巨大な音
「キャア! あなた! 蜘蛛! 蜥蜴!!」
ふるさとのドイツからやって来た妻の叫び声が聴こえ、軍のときは見つけたと共に鷲掴んでぽいと背後に捨てていた女とも思えない声だった。
だがそんな所が可愛くてついダンボールをテーブルに置き、歩いて行くとしょっぱなから怖い顔の妻が腕を組んでいた。
「これ、何?」
「は?」
オッドーがそれを見ると、エリザベスをはじめとするその父、それと副所長の写真だった。
「あなた、まさかまだベスと? まさか、関係なんて無いわよね。彼女ってまだ独身なんでしょ?」
「それはそうだが……関係は無い」
「でも大事そうにしてるようじゃない」
「世話になってる長年のよしみだ。それは飾るだろう普通は」
「あなたらしく無いわ」
「悪かった。軽率だったな」
「その軽率な発言は何? ベスはまた見ない内に凄く大人びて更に綺麗になったわよね。嫉妬しちゃうわ。あたしはこんなに童顔なのに」
「お前のほうがまだ若いだろう」
「ベスが怒るわよ。そういうこと言うと、まだ神経が鈍いってね」
「少しは休憩しろ」
「そうねありがとう。ちょっと疲れたわ」
「何か飲むか」
「ザクロジュースが冷蔵庫に入ってるの」
「持って来るから大人しく座っていろ」
「もう!」
妻が写真を割る前にそれを手から引き、棚に置いた。
「ねえ。彼、素敵ね。何人?」
その背後に置かれた、警備員達が吹奏楽コンクール時に取った写真を手に取り見ていた。
ロイドだ。
「ああ、イタリア人だ。お前が好みそうだが止めておけ。そいつは女好きでお前より若い」
あいつは色男で、彼の女は一年と同じ顔を見た事は無い。
「相変わらずタカロスは男前ねえ……。ベスと何もおきてないの?」
「さあ……」
その彼女の真横、ソファーアーム上を蜘蛛が歩いていき、ざくろジュースを渡してやった。
「イタリアの産婦人科、ドイツ語通じるわよね? 始めはベスについて来てもらおうと思ってるの」
「そうだな」
「やっぱり始めの内は不安じゃない? あたしは産婦人科は専門外もいいところだったし、あなたは仕事で夜しかアパートメントには帰って来ないし、市場もたくさん回らないと。新鮮なお魚一杯で、生まれる子供も喜ぶと思うわ。住めば都よね。海にも遊びにいけるし、気候も温暖だし」
ザクロジュースのコップを置くと、妻は立ち上がってオッドーの手を取って満面に微笑んだ。やはり可愛すぎて緊張する。
「今日、何が食べたい?」
「ああっと……何でも」
「あなたがパリで買って来てくれたこの素敵な服、すっごく嬉しい。だから、今回は奮発するわ。待っていてね愛するあなた!」
彼女は嬉しそうにキッチンへ向かっていき、可愛らしく鼻歌を歌いながら歩いていった。
彼女の前では言葉を気をつけないと、場合に寄っては酷く癇癪を起すために気を使わなければならなく、疲れた。
蜥蜴が足許を歩いていて、それを避けて歩いていきソファーに座った。
また無頓着な妻が踏みつける前に蜥蜴は壁のほうへ歩いていった。
「乾燥したクラゲをもらったの。餞別だからって食料セットをベティから。サラダに入れるわね」
く、海月……。
「あ、ああ……」
「? どうしたの? クラゲ嫌い?」
「いや、嫌いじゃねえが……」
「じゃあ決まりね! 一週間ぐらいして落ち着いたら、市内を案内してよ。一ヶ月ぐらいしたらおなかも目立ち始めるかもしれないし、ベティや旦那さん達も呼ぶって事になっているの。その時、一緒に夕食食べましょう。そのお店も押さえておかなきゃ。このイタリア人の彼なら美味しいお店に詳しいんじゃない?」
「聞いておく」
「あなたが好きな酒屋じゃ駄目よ。料理店ね。ほら、パエリアとか、プザとかそういう物を出している所」
「ピッツァだ」
「ピチャア?」
「ピ……」
可愛すぎてうな垂れた。
「イタリア語も覚えるなんて、面倒だけど協力してね」
「ああ」
「子供が生まれたら、ドイツ語を家では話させるわ。自然にイタリア語は外で覚えて来るんだから、あとは英語ね」
「そうだな」
「あなた、何ヶ国語話せたかしら。隣国なわけだしよく行くかもしれないんだからフランス語も取り入れさせたほうがいいかしら」
オッドーは二十六ヶ国語を話せる。見張り警備員は最低二十ヶ国語を操れなければならなかった。
ドイツ(オーストリア)、ロシア、ウクライナ、クロアチア、ポーランド、アイルランド、イタリア、スペイン(アルゼンチン)、フランス、ベルギー、ブルガリア、英語(オーストラリア、カナダ、マカオ)、ポルトガル(キューバ、コロンビア、ブラジル)、トルコ、アラビア(エジプト)、日本、中東、ヘブライ(ユダヤ人)、イスラエル、インド、タイ、バリ、ジャワ、………。
それらが話せる。何故こんなに島で区分されていても人種も言語もわざわざ違うのかと思う程言語が様々にある。どうやら、ゲルマン民族が世界共通語で収めさせようと躍起になったようだが、結局はドイツ人がドイツ語を愛する様に、滅びた言語を持っていた民族も、他のアジア諸国の軍勢にしろ、自信を持って自己の国の言葉を何者にも侵略され難い思い入れあっての人の歴史と来るから、半端無い広がりだった。
「あなたが横にいてくれたら、あたしイタリア語がすぐに覚えられる気がして心強いわ。ベスの事だって驚かせてやるんだから。彼女、最近元気そうね」
「ああ」
「副所長が明日、久し振りに会えるから我が家に夕食に来るって言っ」
「駄目だババアを俺の家に入れさせね」
「オズ」
「………」
「あなた、将校のことババアだなんて、まだ仲が悪いのね。柄の悪い言葉なんて話されたら、胎児に聴こえてしまうじゃないの。不良が生まれたらどうするの? それで、軍隊にも入らずにグレてあなたの働く刑務所に入る事にでもなったら、何と世間から笑いものにされる事か!」
「ああ。悪かった。反省する」
「CDセット買ったの。空港でよ。ほら、これ見覚えあるでしょ?」
バーカウンターからにっこり笑って妻が差し出して来た。
「ああ、この前のコンクールの奴か」
「あたし、あまりジャズとかパワフルなのって聴かなかったけど、力強くていいわね。陣痛時も聞いて勇気もらうの。あなたのところの楽団、すっごく綺麗な声の子出ていたわね。音も変ってて幻想的だったし。闇の清流に浮く白い花みたいで。三本セットのビデオは次回、あなたのお給料が入ったら買おうと思うの。今回のCDとビデオはまだ先の発売でしょう? 間に合うわよね」
「そうだな」
「刑務所で働く者の妻で安く出来ないの?」
「基金に関係するからそれは出来ない」
「そうよね。あなた、最近地雷撤去予定は入ってるの? 子供も生まれるし、受刑囚の奴等も大人しくしててくれればいいのに、こちらのプライベートは知らないんだから」
藤色の壁に黒の家具が並べられ、黒紫のビロードが掛かっては黄金シェルのスタンドライトの立つ空間は、完全に妻の趣味では無かった。何故南伊でこの色彩なのかと、これから子供を産むに冷めた子でも育てるつもりか、浮気相手の医者の影響か、ただただ、その紫から望む青空は綺麗に映えている。
これから寒くなっていく為にダークカラーのビロードは構わないが……。
「さあ、召し上がれ!」
妻の笑顔にやられ、食事が始まった。
歯ごたえの在る海月を食べるたびに、ニッカを思い出すのだが。
一瞬の事だった。
グラウンドの緑が一気に焼け付いたのは。
黒い陰が現れたと同時に爆撃音が炸裂し、アルデは歯を剥き塀に飛び乗ると目を掠め黒煙を見下ろすと、共に天空にヘリへライフル銃を発砲した。
塀をヘリの弾道が走って行き角が砕け散り鋭い銃撃と共に撃ち返す。一人よろめき落ちて行った。
グラウンド横、黒煙と熱気で目が霞む中、太陽の光で微かに光るヘリにオッドーと相棒が銃を撃ち鳴らし、ロイド達が一気に牢屋へ受刑囚達を蹴りいれさせた。
ヘリの中から一人撃たれグラウンドの炎の中に落ち、オッドーが二階塔に登り小窓をあけるとあちらのアルデに一度視線で合図を送っては、アルデが撃ちこみこちらに気を向かせオッドーが操縦者の額を打ちぬいた。徐々にゲートは仕舞っていく。
ヘリから一人グランドに飛び降りた瞬間にグラウンドにヘリが落ち、扉半分閉まりかけた監獄の中にまで爆炎と破片が派手に飛び散り、閉じ込められた一階牢屋の中の受刑囚達が熱風に悪態を撒き散らした。二階監房へは吹き抜けから反り返り、まるで火の鳥が降臨したかのように一瞬炎が羽根を広げ鋭い泣き声の如くもう一度爆破が巻き起こり、ゾラとリン側の壁が振動し、ゾラがお喜びあそばれて牢屋の中で跳ねていた。
回廊から飛び降りようとしたロイドだったが、監獄内に飛び込んだ侵入者が残骸を避けながらオッドーとアルデに追われ、その見覚え在る顔に咄嗟にロイドは元海軍将校だった海賊参謀を振り返った。
彼は格子にガシャンと手を掛け目を開きロイドはその受刑囚5569番にライフルの銃口を向けた。
ドシンと大型の扉が閉ざされ、一瞬の閉じ込められた静寂に耳を痛める。
オッドーが走る男の背に蹴り飛び乗り項を爆ぜさせた。アルデがオッドーに頷き二階部へ駆け上り、受刑囚5569番の前へ颯爽と進み、睨み見据えた。
5569番は、オッドーが格子に血を跳ねさせ投げつけた落ちた生首を、暗い視線だけで見ては、銃口の先のロイドの目を見た。
「この顔はお前の仲間だな。脱獄はいつから計画していた」
「………」
5569番は答える事無く、再びベッドに座り剣呑とした上目で三人を見た。大蛇の彫られた隆起する黒い腕と脛は、重々しく地に着いている。冷静沈着な黒の目が、考えをうかがわせなかった。
離れた独房のタカロスが一階部北東角から駆けつけ、他の警備員達にグラウンドの整備を指示する。煙の晴れた時には芝生は抉れ、酷い状態だった。撤去に時間は掛けていられない。重機を塀向こうに運ばせるよう手配する。
上に駆け上がり、オッドーはタカロスに頷くと、5569を独房行きへさせる為に所長に無線を渡した。
直ぐに所長がやって来ては、タカロスが5569番を厳重拘束させロイドと共に連れて行かせる。
一階監房の受刑囚達は牢屋の中から、首なしで血を階段のほうへと長く引く遺体を見ながら口許を閉ざしていた。
既にアルデはグラウンドに戻り、ライフル銃と鋭い視線を巡らせ、オッドーは監房内とグラウンドの遺体回収と残骸撤去を進めさせた。
ラビは不安になり、同じく閉じ込められ巨大ゲートも締められた監獄の中で、リンドガーのいる男子自由監房の方向を見つめた。
酷い爆破音だった。皆の牢屋内の家具やインテリアが揺れ、寝ていた者は飛び起き、グランドで踊っていた者は叩き戻され、一斉に牢屋に鍵が掛けられた。
「ねえさっきの音ヤバイよ。あっちの監房、やられちまったかもねえ」
「エファ! 怖い事言わないでよ!」
さっきまで眠っていた為にラビは頭の回転が遅かった。だが、リンドガーの顔がまず第一に浮かんだ。あいつ、無事だろうか。
あちらに急遽飛び駆けつけたメルザが戻って来ると、塔の扉を開け監獄内に入り、女子自由監房を任されている警備員シザンラに報告した。
彼女は鋭い目で頷き、声を張り上げた。
「男子自由監房への侵入ヘリは撃ち落され阻止された。脱獄を図った受刑囚は処分を下される」
「けが人は?!」
ラビがそう声を張り上げ、シザンラは答えた。
「負傷者はいない」
それだけを言い、ざわつく女受刑囚達を落ち着かせるために、精神科医のエリザベスを呼ぶようにメルザに言った。彼女は頷き、副所長に連絡しその承諾を得る。
クラウディスは真っ青になってずっと腕を抱え、通路にぼたぼたと落ち流れる血を凝視していた。
あのドイツ人警備員が髪から鷲掴み颯爽と歩いていった生首を見た瞬間、叫びそうになった。酷くガタガタと震えていて、その場から動く事も出来ずにいた。生首。
食卓上の、生首……
「………」
クラウディスはふっと、気が途切れて気絶した。
ライフルを構え牢屋の前を行き来する警備員は、気絶したクラウディスを見ると相棒のオッドーに連絡を入れた。既に完全に巨大ゲートは閉ざされ、グランドはアルデ達に任せてある。熱でやられた者達を看ていたオッドーは医者二名に彼等を任せると、二階監房へ駆けつけた。
お騒がせキッドをベッドに担ぎ上げて横にさせ、冷たい顔の頬は真っ青だった。自分が持っていた生首のせいかもしれない。背後では、掃除夫がモップで血を吸い取らせていた。
閉じる瞼から涙がぽろぽろ零れている。
「冷たいタオルでも乗せておけ。精神安定剤でも処方させろ」
相棒は頷き、食堂のほうへ走って行った。
まだ十八の小僧だ。恐かったんだろう。人を残酷に殺害しておきながら、何を恐がるのかオッドーにはよく分からないのだが。
ガタガタ震える手がオッドーの腕に触れ、その腕を取って来た時にはまた食われると思ったが、ザッと開かれた闇色の目が空を見ては、凝視したように、明るい背後で動く人物、掃除夫を見て、ゆるゆるとぎこちなく肩の力を抜き、オッドーに気付いて顔を上げた。露骨に嫌そうな顔をしてきて罰が悪そうに手を離して来た。
まだ真っ青で、その死んだような目がオッドーの膝の血を見ると身構えて上目でオッドーを見据えた。
「気分が治るまで横になっていろ。今、警備員が氷嚢でも持って来るだろう」
「………」
クラウディスは何度か頷き、背を落ち着かせた。
折角妻との平凡な日々が送れると思えば、彼女の願いも虚しく直ぐに脱獄を試みる輩は出て来る。全く、せわしない。
本来、刑罰として鞭打たなければならないのだが、その髭の処罰長は今日休日だった。また今頃どこかでちびちびと飲んでいる頃だろう。奥さんにも掃除の邪魔だと追い出されて。
5569番、エデザ・カシオラは所長の調書にも答えることは無かった。
ブラックリスト内の海賊の生き残りは今、残骸の中の死体三つとも照合中で、一人は腕の特徴の在る入墨で確実だとされている。入墨は、どこかの団体で同じ物を運命共同体として彫っているか、彼等独自此処自由な唯一無二の物なので、時にかっこうの身分証明証にもなった。
政府軍と海上保安への連絡を渡した後、今は独房へ行かせることにする。舌を噛み切って自殺されない為にも、鉄のかませを口に突っ込んで口枷を填めさせてから、いつもの様に拘束し、鍵を手の中に収め身を引いた。
交差する鎖が黒い頬を圧迫し、その上の目が見据えて来る。
「………」
タカロスは身を返し、扉を閉めた。
別館にいるアルデは困った。
海上保安の人間が来るまでには、運び込んだ四体の死体の安置を済ませる。顔を見るからに顔というのか、あまり判別が着かない。
これは所長に何を言われる事か。プロのくせにもう少し捕らえる方法を考えろとこっぴどく言われるだろう。
刑務所内の電話が鳴り響いた。
その通路上の電話を取ったのがエルダだった。
「こちらは警備員オズワード・カルデリの妻ですが、刑務所側で爆音があって、黒煙が上がっていましたけど何なんですか?」
ドイツ語だ。エルダはあのオッドーの顔を思い浮かべ、妻と名乗る声の主に答えた。
「心配には及びません。問題は収拾しました」
「何が起きたのかって聞いてるの。あれは何か重機が爆破したものよね? あたしは専門的なことならお見通しなの。あなたはお若いようだけれど、どの役職の方?」
「警備員のエリディオン・カデッタという者です。カルデリ氏は現在、現場警備に当っているので、連絡は取り合えません」
「事実を言って下さいと言ってるんです」
めんどくさくなって来た。ここの辺りではいちいち刑務所に連絡をしてくる者はいない。脱獄者が出れば、警戒サイレンが鳴らされるが、それも鳴らなければ収まったと誰もが日常を過ごすが、それは新参者は驚くのも無理は無い……。
「脱獄者でも出たんですか?」
「その協力者が現れ、ヘリは銃撃され脱獄は阻止されました。その墜落時の爆破です」
「そう……」
相手は納得したように言い、エルダは気遣った。
「大丈夫ですか? 唐突の事になってしまって申し訳無い」
「妊娠してるの。不安で……」
「え?」
エルダは首を傾げ、何故離れていた妻に子供が出来たのかが不明だった。もしかして、以前のパリコンクールで落ち合ってホテルで?
「それはお体への影響を案じるわけですね。旦那さんをお呼びしましょうか」
「いいえ。いいの。こうやって話して事情がわかっただけでも安心したから」
「良かったです。余り深く考えずに安静になさって下さいね」
「ええ。ありがとう。いきなり電話を掛けてしまってごめんなさいね。感謝するわ」
「お気遣い無く。我々の仕事ですから」
「そうね。それでは、お忙しいところをお世話かけたわ。そろそろ失礼します」
「こちらこそ」
相手が切り、エルダは背後を見て、遠くのドアから様子を窺うアルデを見た。
「何だ」
「オッドーの奥さん」
「イタリアに来たらしいからな」
「可愛いって評判の」
「俺は会ったことが無い。エリザベス女史もタカロスもそう言っていた」
「へー……」
あのオッドーに可愛い奥さんというのが浮かばない。
オッドーの妻は元々彼が凶暴な質で、軍でも孤立する事が多かった若い時代を知っているので心配だった。
喧嘩っ早いしすぐキレるとナイフを出して突っ込んでいって、医療部が苛々するほど忙しくさせられた事が原因で、抗議に向かったのが出会いだった。
そうしたら、どんなイカツい馬鹿野郎が出て来るかと思えば、森のような緑の目を持ち、梟のような髪色をした長身の凛とした青年ではないの。
常に何かに対する反抗と苛立ちを抱えた目が強く光っていて、迷彩ズボンですっと立つ姿も、黒のTシャツから伸びるその長い腕も、狂気そのものの若さで満ち溢れていた。男でも上司でもなく女が出てきたと分かると、一気に身を返して歩いていってしまった。
流石にもう二十年も前の事だから落ち着いたし、現場でも判断が冷静だとは充分わかっているのだが、まさかの事があるのでは無いかと、戦時に軍が狩り出される時のあの常の緊迫感が一気に襲う。
「ねえ、愛する子。もしかしたらドイツにいた方が良かったのかしら……」
ずっと放って置かれていたので、すっかり話し好きの彼女も独り言も増えてしまったが、今はその話し相手がしっかりいた。まだ薄い腹部をさすりながら言っては、曲を掛ける事にする。さっきの少年の言っていた様に気を紛らわして落ち着かせなくては。
「でもママ頑張るわ。夕方には帰ってくるんだものオズが。もうママにはあなたがいるし、それに帰って来るオズもいるから……」
十五番目のトラックを掛ける。
オッドー達の演奏と歌の女の子のトラックだ。歌詞カードの写真を見て、シルエットだけでも確固として分かる舞台上のオッドーに指で触れた。
何年間も不安だったから、何度、記憶の中の様々な場面の彼のシルエットを思いおこしつづけた事か。何度彼の写真を見つづけてアルバムを何度も何度も整理し続けたことか、一人が寂しくて仕方なかった。
医大時代の講師だった権威と浮気したことは確かに悪いとも思ったけど、寂しかったんだししょうが無い!
ポーランド語の訳もイタリア語でどちらにしろわけ分からなかったが、何だか聞いていてとても懐かしさや過去を思い出す感じだ。
なんというか、一緒に結婚式場を見上げた時の事とか、パパに激怒されて絶対に反対だと言われた時に泣いた自分を護ってくれた彼の事だとか、そういうこと……。
ベスの写真を見た。
落ち着き払った大人のベスは、崇高な目許を持っている。
ベスは優しいから、オッドーが何かあったり、タカロスが何かあるとよく相談に乗ってあげている事だろう。彼女は本当にいい人だから。
後から現れたのは自分の方だからといえ、ベスの方が勝っているとは思わない。元々、オッドーは確実にベスしか見ていなかったけど手に入れたのは自分。
ソファーに座り、目を閉じて静かに曲を聞いた。
綺麗な声の女の子の歌や彼等の演奏を聞いていると、心が落ち着いた。乱れなど無かったようにほぐれる……。
彼の安堵する胸元に戻って、頬を寄せたくなった。
もしかしたら、今晩は刑務所内の整備に忙しくて帰らないかもしれない。それでも、彼等の演奏を聞いている事にする。彼等の息遣いはすぐそこに在る。
翌日の夕方に妻の元へ帰ると、いきなり抱きついてきたからオッドーは持っていたムール貝の袋を落としてしまいそうになった。
昨日はずっと不安だったのだろう。
そっと背を抱いてやり、愛しくて髪を撫で続けた。
「オズ。手が……生臭いわ……」
さめざめと泣きながら妻は抱きつきながら言って来て、すっかり貝を市場のバケツから掴み取って袋につめていた手だったので、しっかり布巾で拭いたはずだが臭いがそうも消えるわけでも無く、彼女の栗色の髪から手を離した。
「ごめん」
「でもいいわ……洗えばいいし、あなたが帰って来た姿が凄く嬉しいの」
余りにも可愛い事を言うのでオッドーはすぐにキスがしたくなり、我慢して頬に口付けしてから、中へ促させた。
「昨日はあんまりにも驚いて、おなかの中の子がいきなり急成長を遂げた音なんだって思ったわ」
「まだまだ成長段階だ」
「そうね」
妻は上目になり、オッドーのジャケットの裾を持ちかかとを揺らした。お願い事がある子供の様に。
「何か欲しいものがあるのか」
「……キス」
頬を染めて妻がいい、オッドーは面食らって自分が赤くなる前に妻の目を閉ざさせキスをした。
妻は満面に微笑んで浮き足立って貝を持ち歩いていった。
妻は全く分かってはいないが、確実にオッドーは妻に惚れ込んでいる。彼女が何をしようが、絶対に離婚だなんて一切考えられない。
「昨日はお疲れさまあなた。忙しかったでしょう? 無事に帰ってきてくれてよかった」
「ああ。不届き物もイタリアの陽気には手も足も出ない」
「そりゃそうよ。〔太陽とイタい〕神様に守られてるんだもの」
名詞だけをイタリア語で言ってきた。
「ああ。………。マーッレ(male 痛い)じゃない。マーレ(mare 海)だ」
どうやらいろいろと辞書を見ては覚え始めたようだった。
「良かった! この冗談が通じてくれて!」
「逆手に取ったのか。頭が良くなったな……」
「戻ったのよ。少しは」
「本気で陣痛が始まる六ヵ月後までにはお前の周りの環境も完全に整ってる筈だ」
「この子も母の海の中で守られてるんだから、たくさん栄養つけなきゃ」
オッドーは相槌を打ち、何も、自分と血が繋がらない子供だという事をとやかく思いたいわけでも無いが、複雑だった。