夜
夜。
牢屋を見ると、3062番が真っ白い縫い包みを腕に抱え眠っていた。
同じく純白の肌の肩から何かの動物系の足と丸い尻尾が逆さに出ていて、頬釣りして眠っている。
黒い睫が白い毛に揃い、閉ざされている。別に綿の詰まったものを食う気配も無く、静かだ。
オッドーは進んでいき、その横の奴はいつでも一時ぐらいまでイヤホンで曲を聴いては顔に雑誌を載せ月光を遮っている。ラジカセは歯形があった。進んで行く。
靴音が響き、静けさの響きに拍車を掛けていた。鎮まった夜は、闇に魔物さえどこか住み着いていそうな感覚だ。それは各々の心の中の犯罪を犯した心情や心理から織り成されるように、時に夢に魘される受刑囚や、独り言を呟きつづける受刑囚、殺した人間の名を繰り返しつづける受刑囚、怯える受刑囚、棘のようにベッドに横になれずに隅で震える受刑囚。
夜になれば、本来のそういう姿が現れる受刑囚達もいる。
そして闇の中から、死んだ者達や騙した者達が彼等を迫り来る様に徐々に心を侵食し様とする。時に、警備員が通りかかることで安堵とする顔を向けてくる者もいれば、怯えきって震えるものもいる。鋭く睨んで来る者はそれでも、目の中に闇があった。そこはかとない闇だ。健常に人生を送るものには無い闇。
犯罪者の砦の夜は、そこはかとなくシンとした空気は時に闇の深淵に変えてくる。
いきなり足首を掴まれ、ザッと視線を落とした。
「………」
北東の角牢、受刑囚6262番が床にシーツに塗れうずくまり、涙の顔が月光も遮らずに濡れそれでも白く光っていた。黒髪が頬に乱雑に絡みつき、血の気配は無く瞳が恐怖に彩られていた。
オッドーは鍵を開け、静かに入って行くと身体を起こしてやり頬を拭った。
「また死にたくなったのか」
6262番は俯いたままでシーツを肩に掛け顔が髪で見えなかった。首を横に振り、顔を上げ神経質な程繊細な顔つきがオッドーを見た。開かれる口許が震えていては、ドイツ語でずっと呟いていた。自己が殺した父親の事をだ。時に6262番の瞳の闇の中には炎がちらつく。熱く燃える絶望の炎だ。
収容されて一年すると、よく夜警中のオッドーに抱き着いて来ていた。同じドイツ語を話す事が何か6262番の中でも琴線に触れて安堵する部分もあったのかもしれない。
エリザベスはこの所落ち着いたこいつを見て安心しているが、やはり夜は魔物だ。罪を犯した者を責め立てる。息子は罪に苦しみ、殺す前も苦しみつづけ、犯してしまった最終的な罪を一人ここで悔い続けていた。悔いる気持ちも最近現れたものだ。
背を撫でてやり、ベッドに戻した。横を見ると、美しい七色に金塗のグラスが並んでいた。鋭く雲間から現れた月光に今しがた、現れ照らされた。それが四角い斜めに掛かる月光の中を、白い壁に美しく反射し色が七色で移っては、金の部分が光り、壁には唐草模様が繊細な影に落ちていた。
壁にはこの前来ていたマジックショーの二人の写真が貼られていた。五人の仲間でイベント時に撮ったものも飾られている。先ほど、3062番の牢屋の壁にも見た同じ種類の繊細な絵画の一頁も貼られている。
ベッドに戻った6262番は震えながら目を閉じた。オッドーは髪を撫で、牢屋の鍵を閉めた。
5569番はものけの殻だ。クラシックを所望する筋肉の黒い手腕も、伸びてはこない。
月の明るい夜は続くが、やはり窓の無い北側は闇に占領され、何の光も跳ね返さない。
受刑囚達は時に互いを拠り所に、時に跳ね返すほど恨みを持って、日々を過ごしている。
もう一人の監禁受刑囚は北側にいて、いつもの様に邪教的なことを呟いてはいなかった。常しえの火の海の会場の上で巫女たちを乱舞させた牧師だ。まるで息絶えたようにベッドから上半身が落ち、頬がのめっている。蛍光灯の中のその姿を見ると白い泡を噴いていた為に扉を開いた。
オッドーは首をやれやれ振り、牢屋を出て鍵を閉めた。
暫く問題無く進み、西側を進む。小窓の外の夜が青く光り並んでいる。あの爆破犯が微かな明りを頼りに必死に手紙を書いていた。一切こいつは昼に手紙を書かない。女自由監房内の恋人に送るものだ。鋭い独特な顔つきが陰影着いて手紙を書いていた。菓子の袋が埋め尽す中を、それらが微かに光の波を作っている。
今日はあの肉弾魔も静かで声も聴こえない。たまにこういう日がある。足を曲げこみ頬の下に手をそろえ枕に眠っていた。夜はフル装備の黄色のつなぎが丸まってレモンのようだ。まあとてもじゃないんだがあのアスカロと同じ二十五歳には思えない。
物音を立てショックを与え起こす前に過ぎ去るに限る。
「おい」
だが無駄だった。その横の奴が声を掛けて来た。夜とも思えない声だ。
「静かにしろ」
「これ全く駄目なんだよクロスワード。後十個なんだけどよお」
知るか。去って行こうというのにびらびらとペンとその紙をひらつかせ音を発してくる。相手側から来る物は時に脱獄計画に関るような他からの怪しいものも多い。みすみす……。
「ビラビラうるせえぞ!」
ガシャンッ
起きてしまった。
「ウォアアアア!!」
ビックバンでも起こした様に爆裂声を上げ始め喧しくて、横の受刑囚2345番は、壁をドカドカ激しく蹴ってくる3001番の阿呆に「うおお」と壁を見て、オッドーは牢屋に入ると首根っこを引き上げ頬をバシバシ叩き大人しくさせた。煩いのでドスッと気絶させ、壊れた宇宙人人形のようにぐたりとなった。首根っこを下ろし宇宙色のシーツをかけて鍵をしめた。宇宙人の縫いぐるみと人形がたくさんのベッドの上にまみれて寝始めていた。その中の二つは頭先から口下まで無残に裂かれて綿が溢れ、その脳味噌の中に色とりどりの菓子が溢れ入って脳漿のようだった。虚ろな左右に垂れる目がこちらと壁を見ている。
牢から出て鍵を閉めた。既に投げつけられた緑の宇宙人縫いぐるみの頭が格子にはまり込み、胴体が牢屋内に重力で垂れ下がりこちらを人形なのに虚ろに見つめて来ていてオッドーは目許を筋立たせた。レバイアがあの宇宙人受刑囚が脱走しようとしていると勘違いして喧しい音で発砲する前に、その緑の縫いぐるみの頭を手で押し入れ落として恐ろしい重量でドサッと床に落ち、牢前を離れた。
2345番は鼻を覗かせ横目で見ていた。歩いて行く。
南側は微かに牢屋の中にも月光が伸び、逆に牢内に斜めに格子影は灰色の光と共に差し込んでいる。東側へ行くと逆方向から斜めに入り、途中の牢屋では交差するように影が美しく入った。南側で煩い奴や問題を起こす奴はいない。昨日殺された受刑囚もそうだった。
6233番の連れだった受刑囚の一人は眠れないようでいつもは寝ている時間だが、目を開いて壁に座り床を見ていた。二十九の年齢で二年目の奴だ。革パンブーツに髭と黒髪のロードライダーで、腕に蛇の入墨がある奴だ。アメリカのレッドスネークという武器密売や臓器、奇形児、麻薬などを卸すアングラ団体の一人で、時に軍用兵器も闇で転売している。元々この7999番はスキンで眉なしだった。
「眠れないのか」
7999番は相槌を打ち、目を閉じた。何も言わずに動かなくなり、しばらくしてオッドーは進んで行った。
他は眠っていて、声楽の時の7654番の牢屋は顔の上に隣の牢屋の猫を乗せ寝苦しそうに眠っていた。なので頭が丸まる猫になっていた。ペンライトで猫が目を覚まし顔を上げ、7654番は息が出来て伸びをして背を上に寝た。進んで行く。
もう一匹は見当たらない。またどこかに浮気中だろう。
がらんどうの牢屋の中は静かだった。いつもは右腕だけベッドからだらんと落とし寝ていたのだが。六年間ずっとそうだった。背を上にしていても左腕だけだらんといつでも出ていた。その手は冬は手袋が嵌められていた。一切の利害関係もなければ問題は起こさない受刑囚だった。マニキュア壷で折り合いの悪かった六人を溺死させたぐらいだから、雰囲気も元から洒落た奴ではあった。
その前を通り過ぎて行く。
南の角に入る受刑囚が、何やら不審な行動をとっている。ペンライトを当てると、その背が蠢いていた。組んだ膝の上に何かを乗せ、何かを作っているのだ。
驚いた様に月光側からオッドーを見た受刑囚1234番は、咄嗟に何かを隠した。オッドーは腕を掴み手の中の針を取った。それはするすると糸から離れて行き、糸はふわっと伸び宙に浮き、軽い重力で降りていった。
「没収する」
「待て、待て」
何やら、縫いぐるみをつくっていた。図体がでかい受刑囚は髭男で、こいつだけが黒のスラックスに白シャツ、首にスカーフを巻いては、長い髪を撫で付けまとめている。あの婦女暴行事件も起こしたバイク野郎とそっくりな体系だが、実際は人形屋敷のミニチュアとその実物大の人形屋敷を作って幼女をたくさん誘拐し、自己の世界を形成し十五年間もそうしていた男で、売春屋敷にまでしていた男で、多くの人形や精巧な巨大縫いぐるみの中身にその遺体を収めさせていた奴だった。
「まだ目が付いてない。この子は恐がりだから、つけてやらなきゃ真っ暗だろう」
オッドーは聞かずに針を没収して行った。恨めしそうな暗い目が見て来ては、ずっと格子を掴みこちらを見ていた。無視して歩いて行く。受刑囚は縫いぐるみの頭を掴み持ち、じっと横目で見て来ていた。その真ピンクの何かは分からない縫いぐるみは目もなく、愛くるしい顔をしていた。
階段前の受刑囚がいつでも警備員が三十分毎に入れ替わりで静かに通りかかるために、大体は耳にヘッドホンを嵌めては頭に枕を載せて眠っていた。
一階へ向かう。階段中央で視線で受刑囚の様子と気になった点を報告しあう。一階の場合、牢は二階の半分しかないが、何しろ年齢が上の為にいろいろと介抱が必要な受刑囚も出る事もある。まだ五十代までの若い方ならいいが、それ以上は注意深くゆっくりと牢屋内を監視しなければならない。中には身体の不調を隠す受刑囚もいる。
猫が時計の針が見やすくなった受刑囚の横で丸まっていた。今日は上の階も静かなら、下の階も安眠者が多い。
明日は一日中閉じ込められる為に、静かにしていた方が明日のためにもなるし、警備員達がいないために気も休まる点が大きくなる。それに徐々に季節も気候が落ち着き始める時期で、身体も楽になる。
5555番のバイク屋が床で腕を枕に顔に帽子を掛け眠っていた。ジーンズ先の交差するブーツの足が上からの微かな広がる月光に光っている。この受刑囚は女の遺体を改造バイクに精巧に組み込ませコレクションにしていた男で、その数は三十体もあった。それを自分の新しい女に跨らせアルバムまで作っていた。見た目は渋く、そんな事はしそうにも無い。しかもオッドーと同じ四十二歳だ。三十体は、腐ったもの、ミイラ化したもの、ホルマリンもの、構造上首が無いもの、綺麗なもの、様々だった。
その受刑囚は寝てはいなかった。帽子を上げ、オッドーを見ると口端を片方上げてから起き上がった。酒でもオーダーしてきそうな態だ。何か考えてでもいるのだろう。
指をくいくいとやって来た為にしゃがんで耳を寄せた。
「あの現れた女は、もう来ないのか?」
オッドーは目を伏せ気味に横目で受刑囚を見て、立ち上がって歩いて行った。全く、犯罪を犯したばかりに女にも触れられなくなったのだから。罰が当ったんだこいつらも。
「?」
咄嗟のことで、打ち抜いていた。
頭上の闇にピンクの物体が浮いたからだった。縫いぐるみが一階監房床に転がり、なんとなく罰が悪くて手に掴んだ。サイレンサー搭載の拳銃の為に音は無く縫いぐるみが落ちた音だけだった。
ボンッ
「?」
五個ほど、逆から宇宙人縫いぐるみが一階監房に投げられ落ちて来た。
緑、ピンク、紫、黄色、オレンジ、肌色……
「何をやっている!!」
オッドーは二階監房のレバイアの声に即刻走った。
欄干を走って行き、肌色の投げ込まれたものが真赤に染まって行った。
レバイアが西側監房の南寄りに入る男の前に来た。あの宇宙人では無い。
7343番と4577番だ。
オッドーが牢屋内に凭れかかり血を落とす首の無い7343番の遺体を抑えては鍵を開け、レバイアに取り押さえられた方の受刑囚4577番は牢屋越しに両手を拘束され凶器を持つ手を払われた。いつから隠し持っていたのか、巨大な刃物だ。黒く塗りつぶされた牢内を前に、銀に光った三日月型の凶器が通路に転がった。
近くの宇宙人受刑囚が騒ぎ捲くって縫いぐるみをボンボン投げつけている。煩い。放って置く。
隣り牢から腕を出し受刑囚の髪を掴み凶器で首を切りつけたのだ。そうした受刑囚の目は普通ではなかった。白目を剥き、唾液を垂らしている。全身がガクガク震えて項から押さえつけられていても気を取り戻さない。
足音と共に、所長と副所長が駆けつけた。
副所長は騒ぎ捲くる3001番の所で静かにさせると、被害を見て所長は低く唸って険しい顔をした。
「しばらくは自由監房内を全て施錠した方がよさそうだな。立て続けに」
受刑囚に意識は無い。首を失った方はオッドーにベッドの上に横たえさせられていた。
ロイドとアルデ兄弟、タカロスが来ると二人が担架に遺体を担ぎ上げた。
「ずっと狙っていたのですか。あなたは」
副所長の声に白目を戻した受刑囚が、不気味ににたりと笑った。
「来い」
タカロスがきつく拘束し、拷問所へ連れて行く事になった。
首切りをした男はやはり、それで刑務所に入れられていた。料理人の男で、豚の首の中に切った人間の首を内蔵させ、その六体を結婚式の宴の会場に出し、無残な程の騒ぎになった。
遺体と共に一階監房の首も運ばれて行った。五体の縫いぐるみが転がる中を受刑囚が連れられていき、歩いて行った。
明日の葬儀後の夜警はタカロスとアスカロだ。見張り警備員が出る時の独房はいつでも、拷問係りが入っていた。
3001番が泣いていた。レバイアは牢屋に入り、抱き着いて来る為に頭を撫でてやった。たまに3001番は子供に戻る。
なだめてやってから牢屋の鍵をしめ出て行く。
いきなりの事に一階監房の二名程が動揺し、オッドーはその介抱に当って落ち着かせていた。
被害に遭った受刑囚は元弁護士で、加えて詐欺師だった。口もうまくインテリ型で、いつでも不気味に笑っていた線の細い受刑囚だった。頭も小さかった。何件も保険金殺人に手を貸していた男だ。家族はいなく、婚歴も無い。いつでも一人チェスを差したり、難しい本を読んだり、気が向くと猫を食堂まで連れて行き自身の食事を与えていた。
アラディスは純白の縫いぐるみを抱えたまま丸い尻尾をくわえ、眠っていた。
アラディスが目を覚ますと、明るいにもかかわらず牢屋に皆が入っては、四人の見回り警備員達が規律良く通路を歩いていた。下にも三人が当っている頃だと分かっている。その中でも一人は上に行ったり下に向かったりする。
そうだ。今日は拘束される日だ。
純白の縫いぐるみの足に噛み付いて目覚めたアラディスは口から出し、髪をかき乱してあくびを吐き出した。
例により、雑誌など買っていないアラディスはしばらくは寝起きはボウッとしていた。夢も見なかった。
あちらのリンは派手な色の中、ベッドの中央に座って曲を聴いていた。ゾラはここからだと足先しか見え無い。
「?」
黒い空間にはいつもの不気味な奴はいなかった。その横の牢屋もそうだ。
前を通り掛かった見回り警備員を呼び止めた。
パマは顔を向け、受刑囚3062番を見た。
「何かあったのか? 二人いないじゃねえか」
「詳しいことは不明だ。大人しくしろ」
「待てよ」
警棒を振り上げてきた為にアラディスは憮然とし、ベッドに座った。やはり皆自分より背が低い見回り警備員は同じ背丈で、そのまま歩いて行った。
受刑囚同士での会話は一切許されないので、何の情報も無く、それにやる事が無い。
一週間、作業は無かった。今工場内を変えているからだ。
早く木を育てたかった。苗木や、木、土の状態を見たり、肥料を与えたり、こまめに苗の世話をしたりするのだ。
また他の奴が通りかかり聞いてみた。
レペが振り返った。
「何かあったのか?」
「大人しくしろ3062番」
また行ってしまった。アラディスは不貞腐れてベッドに転がった。天井を見る。誰かが前の人間が画鋲で何かを留めていたのだろう、星座の様に痕が空いている。
レッツォや、セルゾ、みんなどうしているだろうか。レッツォの怒った顔が浮かんだ。怒って泣いていた。十二歳だった。
自分は、牢屋の中だ。後に出来た愛する恋人達を四回も食べさせられ、自殺しきれずに自暴自棄になってマフィアに加わり、クローダボスにも迷惑を掛け、そして殺人を犯し刑務所行きだ。
レッツォは今何をしているだろう。セルゾを手伝ってミラノに戻っているのだろうか。全く別の場所だろうか。もう六年間会っていない。原因は自分だ。自分でいけない事だと分かっていたというのに自分はセルゾを彼の妻から取っていた。幼い頃から、レッツォとセルゾの二人が好きだった。将来は二人と結婚するのだとばかり、小さな頃は思っていた。
だが現実は、同性同士の結婚など世には無く、思うままにセルゾに気が行きセルゾの家庭を崩壊させてしまい、そして同性好きを表現していたも同様の自分はダイマ・ルジクに罰せられた。酷い仕打ちを持って。
レッツォだから、今頃は社交に出て、将来を考えて大学に通っていて、もしかしたらもう結婚もしているのかもしれない。彼女を作っていたり、顔を広げていたり……。星を見上げる事はあるのだろうか。その横には、きっと幸せな顔をした彼女がいるんだ。
あの時の星を、今はその彼女と二人で……。
アラディスは閉じる目にあの天体を思い浮かべていた。粒子の様に細かくて、移動していく星は澄んだ夜空を装飾していた。
屋敷の影は一層夜空を明るくしては、繊細な塔の装飾はレースのように縁取り飾って、その際から移動してくる天体も美しかった。木々の天辺に一際強い光を放つ星を見ると、いつでもレッツォの頬にキスをしたくて仕方が無くなり横目で見つめていた。
レッツォも数多の星に彩られ切り抜かれていて、可愛かった。群青色に染まるほっぺも金髪も。
リンが顔を上げ、アラディスは手を振った。リンが辺りを視線だけで見回すと、短く手で信号を送った。
<昨夜、問題起こる>
昨日また騒ぎが起こったらしい、というのだ。
リンの顔振りからは、とはいえいつもと同じ顔で滅多に笑顔など彫刻の様に表情の無く固定された顔の男がリンなのだが、詳しくは分からなかったらしい。きっと、騒ぎが起きた時に消灯されたままだったのだろう。それに確度的には見え無い。
<暴れた二人連行。内一人担架。人物不明。月光暗い>
二人の受刑囚が連れて行かれたのが、階段に射した微かな月光で分かったようだ。
一人が暴れていたようで、一人は気絶かもしれないと。
リンは身体を戻し、手元を下ろした。見回り警備員が歩いていき、過ぎて行った。
アラディスは相槌を打ってから、手で会話をすると目をつけられるためにそれが出来なかった。刑務所内独自の手話のような物だった。
何やらゾラが動き出していた。何かしている。
体中で何かを表現していた。くねくね動かしたり、くるくる回ったり、両腕と両足を回しジャンプしたり、斜めになったりしている。そして何かが投げ込まれた。それが一瞬東側から一階監房吹き抜けに投げ込まれ、見えたのだ。何か、派手な色のものだった様に思える。そうすると、西側のゾラの牢屋から宇宙人の縫いぐるみが投げ込まれた。そしてまた身体をぐねぐねさせている。
見回り警備員がガシャンッと鉄格子を叩き付け妙な事を留めさせていた。
ポムは欄干から一階監房を見下ろすと、ヘルが二つの縫いぐるみを手にした所だった。見上げて来ると階段を上がり、階段の所でそれを渡されたロロは、階段を上がると、東側監房の受刑囚1234番を見た。
それはピンク色の兎で、目が無い縫いぐるみだった。
「何かの暗号じゃないだろうなお前等。この事は報告するからな」
「待って、待って」
若い見回り警備員は踵を返して腰に縫いぐるみをつけ没収し歩いて行った。手に持つもう一つの宇宙人の縫いぐるみを持って行った。
その為に、アラディスから真っピンクの目の無い兎の縫いぐるみと警備員が見えた。
まさか、ゾラの奴は危険な脱獄でも考えているんじゃないだろうな。東側の奴と。宇宙交信のためのこととは思えなかった。
紫色の縫いぐるみを持ったその警備員がゾラの前まで来た。ゾラは背の低い見回り警備員を見下ろした。
警備員達は拳銃を所持している。見張り役警備員がいる監視している時は所持していない。縄と警棒だけだ。こうやって牢屋に受刑囚達が拘束されている時は所持していた。
問題を起こせば撃たれる。
アラディスは上目でじっと警備員の背と金髪ボーズ頭のゾラを見た。黄色の繋ぎが目にまぶしく、目許や頬の星のタトゥアッジョは涙で濡れていた。ゾラがボロボロ泣いている。ただ、表情は泣いてなど居なかったし、恐ろしく冷めた顔をしている。ただ体中に血が流れている事と同じ様に、ただただ液体として体から流れでているという感じだった。何かが関係しているでもなく。宇宙を崇拝していると、いまにああやって体内という小宇宙から液体が循環し流れでて来る様になるのだろうか。
「これは何だ。何の為に投げたんだ」
ゾラは上目になって歯を剥き、腕を伸ばして自分の宇宙人を欲しがっている。
ロロは上目でキャップ下から怪訝そうに見上げてから、没収して腰にくくりつけ歩いて行った。
「ウォオオオ! ウォオオオ!」
それがどうやらゾラには愉快で仕方ないらしく、警備員服の丸いケツの上に揃うピンクと紫の縫いぐるみを見て喜んでいた。ゾラは余りよく分からない。ロロは目を伏せ気味に歩いて行った。
その二つの縫いぐるみの横に、黒いホルターの中を拳銃が収められている。
日中は泥の様に眠っている閉じ込められているもう一人の受刑囚は、持ち込まれる夕飯時以外に動いている所を見ない。今はその牢屋内もアラディスの所からは見え無いが、通りかかるごとに泥の様にベッドに寝ている。何をして禁固刑かは不明だが、痩せ細った四十代ぐらいの男だ。ここからでも見える脱獄を図った男が入っていた牢屋内は未だにベッド、棚があり、CDや本が並んでいる。棚の前床にCDプレーヤーが置かれている。イヤホンが伸びていた。
独房にいるのだろうか。あの男はいつもこちらに背を向けていた。一切関わる事は無かった。
セリはTVでも見ているのだろう、そういう音がしていた。他にも、ラジオ、音楽などが聴こえている。時々牢屋が開閉される音が聴こえては、しばらくして咳が止んだりする。
アラディスはベッドに転がり、純白の縫いぐるみを抱え込んで目を閉じた。安心した。
微かに心落ち着くエッセンシャルオイルの香りがする。ハーブ系の香りだ。
モサモサの熊の縫いぐるみだ。首に水色と銀色のリボンが巻かれている。胸部にピンクのボーズと紅い刺繍のハートがついている。
目を閉じて、ザイーダルを思い出した。巨大な白黒ペガサスの縫いぐるみをプレゼントしてくれた。ザイーダルには自分より一つ年下の息子がいると聞いた事があった。今どうしているだろう。その息子は。ザイーダルとフランスのジーナ・ルメイが何年も前に離婚して、母親について行ったという。セラーヌ一族の令嬢で、新しくボードローラ一族の夫人になったジーナ・ルメイは自己の息子に、あのザイーダルを重ねる事はあるのだろうか。十七歳といったら、顔立ちが完全にどちらかの親族に似る年齢だ。
いつのまにか熊の鼻をくわえていた。真っ黒の睫がそろい、粉雪の頬に純白の縫いぐるみの頬が寄り添っている。
レペは可愛い年下の受刑囚を見て、可愛くて一瞬見てしまっていた。クローダの入墨が入った奴で、顔が恐ろしくクールで可愛い。
たまにシビアな風やワイルドな風が覗くのだが、それが愛らしい縫いぐるみを頬に寄せて鼻に噛み付いて眠っている。
熊は噛みつかれてなんともつかない風だった。
縫いぐるみの関係は服を裁縫する作業の女子監房の女達が作っているもので、その中でも何パーセントかでああいった高級な風の綺麗な縫いぐるみをつくるのは、年齢も上で長いことこの刑務所で収容されつづけている女受刑囚だった。そこまで来ると、やはり職人並の腕を持っているものだ。ああやって噛み付いたぐらいでなんにもへこたれない。
心身リラクゼーションにエッセンスオイルを振り掛けたのはアビレウなのだが。
アビレウには三歳の小さな娘がいて、縫いぐるみなどが大好きな娘だ。眠る時も抱きつき眠っているが、休日以外はそんな可愛らしい寝顔は見れない。アビレウもやはり警備員寮に入っている。
アモーエに噛み付いたアラディスが何やら縫いぐるみを抱くように、アモーエのキャップを抱えていたので、噛まれる前に女史に相談して与えたものだった。
アラディスは目を開き、肩越しに見上げた。あの麻薬を卸していた警備員だった。ポムだ。
見張り役警備員がいないと、こうやって来る。
肩に手を当て耳元に囁いて来た。
「最近、どうなんだよ」
アラディスは首を横に振り、枕に顔をうずめた。
レペは前を通るとまたポムが可愛い3062番といる。レペは呆れて歩いて行った。もう手持ちの麻薬が無い。また刑務所外で手に入れようとすると面倒だ。ポムが刑務所で警備員をしている事を地元の人間は知っている。口止めで余計な金を渡すのも面倒だった。
以前も他の受刑囚が麻薬の錠剤を刑務所内に流していて、十年の刑を終えて出て行った。ポムは二年間その受刑囚がいた時期にいて、受刑囚達の間で出回っている中をいつでも見ていた。ただ、そいつからは買わなかった。そいつは巧妙な奴で、外にいる仲間に菓子袋で作らせ普通商品として売店に入荷させていた。そして売店の人間がダンボールから分けていた。通常の飴は店内。錠剤入りはカーテンの中。二つに割りいれたグレープキャンディーの中に錠剤は閉じ込められていた。売店でも買う人間は決まっていて、暗号もあった。
アラディスの場合も錠剤だった。香りがしないし、目立たなく手軽だ。気分がハイになるぐらいの物で、それでも最高の悦楽感を産む錠剤でもあった。酒も許されない刑務所内なので、酔うには最高だった。
ポムの場合は、それを部屋に持ち帰ると再び器具で精製させて元の成分を他の糖分なども含まれる錠剤から分けて即刻効き目を強くさせていた。その為に部屋で強い幻覚も見ていた。
麻薬が降りてこなくても、この受刑囚がいる間は可愛がれる。ポムは牢屋から出て行った。いつでも一時間かけて一人ずつが一日四回に渡って排泄の為に施錠が解かれる。二人の警備員と共に向かい戻って来て次、次、という具合なのだが。
十分して丁度アラディスの所にその番が来た。アラディスはのろのろ立ち上がり、シャワーが浴びたかった為に、見張り警備員が不在中は鉄格子付きに限られるのだがシャワーも浴びた。
背にいつもの様に二人の警備員の視線を感じて肩越しに見ると、一人はいつでもフイッと目を反らす。一人はあの交わった奴で、いつでもニコッと微笑んで来た。また向き直り、体を洗う。
大人しく拘束されてから牢屋に戻った。
歩いて行く3062番の頭を見上げていたポムは、ロロの視線に気付いてロロを見た。目を伏せ気味に見て来ているポムは向き直り、歩いて行かせた。
牢屋に3062番を入れると、次だ。
見張り役がいない時は格子に近づく事は許されない。ベッドの上かベッド横の空間だ。横の牢屋の人間と関る事も許されない。見つかれば即刻攻撃される。
アラディスはベッドに戻ってストレッチを始めた。
二十分した頃だった。銃声にアラディスは立ち上がり格子に手をかけた。横の奴も手が覗いていた。
見回り警備員が一人走って行った。
排泄時間は二人が受刑囚につき、二人ずつが階を見回っている。見回り警備員達のリーダーである最年長のヘルが向かった為に、二階監房のパマは階段前に来て監獄を見回した。
ヘルが駆けつけると、受刑囚がポムとロロに奪った警棒を拘束される両手で構え向けていた。腰の縄から両手首が外れている。拳銃が一つ遠くに転がっている。リーダーのヘルは受刑囚一人一人の情報が回っている。ロロは拳銃を向けていて、拳銃を叩き払われたポムは受刑囚を睨み付けていた。
ヘルは連絡機から口を離すと拳銃を奪って二人を殺害し、脱獄でもしようとしたのだろう受刑囚3233番を睨み、拳銃に手を当てた。
ロロの腰元の縫いぐるみが滑稽で、こちらを見ているのだが目の無い兎は虚ろそうだった。
3233番は筋肉質で、警棒を振り上げるとポムが吹っ飛んでいき丁度拳銃を手にしてロロの方へ走って行った受刑囚の足許をポムとヘルが撃った。3233番は腹部に突っ込んだロロの首元を捕らえ首を腕で締上げ、ロロは暴れて足を振り上げた。
ポムは早くあのキレると目を覚ましヤバイ拷問係りが来る事を願ったが、独房は時間が掛かる。
いきなりヒュッと鋭い風がうねり、叫び声が低くくぐもった。
「ギャッ」
3233番がロロと共に倒れ、血が激しく流れる頬と腕を抑えて顔を上げた。
ヘルが咄嗟に警棒を叩き付け武器を奪い、それでも3233番が警棒を振り上げロロとヘルの肩や背を打っ叩いた。ポムがその警棒の手を掴んで後ろに回させ、3233番の胴体にキツイ鞭が入って血が飛び、服が裂けた。
「うう、」
3233番は一瞬隙を見せ、ポムとヘルはきつく拘束した。
「副所長」
「全く、仕方がありませんね」
彼女は鞭を回し収め油断を見せた見回り警備員を見ると、走って来た拷問係りを見た。
「連れて行きなさい」
拷問係りは落ち窪んだ目で頷き、見かけに寄らず相当拘束力のある力で3233番を連れて行った。
ロロとヘルは腕や背を抑えていて、ポムは腹を抑えていたがまた叱られる前に手を離して起立した。
「油断禁物。こちらは二人だろうとあちらは凶暴な人物です。分かっていますね」
「はい」
「直ちに戻りなさい。その縫いぐるみが報告の縫いぐるみですね。持って行きます」
ロロは副所長に渡した。
「何らかの信号という話ですね」
「はい。昨夜も投げ込まれていたんですよね」
「ええ。立て続けとなると、様子を見たほうがいいでしょう」
「はい」
縫いぐるみと共に投げ込まれた昨日殺害された生首の受刑囚は、既に縫合が済まされていた。
暫くの禁固が続く事は朝礼で告げられていた。見張り警備員が常駐になってもそうだ。また明日の朝礼で報せるのだが。
そして二日後にまた葬儀が行なわれる事になるが、問題が起こるために見張り警備員を一階毎に一人ずつ付けることにした。所長が帰った後に夜、見張り警備員達も集め詳しく話し合うことになる。
警棒が叩きつけられ、アラディスは顔を戻してからベッドに座った。受刑囚があの不健康組の男に連れて行かれ、副所長が鋭い目で監獄内を見回してながら回り、二人の警備員が次の受刑囚の両腕と腰を拘束し連れて行った。腰と繋がる拘束器具は鋼鉄も含む為に普段は切れないし外れ無い。
二人に連れて行かれるセリが顔を向けて来た。アラディスは手を振り、セリは肩を上げ進んで行った。
昨日はセリは眠れなかった。隣りの奴が連れていかれた。眠れずにいて青い光が銀色に伸びる監獄内を見ていると、ピンクや色とりどりの物体が闇に浮いたと思えば、銀の光を青く集めた円形の武器がぬっと闇に現われ、そして腕が伸びると西側監房の牢屋の壁を隔てて血が舞い鷲掴まれた頭部が分投げられ、そして一瞬で警備員が飛ぶように走って行った。
どうやら当分出られないらしい。アルにも触れられなくなる。セリは戻って来て回廊を歩くときにゾラを見た。警備員のケツを見て、縫いぐるみが消えていたからまたじろじろと男のケツをまじまじ見ては、もう一人に警棒で後退させられ憮然として引いて行った。
デラを横目で見ると、雑誌を顔に乗せ眠っていた。あいつは適当で気ままだ。
リンはまたあの品がある整った悪役顔で一度見て来ると、二人の警備員を見てから顔を戻した。こいつはあまり他に興味を示さない。
向こう側のアルはもう縫いぐるみに噛み付いてはいなかった。ずっと様子を窺っていた。まるで動物のようだ。
あの二つ隣りの奴は泥の様に眠っている。
牢屋に入る前にセレを見た。セレは耳にイヤホンを嵌めてベッド下に座り、目を閉じていた。
牢屋に入り、鍵が掛けられた。
時々、美に魅せられたが為に、美に殺される人間がいる。耽美の中に追求がつのり、既に醜いことに気付かず、それも美しいとなり、そして気付かぬ内に侵され命を奪われているような。
完璧主義者が横にいてもそうだし、自身が完璧主義者の場合もそうだ。自身に向けられる絶対的なものならまだしも、他に向けられるものは苦痛になり、そして犯罪に繋がる。絶対者が敷くものが死に至る事もあれば、他に強要されて絶対者を死に至らしめる場合。それに自己をその為に死に至らしめる場合。
セレはどことなく、美に対する探求から来る完璧主義者の何かの空気が、犯罪に絡んでいたように思えた。自分も自己の世界を崩されたくないからなんとなく分かる。セレの牢屋はどこか、異空間に思えた。
セリが入って二ヶ月してアルが入ったが、入ったばかりで既にセレの牢屋内はああいう空気感だった。静かで、クラシカルで、落ち着きと、繊細さがあり、その世界の中に無口で繊細そうなセレがいた。大体は一人でいた。稀に美術的な部分が合うのかデラと本を交換しあっていた位だった。
完璧を求める事はセリ自身にはそこまでは無いが、美は時に凶器と化した。
完全な物を求めるとき、完璧な美を悪魔的な形成として、逆に完璧な美を悪魔的に崩させた美を湛える事もある。どちらも美は悪魔だ。
それを他で表現する事もあるが、身で表現し尽くせば、崩れんばかりの美貌も、魔的な先に、いずれは闇に飲み込まれた後に、現実的な死がぽっかりといきなり開き、耽美なる陶酔の甘さは払拭されるだけだ。
それでもそんな事も関係が無いのだ。身が引き裂かれても。
セレが何をして捕まったかは不明だが、到底犯罪などおかしそうな性格でもなければ、見た感じもそうだった。怒った場面も見たことが無い。恨みにかられる様にも思えなかった。
セリは拘束を解かれると、一度腰を撫でられた気がして肩越しに警備員を見下ろした。
だが直ぐに背後のあの女副所長を見て、顔を前に戻した。アルと関係を持った警備員も普通の顔をしていて出て行った。
セリはベッドに転がり、TVを見る事で気を紛らわせた。今日はあの見張り警備員がいないから気が楽だ。
副所長が見回りに入ると、誰もが静かになった。
半年前の事だが、十人の男を死姦後遺体を食べた男が収容された事があった。6587番だ。長身で体力も整い、顔立ちも良い二十七の受刑囚で、二十年の刑期だった。事もあろうかずっと一人の見張り警備員の一人に目をつけ、階段から上がって来た時に襲い掛かりキスし倒し階段を転げ落ちていき、その瞬間、新しい受刑囚が入った様子を見に来た所長と副所長が走り、いきなりあの上品な副所長の腰元から鞭が現れ、受刑囚の背が鞭で激しく裂かれたのだ。肉が裂け背の筋肉が割れ血が噴き、冷酷な副所長の目は静かに受刑囚を諌めていた。
ローテーションの見張り警備員は男にキスされ真っ青になって口をきつく拭っていて、即刻立ち上がるときつく受刑囚を拘束し連れて行かせた。そのおかげで、南東通路の開錠が一時間も遅れたのだが。半年間、姿を見ていない。そうと思えばあの自殺未遂と殺人を犯した奴がその牢屋に納まったのだ。
副所長は品のあると共に朗らかな口調とは引き換え、雰囲気は物腰がある他に、何らかの軍隊の軍曹や士官出なのでは無いかと思わせる厳しさが覗く時がある。セリは自分が背を裂かれえたく無い為に、身体に傷も作りたく無いし大人しくしていた。
副所長はキビキビと歩いている。
東側通路のデラの横の受刑囚1188番は、監獄天井を見上げてた。
そこからかかる幻の巨大シャンデリア。幾つも燭台の下に鉤がかけられ、手に足を持ち一体ずつ女の遺体をつる下げていくのだ。目隠しと、腰で両腕を拘束された遺体は皆ブロンドで、逆さに吊るし並び下げられていた。自己の所有するシャトーのホールに掲げたものだ。荘厳な闇と底に浮く銅金の装飾枠が広がり、魂を解放させる。装飾品の一つに過ぎない。
いつでも燭台を手に見上げ、笑んでいた。数ある代々から伝わる先祖達の立派な絵画は闇に揺れ、男を見て来ていた。
その横の受刑囚7777番は女装好きで、ショートヘアを最後に風の様に流し、革の単パンに擦り切れた網タイツにブーティーで、ベストの下に必要無い黒革ビキニをつけている。その二十七の7777番はベッドに胡座をかき、手鏡の中を身ながらビューラーで睫を上げていた。いつも水色の口紅と灰色と混ぜて塗っている。何をしたって、他国女王陛下に無礼を起こして突っ込まれたのだった。
左右の睫を確認しては、また上げている。
アラディスは目を開き、小さな窓から水色の空を見た。
雲が細い中を進んでいき、そして見えなくなった。高度の低いところか、高い所にしか雲は現れずに、中間地点の空間は澄んでいる。
窓から目を離すと、猫が来た。猫男爵は足に爪を立てると昇って来て、腹の上に丸まった。口に菓子をくわえて食べていた。目敏い見張り役警備員達が見るとすぐに見回り警備員を動かして、猫を調べるが普通に食べているだけのビーフジャーキーだった。
牛を食べる猫は、アラディスを気絶寸前にさせて猫は胸部のコブラの上でゴロゴロと背を撫で付けていた。ジャーキーの匂いが凄い。
その為に、ずっと考えていると疲れてしまうために、極力考えない日を作ろうとしていた事を、考え始めていた。
何故食欲が出たのだろうか。死につながる事を頭に無く噛み付いたのだろうか。自分で自分が分からない。目の前に男がいて、魅せられて、そして食欲に繋がるなんて。自分が子供の時に感じた事のある男の弱る顔の魅力を、もっと虐げたくなる気持ちを、もしも何も無く成長させていたら、自然的に食欲へいずれ変貌していたのだろうか。後ろの屋敷に住んでいた蹴られたカインの目や、算数の先生の乾く切羽詰った声、震える警備員のこめかみの汗、ゾクゾクする程心から微笑と血潮が渦巻いた。とても可愛く思えてならなくて、仕方が無かった。その先に、こちらが相手を生きたまま食らう時に見せる苦痛の表情があるから? そんな事無い。
まさか、ダイマ・ルジクに心の苦痛を与えられなければ、自然的に人肉への欲望が目覚めていたかなんて、ありえない。愛する者を食して絶望した自分が、ありえない。
四人の事を思い出さないように頭を抱えた。今思い出すと辛すぎる。自分は五人の人間に噛み付いた。西北警備員、ドイツ人、セリ、ゾラ、金髪警備員。ありえない。しかも、覚えて無いなんて。自分の意志がその時にあれば、絶対に噛み付いてなんかいない。この歯で、この口で、この顔で、この舌で、どんなに悲しく泣き叫んで来たか。
猫は丸まって眠っていた。アラディスは目を閉じ、猫を抱きしめた。猫が暴れて逃れると、格子を越えて歩いて行った。
アラディスは枕に頬を乗せ、目を閉じた。
目を覚ますと、夕食が置かれていた。
いつもの様に禁固中は決められた食事の中にある肉料理は見もせずに、パンやスープ、サラダを食べ始めた。付け合せの野菜を食べると、肉を虚ろになって見た。
仲間を食べるぐらいなら、食べなければならないのだ。じっと見つめ、だが、四人の顔が浮かんで目をぎゅっと閉じた。首をブンブン振って、やはり駄目だった。彼等を食べたなんて。全てがありえない。フォークを持つ手を強く握り赤くなり、怒りを鎮める。ここで怒りを爆破させても、何にもならない事など分かっていた。何にもならない。ここから復讐など出来ないのだ。
「おい」
アラディスはビクッとして顔を上げ、見回り警備員を見た。
「真っ青だ。副所長」
アラディスは頬を抑え、冷たかった為に手を離した。
「何でも無い」
「問題でも?」
副所長が来て、ハイヒールの足が止まった。
「何でも無い」
「お肉が残っていますね。君。牢屋を開けなさい」
「え、しかし」
ポムは渋々あけた。
副所長は牢屋に入ると、アラディスの横のベッドに座った。アラディスは副所長を見て、彼女は眼鏡を外すとチェーンで吊るした。
「3062番。あなたは今とても多くの物事と闘っていますね。自己の中のこと、そして未来と闘っているわ」
「………」
副所長はアラディスの肩に手を当て、真っ白の頬に微かに残る涙の跡をハンカチで拭いた。
「とても辛いものが闘いだわ。でも、それはあなたがすすみたいと思っているからね。とても必死にすすみたいから。こうやって生きて来たあなたが尊いことは仲間達がよく知っていること。あなたはこの四年間で、いくらでも闘っていくことを諦めないでもらいたいの。人は闘いつづけるわ。あたしも闘いつづけてきました。この年齢までをずっとね。ここの警備員達も日々そう。ここの受刑囚達も。時にそれを諦めて後戻りしてしまう人の多い中でもあるわ。崩れてしまいそうになる時は、何かを信じてきた時を思い出すの。それが辛い時は、命の光を見つめてほしい。あなたにもそれができる筈」
アラディスの目を見ながらそう言い、アラディスは副所長の水色の目を見ながら、唇を震わせて俯いた。その彼の肩を抱き寄せ、小さく囁く様に言った。
「あなたの心の中のとても強い光を放つ人物を、思い描きつづけるといいわ。あなたを犯罪に導いた辛い出来事は、きっと嫌でもめぐってしまう事でしょう。でも、光を見ることを忘れないで。そして自己の犯した罪を、その罪でも悔いる事。何をしたのか、どうなったのか、もう絶対に繰り返さないためにどうするべきか、何を信じるのかをね。選んで、見つけて、保ち続けて、切り開く。まだあなたは若い。若すぎるのです。だから進んでもらいたい」
アラディスはボロボロに泣いて髪を撫でられ続けた。
自分が殺したマフィアの人間達の事を、初めて考え始めていた。確かに悪い世界に生きて来た男達で、裏切りや欺きなどの世界だったし、クローダボスを邪魔してきた者達だったが、その生の光自体を奪ったのは自分だ。彼等が何かをしてきたように、自分自身も彼等に何かをしてきた人物だ。家族や恋人や愛する人間がいても彼等はその世界で生き、そして自分は殺し、刑務所に入り、自分は家族を傷つけた。犯罪を犯した事で、二年間息子が一体何をして来ていたのかを知った両親は、酷く傷ついたのだ。そして殺された者達の家族も傷ついたのだ。自分の無謀な殺しを留めつづけたエルデリアッゾの事もどんなに傷つけた事か……。
人には愛する者がいる。その共通の事を、ずっと刑務所に入れられてから無視し続けた。いいや、シチリアに渡ってからずっと無視し続けて来た。恨みにのみに狩られ、そして闇の心で動き。
アラディスはハンカチを渡されて顔を拭いた。
「あなたの涙が見られて、ちょっと安心したわ」
副所長がそう言った。
確かに、この刑務所に入った時も、それに裁判の時でさえ一切自分の冒した罪について涙など流した事など無く、悲しい事とも思わずにいた。
「今更泣くなんて自分が薄情だ」
「そうね。あなたは実際罪を犯したわ。でも、冷血な人よりはどうかしら。あたしはね、3062番。今のあなたの方が好きよ」
副所長が微笑み、アラディスは顔を拭ったためにハンカチを返した。
「落ち着いたようね」
アラディスは頷き、膝に視線を落とした。
「3062番。しばらくはこういう禁固が続くわ。そうね、どれぐらいかしら。問題が多く起こる物だから、こちらも厳重に取り締まってあなた達皆に刑期の重要さを理解ししっかり全うしてもらいたいのよ。閉じ込められて窮屈なのは人として皆がそうよ。誰もがここで自由に行動してきたから互いが辛い拘束でもあるかもしれないわね。でも、その内に何かを糧に出来ることを願う。何が大事で、何が大切かをあなたは気付けているわ。あなたには仲間もいるし、思いやりもある。あなたの仲間達もそうね。素晴らしい心の成長だわ。そうばかりでは無い受刑囚もいるけれど、犯罪に繋がらないように努めなければならない」
「はい」
副所長は微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう副所長」
彼女は微笑み、頷いた。
副所長は出て行き、鍵を閉めさせた。
ポムは相変わらず肉は食べない3062番を見てから、横穴から皿を下げた。
心がこうやって変わりつづけていても、無意識下のことはやはり注意させつづけなければならない。副所長はもう一度格子の中の3062番の眼を確認してから、颯爽と歩いて行った。
(春。アラディスの牢屋の中。苗木が成長している。青い夜の白金の月夜。ベッド上へ垂れ下がる葉の下方に、さなぎからの美しい蝶の孵化。アラディスはベッドに腹を上に腕を枕に見ていて、薔薇水晶の唇が蝶の孵化して行く羽根に寄せ美しく月が装飾しては光っている。)