形とはいえ帰国が認められたのは、陛下が彼女の過ちを許したとも受け取れる。何より今の彼女は南星国の大公夫人だ。以前のように国内だけで判断し、軽々しく扱っていい存在ではなくなっている。
「そのため、内容そのものは重くなくとも、シュザの派閥には広く責任を取ってもらうことになった。総団長、すまないが子息にも咎が及ぶものと覚悟してほしい」
セイリオス殿下の言葉だけの労いに、総団長は青白い顔のままではあるがハッキリとした口調で答える。
「滅相もございません。愚息とて騎士の端くれ。シュザ殿下と共に責を負う覚悟はあると、総団長たる私と、直属の上司である白銀騎士団長の前で宣言しております。無論、私とて同じこと。今回の不手際、許されるものとは思っておりませぬ」
「分かった。今回の件で、騎士団そのものが大きく変わることになると思うが、最後まで責を全うしてほしい」
「御意にございます!」
大きく頭を下げる総団長。騎士団の長として相応しい実力も人格も持った父親が、このような形で頭を下げている結果になったことを、問題の息子・ニックスはどう思っているのだろう。ヨシュアの脳裏に浮かんだのは、幸せそうに花姫のことを話す彼の顔だった。
「兄上、お尋ねしたいことがあります」
「うむ、言ってみろ」
ビャーコフ殿下の問いかけに、セイリオス殿下は先ほどより柔らかい口調で答える。ビャーコフ殿下は軍事に活路を見出して継承権争いから早々に下りたために、セイリオス殿下ともシュザ殿下とも、それなりに良好な関係を築いていた。
「今、兄上は騎士団が変わると仰いましたが、具体的にはどのように変わるというのでしょうか」
「現時点では、あくまでも案の一つでしかないが、各騎士団を再編成して指揮系統の統一を図るべし、という声が出ている。騎士団の現状はお前達の方が詳しいだろうが、我が国には複数の騎士団が存在し、それぞれの任務が重複している状態にある。今回の警備責任も、同じ宮廷警備の任務を複数の騎士団から部隊を派遣したために、指揮系統の混乱あるいは認識のズレが生じていたのではないか、と考えている者も少なくない」
ヨシュア達は息をのんだ。
真央国騎士団は、まとめ役の総本部を中心に、複数の騎士団で成り立っている。
王族親衛隊である近衛系、国境防衛を任とする軍団系、王宮・王都を護る憲兵系の三系統に分けられる他、同じ系統の部隊でも特色が違うことは珍しくなかった。
例えば、平民出身の騎士で構成された警邏専門の騎士団や、地方出身者で集められた軍団系騎士団などもある。
紅玉騎士団も、形式上は『第三王子親衛隊』と銘打っているが、実際にはビャーコフ殿下が将来、あらゆる部隊に精通できるようにとの配慮から、警邏・宮廷警備・遠征戦闘の三つの実行部隊と、情報戦略・監察・後方支援の三つの裏方部隊で構成されている。
同じ志を持つ者で集まることにより、騎士団内の団結力向上を図ってきたのだが、セイリオス殿下の言う通り弊害が出てしまったことも事実だ。複数の騎士団が同じ任務内容に対応できる部隊を持つことはある。そういった場合は、任務地や時間などが被らないように調整しているが、場所や出動機会が限られるときは、どうしても任務の奪い合いが起こっていた。
第二王子派の騎士達が、良くて降格、悪くて騎士団追放になることは確実なのだろう。そうなれば、彼らの所属する部隊は解散になるはずだ。そこまでは覚悟もできていた。
が、全体を再編成するとなると、紅玉騎士団も無事ではすまなくなる。
不遇な目に合うことは無いだろうが、せっかくビャーコフ殿下の元で集まった同志がバラバラになるかもしれない可能性は、ヨシュアの心をちくりと刺した。
「しかし兄上、我が国は今、多かれ少なかれ各地で混乱しています。その状況下で、騎士団全体を再編成するのは、国防の面からいって不安が出る恐れがありませんか?」
「お前の言うことも一理ある。確かに、再編成には相当な準備が必要だろう。だから、南星国側には改革の旨をひとまず伝え、先方が納得した後に実施すれば良い。こちらが解決策を提示したということが大切なのだ。それに、改革するのは騎士団だけではない。文官の方も、人事の入れ替えが激しくなるだろう……あの娘の信奉者は文官の方が多いからな」
「多くの者が、処罰を受けるのですね。シュザ兄上のせいで……」
「そうだな。これは、我々王家の最大の失態ともいえる。元々は我が国の貴族とはいえ、他国の王族に嫁いだ令嬢に刃を向けるなどあってはならないことだ。この四年、アイリーンを気にする素振りも見せなかったから、てっきり大丈夫だと思って彼女を招いたのだが……このようなことになるとは」
悲痛な表情になるビャーコフ殿下を痛ましそうに見て、目を伏せるセイリオス殿下。
王族故にあらわにすることは無いが、愚行を犯したとはいえ実弟を想う心はあるのだろう。畏れ多くも同情を禁じ得ない。
「ところで、ヨシュア・アレジオン」
セイリオス殿下からの呼びかけに、思わず勢いづいて応えてしまう。らしくもなく、心臓の鼓動が強まっていった。
「其の方を呼び出したのは、単に現状報告をさせるためではない。確認したいことがあったからだ」
セイリオス殿下は、感情を読み取らせない表情のまま、視線だけでヨシュアを射ぬいた。
確認したいこととは何だろうか。騎士団のことなら団長たるビャーコフ殿下にお聞きになるだろうし、考えられるのは実家のことぐらいだ。
「其の方の妹であり、アイリーンの護衛騎士として派遣した、ヒィナ・レミカット・アレジオンだが……。婚約者、または恋人がいるという話はあるか?」
唐突に聞かれたのは、気まずい別れ方をした妹のこと。それも、異性の存在を聞かれるなど初めてだった。
無理はない。ヒィナは仕事一筋の真面目人間で、家柄も権限もある兄が公私共に身近にいるため、声をかける者など今までいなかったのだから。
意味が分からなかったヨシュアだが、戸惑いつつも口を開いた。
「……私の知る限り、婚約者は内定しておりませんし、親しい男性がいるという話は聞いておりませぬ。あの、失礼とは存じますが、妹の交友関係が此度の件と何か関係があるのでしょうか……?」
すると、セイリオス殿下がふっと目を細め、天啓を告げるように返答した。
――ヨシュアには、死刑宣告を告げる悪魔の言葉に聞こえてしまったのだが。
「南星国の使者が、非公式に和解の条件を持ち出してきた。南星国の血族が後継者に、アイリーンの護衛騎士を嫁がせれば、関係者に求める処罰を減軽する、とね」
◇03
護衛騎士とは、他国の王族へ嫁ぐ王女または高位貴族の令嬢に同行し、嫁ぎ先の受け入れ態勢が整うまでお守りする役目を担った騎士のことだ。
護衛対象の花嫁を守りながら、祖国の顔であるという意識を持ちつつ、相手国との関係などにも気を遣わなければならない。
長期に渡って神経を使う仕事ではあるが、上手くいけば騎士として誇るべき実績となるし、相手国からも好感を持たれて良きコネクションとなりうる。婚期や精神的負担などの代償を伴うが、見返りの多い仕事なのだ。
そして、騎士によっては相手国に嫁ぎ、護衛対象に生涯仕えた例も僅かながら存在する。――もっとも、この場合の護衛騎士は、護衛対象に長年仕え、個人的に忠誠を誓っていたなどの事情があったし、護衛対象や婚姻相手の働きかけも不可欠だったとされているが。
セイリオス殿下の言葉を良心的に受け取るならば、ヒィナが南星国の上層部に能力や人柄を認められ、両国の関係改善という誰もが賛同できる建前を用意してくれたことになる。
前例と明らかに異なるのは、真央国と南星国の間に、溝ができてしまっている点だ。その上、こちら側が圧倒的に不利な状況に立たされ、少なくない数の人材を、場合によっては一族ごと失いかけている。その状況を多少なりとも打開できる方法があるとしたら、喜んで縋りつくだろう。
しかも、提示された条件は一種の政略結婚であり、貴族令嬢としては常識の範囲内にある。
それにヒィナは辺境伯令嬢の身分こそあれ、騎士階級生まれの養女でしかない。その上父親の不貞の子だと噂されていた過去もあり、血筋に拘る上級貴族との縁談は正直困難であった。
南星国の特権階級である血族の後継者との婚姻はどう考えても良縁だ――そうした縁談が無かったために偽装結婚を企んだとも言えるが。
「ヨシュア、大丈夫か?」
長考に入っていたのを止めたのは、ビャーコフ殿下の、気遣わし気な声かけだった。
「っ、申し訳ございません。突然のことでしたので……」
「おや、何も聞いていないのかい? 彼女には、先方が残留を望んでいると伝えているはずだが」
「それは……護衛騎士の任期が延長するかもしれない、とだけ聞かされておりましたので、よもや婚姻まで望まれていたとは」
「まぁ、当主を通り越して本人に縁談を持ちかけるなど、この国では有り得ぬからな。仕方あるまい。それで、話の詳細なのだが」
「有り得ぬこと」をやらかした弟君のことを思い出したのか、一瞬眉をしかめたセイリオス殿下は、それを紛らわせるように話を進めようとする。今のところは異を唱える理由もなく、ヨシュアも黙って従う。
「縁談というからには、相手がいる。シュザの剣からアイリーン達を庇った騎士を覚えているかね?」
もちろん、覚えている。忘れようもない相手だ――あらゆる意味で。
高鳴る心臓の鼓動を感じながら、内心で冷や汗をかく。どうか違っていてほしいという虚しい願いは――
「ユウ・サガン・クラビット。彼が相手だそうだ。表向きは、此度の活躍に対する褒美、ということらしい」
残念ながら、届かなかった……。
「例の騎士ですか。大公の親衛隊長とは伺っておりましたが、血族の方だったのですね」
「そういえば、ヒィナとは親しそうな様子だったと報告がありました。二人はアイリーン様を守った功労者ですし、民の不安を紛らわせる美談になるかもしれませんね」
「ああ、万事上手くいく。いや、 必ずそうするのだ。開戦すれば、西方諸国が南星国に味方する恐れがある。この国が攻め滅ぼされることになれば、大陸の東西のバランスが崩れてしまう。かつての戦乱の時代を、我らの代で再開させるわけにはいかない」
ビャーコフ殿下や副団長が各々思い出しながら話している間も、セイリオス殿下が意思表明をしている間も、ヨシュアは内心では動揺しきっていた。
目の前にいる王子達に悟られないよう表情こそ取り繕ってはいるが、頭の中で事実の整理をするのに必死だった。
要するに、このままいけばヒィナは間違いなく南星国に政略結婚で嫁ぐことになる。しかも、相手はあの(能力と家柄はさておき)いけ好かない騎士だという。
ヨシュアは迷っていた。
今回の縁談は「国のため」というよりも……「国の恥をさらした者達のため」という印象を受けてしまう。
元凶は言うまでもなくシュザ殿下だ。彼がアイリーン嬢を実質的な国外追放にしなければ国際問題にまで発展することは無かったし、いくらなんでも斬りかかるほどに理性を保てなくなっていたなどと、王族として言語道断だ。だからこそ、真央国はシュザ殿下や、彼を止められなかった関係者を毅然と処罰して誠意を見せなくてはならない。許しを請う相手に甘えて誠意を見せる機会を減らすのは、かえって悪印象を持たれるのではないだろうか。
そもそもの問題として、ヒィナは真央国の騎士だ。
他国に嫁ぐということは、これまで育んできた忠誠心を、祖国ではなく嫁ぎ先の国に向けるということ。それは騎士として、容易くできることではない。
「国のために」という信念は変わらない。それは大前提だが、どう対応するべきかの選択に、これほど迷う日が来るとは思わなかった。
そして、脳裏に浮かんだのは、騎士の制服と剣を授与されて誇らしげな顔をしていた妹。
彼女に婚姻の話は通っているのだろうか? 騎士として紅玉騎士団に居場所を見出し、同僚達と友諠を交わしていたヒィナが、それらを全て捨てられるというのだろうか、本当に……?
「しかしまあ、彼女もやりますね。あちらでは他にも、何人か高官に目をかけられていたようではありませんか。メアリー・パリエット男爵令嬢並みの手際の良さだ」
唐突に聞こえてきたのは、毒の見え隠れする言葉。高位の文官の制服を着ている彼は、ハルシオン侯爵家の嫡男で、セイリオス殿下の従兄弟兼側近の男だった。
本来なら口を出すべき人間では無いが、彼自身の身分や立場に配慮したのか誰も咎めない。唯一、セイリオス殿下が名前を呼ぶ形で注意するが、彼は失礼、と口にするだけで悪びれる様子は無かった。
当然ながらヨシュアの印象は最悪だ。殿下方の前での無礼とも言える言動は勿論のこと、妹への侮辱。身分も地位もある者でなければ、怒鳴り返すことも厭わないだろう。
なんとか妹への侮辱をどうにか抑えたヨシュアだったが、目の前の傲岸不遜な男は口を開くのを止めなかった。
「盛るも女、傾けるも女と言いますし。国が助かるなら良しとしましょう。例え女の色香でも使えるものは……」
ヨシュアの我慢は限界を迎えた時、ビャーコフ殿下の小声が耳に入る――「喋ってよい」と。
「いい加減にしていただけませんか。仮にも殿下方の御前です」
思わず立ち上がっていた。一応殿下の許可があるとはいえ、自身も立場が悪くなることは重々承知だが、それでも反論せずにはいられなかった。
王族の前でも非礼な対応をする男への怒りもあったが、何より許せないのは、ヒィナを花姫――メアリー嬢と一緒にされたことだ。
「それに、今の発言も訂正していただきたい。ヒィナは任務先で遊興にふける人間ではありません。仮に、そのような不心得者であったとしたら、我が家はそもそも縁組すらしておりませぬ」
「おやおや、これは手厳しいことを言うのですね。西の辺境伯家といえば愛国主義者で有名だと伺っておりましたが。今の話を聞いていると、国防よりも妹君の名誉の方が大事だと聞こえますが?」
「それは違います。この国が安定するというのならば、例え身内でも喜んで差し出しましょう。ただ……」
いったん言葉を区切る。公の場で私情を持ち出すなど良くないと分かってはいたが、もう止まるわけにはいかなかった。
「ヒィナのことは幼い頃から面倒を見てきましたが、その誇り高さと謹厳さは生まれつきで、教えずとも自律ができていました。そのようなことが素でできる女性は滅多にいません。彼女が人に取り入ろうとしたわけではなく、彼女の姿勢を、周囲が認めて評価してくださっただけのこと。それらを知らぬのに、勝手な憶測を重ねないでいただきたい」
反論すると同時に再認識する。無意識のうちに抑え込んでいたが、自分はヒィナのことが大事らしい。
面倒を見続けたのは、兄の義務でも彼女への同情心でもない。自身の置かれている境遇に怯え、泣きそうな顔をしていた彼女を、守ってやりたいと思ったからなのだと。
だからこそ、目の前の無礼者に負けるつもりはない。
殿下方への礼節は守りながらも、彼を黙らせる方法を頭の中で考えていると、厳しくも、それでどこか楽し気な声が場に響いた。
「リュジーン、もう良い。ご苦労だった」
セイリオス殿下がそう言うと、今度こそ彼――リュジーンが黙った。まるで今までの行動が嘘のように。
混乱しかけたヨシュアの肩をビャーコフ殿下が叩いて座らせる。改めて視線を合わせるセイリオス殿下は、実に楽しそうな表情で話し出した。
「すまなかったな、ヨシュア。ちょっと『確認』しておきたかったのだ。其の方が妹をよそに出す気があるのかどうかを」
「あの……恐れながら殿下、それはどういう意味でしょうか…………?」
そこでヨシュアは気付いた。先ほどまで深刻そうな表情だった総団長達が、いささかバツの悪い表情になっていたことに。
「ああ、安心してくれ。ヒィナを無理やり結婚させる気は上層部にはない。その話を持ち込んできたのは、使節団に同行していた外交官なのだが、彼はどうやら大公家と対立しがちな勢力の人間だったようだ。サガンの血を薄める目的で、うちの外務大臣に話を持ち掛ける予定だったようだ。国交改善を餌にしてな」
「では、最初からヒィナを南星国に引き抜くつもりだったということでしょうか?」
ヨシュアの手がかすかに震える。ヒィナの縁談を、当主たる父にすら何の断りもなく、関係の無い人物に持ちかけるなど、どういう神経をしているのか。外務大臣を通して我が家に「命じさせる」つもりだったのだろうが、不快感は拭えない。
手順を全く無視したやり方では、平時ならば禍根を残すだろうに。
「そのようだ。シュザが問題を起こしたために、やりやすくなったと思ったのだろう。極秘裏に大臣の元へ直参したのだ。情けない話だが、外務大臣は追いつめられていて、話に乗ってしまったのだ。度重なる問題で焦っていたのだろう。陛下に報告する前に、本人に先に話を持って行ったのだよ。国のために嫁いでくれ、と。まあ、アイリーンが介入して、密約もどきは露見したわけだけど」
「密約もどき」という言葉に若干の怒気を含ませるセイリオス殿下。慎重な交渉をしている時に、勝手な行動を取られたことがよほど許せなかったようだ。
その様子に、失礼かもしれないが安堵を覚えた。殿下ですら、この話を不快に感じてくださったということは、やはり縁談は無しの方向になっているのかもしれないからだ。
そういえば、先ほどのヒィナの様子はどことなく変だった。もしかしたら外務大臣に迫られた件を言いたかったのかもしれない。
平時であれば、不審な様子を追及できたのだが。あの時は情報収集を優先していて余裕がなかったのだ。
(あの時、もう少し冷静に話を聞いておけば良かったのか? いや、あれは変に誤魔化した言い方をしたあいつが悪いし……)
そう考えながら、ふと疑問に思った。では何故、セイリオス殿下は事実を告げず、まわりくどい話をしたのか、と。
その疑問はすぐに解消することになる。
「で、当人達にも一応確認した。恋愛関係が実際にあるのかどうか。二人ともそれは否定した。ただ……脈はありそうなのだ。シュザ達の減刑を求める気は無いし、件の話は一部の暴走で動きそうだったから咎めただけで、少なくとも両国の"美談"くらいはほしかったのは本当なのだよ」
セイリオス殿下はにこりと笑っているが、ヨシュアの顔色は正直良くなかった。
「安心したまえ。辺境伯に話を通してもらえば良いだけだ──見合いの席を設けるように、と」
「………………」
「頼めるな?」
「承知、いたしました…………」
──どうしよう。殿下の命では逆らえぬ。
騎士団の再編成だけでも一大事なのに、ヒィナを手放す話が本当に現実となってしまいつつある。
そのようなことを考えている間に、セイリオス殿下は「話は以上だ」と告げて側近達と共に去っていく。リュジーンが去り際に「失礼」と声をかけていったが、「お気になさらず」としか言えなかった。彼の様子から察するに、どうやらヨシュアをわざとたきつけていたようだ。
「ヨシュア、大丈夫か。顔色が優れないようだが」
「いえ。大丈夫です。私の方こそ、見苦しいまねをして、大変申し訳ございません……」
ビャーコフ殿下の気遣いが心にしみる。頭を下げるヨシュアの肩を叩きながら、ビャーコフ殿下は苦笑した。
「気にしなくていい。お前だから最低限の言葉の応酬で済むと思っていたからな。セイリオス兄上はここ最近何かと慌ただしかったから、ささやかな憂さ晴らしも兼ねていたのだろうだろう。昔からそういう方だったから」
「憂さ晴らし……」
「それと、ヒィナのことだが。お前の様子から察するに黙っていたのだろう?」
正確には、その話になる前に言い合いになってしまったのだが、そんなことが言えるヨシュアではない。
「あいつとて、困惑していたよ。国の命を個人的な感情で拒める人間ではないからな。かといって、他国に嫁げと言われても、すぐ決断できるものではないだろう? 『結婚相手は兄様に決めてもらう予定なので』としか言えずにいたよ。我が国では兄上の言うとおり、個人で決められる話ではないからな」
「ヒィナがそんなことを……」
デビュタント前にヨシュアが告げたことを、ヒィナは覚えていたのだろうか。
『婚約者は私が見繕うから、お前は婿探しなどせずとも良いからな。不用意な噂が立たぬようにしておけ』
要は必要以上に男と関わるな、という意味合いだったのだが。それを律儀に守っていたようだ。
「顔色が良くなかったからな、取り敢えずお前と話をする時間を作らせて、それから辺境伯に事の次第を伝えることになっていたのだ」
穏やかに話すビャーコフ殿下だったが、いったん顔を引き締めると「だがな」と言葉を続けた。
「今までお前達の私生活に不干渉だった私が言うのもなんだが、此度の件は、お前が妹離れをするのに良い機会だと思うぞ? お前だって辺境伯家を継ぐ身なのだし、いずれは次代を育ててもらわねば」
「あの、殿下。妹離れとは一体……?」
「自覚が無かったのか? 学園でも職場でも社交界でも妹しか異性を連れ歩かないのは、私の知る限りお前だけだ。少なくとも、騎士団の者は引っ付いているのは兄の方だと感づいているぞ」
ヨシュアの肩に手を置いたまま、真剣な表情で殿下が告げてくる。
「その通りだ。辺境伯もその辺りは憂慮しておられたぞ。理由をつけて放置しすぎたと」
殿下とは反対側の肩に手を置きながら、話に入ってきたのは副団長だった。
「お前にとってはとばっちりかもしれないが、良い機会だ。一度、兄妹関係を見直せ。騎士団が大事なのは当然だが、ビャーコフ殿下の側近たるお前にはしっかりしてもらわないと困る」
副団長の言うことは、後半は理解できる。第二王子派の失脚によって、自分達のすべきことが増えたという自覚はあったからだ。
だが、自分「が」ヒィナ「に」執着していると、周囲から思われていたとは、考えたこともなかった。
――否、ファムールら同僚がそれとなく言ってきたのを、無意識に抑え込んでいただけだったかもしれない。
親戚だけでなく、見ず知らずの令嬢ですら、ヨシュアの側にヒィナがいることに不平不満を述べ、当事者たるヨシュアが許可しているにもかかわらず、ヒィナを責めるのを幾度となく体験したためか、そうした言葉を遮断するようになっていた。自分から離れる方が妹には危険なのだと、何故誰も理解してくれないのかと、心の中で憤ったこともある。
「目の届く範囲に置く育て方も間違っていないと思うがな、それしか知らぬというのなら、他のやり方も学ぶべきだ。目の届く範囲内にいれば大丈夫だという思い込みは失敗のもとになる」
「総団長……」
疲れ切った表情だが、先ほどよりは落ち着いた様子を見せる騎士団の最高責任者は、穏やかな口調でヨシュアを諭した。
「なに、心配はいらん。間違っても、ヒィナに責任を負わせるつもりはない。しでかしたことのツケは、本人達に償わせるさ」
それは、ヨシュアの懸念(の一つ)を想定したような発言だった。真央国の騎士の頂点である彼に、そのように気遣われることが、どことなく気恥ずかしさすら感じられた。
「とりあえず、隣の控室にヒィナを待機させているから。今後のことを、一度じっくり話し合っておいで」
「いや、しかし、このような大事に……」
「大丈夫だ。お前達の案件は優先して構わないものだし、紅玉騎士団の仕事の方はお前や皆のお陰でだいぶ片付いているからな」
そう言って、ビャーコフ殿下が控室へ通じる扉を指し示す。
もはや私事とは言えなくなってしまった、妹の結婚問題。ヨシュアは潔く腹をくくった。
(こうなったら、あいつから全てを聞き出すしかあるまい。本当にあの男が好きなのか? 騎士の誇りよりも、国や家や仲間よりも、私よりも大事だと言うのか?)
もちろん、ヒィナが恋愛感情なんてものを優先させるような人間ではないことは分かっているが、任期の延長を申し出てきたのが気になる。
「国のために犠牲になる」と思って独断で動こうとしたのなら、その意志を少しは尊重してやっても良いかもしれない。「勝手なことをするな」と諭してやって、どうするのが最善か策を練らなくてはならない。
少なくとも相手の男の素性ぐらいは慎重に調べたいし、辺境伯家の利益をふまえて父親とも話し合わなければならない。うだうだしている暇はなかった。
ヨシュアは上司三人に深々と礼をして、その場を退出した。
向かう先にあるのは今まで以上の苦難なのだが、彼がそれを知るまで、あと少し――。
◇04
ヨシュアが控室に入ると、ヒィナは腰かけていたソファーから慌てた様子で席を立った。
ヒィナは黙り込んでいるが、その直前、思いつめた表情で俯いていたことは気づいていたので、ヨシュアは何も咎めなかった。
実際には、先ほどの口論の件もあるし、いざ本人を目の前にすると、ヨシュア自身も話をどう切り出して良いか分からなかったのだが。
「……とりあえず、座れ」
「……はい」
とにかく話をする体勢をとらせる。ヒィナをソファーに戻し、自身はすぐ隣に腰かける。単に近距離にいたかったわけではなく、視線を合わせづらかっただけなのだが。
座ったとたん、ヒィナの肩がびくついたのが気配で分かる。少し脅かしすぎたのかもしれない。
横目で彼女の方を窺うと、緊張しているのか、泣きそうな表情になっていた――これでも騎士だ、実際に泣いてはいなかったが――。
(とにかく、このままという訳にはいかぬ。何か話し出さねば……)
「あの、兄様」
意外なことに、話しかけてきたのはヒィナの方だった。
「その……先ほどは失礼しました。私……きちんとお話できなくて」
「もう良い。あの時は不本意だったが、お互い冷静ではなかったからな。それよりも、殿下方から伺ったが、南星国の使者が、お前に縁談を持ってきたそうだ。相手はユウ・サガン・クラビット殿だと。いつ知らされた?」
「二日前に……突然、外務大臣が私の控室にいらっしゃったのです。その時に、初めて縁談の話を聞かされました」
「アイリーン嬢が介入されたそうだが、本当なのか」
「ええ、それは本当です。本当に感謝しています。正直、私一人だけで大臣や同伴の高官の方々からの要求は拒めませんでしたから。それに、ビャーコフ殿下も駆けつけて、上層部に誤解されかけていたところを弁護してくださったんです」
「そうか。その件については後で私からも礼を申し上げる方が良さそうだな。ところで、こちらが本題なのだが」
ヨシュアはいったん言葉を区切ると、ヒィナの方に体を向けた。ヒィナもそれに従うように、ヨシュアと視線を合わせた。
「セイリオス殿下は、お前がユウ殿に好意を寄せていると考えておられたが、本当なのか?」
厳しい口調と表情で尋ねつつ、目をそらそうとするヒィナの顎をつかんで固定する。逃がす気などない。
「お前が、私が昔命じたことを守ろうとしていたのは知っている。騎士の誇りを忘れていないこともな。だがな、護衛騎士の任期延長を申し出てきたことがどうしても気になるのだ。お前があのようなことを言ってきたのは、南星国の要望は要望でも、縁談の話があったからだろう。アイリーン嬢の件を使って、誤魔化すつもりだったわけではあるまいな?」
「違います! そんなつもりはありません。ただ……」
「ただ? ただ、何だと言うのだ」
「私は、私は……私は兄様の御心が知りたかっただけです!」
「は?」
「兄様が、私の婚姻を偽装しようとしたと聞いたとき、私はそれが信じられませんでした。私の知っている兄様は、いつだって公私を分けていらして、国のことを第一に考える方でした。その兄様が、私情を貴族の義務より優先させるはずがないと。だけど、お義父様が嘘を言っているようには思えなくて……だから、あの時、護衛騎士の任期の件を申し上げたのです。お義父様が言っていた、『兄様が私を囲い込んで慰めに利用しようとしている』なんて話、信じたくなかったから!」
最後の告白は衝撃的だった。年頃の娘に何を言っているのかと、父親に抗議したくなるほどに。……もっとも、慰めというのはあくまで精神的なもので、やましい意味があるわけではないのだろうが。
「でも、怒った兄様を見て、本当のことだと分かって……ショックを受けたのは本当ですよ? アイリーン様達にも何故か言われましたが、私が兄様の御心を慰められていたのならば私も本望です。ですが、貴族として、騎士として、限度があると思うんです!」
信じられなかった。これまで妹を導いてきた自負があったのに、今現在諭されているのは紛れもなく自分の方だ。
いつの間にか手が離れ、ヒィナの方が前のめりになっている。
「私……兄様にはずっと感謝しているんです。恩義だって、忘れたことは一日だってありません。この国に帰ってきたかったし、元の職務にも戻りたいと、ずっと願っていました」
「ならば何故、異動願いだの婚姻だの、勝手なことを」
「アイリーン様の護衛騎士になった時、私は騎士の職務さえ果たせれば良いと思っていました。でも、周りはマーズレン公爵家が用意した従者の方ばかりだし、南星国の方達もアイリーン様より私の方が気になっていらしたようだし、考えてみたら、兄様を通さないで人間関係を作るのは初めてだって気付いて。今までの私が甘えていただけ、無用の努力をしていただけじゃないのかって不安になって」
「ヒィナ、落ち着け。そんなことはない。お前はよくやっていた。私の目には、甘えているようには見えなかったぞ」
不安そうに眉をしかめるヒィナを落ち着かせようと声をかける。元々忍耐強い娘ではあったが、幼い頃はそれが仇になることが多かった。学園に入学してからは見なくなったが、相当な精神的負荷がかかったはずだ。
それでも、兄の慰めの言葉に首を横にふりながら、ヒィナは言葉を続ける。
「最終的には皆さんに助けてもらって、向こうでも余裕をもって仕事ができるようにはなりました。この前、お話しした通りです。そうしたら、自分のことや周りのことを省みる時間ができたので、私なりに考えてみたんです。私は今まで、兄様と一緒にいることに何の疑問も抱いていませんでした。一緒にい続けている現状に何の疑問も抱かないで、他の人とズレがあると感じたのは私の境遇が他の人と違うせいだと勝手に解釈して……それが言い訳であり、甘えだったんです」
ヨシュアは動揺した。兄妹の関係性を、ヒィナと同じ理由で納得してしまっていたからだ。
「私だって、兄様と一緒にいたいです。けど、それじゃダメだって分かったんです。兄妹がずっと一緒にいるなんて不可能なんだって。私が傍にいたら、兄様は現状に満足して、周囲の言葉を拒否し続けるだけだって」
そんなことはない、と言えたらどんなに良いか。今となっては自信が無いので言えないが。
だが、ここで怯むわけにはいかない。
ヨシュアは他国との縁談の厳しさを訴え、ヒィナに現実と向き合わせる作戦に出た。先ほどのように感情的になってはできる話もできなくなるので、なるべく落ち着いた、(ヨシュア基準で)優しめの声で諭すように話しかける。
(昔からヒィナの解決策は無謀というか極端というか……やはり、私が兄として軌道修正してやらないと)
「だから、お前は他国に行くのか? 任務で赴くのとは訳が違うのだ。家どころか国も出て、一年ちょっとの間、同じ任務についていただけの男の妻になるのか? 騎士としての能力はともかく、嫁ぎ先……伴侶として見定めるには少し短いと思うが」
「は、伴侶……」
「そうだ。気付かなかったのか? お前がなろうとしているのは、騎士殿の妻だ。騎士殿は当然、南星国と大公殿下に忠誠を誓っておられるはず。そのような方が、伴侶となる者に同じ主に尽くすよう求めるのは常識だろう。お前にそれができるのか? 騎士殿や騎士殿の家が、それができぬお前を非難したとして、かの国ではお前に味方する者はいない。騎士殿だって、国を優先して考えなければならぬ身だし、周囲の目や立場だってある。いつも庇ってくれるとは限らないぞ」
そう言ってやると、ヒィナは少し困惑の表情を浮かべつつ、考えるしぐさをした。潔く現実を悟ってくれたのだろうか。
「セイリオス殿下も無理にとは申していなかったから、此度の縁談は両家の顔合わせだけして、ひとまず保留にしても構わぬぞ。どうしても私達の関係性が気になるなら、その間に話し合おう、な?」
ヨシュアは心の中で、大丈夫だと、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
ヒィナは物分かりの良い娘だから、きちんと説明すれば素直に従ってくれるはずだ。そう一縷の希望を持って。
「……兄様の仰っていることは、理解できます」
少し間をおいてヒィナが告げた言葉は、ヨシュアを安心させるのには十分だった。
「そうだろう? では早速……」
「その件は、ユウと話し合った方が良いですよね。私だけではなく、彼の問題でもあるのですから。彼、いざとなったら自分が断ると言ってくれたんですけど、考えてみたら国からの恩賞代わりでもある縁談を個人的な理由で断るなんて彼が不利になるだけですよね」
「……ん?」
――その安心は、ほんの一瞬でしかなかったが。
「私とて、騎士の誇りを忘れているわけではないんです。仕える主が変わることは、正直今でも抵抗を感じますし、この縁談自体にも二の足を踏んでいました」
その表情には後ろめたさを感じるが、目だけは揺らいでいなかった――強い決意の表れだった。
「ですが、兄様は何時だって国のことを大事にしていらっしゃったでしょう? 兄様は我の強い方ですけど、任務だけは、私情を優先することは今まで無かったじゃないですか。私は兄様と同じことがしたいんです」
「私と、同じ……?」
ヒィナはどこまでも自分を、兄として、先輩騎士として尊敬してくれていたことに、ヨシュアは気付いた。尊敬しているからこそ目標にし、追いつきたいと思ったのかもしれない。幼少時代のヨシュアがそうだったように。
だからこそ、彼女のやろうとしていること、言いたいことがおのずと分かってきてしまう。
聞きたくない、聞きたくないと思いながら問いかける声が震えた。
「兄様。私は、この縁談を受けます」
ヒィナは、しっかりとした口調で話し、真剣な眼差しをヨシュアに向けている。
信じられないと思いながらも、それを美しいと感じてしまうのは、何故だろうか。ヨシュアには分からなかった。
「本気なのか。先ほども言ったが、困難な道になるぞ」
「はい。私は……騎士であると同時にアレジオン辺境伯家の娘です。婚姻によって生み出せるものがあるのならば、是非とも果たしてみせたいのです。アイリーン様のように、二つの国の関係を深める手伝いがしたいのです」
笑っていた。いつものように、どこか困ったような表情で笑う妹が、目の前にいた。
忘れていたわけではないが、ヒィナは貴族令嬢の身分も持っている。騎士としての自分を殺してでも、貴族の義務を果たす気なのだ。
いや……本当は、騎士としても納得しかけているのかもしれない。周囲の反応が気になって、はっきり言えなくなっているだけの可能性もある。先ほどのように、ヒィナへの陰口の材料となりうるからだ。
以前のヒィナなら、そのような事態は無意識のうちに避けようとしたはずだ。心無い陰口は、幾度となく幼い頃の彼女を苦しめてきたから。
心の整理だの、話し合いだの言ってはいるが、既に彼女の決意は固まってしまっているのではないだろうか。
ヨシュアが国の命令ですら抜け道を考えていた時、ヒィナは個人的な感情よりも義務を選んでいたのだ。
(ヒィナは私がいないとやっていけないと思っていた……実際は、逆だったのに)
そう直感したとたんに、今までの決意がただの私情と何ら変わりないことに気付いてしまった。
これまで遠回りに指摘されてきた事実を、ヨシュアは本当の意味で自覚したのだ。
――ヒィナは甘えられる道を捨てた。ならば、自分も覚悟を決めよう。それができなければ、彼女の兄でなくなる。
「分かった。お前がそこまで言うなら、私も次期当主として動こう。父上には私から報告しておく」
だから、ヨシュアも観念して肯定の言葉を口にした――というのに。
「兄様、よろしくお願いいたします!」
ヒィナはそれに驚いた様子を見せることもなく、むしろ喜びの含んだ声で礼を言う。
「お前、そこはもう少し感嘆したらどうなんだ? この私が折れてやったんだぞ、お前に!」
「ですが兄様。先ほど『身内でも国のためなら嫁がせる』と仰っていたではありませんか」
「?! お前、何でそれを知って……」
「兄様、会議室の音声は控室に聞こえるようになっているの、ご存知ですよね? ……聞きました。全部」
ヒィナの言うことは事実だ。そして、それを失念していたのは、完全にヨシュアのミスだった。
「兄様が庇ってくださったの、嬉しかったです。ありがとうございました」
「ん? ああ、まあな……」
(おかしい。さっきは当然のごとく言っただけのはずなのに、何故私は戸惑っている?)
ついでに言えば、こうした気安さを感じる会話も初めてな気がした。
緊迫していた空気が、穏やかなものに変わっていく。それに伴って、ヨシュアの思考も本来の落ち着きを取り戻していき……あることに気付く。
「そう言えばヒィナ。お前、何時から騎士殿のことを呼び捨てするようになったんだ?」
「……? ……っ!?」
今度はヒィナが驚く番だった。彼女はうっかり、本来の彼への呼び方で呼んでしまっていたのだ。
「あ、あのですね兄様、別に仲良くなったとかそういうことではないんですよ? 最初、彼があまりに奔放そうな方に見えてしまって、思わず敬称をつけて呼ぶのが馬鹿馬鹿しいと思ったからでもなくてですね」
「それに……お前、最初の私の質問をさり気なく誤魔化しただろう! 騎士殿のことを、本気で、どう思っているんだ?!」
慌てふためくヒィナを改めて一刀両断する。
まさか、相手に本気で恋愛感情を抱いているから縁談を了承したのではないか。そんな疑念が頭から離れない。
「ユウは、ただの人となりが尊敬できて、仕事でも信頼できる友好国の騎士でしかありません!」
「……本当だろうな?」
「本当です! 好感は持っていますが、それだけです」
真顔で言うヒィナだが、ヨシュアは不安しか無かった。恋愛経験の無い、男女関係すら仕事上のものしかないヒィナが、「恋愛」を正しい意味で理解しているとは思えなかった。
「相手が、騎士殿以外だったらどうするつもりだった? それでも受けるつもりだったのか」
「もちろんです。あ、ですがそれは想定していませんでした。相手がユウだったのは、確かに幸運かもしれませんね」
あっけらかんと答えてうんうんと頷くヒィナを見て心配になってくる。妹が恋愛に敏くないことは、既に知っていたからだ。
それに加えて、ユウ本人やクラビット家のことも調査しなければならない。新たな問題が出てきた状況に、ヨシュアは頭痛を覚えた。
(縁談を受けるのはもう良いとして……こやつを嫁に出して、本当に大丈夫なのだろうか……)
とりあえず、妹離れを決意したヨシュアだったが。
どうやら前途多難な道のりは、まだまだ続くようだった。
「他人事だと思ったら(妹の縁談が決まってしまいました)」
ようやくヨシュアがシスコンを自覚してくれました。妹の自我が承認されたので、次は婿候補の彼との激戦を繰り広げることになるでしょう。
これにてひとまず本編を終了させていただきます。ヒィナ視点や○○の話は、別タイトルをつけようかと思っています。
シリーズ自体は、まだまだ続けていく所存です。気長にお付き合いいただけますよう、お願いいたします。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。