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美しき悪魔  作者: pegasus
第二章
15/19

見張り

 ベルトブーツに黒牛革パンツ姿の18歳少年。

奔放な艶の黒髪からは、雪原のような瞼の半ば閉ざされたその下に、漆黒の巨大な瞳がキラキラと光り、長く流れる風のような黒い睫が装飾している。そして微かに、粉雪の頬に黒髪が掛かっている。鷹鼻は品のある中にもどこかしら気ままな風がのぞき、薄紅色の唇は季節を変えようとも芳しい風情で咲いていた。

アラディスは二階監房の吹き抜け欄干から身を乗り出し、腕をぶらぶらさせてはケツを突き出し、顎を柵にのせて体を捻り捻りしていた。

グラウンドは四角い芝が幾つも敷き詰められ始めていて、その作業をしている受刑囚達は時々見回り警備員達にケツを叩かれ追い掛け回されていた。

たばこの葉の種を植えようとしたり、芥子の花の種を植えようとしたり、大麻の種を植えようとしたりする者がいるからであり、一体何処で手に入れたんだこの馬鹿者が! と警棒を振り上げ縄をまわす見回り警備員に追い掛け回されていた。

花火の種を植えようとするゾラはもう問題外で、火薬の詰まった癇癪玉など何故か植えようとするから無表情に青筋立てた塀前の警備員がそれをドッジボールの様にゾラに勢い良く投げつけようと思い切り振りかぶって、ゾラがさすがに焦り大人しくなったのだが。

巻き物の様にされた芝の方は徐々に五人がかりで広げていっている。

受刑囚の中には、派手に欠けた部分の塀の養生部分に玉を投げつけてのめらせようとする馬鹿もんもいて、同じく後頭部を叩かれていた。

アラディスは頬をつけ、目を閉じた。

猫が土を掘っていて、そこで用を足していたので一階監房に入る受刑囚が踏んでしまい騒いでいた。

相変わらず、7654番はグラウンド横で面倒な作業に加わる気も無く、バスケットボールを指の先でクルクル高速にまわしていたり、胴の周りで回したりをしてはガムを噛んでは膨らまし作業を見ていた。

この7654番が激烈にアルデ横にわざとと見せかけてボールを叩きつける犯人の中の一人なのだが。

見張り警備員という者達は一日に、全員で十二人体制で行なわれる。

刑務所を見渡せる塔の上に三名。グラウンドの塀端に一名。監房への開口部に二名。一階部の階段左右に二名。二階部の食堂への通路前に一名。その対角線上角に一名。そして、独房に一名。特別監房に一名。

塀端のアルデ。グラウンドの番人と呼ばれるドイツ人オッドー。その相棒の黒人。二階角のロイド。塔のジョニスマン。独房のタカロス。特別監房のニッカ。彼等は固定された見張り警備員であるが、階段左右と二階通路前と塔の二名の四箇所に関しては、毎回五名が場所をローテーションで変えている。その五人のローテーションの中に唯一水曜日、タカロスが含まれ、その四箇所の中を回った。

比較的、固定の六名は一纏まりになっていて、ローテーションの組まれる五名はそれで一塊になっている。

だが、オッドーの相棒は人付き合いがどうも駄目で、口下手な為に一切タカロスの部屋にも来なければ、オッドーの部屋にさえ大して来ない。他五名の所にも行く事も無かった。他の者は滅多に無理に誘うことも無いのだが。

ローテーションの組まれる五名の見張り警備員の中の、本日は階段左右に立つ二名の中の一人の頭に、上から何かが投げつけられた。

見張り警備員アスカロは欄干のアラディスを睨み見ては、飛ばされたキャップを目深く被った。アスカロは通路前に立つごとにアラディスにいつでも苛ついていた。年齢は二十五と若く、男嫌いで、潔癖症で、神経質で、恐ろしい程目が鋭く吊りあがったリス顔の長身男で、普段から険しい眉根と目許をしていた。

アラディス的にはいつでもちょっかい出す毎に殺気を向けられる警備員だが、意にも介していなかった。アスカロは黒髪をいつも分けて耳横に下げていて、首筋はやはり綺麗だ。

横目で今日のところの相棒、アビレウが「放っておけ」と送り、アスカロも視線を前に戻した。

ドカッ

背をアラディスに蹴られ手摺を滑って来たアラディスはびくともしないいつものでかいリス警備員の前を歩いて行き、ゴチッという音と共に、ドサリと倒れた。

アビレウが横目で、受刑囚3062番の頭にライフル銃の持ち手を落とし戻したアスカロを見て、倒れた音にオッドーが振り返った。

アスカロは既に知らぬ顔をしていつもの様に立っている。

アビレウが視線で自由監房監視責任者のオッドーに問題無いと送り、彼は受刑囚を引き上げた。アラディスはぐったりして気絶していた。

ゾラはそれに気付き、スコップを手に走って来た。

「おい大丈夫かよアル!」

セリもそれに気付いて走ってくると、以前凄く恐い雰囲気と目でアラディスを睨んでいた見張り警備員、アスカロを見上げ、アルの横にしゃがんだ。

アビレウは三十のスイス人で、様々な介抱には慣れていた。普段は気も長く温厚だ。それでも、彼も同様に機械で出来た鉄のドーベルマンの如く、強靭な身体能力を持っている事に変わりは無い。

アラディスのブーツの足を持って頬を叩くと、目を覚まして頭をさすった。

キャップ影の中のアスカロの目を肩越しに睨み見上げると、アラディスは頬を膨らめて起き上がった。セリがアラディスを連れて行き、肩越しにあの恐い奴を見ながら囁いた。

「あいつだ。お前を睨んでいた警備員。あまり下手するなよ」

「男嫌いなんだろ。目見れば分かる」

アラディスはたんこぶが出来た頭をさすりながらそう言い、眩しい芝に出た。

共に歌を歌いに行った男の所へ行き、そのスペイン人はボールを回していた。こいつにもホモ呼ばわりされてむかついた事も一度あったのだが。

芝が綺麗に戻ると、均しに入っていた。

あの元ストリップダンサーは踊っていた。アラディスがニコニコしてそちらに引きつけられ歩いて行き、「男相手におどらねえ」といわれ蹴られていた。

所長がやって来ると、グラウンドを見回しては頷いた。

塔の上にはジョニスマンと、それに二人のローテーション見張り警備員がいて、話し合っていた。

「ああやって見ると、あのクローダの殺し屋も普通の男児だな」

そうサルマンが言い、海側を監視しながらサンドイッチを食べているレバイアが一度サルマンの背を振り向いた。

「あの美声の君は」

レバイアはゲイだ。恋人は見回り警備員中にいて、大体はあまり長続きしない。どうせ見回り警備員の者達は五年したら他に移って行く若者達だった。レバイアは自分より背が低くて可愛く、若い子が好きなのだが、もちろん階段横を警備していても、通路前を警備していても、それに音楽コンクール時にも自己の事をあの同じゲイの青年、3062番には悟られる事も無い。

レバイアは無表情で、アルデとも張り合えるほどのポーカーフェイスな男だった。実際、アラディス自身はレバイアがゲイである事を気付いていなかった。

ジョニスマンが首を頷かせながら言った。

「あの美人な母ちゃんを心配させてるんだからなあ」

そのアラディスは今、芝の上を走り回っていた。アラディス自身は百八十二センチという背の為に、周りの連れとしている受刑囚達も比較的背が同じ位な物だから、顔立ちのせいもあり、そこまで背が高い青年にも見え無いのだがやはり、一般的にはイタリア人の中でも低いわけでも無かった。

「スタイルも抜群だし、なんだかミラノコレクションのスーパーモデルでも大人しくやってたほうが似あう気もするんだけどなあ」

田舎出のサルマンはそう言い、また双眼鏡を覗き込み刑務所中を見回すジョニスマンが広い肩をすくめさせた。

だがどうやら、あの小僧自身は身分があるようだった。身なりのいい男が尋ねてきたし、それにその時の会話の内容も社交性があった。もしかしたら、あの綺麗な小僧も、あの美人で裕福な母親も共に、良い所の出なのかもしれない。それにしては、その受刑囚3062番、レオという名らしい青年は口が悪いのだが。

それでも、アメリカ人で美術音痴のジョニスマンでもダイマ・ルジクの名はよく耳にしている程著名人だった。

「アスカロとロイドはどうやら気に食わないと思ってるらしいが、見てみろよ。あの相当可愛い成り。通路前で立つ日は大体、俺の前を素通りして行くがあの黒革に包まれたヒップがたまらない」

タカロスといた時は、アスカロともう一人の警備員、アモーエだった為に二人ともその事についてをレバイアには一切言ってはいなかった。

アスカロは半ば、タカロスを崇拝している部分もある為に一層アラディスが気に食わなかった。アスカロはタカロスを尊敬しているからだ。この前も、ジョニスマンにずっとアスカロは塔の上で潮風に吹かれながらタカロスとアラディスのことをサルマンにも言いつづけていて恐かった。

アスカロの大体がいつでもキレている。

オッドーも粗野で面倒な部分が稀にあるが、アスカロの場合はオッドーの軽快さが無い。真面目すぎるのだ。その部分は冗談が稀に通じ無いがジョークはよく言うアルデよりも神経質だった。一番気難しい性格なのがアスカロだった。

その為に、レバイアはアスカロの前では一切自分の恋人の自慢話も、可愛いアラディスの事や、他にも顔が綺麗で可愛いと思っている元魔術師の事も言わずにいた。明らかに塔の上でも、共に寮でいる時にも顔を曇らせ、空気をギスギスさせて来るからだった。

タカロスとアスカロが塔の上でジョニスマンの所に来ると、本当に酷いものだった。タカロスはアスカロから兄貴の様に慕われずっと恐い顔も多少は変って眼差しが変わりずっとビシッと決めて警護に当っているのだが、交わっていた場面を見てしまってからという物を、恐ろしい程タカロスに対して小悪魔の3062番についての事を攻め立てつづけていて、ジョニスマンがいくら止めても、アスカロは口を止めなかった。タカロスも何か言う性格でも無い為に、ずっと聴きつづけていたのだが。

アスカロの場合は、自身に禁欲を敷いている為にまるで僧侶や修行僧かの様に、恋人や妻までいなかった。婚歴も無い。独身でしかも彼女を今まで作ったことすら無い。潔癖さは、女性に対しても機能していた。関係を持ったことすらない。だが、女性を嫌いというわけでは無いし、タカロスの妻には以前、一目惚れはしていた。それでも、自己を極めて押さえていた。

身体も、酒、煙草も一切無い。レバイアは恋人と共にいれば笑うが、アスカロの場合は笑顔など見たことも無かった。笑ったことなど無いのでは無いだろうかと、誰もが思っていた。

サルマンは男子監房グラウンド、共同グラウンドを監視していて、風が一様に芝の緑を撫でて行った。

「カルデリがまた猫に毛で攻撃されてる」

今日は肩の上に乗られて、首筋に胴をグリグリと押し付けられていた。

「あの猫は最近あのおっかねえオッドーの奴に懐いてるなあ。この前、アルデがオッドーは今に猫を食いそうな程パンツを毛塗れにされて怒ってたって言ってたぜ」

猫は肩に担がれるライフルの筒に尻尾を絡めていて、数名がなんともつかない顔でドイツ人警備員を見ていた。

オッドーは顔にボンボンと猫の尻尾があたってき始めた。いい加減肩を動かし猫を下ろすと、既に肩に毛が着いていた。

オッドー自身は産まれて来る妻の子供が猫アレルギーになられても困る為に、帰るごとにしっかりと猫の毛を綺麗にさせなければならないとなると、今のうちに追い払っておきたかった。

ジョニスマンは、あの美人な先生、エリザベスの姿を双眼鏡の中に見つけた。

エリザベス女史はいつもの上品な姿に白衣を纏っていて、颯爽と歩いて行く。

この分だと、女子特別監房へ向かうのではないだろうか。この前逃亡した女の検診が何度も行なわれているのだ。

「アルデは元々、カルデリに憧れていたんだってな」

「ああ。アルデが訓練学校にいた時にも、休日はオッドーは訓練学校の補欠訓練時に行って指導していたからな。今でも憧れてるんだとさ。いつでもそのサインを塀端から送ってるってのに、鈍感なオッドーは一切気付かないらしい」

アルデとは同期のサルマンが言った。

「アルデも無口なほうだしな。俺は恐かったね。休日の補欠訓練を受ける恐さを避けるためにどんなに血をも顧みずに励んだ事か」

血が滲み励んでも、補欠を免れるほど生易しいものなど訓練学校には一切無いのだが。

人が存在すれば、正があれば必然的に悪もある。優劣感が人にはあるからだ。人の中で生まれる悪を制する為には、自分達の存在はやはり、人のある限り存在し続けるのだろうか。

世の中の為に自分達は悪人共を制して行き続ける。あの殺し屋をしていた無謀な青年も、いつまた何を仕出かす事か分かったものでも無い。

「またアルデが7654番にバスケットボールでドッジボールの的の如く顔横の壁攻撃されてるぜ」

海側を監視するレバイアは、サンドイッチを食べ終えたところだった。

「ああ、ああ。本気でキレちまったよアルデの奴」

オペラ座の怪人を歌ったスペイン人受刑囚7654番が、アルデの長い足でドカッとついに蹴り飛ばされて、まだ定着しきっていない芝を引っ繰り返し吹っ飛んで行き、4567番や他の連れ達に大爆笑されていた。

「あ。またあいつオッドーに視線でサイン送ってるぜ」

「だがカルデリ自身は猫の毛に苛まれてそれどころじゃ無い恐い雰囲気だな」

「さあさあ。あの師弟関係はどうなる事やら」

あの冷たい男、塀端警備員までもがスペイン人を攻撃したために、アラディスは凄い顔をしてアルデを見ていた。どうやら良家のボンボンらしい3062番は、猫を被っているのか、それとも地がああいう粗野な風が無い青年なのか、よく分からない。

所長や副所長の話では、何やら噛み付き癖がある青年で注意されていると言う。続くようでは、一度精神科監房へ行かせることを聞いていたが、今は落ち着いている。

カニバリズムで収容されてきた者は歴代にも何人かいた。その殆どが精神科監房行きか、別房、特別監房行きになっている。今、別房に二人カニバリズムの人間が収容されていて、精神科監房には三名いた。だがイデカロもそうである診断内容は他の場所を当っている警備員達には知らされてはいない。

3062番は連れ達と共に、石の通路向こうの木が一本と低木が壁際を囲う芝のスペースで転がっていた。いつでも、五人の青年達でいるのだが、この所はもう一人加わって六名になっている。女子監房に恋人の共犯者がいる受刑囚だ。

あの3062番に噛み付かれたという2411番は、既にそれも忘れたのか膝に追い出された猫を乗せて転がっていた。

サンドイッチを食べ終わり、場所を海側からサルマンと交替したレバイアは舌を舐めて無表情のままそれを見ていた。ジョニスマンは双眼鏡を他の場所へ向け警備を続けた。

明るい緑の芝の上、白い肌を光らせ髪を艶めかせ、猫の様に甘い声を出す可愛い3062番と3001番を刑務所から蹴り出したくなったオッドーは苛着いていて、それでもそれは外見にはやはり出ていなかった。

カニバリズムの決壊を見せたとき、人は一生を食べられないよりも人肉を貪り射殺されたい事を選ぶのだろうか。禁欲を敷いているのは、一切のそ味を知らない場合か、一生分のそれをしたと自己で思われた時にする場合の二種類がある。ああやってまだ性欲へ固まっているのならいいが、性欲の先の強烈なエクスタシーがいつ恍惚なる食人の宴へと変わらないともいえなかった。

果たして、食人癖というものが他人に対してどういう感情から来る物かは人により違うと言うために、いつ激しく獣の様に発作を起こすのか、発作ではなく欲望から来る物を同じく禁欲を敷いているのか、冷静に嗜好の問題か、他のもので補えるのか、ただ一辺倒にそれだけなのか。

レバイアは、3062番が3001番の首筋に舌を這わせ続けている為にそれを見ていた。視野が広いために他の受刑囚達の状況もしっかり監視できているのだが。稀に歯を立てその閉ざされる瞼は睫が揃い真っ白な頬の上に艶めいている。黒髪が撫でて行き露になり、一瞬の事だった。

その瞼が開かれ、一瞬で別人の様な漆黒の目が強烈に覗いたのは……。

一瞬でオッドーのライフルの銃口が3062番のその額に突きつけられ芝に黒髪が付き影が落ちた。その影の中で光を跳ねない漆黒の瞳がゆっくりとじろりとオッドーの目を見て、ゾラは宇宙にとぼける顔で自己の背後に立ったオッドーを肩越しに見上げた。3001番がオッドーに横面を蹴り払われる前に2411番が腕を掲げて、3001番はのろのろと動いて3062番は引き上げて上目でオッドーを見た時には、あの目許は普段の目許に戻っていた。

ドイツ人警備員に監視されているらしいので、リンは偏食の大きく只者でもない銃器名手のアルを見てから警備員達を見回した。ドイツ人が動いた瞬間、塀の奴はグラウンドに、黒人は監房側に、塔の上からはこちら側にライフルの凶暴さの無い冷静な銃口が向けられた為に誰もが一瞬で静かになっていた。

その為に、不気味に流れた空気がはっきりとして個々の中に流れた事だった。アルの食欲。その瞬間に。

何故ゾラに噛み付こうとしたのかが分からなかった。肉は嫌いだし、それでも、確実に深層心理の理性の無い場所では、その人肉の旨さを完全に分かっているからなのだろうか。それとも、雄ライオンが若いライオンに噛み付く事と同様上下関係上のものだろうか。

ゾラはドイツ人が恐ろしい目許の冷たさで自分達を見据えてから、颯爽と歩いて行った為にその黒い影を見てから、アルを縫いぐるみのように抱き寄せ頬釣りした。アルはゾラの頬をぺろぺろ舐め、頬釣りをして目を閉じていた。デラがリンに耳打ちした。

「あのドイツ人にずっと目付けられているな。カルドレって男の事があってから特に恐いぜ」

「いつライフルが実際火を噴かないとも言えねえ。アルを欄干から一度叩き落してるからなあの男」

誰もが牢に閉じ込められていた時間だった為に、牢屋の中からは一階の状況は探れずに、まさかあのアルがドイツ人警備員の腕の皮膚を噛み千切った事さえ彼等は知らない。

その時と同じ目の色になり掛けていた事をオッドーは既に分かっていた。あの時の黒の瞳は凶暴だった。元は食欲から怒りも無くロイドを食そうとしたのだろうが、それも邪魔された空腹の怒りからオッドーにあの黒い目を向けた。凶暴に。おもちゃを取り上げられた赤子の様に威嚇してきて、本当に奪われても泣くのではなく。

アラディスは目を開けると、芝に頬を乗せ目を閉じた。柔らかい芝をパクパク無意識に食べながら。デラがそれをやめさせようとして肩に手を置いた。

「おい。白兎かお前は」

モグモグしながらアラディスは目をぼんやり開け、いきなり黒蛇の彫られた手首をグンッと引っ張られた為に驚き目を醒ました。

実際に食欲後に食べたからだ。

アラディスは驚いてドイツ人を肩越しに見て、いきなり強烈に連れて行かれた。

「離せよ!! 何するんだよ!!」

五人が立ち上がり追いかけ、アラディスは二階監房の牢屋の中に叩き込まれそうになった為に欄干から咄嗟に飛び降り逃げた。

ガウンッ

アラディスは倒れ、足許横の床に穴が空いた場所を見てから即刻飛び降り胴を挟み立ったドイツ人を睨み見た。

一階監房の囚人達は動きを止めていて、見回り警備員達は牢屋にどつき入らせ、グラウンドにいた者達は自分達に向けられるライフル銃を見回し口をつぐんでいた。

アラディスはゆっくり起き上がると、精神科監房に送られるという言葉が脳裏に甦った為に、冷静になって目元を落ち着かせた。

刑期はまだ三年ある。今自分がここで狂ったら、一生出られないだろう……。

絶対に狂いたくなど無い。ゆるゆると、さっきまでの自己が脳裏に叩きつけられ始めていた。食べようとした事だ。

ゾラのあの首筋の香りをかぎ、あの顔立ちが快感に歪んで汗が滲んだ事で覚える感情は、いつでも虐げたい感情から来るものだ。もっと歪み声を上げる顔が見たくなる心情からだ。それが、何故噛み付きたいと思ったのか。実際、噛み付きたいとよく思っていた事は確かだ。少年時代もそうだった。噛み付けば顔が痛そうに歪む事を分かっていて、そうなると嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。裏手の屋敷のカインなどの場合には特にそうだった。上下関係の為だ。食欲なんかでは絶対に無いと信じたかった。

ダイマ・ルジクに愛する恋人を殺され食べさせられた事で、噛み付く事へのそれらの欲望へは自己拒絶を覚え、人の味を味わうなど、彼等を失った絶望が拒絶させた。

なのに、こうやって人の肉を欲した。しかも仲間の肉だろうと関係無く。

自分から大人しく牢屋に入りに行き、階段横の見張り警備員、アスカロとアビレウはライフルの銃口を戻した。

上下関係と食欲が結びつくなんて、これ以上は変わりたくない。天の四人がどんなに報われずに、そして悲しむ事か。

アラディスは頭を抱えて誰もが牢屋に叩き込まれ静まり返る中を自己の横に座ったドイツ人を背を丸めたまま横目で見た。

「水だ」

アラディスは頷き、それを飲んだ。

恐くて仕方が無い。ドイツ人にだろうが抱きつきたくなったが押さえていた。ドイツ人の目は二人になると、静かながらも優しい事をアラディスはこの所、気付き始めていた。肉の味に震えた時も、鉄格子から手を伸ばし頬を撫でてくれた時もドイツ人で無いかのような眼差しだった。それは、稀に父親が泣き喚いた自分の横に来た時に見せた目だった。病院で事故後に目覚めた時の目。カインから逃げて来た時に見つけしがみついた時の目。誘拐事件から目を覚ました時に見た目。

アラディスは余り親子として心を通わせた事の無かった父親の事を思い出し、ドイツ人の肩に抱きついていた。猫の毛がうねりついているのだが……。

涙でぼやける先に、吹き抜けを越えた先の受刑囚達が動向を見ていた。五人は他のグランドの受刑囚達共に、一階監房の突き当たりにある細長い牢に入らされていた。

スタイリッシュな黒人警備員が牢屋横に立っていて、黒い影になっては長い足でバランス良く仁王立っている。あの黒人警備員は無口だった。パリで笑うと爽やかだと思った事はあった。

アラディスはライフル銃で狙われていたが、食欲など無かった。ドイツ人に食欲は起きない。

弱る男の目許の魅力ある様を、恋人達に感じた事は無かった。ただただ純粋に愛していた。身体で受け止める事こそが喜びだった。

オッドーは肩から離れさせ、アラディスに横になる様に促した。アラディスは横になり、枕に顔を埋めた。

履いている物を脚をうねらせ落とし、白い足がうねってシーツを絡め、ドイツ人は変な気になる前に立ち上がって牢屋から颯爽と出ると、見回り警備員に鍵を締めさせた。

アラディスは構わずに、静かに横になり気を鎮めていた。ゾラは大丈夫だろうか。みんなに悪い事をしてしまった。

徐々に背後がザワザワし始めていた。

「おいアル。大丈夫かよ」

アラディスは頷き、泣いていたので顔を上げられなかった。きっと顔も真っ赤だろう。熱い。

「あまり無理するなよ。な」

また頷き、頬を拭いた。

「俺、精神科監房に行くかな……」

そう言いながら起き上がり、五人は驚いて顔を見合わせ、牢屋の中の美しい青年を見た。

「何でだよ。何か脅迫されたのか? あのドイツ人に」

「そうじゃ無い。ゾラに噛み付きかけた」

叔父に食人者がいたデラは、四人に視線で「帰ってろ」と言ってから、四人は相槌を打ち歩いて行った。

これからの刑期は、何か目覚めてしまうのだろうかとデラはアルを見た。今はまだこうやって笑い合えるからいい。だがふとした時に、深夜に自己の声さえ聴こえなかった時の様にあの恐いほどに冷静で恐ろしい漆黒の目をして、笑い合っていた自分達の横を通り過ぎていってしまうのでは無いだろうかと不安になった。アルがアルでなくなり。

だが、実際デラにはアルは元はどんなアルだったのかなどは知らない事だった。どういう性質なのかも。本当は怜悧だったり残酷だったりする分けも無いとデラは思っているのだが。自分も怪盗をやらかして捕まった身だが、ここの誰もが犯罪者に変わり無いのだ。アルも、あの四人も。互いに何をしたのかなどは分からない。

デラは牢屋に手を伸ばし腕を入れ、アラディスの腕を引き寄せて手を握った。

「自己を保てなくなったら、今はこうやって冷静になる為にこの部屋に入ればいい。な?」

アラディスは頷き、デラの手を握った。今に辛い時に泣き出してしまいそうだった。唇を噛んで押さえていた。

腕を引き寄せ頭を一度包括すると、離してから牢屋前にすわって話し始めた。何でも取りとめも無い事ばかりだ。


 エリザベスはその話を聞き、ゆっくり頷いた。

そうはすぐに人の欲望は簡単には制御したり断ち切れないことなど分かっている。

精神監房内の三人のカニバリズムの人間は、一人が凶暴に看護婦などにまで噛み付こうとし、閉じ込められると凶暴で食わせろと叫び怒鳴っている。一人はずっと夢の中を彷徨っていて静かだった。もう一人はずっと口に人型の人形をくわえつづけていて、ベッドに丸まりつづけて既に理性が無かった。

エリザベスはまさかルジク一族が食人の血筋だとは知らない為に、彼等一族に関する精神的資料は一切無い。何の為にアラディスが人肉を欲し、そして同じく拒否しているのかもまだ不特定だが、精神科監獄へ入ったら、それさえも全て吐露してもらわなければならない。

「受刑囚3062番自身は、本心では精神科監房には入りたがってはいない」

精神科監房は理性も無く入るか、そう診断されて初めから収容されるかのどちらかだ。まともな精神の受刑囚は入りたがらないし、精神を正すためと言いきかせても嫌がるのが普通だ。

「普段は理性で出来上がっているんでしょうから、ふと理性を失う前に暫くはその瞬間を見極めさせないと。どういった時に食欲が起きるのか」

オッドーはあの乱交猫の小生意気に真っ赤な舌を出して来る小悪魔顔を思い出し、目を伏せさせてから口をつぐんだ。

「今までは、極度の疲労時や食への禁欲時にその症状が出ていたわね。就寝時にきっと悪夢と連動した事から来るものでしょう。本日の場合は? 今までは夜の覚醒ばかりだったのに、真昼時だなんて、これ以上起きない様にさせないと」

「まあ、男子自由監房内では有名な話で、相手はお前が女だから言い渋っていたがあいつは同性愛者らしい」

「え? ああ、そうだったの……」

彼女も思い当たるところでは、そういえば、女子受刑囚達の面々には何やら困らされていた空気があった。女の子に大喜びな風も一切無かったし、逆にべたべたされたくなさそうに肩を引いて居た覚えもある。

ルジク一族の跡取がとなると、いろいろ問題も多いだろうに将来は出所した後は、どうするつもりだろうか。やはり、親の決めた女性と婚姻を結ぶのだろう。きっと、マフィア上殺人の犯歴も刑期を終えた後は取りざたさせずに。

「関係持ってる時に性欲が食欲に立ち代った風があった」

「それじゃあ控えさせるべきね。またどういう反動が出るのかは分からないけれど、受刑囚同士にまで問題を起こされたらあなた達もまた大変でしょうから」

元々はあの二人の受刑囚も異性愛者だ。あの類稀なる可愛さを誇る少年がいるから片寄っているだけだ。

アラディスは肉こそは無理なままだが、できるだけ色身のある物や、動物性たんぱく質に変わるものをしっかり取り始めていた。無欲だった牢屋もようやく写真が五枚ほど貼られた。出来上がって買ったファッションショーブラスバンドイベント時の写真だ。ブラスバンドの皆で写ったものや、あの問題の楽器軍での演奏時、バックにファッションショーの女達がはしゃぎ回っている舞台、タカロスが端に壁際で監視している素敵な姿と人いきれの会場、格子先にハーレーダビッドソンに色っぽく跨る女とブラスバンドの写真の五枚だった。

とはいえ、アラディスのファンになった女子自由監房内の何人かの受刑囚達は、テーブルの上に並べられた写真の中で、闇の中で遠くにピンクや紫の光のステージをサイドにするソプラノサックスを黒蛇の彫られる手腕の手で構え膝に立てスツールに座る可愛くてクールな少年の写真や、その連れらしくて格好良い顔立ちで話も面白いトランペットの青年と二人で吹き鳴らす場面など、少年が笑っている写真を見つけては喜んで買っていたのだが。

「彼の食人に対する心情を、もしこれから酷くなるとしたら聴いて見なければならなくいなるわ。このままではちょっと、出所は見込めないから。資料ではマフィア上の殺人でというけれど、それ以外の余罪があったのかもしれないわね。8465番が食人者だという結果が出ているからといえ、クローダが果たして食人の気があるとは思えない」

「確実にあのブラックリスト者の殺人マシーンとも、あの3062番は関りはある筈だ。味を覚えさせられたのかは不明だが、ロイドの話では、3062番は8465番がこの刑務所に収容された事を知っている」

「え? 何故?」

「一人の受刑囚がクローダのコブラが入った男を一瞬見ていて、その事で同じくクローダ出のあの小僧に情報を渡したという話だ。だが他の受刑囚共は誰も8465番の事は当然知らない。面会所は一箇所、他の監房へ向かう通路との接点があるからな。偶然見かけたんだろう。反応としては、特徴を聞いてそれが誰なのかが分かった風があったらしい。様子が気になったんだろう」

「彼は8465番の食人を知っていたのかしら」

「それは不明だ。恐怖していた対象が8465番にも関係しているかも不明だが、近いものはあるかもしれない」

オッドーはブラックリスト上でしかイデカロの顔は知らない事だ。

「彼のお母様を覗う限りでは、正常ね。十五歳で行方不明。そして十七歳ではシチリアマフィアの殺し屋として逮捕された事で身元が判明したそうで、その二年間の間にいろいろな事がクローダ上で叩き込まれたのかしら。マフィアクローダとの出会いや、あの8465番との出会い、その8465番の食人、それを発見してしまったのかもしれないわ。三年前までは睡眠が三時間だったそうだし、それが原因で魘されていたのかもしれないわね」

「ニッカの言うには8465番は相当の極み者らしいからな」

pipi

オッドーはジャケットから携帯電話を出し、出た。

「あなた!!」

恐ろしい程大きな声が響き渡った。

「まだ仕事中だ」

「もう七時なのに仕事なんて嘘よ! ベスといるんでしょう?!」

エリザベスがオッドーからそっと携帯電話を手にした。

「こんばんは」

「ベス! あなた、病院に一緒に行ってくれるって言っていたのに!」

「ごめんなさい。一人患者の相談事があったのよ」

「本当でしょうね。オズが何故必要なのよ」

「彼は監房責任者だわ。そうでしょう?」

オッドーの妻は黙り切り、また若いころの様に融通が利かなくなった。

「分かったわ。じゃあ、また」

妻は切り、エリザベスは困ってオッドーに携帯電話を渡した。

「悪いな。気が短いんだ。結婚してから特に」

「フフ、その様ね」

メルザのことに関しても、監視役がついたと言っていた。アルデとの浮気も出来ずにいる筈だ。自分も奥さんがオッドーの傍にやって来たのだから、自己を完全に抑えなければならない事だった。それでも、エリザベスは軍の時代からオッドーを気にかけていた。だが悟らせた事など一度も無い。

危険だった性格の青年時代のオッドーは血の気が荒く、それでもエリザベスの母親にはよく世話をしてもらう毎に素直に言う事を聞いていた。ぶっきらぼうな性格だったが、年下の少女エリザベスの事も可愛がってもくれた。母が亡くなった時もずっと傍にいてくれた。オッドーが正式に軍に入り、また荒れていて手が付けられなくなり、将校たちともそりが合わずに仲間とも喧嘩ばかり。途中から加わった医務だったオッドーの妻からはずっと友達のようにどうしようも無い彼を好きになって来ていると相談を受けていたし、年上のお兄さんのオッドーに以前から恋心を抱き続けてきたエリザベスは自己を押さえてきた。母を失ってから家族という物に対する気持ちが変わり始め、そこで告白されたのがオッドー自身からだった。それを断ったのは、自分だ。

「しばらくは3062番の場合はどちらにしろ、監視を続行させた方がいいわね。明日、彼女を連れて産婦人科へ向かう事にするわ」

「ああ。ありがとう」

「いいのよ」

オッドーは控え室を出て行き、寮のある本館へ向って行った。

「………」

本館。

オッドーは前方を歩いてくる男を見て、彼に気付くと立ち止まり敬礼した。

男も敬礼し、相変わらずの引き締まった精悍な顔つきの将校が、オッドーを見た。

「警備員制服は見慣れないな。ここへお前が来てどれ程経ったか」

「十四年になります」

メルザの旦那だ。

根からの軍人気質であり、五十四の年齢の軍の将校だ。とにかく厳しく、元々はあの厳しい副所長の部下だった男で、オッドーは青年時代には同じ部隊で動いていた時の大佐だった。

まさか、自分の若い妻を通路にでも引っ張り出しに来たのだろうか。将校服の黒のブーツがカツンと音を発し、機敏に踵を返すと、オッドーの周りをあの鋭い目で周り見回し歩いては、黒革グローブの後ろ手で肩に手を置き、その口許を肩越しに見た。

「あの子がどうやら、何か隠し事をしているらしいな。放っておくつもりは無い。お前は私の物に手出しする事は無い」

「ええ」

彼は離れ、くるっとこちらに身体を向けると視線の先へキャップ影の上目を向けた。

オッドーの先にいるあのメルザの旦那を見て、ロイドは一瞬身構えた。今から彼女にでも会いに酒でも飲みに行こうとキーを持っていたのだが、それも落とした。

将校はロイドを知らない。ロイドの場合は軍の本で顔は分かっていた。

彼はヴィンテージ物のジーンズにラフなワイシャツと胸部にスカーフを軽く挟んだ青年を見ると、そのロイドは進んで行き自己の格好を正す術も無かったものの、敬礼した。

「ザエライ大佐」

「彼はア・ジャック刑務所の警備員、ロイド・リロデオです」

「そうか」

「兄貴」

呼びかけながら角を曲がったアルデがそのまま口を噤み、猫の様な顔で口を結んではメルザのあの旦那を見た。

一瞬で将校の目許が恐ろしい冷たさになり、颯爽とアルデのところへ進んだ。

オッドーは額を抑え、弟の危険を察してロイドは早足で進み一瞬を手首を掴んだ。ぶっ飛ばされる瞬間にアルデは上目になり将校を睨み、手首をガシッと止めたロイドを横目で将校は睨み見下ろした。

オッドーが横に来てからタカロスが首を傾げ、独房警備と男女特別監房見回りを終え歩いて来た為にそちらを見た。

出かける私服の兄弟と、その先に将校と、その横にオッドーがいる。

「将校」

敬礼し、そこまで来ると物々しい雰囲気の中を彼等を落ち着かせた。

スタイリッシュな体格はやはり強行的で、いわんこっちゃない、旦那がこうやって来てしまったのだ。

「妻は呼び出せる場所にいるのか」

「可能ですが、部屋を用意しましょうか」

何かがあれば駆けつけられるためだろう、将校は目を細めてタカロスのいつもの肝の据わった目を見ると相槌を打ち、呼びに行かせた。

タカロスが歩いて行き、将校はアルデから目を反らすとオッドーの促す応接室へ進んで行った。

ロイドはアルデを見て、まだきつい目許をしていたから腕を小突いて顔を上げさせた。

将校はドアを潜り入って行き、オッドーは飲み物を用意させるように連絡をするとドアをしめた。

廊下でアルデは不機嫌そうに憮然としていて、苛付いていた。ロイドは肩を叩き、今の所は部屋へ戻らせた。いきなり打ん殴るために呼び出されるかもしれないからだ。もしもこのまま酒屋へ直行すれば、どうされるか分かったものでも無い。きっと戦艦に鎖で脚から括り付けられ、海を回ることだろう。


 メルザは受話器を取った。

「はい。あらタカロス」

「ザエライ将校が来ている。第一応接室へお通しした」

「え?」

メルザはギクッとしてブラシを持つ手を胸部に抱え、鏡台の中の自己を見た。多少顔が白くなり、黒髪が揺れた。

まさか、アルデとの事が知られてしまったのかしらと、胸騒ぎを覚えた。

「すぐに向かうわ」

彼女は軍用パンツに黒のTシャツだったが、その部屋着で旦那に会いに行くわけにはいかないために、即刻黒のパンツに白のブラウスを着てから細身のベルトを嵌め、結婚指輪を嵌めると、綺麗にまた髪をブラッシングしては、部屋を出た。

言い訳など浮かばない。まさか直接きたなんて、信じられない事だった。颯爽と歩いて行き、階段を降りていく。

「アルデ」

アルデとロイドに鉢合わせ、階段途中でとまった。

「気をつけろ。相当気が立ってる」

「何がっすか?」

メルザは背後から階段上のエルダを見上げ、首を振った。エルダは首を傾げながら階段を降りていった。タカロスがまだいなかった為に、三階の見回り警備員寮へ戻って行ったのだ。

彼女の肩を抱き寄せた為にそのアルデをロイドははがれさせた。

「早く行け。遅れると本館中を探し回るだろうからな」

「そうね」

アルデの腕に一度手を当て、はにかんでから階段を降りていった。

一階に着き、応接室へ進んで行く。

固唾を飲んでからノックし、入って行った。

相変わらず、素敵な旦那がいては、ザッと機敏にこちらにあの勇ましい顔を向けた。

オッドーと話していたようだ。オッドーはソファーから立ち上がると、視線だけで旦那に出ている様に言われてそうした。

一度擦れ違い様にメルザを見てから、メルザははにかんでオッドーを見上げ、旦那に向き直って歩いて行った。

ドアが閉ざされ、二人だけになった。

旦那が立ち上がり、メルザの前まで来ると「メルザ」と、そっと彼女を抱き寄せた。

そんな事などしてくれたことさえ無かった為に、メルザは心臓が落ち着かなかった。キスはおろか、一度もベッドを共にしたことすらなく、ともにした食事さえも二度しか無い。夫婦生活は一日も無かった。式を挙げ、そして翌日にはもうそれぞれが仕事へ向かい別居だ。だがどんなに旦那がメルザを大事にしているのかは、しっかり分かっていた。

メルザは戸惑い、旦那の鋭い顔つきを見つめた。

「男がいるのか」

「………」

メルザは言葉が出ずに、ただただ揺れる視線で旦那の目を見つめていた。彼女の細面を包む艶ブルーブラックの柔らかくマニッシュなボブ髪を撫で、そして大きな瞳をみた。

「離れ住む事は無理なのか。それでは成立しないと言うのか?」

「あなた。あたしは……」

だが言葉に詰まり、俯いてしまった。

彼に胸部に引き寄せられ、メルザは目を閉じた。

「あなたの事、あたしは愛しているのかが分からないの。夫婦らしい生活さえ一度もせずに、形式だけの」

「形式だけだって?」

メルザは両腕を持たれ旦那の顔を見た。

形式ではないことは充分互いが分かっている。軍の宴で惚れあった事は確かだ。早すぎる出会いの先の結婚は、確かに早すぎたかもしれない。

「私との婚姻の事実が重荷なのか」

「分からないわ。分からないのよ」

「あの黒髪の青年に心が行っているようだな」

「あなた」

「一目で分かった。雰囲気がお前と同じで」

進んで行く旦那の腕を掴むと、振り返った彼の顔はメルザを攻め立てる様に静かに見据えた。

「あなたが強行に出ようというのなら、離婚するわ」

「………」

「あたしは若い人がいいの。いいえ。年齢なんて関係無いわ。近くにいてくれる人がいいのよ。あなたは素敵な人で、立派な方で、あたしを大切に想ってくれているけれど、想いだけでは嫌よ。関りが欲しいの」

微かに彼の口許が開き、彼を深く傷つけてしまったのだと目を見てメルザは思った。ここで彼の元に引き返して全て言葉を撤回して戻る事もできる。

「女として扱われたいのよ。でも、あなたは任務の為に」

持つ腕の拳が握られ反らされ俯く横顔をメルザは見た。静かに目を閉ざし、彼は考えていた。

だが違った。今まで見た事も無い目でメルザを見つめると、頷いてから言った。

「そうか。お前が私との事を解消したいなら、………」

メルザの腕に手を当て、手を離させると腕を持ってから言った。

「相手はまだ若造に過ぎない。離婚は絶対にしないが、遊ぶぐらいなら許そう。それでも、私の事を愛し続けていてもらいたい。お前は私の妻だ」

「………」

メルザは頬を染め、旦那の瞳を見つめ俯き頷いた。

罪悪感が募り、顔が上げられなかった。

「今日だけは、共にいたい」

そう言い、颯爽とドアから彼女を出すと歩いて行かせた。

そのまま付いて行っても大丈夫なのだろうか。不明だった。罪悪感を感じたばかりだというのに、彼への恐怖と猜疑心があった。

どこかの部屋で首を締められるわけも無いというのに。彼も一人の男性であって、自分は彼の妻だ。

本館から出ると、旦那の車両に乗り込んだ。助手席に収まり、メルザはシートベルトを嵌め、キャップを取った彼の横顔を見た。

落ち着き払った目許がサイドギアに注がれ大きな手で操られては、そして発進する。

車内はずっと、沈黙だった。

闇の中の白い刑務所は遠ざかって行く。海の音さえ微かにしか聞こえない。星の無い夜は黒くて、そして、感情さえも、徐々に透明にしていく。

愛しい波へと。

ゆったりと。

黒の道を走らせて行き、バールの並ぶ道を越える。暖色照明や人の照らされる暖色が過ぎて行き、そしてこの辺りでも品のあるホテルへ着いた。

ラウンジを進んで行き、室内につくと上に着る軍服を畳み置いて彼は厳かな室内の中、息をついた。

メルザはグランドピアノの横で緊張し、彼の背を見つめた。

彼は進んできては、黒のスカーフが巻かれ下がり、黒の丸ボタンが並んでは、白のシャツの逞しい腕に彼女はその細い手を掛けた。

よく拳銃の握られるそのメルザの手は女性にしては多少の強いつくりがあり、それでも大きいというわけでは無い。

「最近のコンクールは、映像を船上で観たが素晴らしかった。我々側のファンファーレでも学ぶ部分もあったな」

「そうね……。初の試みよ。個人の体内構造のみに合った体の一部になる様な楽器よ」

「綺麗な楽器だった。よくお前の美しさが反映されていて」

「嬉しい」

メルザは微笑み、彼はグランドピアノに手を添えると頬を撫でた。

そして一瞬で、引き寄せ流れるように熱く熱を持った。深く、頼りある腕の中で。


 アラディスは牢屋の中で転がっていた。

白い山羊の様に両手両足を一方に置きすやすや眠っている。

くしゃみで目を覚まし、驚いて見回り警備員を見た。

名前は知らないが、二十三ぐらいの奴で、鍵を腰に持っていた。

作業時以外は自主的に鍵を掛けてもらっていたので、暇だし眠っていたのだ。

一方、そんな状況をロイドから送られたのが、南東角の通路前にいるローテーション見張り警備員、レバイアだった。

自己の恋人の見回り警備員が、あの問題の少年に手を出しているという事をだ。

レバイアは丁度目の前をとおり掛かった見回り警備員をギロリと見下ろすと、その殺気に見回り警備員はギクッとして、見張り警備員を見上げた。

何か取り締まるべき何かがあるからだ。急いで見回り警備員は縄を手に歩いて行き、3062番の牢屋内の見回り警備員を見てそのケツをビシバシ白の縄で叩きつけた。

ケツを払われた見回り警備員は驚いて3062番から離れ、逃げる様に走って行った。

3062番の牢屋の鍵を掛ける。

「なあ」

アラディスは顔を格子につけ、隣の牢屋の奴に声をかけた。

「は?」

その隣に入る受刑囚は雑誌を放ってから開け放たれた間口から字半身を覗かせた。

「CDラジカセ貸して」

「お前食うから嫌だね」

「くわねえよ機械」

仕方無しに貸してやることにしたが、デスメタルばかりだった。英語で意味不明だった。

仕方無しにそれをイヤホンで聞い激烈に耽美に壮大な曲だけでも聴いている事にして目を閉ざした。

目に宇宙が駆け回る。巡るように。

レバイアは自分の前を通り掛かった恋人を見下ろし、恋人の見回り警備員は彼であるレバイアに気付いてギクッとし、はにかんだ。

恐い目許がキャップ影から覗いていて、今夜は恐ろしい程攻められそうだった。むしろそれでも良いのだが。

恋人の見回り警備員はそそくさと手足をギコギコさせ歩いて行き、木の人形の様に進んで行った。

ここから見えるアルデは、明らかに何やら雰囲気が恐かった。その為に、昨日の事もあったからだろう、彼をシューティングエリアにする不届き者は今の所は現れてはいなかった。

その兄の方はいつもの様に対角線上に立っている。

アラディスの横の受刑囚が顔を覗かせると、案の定ラジカセに噛み付いていたから格子から腕を伸ばして打っ叩いた。

一時間半の休憩後は午後の作業に入る。

彼等は一様につなぎに着替え、残り二時間の作業へ進んで行った。

そこで漸く見張り警備員達は固定された警備員の方が食事などの休憩に入る。午前中は固定見張り警備員が作業中の警備にあたりローテーション警備員達が休憩と食事をする。午後はそれが逆転した。

食堂へ来た固定見回り警備員、オッドー、相棒、ロイド、アルデは今は作業中の警備に向かっているレバイアについてを口に出した。アルデのことに触れると、ライフル銃でどてっぱらをぶっ放されそうだったからで、今日は一言もアルデが喋らないからだ。

オッドーがロイドの話に言った。

「またあの野郎、恋人変えたのか。即刻丸分かりだな。あの囮の3062番って鼠捕りの籠が設えられてるんだ。まあ、三年間の浮気相手ならな」

「レバイア自身が三ヶ月以上で同じ野郎に続く性格かよ」

「あまり分からねえが」

やはり固定見張り警備員とローテーション見張り警備員は何かしらの壁があった。ジョニスマンの場合は塔の上でずっと話し合っている場合が多いためにやはり親しいのだが。

見回り警備員達は受刑囚達の作業時は館内の清掃にかかる。サニタリーだとかトイレ、シャワールーム、廊下、面会所などを掃除夫も混じって掃除していた。

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