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美しき悪魔  作者: pegasus
第二章
12/19

苦いドリンク


 クラウディスは今、口枷も手で剥ぎ取れない様に両腕を広げ鉄枷で左右に拘束されていた。

重たく黒い鎖で吊るされ、革パンから除く白の裸足が地面に立ち、黒髪から瞼が覗いている。

グラウンド下にある、普段は受刑囚達の拷問の為に使われる拷問房だ。

脱獄を試みて捕まった人間が拷問を受けたり、何か問題を起こしつづける受刑囚が拷問を受けたりする。

今はクラウディス以外にはいなかった。

石で出来上がった横に広い拷問房は、上の自由監房やグランドからは想像も出来ないような薄暗い場所で、その一角に鎖で繋がれていて、空間には、拷問器具が生々しい状態で鎮座している。

鉄の台、木製の大車輪、棍棒、ニードルつき鉄球、鉄ゴテ、万力、指詰板、ペンチ、鉄火面、釜、三角馬、鎖、鞭、ナイフ、アイアン・メイデン、銅鑼。天井の鉄シャンデリアと手錠。

それらが影の中にある。

クラウディスは視線を落とし、足許を見つめた。

虚ろに地面を見ていて、まさかこのままずっと放置させられるんじゃ無いかと思った。

何も覚えていない。気付くと、ここにいた。

「………」

目を閉じる。

時間さえ分からない。ただ、騒がしい記憶はまだ照明で明るかった。それぐらいだ。

微かに重々しい音が響き、クラウディスは目を開けてそちらを見た。

鉄と石がぶつかり合い、反響する音だ。

鉄の扉が開けられ、警備員が入って来た。あの目許がどんよりとした男だと気付いた。独房で一度見た警備員だ。

無精髭の顔面と白髪混じりの揉み上げに顔が囲まれ、襟足が長めのカールしている髪が適当に後ろに流されキャップを被っている。中肉中背で、目許はどうも剣呑として生気が無いが、外観はよく見るタイプのイタリア中年男だった。

その警備員は木の椅子を持って来るとそれに座り脚を組んで肘をつくと頬杖をつき、動かなくなった。

どうやら、この地下の拷問房の監視役らしい。

警備員は別に何の指令も無かった為に、とにかく暴れないかを監視し続けていた。翌日三時になれば、口枷を取って足枷をつけ、片手の手枷のみ外して栄養錠剤と栄養ジュースだけ与えておけば三日は生き延びるという事だ。それ以外は何も仕事は無かった。最終の日は木曜日にあたるために、独房のアヌビスが自由房に回っていて自分が独房を日中任される事になるが、最終日は他の警備員がつくそうだ。

警備員は適当にただ見ていた。

何をして毎回捕まるかは知らないが、こちらの仕事を作らされても面倒臭かった。

警備員は腕時計を確認し、深夜時間に突入したので鉄の台に転がって眠りについた。

「………」

クラウディスは目を伏せ気味にベッド化しているらしい鉄台の上に転がる警備員の頭を見てから、うな垂れて視線を戻した。

その台からは、鉄鎖の先の枷が床に渦巻いていたり、鉄の焼印棒が掛けられたりしていた。

警備員はなんと、いびきが煩くて眠れなかった。

しまいには台から落ちて鎖に塗れながら眠っているし、ごろごろ転がっては最終的には壁際の床に立てかけられた大きな錨の横についてそれに抱きつきながらゴーゴーいびきを響かせ眠り始めた。

クラウディスは耳さえ塞げなかったためにうんっざりし、がっくりうな垂れた。

鉄扉が開かれ、タカロスが進んでは眉を潜めて居眠りしている警備員を蹴り起こしに行った。

警備員は飛び起きて、自分は鉄台の上で居眠りしていたつもりなのに錨を妻代わりに眠っていたから頭を掻きながらタカロスを見上げた。タカロスは呆れて目玉を回し、所定の位置につくように言った。この警備員は時々確認しに来なければ、日中の独房以外では居眠りばかりだ。

警備員はのろのろと起き上がった。

しっかり監視をしているように釘を差してから、麗しくも大人しいクラウディスを一度見て、鎖をなぞり見つめては、出て行った。

クラウディスは上目でその背を追いつづけ、警備員の男を振り返ると既に立ちながらにして眠っていた……。

クラウディスはタカロスが呆れる気も分かる気がしたのだった。

そのままどさりと倒れ、グーグー眠り始めている。


 目覚めたのは午後の一時だった。生活リズムが悉く崩れそうだった。

そんな中で三時にあの激烈にまずい食事などを与えられ、残りの時間を過ごさせられてはたまらなかった。

だが、実際二時間すると女精神科医がやってきて、日中は起きている警備員を見てから機械の入ったボックスを置いた。

「食事の前に、今から脳波の測定と、血液をとらせてもらいます」

そう言うと彼女はてきぱきと仕度を始め、脳波を図るあの時別房で見たものとはまた違うタイプの測定器を取り付けていき、データを取ると、血液を取って行った。

「お疲れさま。さあ、食事よ」

そう言うと背後の警備員を振り向いた。

警備員は規定道りに足枷を嵌めさせ、口枷を外すと、片方だけ手枷を外した。

錠剤をガリガリと食べようとしたので女精神科医が止めて舐めさせた。

クラウディスはまずかろうが何だろうが、ジュースを飲みたがって呷った瞬間だった。

やはり吐き出して耐え難いまずさと苦さに気絶し損ねた。このまま気絶していた方がましだ。

「しっかりと栄養を取ってもらわなければ」

「こんなまずいもの……」

「良薬口に苦しだぜ坊や」

「じゃああんたが飲んでみろよ。一気に健康になっちまうんじゃねえのか?」

警備員は鼻に皺を寄せてから引いて行った。

また目の前のどろどろで緑色で味が味というカテゴリーでも何でも無い物を見た。

顔をフイッと反らし、それでもその目の前にまた出される……。クラウディスはそれを見て、手に取って、一気に飲むとヤバイのでちびちびと舐め始めたが耐え切れずに脱落した。

「これ以外のものは食べられないわ」

女精神科医は困りきって頬に手を当て、クラウディスは仕方無しに腹を決め、飲むことにした……。

飲み終わった頃には片手の枷に操り人形のように吊るされて半ば落ちていた。

歯を磨くように言われて終えるとまた拘束された。風呂は五時以降だと言われた。

五時はすぐに来た。

警備員が夕食の為に一時出て行き、クラウディスはまた一人にさせられた。

それまではずっと警備員が一人でずっとべらべら喋りつづけていた。たわいも無いような知識事だ。車の事だとか、海賊の事だとか、伝説の事だとか、そういうような雑学事でも暇つぶしになっていた。

風呂の時間だといわれたのに、放置プレーされていてクラウディスはずっと鉄扉を見つづけていた。

扉が開き、クラウディスは驚いてタカロスを見て俯いた。

タカロスは進むと、拘束されるクラウディスを見てから頬を包み、首を傾げ頬にキスを寄せた。

離れて行き、腰から鍵を外す。

口枷と手枷を外すと、クラウディスはがくりと地面に崩れた。咄嗟に支える。

「大丈夫か」

クラウディスは頷き、タカロスに引き起こされて足を踏み鳴らすと、足腰をしっかり立たせた。

手錠を嵌め、腰に拘束器具をつけると押して歩いて行かせた。

石に囲まれたシャワールームに入り、狭い中にシャワーが落ちる。

クラウディスは肩を抱き水を弾かせ石の壁に額を付け目を閉じた。

鉄の扉を背にタカロスは警備していて、シャワーの音がさらさらと監視穴から響く。

しばらくしてコルクが締められ、クラウディスが監視穴から目を覗かせた。

タカロスは振り返って驚き、上目のクラウディスの目を見てから鉄のドアを開け、タオルを持たせた。

クラウディスは体を拭き着替えてから、タカロスの背を見つめて髪を拭きつづけた。

タカロスはクラウディスの腕を引き壁に来させ、ドライヤーを手に黒髪を乾かし始めた。空気が動かない地下ではしっかり乾かさせなければ不衛生に繋がる。

クラウディスは乾かしてもらいながら真っ白の肌の頬を熱でピンク色にしていて、肩越しから見えるその顔立ちに、タカロスはドライヤーを下げ、抱き寄せたかったが顔をそらした。

「タカロス」

「……何だ」

「抱きついていいか?」

「………」

クラウディスは台に座る上半身を、背後に座るタカロスに向けてその胸部に頬を乗せ目を閉じた。

タカロスは黒髪を撫で、目を閉じた。

夕方の観測にきたエリザベスは足を止め、二人を見た。

タカロスがまるで小さな子供をあやすようにクラウディスの髪を撫でていて、その手にコードを巻きもたれるドライヤーが、どことなくエロティックに思えた。

クラウディスはしばらくして首に腕を回して肩に頬を乗せ、しっかりと抱きついた。

「失礼。いいかしら」

タカロスはエリザベスを見て顔を上げ、クラウディスは罰が悪くて体を咄嗟にタカロスから離した。

タカロスには妻子がいる事は分かっているし、この女精神科医と雰囲気が似合っているものを感じていたからだ。

「今から房に戻ってもらって、すぐに測定を開始するわ。さあ」

クラウディスは再び拘束され、タカロスに背を押され進んで行った。

エリザベスはその横を歩いて行き、一度タカロスを見上げた。タカロスはエリザベスを見て、彼女はおどけては、彼は口をつぐんで前を向き直り、歩いて行った。

戻ると再び同じ様に測定され、そして手枷で拘束された。

タカロスは口枷を嵌める前に、その唇に深くキスをしたくなったが、背後にはエリザベスがいた。彼女はボックスに機械を収めている。

「………」

手が止まり、クラウディスはタカロスを視線だけで見上げた。

もしこのまま、ここでクラウディスを連れ去られたら……。

そう、思う。それが自分には実行出来る。

エリザベスの気を反らさせ、あの警備員を気絶させ、この地下房から出てこれからの夜闇に紛れ、無人に近くなる場から、外へ……。

タカロスは口許を引き締め一度目を閉じては開き、クラウディスを見た。

「?」

クラウディスは白水色の眸を見上げ、首を傾げた。

実行出来る。

このままここにいさせれば、どうなるかなど分からない。辛い思いをさせたくもない。もしも、クラウディスが刑期を終えれば何をしでかすかも不明で、悪夢にうなされて、自分の分からない場で発狂し、いつかは取り留めもつか無い事になりでもしたら、一生彼を失う事になる。次は食い付かれた人間が死なないともいえない。

「じゃあ、あまり暴れないようにね」

エリザベスはそう言い、背後で立ち上がった。

タカロスは肩越しに見て、クラウディスはその横顔に、何かいつもと違うものを感じた。いつもの規律だとか、厳しさだとか、頑なな敬虔さだとか、そういった物が今にも薄皮を切り裂いてナイフの様に鋭く剥き出しになるかの様な……静かな態の中。

それは、とても魅惑に満ちた誘いに思えた。

≪ 脱獄 ≫という誘惑……。

タカロスと共にだ。

これから出所したってどうせ冷たい目でダイマ・ルジクに見られ、父は勘当して来ていつしか同性好きも知られるかもしれない。自分は確実に一度落ちて無情にも人まで殺して来た。何も、裁判で上げられたマフィアのドン一人とその要人二人のみなんかじゃ無い。シチリアの二年間で、多くの幹部や裏切り者達を暗殺し続けた。数さえわから無い程。何を思うでも無く。それを母は知らない。このまま、行き場の無いまま心も体も持て余すよりも……、タカロスと共に。

タカロスは警備員だ。受刑囚とは違う……実行出来る。

「………」

タカロスは鉄の扉から出て行ったエリザベスの背から、固唾を飲み向き直った。

愚かな事だ。分かっている。

クラウディスには彼を、息子がどんなになろうが待ちつづけている母親がいる。刑期を汚す事は、彼の純粋さを剥奪する事……。

タカロスは俯き目を閉じ、クラウディスはその頬に頬を寄せた。

「タカロス」

囁くような声が、彼を呼んだ。

甘く誘う様な声では無い。不安げな声だ。小さくて、今に消えそうな。

もし、クラウディスを連れてどこかで食い殺され様が、構わないのかもしれない。

このまま惑わされて魅了されて。

絶対的な規律を守り続けた全てが、徐々にクラウディスという存在で溶かされていくのだ。それが分かる。

禁欲すればする程、外れた時に欲望が溢れ出し、互いを求めてしまう相手が、同じになっただけ。自分は規律を。クラウディスは人肉を。

「………」

タカロスの手から、口枷が地面に落ちた。規律をしきつづけた手も、禁欲を制する枷も、自己という心の枷も……。

「タカロス」

「静かに」

タカロスはクラウディスの口許に指を一度当て、手枷に手をかけるか、躊躇した。

ここで腰からキーを抜き、そして拘束を解くために差し、回せば、後戻りする事など二度と無い。

自由になる……。

目を閉じ、開いた時には目許が鋭くなっていた。

腰のキーを取り、クラウディスの手首に嵌る手枷とこの刑務所を繋ぐ鎖に、手を掛けた。

キーイ……

「………」

「………」

タカロスは動きを止め、視野横に映った背の低いエルダを見た。

そのエルダの方にゆっくり顔を向け、エルダはタカロスを見上げて入り口の場所で足を止めていた。

エルダは軍の出だ。気配の消し方なんか心得ている。一切の音も立てずに。

「何をやって……?」

「………」

クラウディスはタカロスの腰元に指される拳銃に一瞬意識を飛ばし、それを手にしてベータに向ける事が出来ると思った。

だが、実際躊躇する。

ベータがどんなにタカロスのことを尊敬しているのかを、クラウディスはよく分かっていた。

「………」

自分の存在だ。

自分の存在がタカロスの全てを剥奪し様としているんだ。家族からも、後輩からも、仲間達からも、信望からも、あの地雷の現地の皆からも、全てを自分は奪う事ができるだろうか。そんなこと。

今まで奪って来た分でもう、充分だ。あのまま捕まる事も無くいれば、清算の時など一切迎える事無くいただろう。罪は曖昧にされるという甘い意識の中で。

「タカロス」

クラウディスはタカロスの目を見上げ、その白水色の眸が俯き瞼に閉ざされ、涙が一粒零れた。

「………」

クラウディスはそのタカロスを見て、耳元に囁いた。

「俺のためにありがとう。いいんだ。無謀な事考えてくれなくても。俺は刑期を真っ当する。正常になれるように、今の状況だって絶対に耐えてみせる。タカロス自身の心を奪う事なんか、絶対に出来ない」

視線が上がり、クラウディスの光を宿す眸を見つめて、タカロスは顔を押さえ肩を震わせ涙を落とした。

エルダは駆けつけてタカロスを見ると、口枷を拾って唇を噛んだ。

正直、エルダからはこうやって人に口枷なんか嵌めることは胸が悪かった。それでも規則だ。それは規則に固められる側の人間の何らかの方向を変えるためにある。いい方向へ向けるための。だからこの刑務所はあるのだ。

エルダは目許を戻したタカロスに口枷を持たせた。

「ターニャが立派ないい女に成長して行くこと、見つづけたいんだろ。海月だって居る」

エルダはそう言い、何度も頷くタカロスの手の甲を叩いた。

一度エルダはクラウディスの横顔を見てから、ここからは鉄扉から出て行った。

タカロスは一度息を吸い吐き、目を開き、クラウディスを見つめた。

「………」

「ごめん。また苦しいだろうが……」

「構わない」

クラウディスは背伸びをし、タカロスにキスを寄せてから視線で口枷を見た。

正直、愛し始めている相手に口枷を嵌める事は辛かった。それでも、やはり規則だ。

やぶるべきでない信条を規則に自分達は捧げ生きている。刑務所の意味を自己に自問し続け、答えはすてにあるのだ。

それは正常に刑期を全うさせる事だ。

クラウディスの美しい顔立ちの、全てを魅了してくる唇を鉄で覆い、鍵で封じた。

「少しの辛抱だ」

そう静かに言い、黒革のマスクを嵌めさせた。

タカロスは身を返して、颯爽と歩いて行った。

鉄扉が閉ざされ、石の通路に響く革靴の音が響き遠くなって行く。

クラウディスは目を閉じ、一瞬、プロポーズをされたような感覚だった一時に、落ち着かなくて胸を静かに高鳴らせ続けた。微熱が冷める事も無く。即刻、炎に奪われそうなほど体は火照りそうだった。

これで良かったんだ。ベータが何ごとかの気紛れで駆けつけてくれて。

乗り切るべきものは、乗り切ることができる。


 最終日にきたのは、前日に状況を見に来たエルダだった。

エルダは通路でいつも警備をしている時の様に、しっかり立って警備をしていた。

クラウディスは歳が近いベータの目深く株って全く目許が見え無い顔を見ていて、寝てるんじゃないかと思った。

精神力は強いわけだから、爆弾の上ででも寝そうな勢いだ。どんと構えていてどこでも寝てそうだった。きっと自分達の最高司令官の挨拶の場でも寝ている手だろう。

だがエルダは寝ていなかった。相手は完全に拘束されているし、喋らないし、比較的楽な監視だった。

仕事中は私語厳禁なので、ずっと口を結んでいた。

だが、昨日の様子があって心配だった。ずっとタカロスを見て来たが、昨日はまさか思いもよらなかった事になりかけ、それを思いとどまってくれて何よりだ。

タカロスは本気で真面目だから、心に余り余裕や遊びが無いんだ。あんなに思いつめていたなんて……。

日常と違う仕事だったので、一日は早く感じてもう≪ 三時の食事 ≫だというものをエリザベスが持って来た。

エルダは凄い顔をし、その囲碁ゲームとかの白いほうと、緑色の硝子の筒を見た。

「おい、おいお前、石っころと硝子の塊がこの三日間の主食か……」

「ふ、ええ? 石と硝子? これは錠剤と緑の飲み物よ」

そうエリザベスがグラスを揺らすと、ソレがネトリ……と、動いた……。

「………、む、むり~い」

エルダはそう言い、青い顔の受刑囚3062番を見た。

このそこらへんの緑色のプラスティックだとか、黒いはがしたペンキだとか、そういうのを溶かして突っ込んだだけとしか思えない飲み物を見て、エルダは凄い顔でクラウディスを見て、クラウディスはどうにか口の中に錠剤をいつかせることを長引かせていた。青ざめる横目でその緑色の液体を見ていて、口許を動かしている。

臭ってくる臭いまで臭い。

だがそれは、正真正銘ミキサーに掛けた白米と、麦と、東洋の黒米、赤米、玄米、ダイズ納豆、青汁、ケーナ、クロロフィル、ピーマン、ほうれん草、コラーゲン、ヨーグルト、ビタミン、アミノ酸、トマト、人参、卵黄、それらが混ぜられた栄養ジュースに他ならなかった。

えにも言われないこのありえないまずさは一口舌につけることすらままならず、二度と味わいたくも無い代物で、やばかった。

クラウディスはそのロンググラスを見下ろし、唇がぷるぷるぷるぷる震えていた。思い出しただけで吐きそうだ……。

嗅覚が唯でさえ鋭いエルダは臭い臭いに逃げていた。

だが、それと共に小さな銀の丸い半円の下から、何かがにおっているのだ……。

どうしてもクラウディスはそれを手に取ったはいいが、口に運ぶ事を躊躇していた。

だが、タカロスに自分は誓った。苦境を乗り切って見せるということをだ。

目をぎゅっと閉じ、それを半分まで飲み干してまずさに舌を突き出してごぼごぼ言い、涙目になってまずくてまずくてこのグラスで項を激打して気絶しようと思った。

エルダが半分も飲んだクラウディスにバチバチバチバチと拍手をしていて、うんうんうんうんと頷いていた。

続き、続きだと? 緑色の液体を震える手で持ち続けていて、目許が震えた。

だが、その彼の鼻腔に、芳しい香りが……da dove viene questo rumore?ダ ドーヴェ ヴィエーネ クエスト オドーレ?この香りは何処から?

「………」

ザッ

クラウディスはその銀色のドーム型の半円を見て、ゴクリ、と、固唾をのんだ。

エリザベスが小首を傾げ笑顔で、かぱり、と、ちょっとだけ蓋を開けて、そっこくゆるやかに締めた。

「あの、あの女史」

クラウディスは見開いた目でそのいい香りを発する銀の半円から女精神科医を見て、彼女は女神のように微笑んだまま匂いに吊られてやってきたエルダが犬の様にその銀の半円をかいでいて、クラウディスは唾を飲み込み、じっとソレを見ていた。

エリザベスはそれを、開け、なんとも美味しそうな蕩ける焦げ目のチーズに絡まった艶めくトマトと湯気立つサラミが……!

クラウディスは目を輝かせてその旨味の成分が固まって出来上がった代物を見つめて、目が、サラミに注がれた……フイッ

顔をそらしても鼻腔にその芳しい香りが充満してくる。

トマトのリコピン酸とチーズの酸味と脂身からにじみ出るアミノ酸という旨味成分の化学的味覚への働き掛けが、あのこんがりと焼かれたチーズの言うに言われぬ視覚的美味しさと黄色と赤という食欲活性色に加えられるそれに見合った香り……。

また彼は脳裏に実物のようにちらつき続けるその湯気の立つチーズ焼きを、チラリと、だが大胆に真っ直ぐと見た。

「た、た、たべ、」

興奮気味で頬が真赤になっていて、食欲と空腹と、それに口の中のこの味を消したいという欲望と、それと胃からそれを欲して手が出るかの様に上がって来る同じものを求める胃液でも上がってきそうな勢いだった。

「食べる?」

クラウディスは瞬きを続け女精神科医を見て、またその小さな料理を見た……。

食べたい。あのプラスティックやペンキみたいな味の物以外の人としての旨さを心から欲する人間らしさの象徴の、この旨味成分の塊である食欲の源。だが、だが邪魔だサラミという名のあの肉……。

エリザベスは天使のような笑顔のまま「はーい」と皿を弧を描く様に近づけ離して行き、クラウディスはそそられてその香りの元を追うように首を伸ばしては、その先の女史の黒いセーターの綺麗に丸く開く肌とその上の一雫のダイヤの煌きを見て、頬を染めて俯いた。

「ああお前、苦手だっけな。じゃあ頂きまー」

バッ

「ぎゃあ! あつっ」ahi!アイ!

エルダは年上のおねえさんなエリザベスに泣きつきクラウディスは腹を決めてそれを食べていた。

もぐもぐ食べ続け、サラミの味がチーズとトマトの酸味に紛れてチーズの油分と共に酸味も溶け込んでいて旨かった……。

「良かったわ。食べてくれて」

クラウディスは目許を赤くしながら嬉しそうに輝く笑顔の女精神科医を見て、ごくりと飲み込んだ。


 牢屋に戻って来たクラウディスは、絶対に肉料理を食べるようにと言われて解放されていた。

肉料理というものは、肉らしい肉料理以外にも探せばあるというものらしく、そこから入門しなさいというのだ。お肉入門だ。

そして、できるだけ友人達とべたべたしない事と、無欲な部屋でいるのでは無く、何かしら集中して没頭できるものを一つでも部屋に置いておく事と、余り意識して男を見ない事、肉系を食べた後は野菜をたくさん食べる事、どうしても何か欲求が出たら、人の肌の香りから出る酸味に変るオレンジ系のエッセンスオイルを嗅いで抑える事。それを進められた。オレンジが逆効果ならと、ミントも勧められた。

どうしても野菜や白味の魚介類だけでは、赤の食物である緑黄色野菜や肉を飢餓的に欲するものだ。

四人が揃っていた。

「じゃあビーフジャーキー」

「ぎゃああああ!!!!」

クラウディスは卒倒し、倒れた。

気を確かに持たされて他の物が出された。

「コンビーフとかは?」

「逆効果だろ!」

横でクラウディスがふらふら倒れ、目を回した。

「おい起きろ! ベーコンなんてどうだ」

クラウディスは口を抑えて青くなった。

「パンツェッタは?」

首をふるふる振り、肩を固めた。

「じゃあまんじゅうに見える中身は豚肉の蒸しパン」

「に、肉……」

「気絶しちまった……」

セリとセレとデラとゾラは顔を見合わせ、肉の加工製品の数々を見てからクラウディスの目を回す顔を見た。

飴玉を鼻先に近づけ、クラウディスがぱくりと食べて正気を取り戻した。

「アル」

「あ……」

「徐々に慣れてけばいいんだって。気長に行こうぜ」chi(である人、誰) va(voiあなたが) piano va sano(健康な、丸ごと) e va lontano(遠い)キ ヴァ ピアーノ ヴァ サーノ エ ヴァ ロンターノ

「ありがとうな協力してくれて」

「何言ってんだよ。この期間乗り切る仲間だろ」l'unione fa(前に) la forza(力),ルニオーネ ファ ラ フォルツァ、chi trova (?trovare見つける会う、~が~だと思う)un amico travo un tesoro(宝、大切な物),キ トローヴァ ウナミーコ

トローヴァ ウン ッテゾーロ

クラウディスは白い顔のまま微笑んで、頷いた。

リンにも礼を言いに行く事にする。あいつは何かと、やっぱり流れ者として大変な中共に生きて来ただろうラビの事もあってか、いつでも野菜とかしか食べない自分に、肉を食え、と心配してきては自分がたくさん腹に詰め込みつづけていた。

「俺行って来る」

「おう」

四人は背を見て手を振り、クラウディスは歩いて行った。

確かに、肉を避けているとその食欲の壁は徐々に皮のように薄くなり、最後には儚いシャボン玉のように割れてしまうのだ……。

無色に努める自分とは対照的に、過度に色とりどりの牢屋に入って行った。

「ようリン」

「おうおかえりー」ah,eccoti,アー、エッコティ

「飯食いに行こうぜ」

リンドガーは口端を上げ、ひょろりと立ち上がってから牢屋を出た。

今に、こいつもいい奴だからあの四人ともやってけるだろう。元々自由奔放で一人でバボバボ騒いでたゾラも加わり始めたのだから。

ん? そういえば。何であのベータの奴が、自分が海月だとこのミーハー男に呼ばれている事を知っていたんだ? と、思った……。


 エリザベスは胸を高鳴らせ、ヒールの足を止めてノブから手を離した。

ジャケット姿のオッドーの背がバールのカウンターに座り、オーナーと話してはウィスキーのグラスを回している。

横にはジョニスマンがいて、彼はビールをあおっていた。筋肉質のジョニスマンはいつものようにランニングと水兵パンツ姿だ。

エリザベスは夜の道路を見渡しては、他のバールへ向かう事を考えた。

オッドーは会話の合間に、あの渋い声で一節をレコードにあわせ歌っては笑い、ジョニスマンとオーナーと話していた。

彼女の焦げ茶アンゴラの丸襟セーターと、腰を赤の細いベルトで締め、黒のスカートが膝まで伸びてはストッキングの綺麗な足が黒のハイヒールにまで伸びている。

一粒の小さなガーネットのネクレスが、金の繊細なチェーンに吊るされて上品なコートから覗いていて、彼女の縦巻きロールの黒髪が囲う白の頬も、深みのある赤の鋭いジュールも、品がある中でも女性らしいはじらいを持ち瞼を伏せさせた。

オーナーが彼女に気付いたが、声を掛ける前にエリザベスは微笑み、引いて行こうとした物のヒールの足を店内へ進めさせた。

ジョニスマンが気付いて笑顔を彼女に向け手を振り、彼女は微笑んだ。

オッドーが体を向け背後に来たエリザベスを見ると、彼女はオーナーにマティーニを注文してから、オッドーの肩に沿えた手を離しては、彼の横のスツールに腰を滑らせ脚を揃えた。

「お仕事お疲れさまお二人さん」

「ああ。エリザベスも」

「ええ」

オッドーは口端を上げ一度上目で見ると、エリザベスは微笑んでからマティーニをつくるオーナーを見た。

黄金の光が一箇所で光っていて、グラスやオーナーの背を照らしている。

暗褐色の闇の広がる店内は落ち着き払っていて、ジョニスマンは立ち上がってレコードを変えに行っていた。

ふとオッドーの肩から伸びるベルベットジャケットの腕を見て、頬を寄せたくなったものの目を閉ざしてから微笑み開き、綺麗に置かれる赤のマニキュアの白い指先を見つめた。

赤の細いバンドの金時計に、かすかに彼女の顔が小さく写っている。

ジョニスマンは向き直り、オッドーとエリザベスの背を見てから首を傾げ、手に持つビールのピッチャーをあおりながら、木のテーブルに腰をつけた。なにやらお似合いだ。

「よ。ご両人。俺は邪魔しちまったら悪いから他所に移るぜ」

そう二人の肩に手を掛け言うと、オッドーが驚いてジョニスマンの額を手の甲でゴツッと叩いた。

「いいから大人しく座れ。おごってやらねえぞ」

ジョニスマンはニッと笑い、横に戻ってから頬杖を付いてエリザベスを見た。

「先生。俺はいつでも独身で空いてるぜ」

「フフ。ありがとう」

そうマティーニのグラスを持ち小さく掲げて彼女は言い、オッドーも笑って首をやれやれ振りグラスに口をつけた。

「もう腕は大丈夫なの?」

「ああ。あの時ほど喫煙の生命に影響する有り難味を逆手にとって喜んだことはねえ」

「確かに人肉嗜好者は喫煙する人間の肉は嫌いらしいわ」

肉片が欠けたのだから全く、とんだガキだ。皮膚はグリセリンで覆われていて治るのだが。

「命からがら抜け出して何よりだったわ」

「そうだな。仕事の話は無しにしとこうや。俺等はもうなんともねえんだ」

「そうね。良かった」

ジョニすマンがしかもピッチャーで追加し、今度はグラスに注いで飲み始めた。

かすかに首筋から立ち昇る高級感ある香りに、オッドーは白のなだらかな首筋と、浮く髪の質感と、細い顎のルージュを横目で見つめた。

目を反らし、グラスを傾け黄金の液体と透明で滑らかな氷を見つめた。

「あ。この二番目の曲好きよ。歌ってよ。お二人さん」リクエストしたいなvorrei(要望、してほしい) fare(する)un arichiestaヴァッレイ ファーレ ウナ リキエスタ

スツールを回転させエリザベスが言い、今は歌詞無しで演奏されるブルースをお願いした。

歌が好きなオッドーは口端を上げ微笑み、カウンターに同じ様に背を向け肘を掛け、グラスを回しながら歌い始めた。

エリザベスが微笑んで目を閉じ聞き、ゆったり眸を開くとホールに出ては、ステップを軽快に踏み始めた。ジョニすマンも踊りだしながら声を張り上げ歌い、笑い声が響いては、オーナーもオッドーのからし声の渋く軽快な歌声にあわせ、軽快にグラスを布巾で磨いた。


 オッドーは口を引きつらせて飛び起き、その目覚め時に手に取った受話器から聴こえる妻の声に、横をざっと見た。

エリザベスは美しい顔で眠っていて、オッドーは片足を立て辺りを見回してはその清潔感と品の溢れる白いベッドルームから出るために、受話器を小耳に挟んではタオルを巻き、静かに出て行った。

「本当に酷いのよ。まさか子供が出来た瞬間に別れを切り出すだなんて……」そんな事あり得る?come e possibile?コーメ エ ポッシービレ(伊

妻は泣いていた。浮気相手との子供が出来た折にその医者に捨てられ泣いている。

「あなたが少しは止めてくれれば良かったのよ! 淋しさに耐えられると思って? なのにあなたは何の気兼ね無しに浮気を止めもせずにイタリアの地でお仕事だものね!」

オッドーは溜息を抑え目元を抑えては、勝手なことを言う妻の言い分に、怒鳴り叫ばない内に項に強く手を掛けた。

「もう耐えられないわ! 彼にも嫌われて、あなたとの別居だってもう我慢ならない。離婚よ!」

「ふざけるなよ」non fare lo stupidoノン ファーレ ロ ストゥービド(伊

「まあ! なんて事いうの?」

妻が泣き出し、オッドーは溜息を吐き出して謝った。

「悪かった。きつい言い方をして」

「あたしもイタリアに行くわ。言葉なんてなんだかよく分からないけどもう一人なんて嫌よ。部屋を用意しておいて頂戴。海の見えるアパートメントがいいわ! そうすれば、あなただって寮なんかで過ごさずに一緒に生活出来るじゃない。そうでしょ? そうでしょ? この傷ついた心を癒して欲しいのよ。それが出来るのはあなただけだもの」

昔から変らずに我が強いというか、戦地でもこのガの強さでドンドン患者を元気付けていたのだが、私生活の我が侭に至る部分になると、ここまで勝手な言い分を言いつづけるとも思わなかった。それでも、あの可愛らしさには実際目の前にすれば、負けてしまう。

「お願いね!」

妻は切り、オッドーは受話器を耳から放して見下ろし、溜息をついた。

背後でドアが静かに開き、白シルクのガウンを着たエリザベスがオッドーを見ては、綺麗な手指の先の赤のマニキュアが綺麗にドアに添えられていた。

「妻がイタリアに来るかもしれねえ。また気紛れ起こして明日にでも意見変えるかもしれねえがな」

エリザベスは小さく微笑み、何度か頷いた。

「仲を取り持つ事ができるなら、良かった」

「………。エリザベス」

オッドーは体を向け、エリザベスは心が揺らぐ前にドアを締めようとしたものの、そのドアに手を掛けオッドーが止め、エリザベスの背を見た。

「俺にはお前に自我を抑えるななんてことは言えねえが、………」

オッドーは視線を反らし、エリザベスは向き直って彼を見上げると微笑み、頬を一度撫でてから寝室へ引いて行った。

オッドーはその背を見て、枠に背をつけてから、ドアを締めキッチンの方へ向かいコーヒーを淹れに向かった。

キッチンのドアを開け、タカロスの部屋に貸し出してる分の海月が減って悠々と泳いでいる。

ドリップしている最中は椅子に腰掛け、ぼうっと眺めていた。海月の水槽先に緑色の目が浮いては、明るいキッチンの中を海月は舞っている。

コーヒーを入れると寝室へ行き、エリザベスは横のシャワールームでシャワーを浴びている様だった。

飲みながら待ち、彼女が出て来ると彼女は微笑んで「どうぞ」と言った。

「ああ。コーヒー飲め」

「ありがとう」

ポットをさしてそう言うと、ソファーから立ち上がってシャワールームへ入って行った。

エリザベスは身支度を終えるとカップを持ちリビングへ向かい、朝のラジオを聴き始める。

オッドーは出て来ると服を身に纏い、カップに残りのコーヒーを注ぎそれをもってリビングへ来た。

ラジオからモーニングクラシックが流れ、ゆったりした時間を紡いでいた。

エリザベスは髪をまとめ、ドアが開かれ開放されたキッチンで朝食を作っている。オッドーは調度品に腰をつけカップを傾け、視線の先の写真縦を見ていた。

ロザリオが置かれ、エリザベスの母親が笑ってカメラに向かってピースしている。気丈そうな顔立ちで、活動し易い服を着ては、化粧気の無い日に焼ける顔をしている。黒髪をうなじでまとめてはシニョンにしていて、背に小さなエリザベスをおぶっていた。

まだ若く今のがっしりした体格では無く体の線も細い教授がその横で軍服を着て葉巻をくわえ微笑み、背の低い妻の肩を抱え、エリザベスはカメラから気をそらして他所を見ていた。教授の腕には軍の専属医師としての赤十字のワッペンがついている。

エリザベスが大切にしている写真だ。

その横に、薔薇の花とマリア像が静かに置かれていた。鶴だという話の折り紙も三つ、青、赤、小さなピンクで置かれている。

もう少し、自分が待っていればエリザベスは振り向いてくれたのだ。

孤独を生きているエリザベスを、母親は女として幸せになってもらいたいはずだ。今すぐからでも。エリザベスの母親の笑顔を見てそう思う……。

スクランブルエッグの香りが立ち昇ってきて、オッドーは振り返った。

丁度トーストが焼きあがり、新鮮なサラダが白いキッチン空間に咲くように鮮やかに置かれた。

「牛乳にする? 絞ったオレンジジュースもあるんだけれど」

「ジュースでいい」

「分かったわ」

白のタイルで出来上がったテーブルの上に、ランチョンマットが置かれ、朝食が並べられてはその中心に白の薔薇が、透明なカップグラスの中に咲いていた。

白の光が彼女の頬に反射していて、眸にも跳ね返っている。朝のエリザベスは尚のこと綺麗だ。

オッドーはフォークを持ち見ていて、エリザベスは視線を上げ微笑んでから、オッドーも口端を上げ白い皿の上のスクランブルエッグを口に運んだ。

海月がふわふわと踊っている。


 金曜日の今日は作業が大詰めを迎える。

刑務所からの出荷が金曜日だからだ。

クラウディスはこの所の事でてきぱきと作業をこなしていて、来週から車種のモデルチェンジする話も聴いていたので仕事終わりには、ファイルにあわせてコンピュータのプログラム設定を新しいものに変えなければならなかった。それを監督に確認してもらい完了をもらえなければ仕事は早く終われない。

女子自由監房での作業の裁縫で出る余り布がボロとしてこちらの作業時に使われるので、できるだけ選べないボロは今、花柄だった……。まあ、仕方ないのだが……。白がいい。

女子監房の作業では女達が時に好き勝手でもするのか、ミシンでハートだとか名前を余り布で縫ってあったり、チャコットで好きな歌詞を書いてあったり、油性マジックで落書きされていたりだ。チャコットで落書きされてあるのなどは使えないので、何度か女子自由監房の警備員が作業中に落書きは止めろと注意しているらしい。

朝礼でも副所長がその事についてチャコットつきは使用しないように呼びかけてきていて、その事についてはこちら側も注意を促していますと言って来ていた。

時々、油性マジックである一定の受刑囚に向けた愛のメッセージがハートの枠の中にかかれて入っていて、それを見てクラウディスは一番初めにミーハー男に声を掛けたのだった。下手すぎてなんて書いてあるのか全く分からなかったのだが、一応受刑囚番号と見られる数字の羅列が布切れの四端に記されていて、ラブレターだとも結びつかなかったのだが一応は渡してみたのが始まりだ。まさかそれが、女から恋人に当てた恋文だともその時は気付かなかった。

他にも何人か名指しで女からの愛のメッセージが書かれた布が紛れ込んでいるが、全ての受刑囚の名前を知るわけでも無いので、そうは渡せることは無い。

二ヶ月ごとに会う男女受刑囚の集まりで親交を深めるのだろう。

「よう。次に来る有名人、知ってるか?」

「さあ」

前の作業場のセリが顔を向けてクラウディスに言い、クラウディスは首を振った。

レーンを挟んだ向こう側のゾラが言った。

「男だ男」

「男?」

クラウディスが嬉しそうにゾラを見て、ゾラは口笛を吹きながら作業していた。

「手品師とコメディアンのセットらしいぜ」

「へー。手品師って大体は顔いいよな」

「コメディアンとセットで呼ばれてるんだぜ。どうかなあ」

「前座だろ。コメディアン」

「わからねえぞんな事」

「手品か。全く見てねえな」

「子供騙しだろ? どうせ」

「手品を馬鹿にするな」

いきなり後ろのセレがセリに言い、カンカンに怒って顔を戻した。

「なんだ。お前手品好きなのか?」

というか、元魔術師だったのだが。

「え? まあ、普通に……」

「よくわからねえ奴だなあ」

ゾラがそう言い、セレは真っ白の歯を剥いてから作業を続けた。

「お笑いなんかとセットにするなんて」

「コメディアンを馬鹿にするな!」

「わけわからねえ事で切れるなよアル……」


 セレは目を丸くし、口を開けて瞬きした。

一切、話など聴いてなどいなかった。

姉が、姉が、いる。

ステージの上、目許に銀ラインストーンで縁取りされた黒ベルベットのアイマスクを嵌め、ピンク色の唇で微笑んで鳩を飛び出させた。

レオタード上に赤と黒の袖なしタキシードを着て、燕尾を広げ、兎を円卓上に出したり、カードを舞わせたり、そういう、本当に子供や老人ホームで見せるような巡業用のネタを見せていて、普段の華麗な衣装も難易度の高い芸術の域に達する術も仕掛けるわけでもなく、それでも女子監房の女達は兎が出たり、鳩が出たり、色とりどりのブランドものスカーフがカードに変ったりするのをはしゃいで見ていた。

いきなり指名制になり、しかもわざと挑発的に姉がセレを指名して来た……。

セレはがっくりうな垂れ、なんだか妙にノリノリのアルにせかされながら挙っていかされた。アルは見かけによらず、やはりなんと言っても時々子供っぽいところがある。

相当背の高いコメディアンの男は鷹揚に招き寄せてきては、まさか自分にこの人の胴体ほどあるカードを一枚引かせてそのカードを当て様などという手品をさせようとでも言うのだろうか。

案の定、コメディアンの助手が声を高らかに、セレにこの五枚の中からカードを一枚選んでくれと言う。

自分が別に子供騙しの芸を馬鹿にするのでもないのだが、姉の笑顔の顔を見ると、仕方なしに一枚引いた。

それを皆に見せて覚えさせるのだ。そして手品師に見え無いようにコメディアンがそれを掲げ、セレにウインクしてくる。

こういう時は決まって、わくわくした顔をしなければならないので、セレは思いっきりうっれしそうな顔をした。

姉の肩にリスが駆け上り、腕を広げた姉の左胸ポケットから、そのリスが何かを出した。

小さいカードだ。

姉がそれを掲げてからコメディアンの男がそれに大型のレンズを持って来て当てると……。

「わー!!」

アルが大喜びで手をバチバチ叩いて白黒のバネ人形みたいにビョンビョン跳ね回った。

大きなカードと同じカードというわけだ。

リスにキスをして姉は微笑み肩にのせ、セレに微笑んだ。

一瞬まさか脱獄マジックでも繰り広げるんじゃないだろうなと本気で疑うような笑顔に思えた。

「今日のところはあんたを驚かせに来たのよ」

そうニッと笑って来て、セレは安心しておいた。

「今日のところは?」

「あたし彼と結婚して一座やめて巡業してるのー!」

セレがすっごい顔をしてコメディアンを見て、そう小声で言った姉を見て、愕然としてコメディアンを見た。

「あ。第二の驚きもういっちゃった。でも、あたしもね、ふふふ、一から頑張るから!」

「………」

そんな、一座から離れて生活出来ることじゃない大変なことだ。巡業なんて、しかも小さなネタで夫婦で?

でも、姉の笑顔を見てセレは、笑った。幸せそうだったからだ。

「おめでとう!」

踏み出した彼女が。頑張るという彼女が。

姉はセレの両頬にキスを寄せてから声を張り上げた。

「ごきょうりょくありがとうございまーす!」

精一杯のセレへのエールにも思えた。白鳩がばさばさ飛んでいき、青空に映えた。

弟により尊敬する父を炎の中に欠いてからは、姉自身も自己を責めつづけていた筈だからだ。


 「今回の追加公演は、今期中の第二段という事になります。我々側が発表していない持ち曲を使用し行なわれる。今回は優勝を掛けた大会となるので、心して望みましょう」

副所長がそう言い、洒落た眼鏡をそっと外すと書斎机にことんと置いた。

その手を台上で組み、ピアニストと、次にクラウディスを交互に見た。

「発売されたCDとビデオはその売上金をボランティアに回される事にくわえ、今回出る賞金の一部が、あなた方に手渡されます。おおよそ、三割を二人で分けていただく事になるでしょう。それで0012番は新しい楽器をそろえるのも良し、3062番はお世話になった親御さんに何か贈り物をあつらえるも良し、その使用方法はこちらに提示していただく事になります。今回参加される組は八組。再び顔を付き合わせる他刑務所の人間もいることでしょうが、くれぐれも衝突の無いように」

クラウディスの顔を見てから、続けた。

「今回、大きなテーマは声楽です。楽器を操っていたかれ等も歌もなかなかな腕を兼ね備えた者ばかりなので、一層の事前回にくわえ力を入れることでしょう。そこで、我々も声楽に関するコーラス隊を製作する事になりました。前回のコンクールを体験しているあなたに加え、男子自由監房から四名、女史自由監房から五名を選抜します。なお、その五名中一人は既に前回から決定しているので、あの劇的な音痴を治せば美声に成り代わる事でしょう」

またあの狂った咆哮を聞かされるのかと、クラウディスもピアニストも口許を引きつらせた。それに、あの前回難癖をつけてきたフランス人の受刑囚も来るのだろうか。また難癖つけてきたら面倒だ。今回はそれこそ優勝が掛かっていて、相手は何度も優勝しているし、真っ向勝負の声楽からと来る。

クラウディス達は引いていき、ピアニストが地下へ連れて行かれ、クラウディスは再び自由監房側へ引かれて行った。


 ラヴィレイは副所長室で飛び跳ねていて警備員に取り押さえられた。

「本当?! おばさん! じゃあちょっと外に出られるんだ!」

ラヴィレイは、じゃあ、どんなお洒落をして行こう、どんなメイクをして行こう、どの服を着て、どの香水を……どの髪型? どのメイク? そう頭がくるくる回転し始めていた。

「あと四人だけなんて酷い! 自由監房には色気で出来上がった猫みたいな人達がたくさんいるんだから!」

「人員の変更は構いませんが、十人以内に定めます」

「それって、あたしが声掛けしてもいいの?」

「ええ。楽しむ事が主なのでね」

「分かったわおばさん! まかせてよ!」

「くれぐれも、秩序を崩さないよう」

「分かってるわよ! あたしを見てれば分かるでしょ! じゃあね~!」

彼女を見るからにそれは無理そうな事は分かっているのだが。

警備員に引かれてラヴィレイは歩いていった。

ラヴィレイが警備員のメルザに話し掛ける。

「ねえ。実は声楽にならって思ってる人達があと六人いるの。あたしと、エファ、ネル、サダ、ヘザ、テテ、ラザの六人。みんな綺麗で甘くてセクシーで大人でシャープで素敵でしょ?」

「そうね」

「絶対に決まり! ああドキドキしちゃう!」

ラヴィレイの話が終ることは無く、ずっと歩きながらも話しつづけていた。

「分かっていると思うけれど、他の者達へは言えない事だわ」

「そうよね。嫉妬されちゃうもの。でもあまーいお菓子とか可愛いケーキとかおみやげで買って行ってあげたいな~! パリって可愛いよね! あたし行った事無いから楽しみ。あいつも一緒なら良かったのに……」

また極度にラヴィレイが沈み始めたために、メルザは様子を窺った。以前までの二年間はずっと壁際のメルザの所に来て寂しくてずっと彼女に彼氏の話をし続けていた。それでも彼氏の声がずっと塀の向こうから聴こえないためにめそめそと泣いていた。そんな彼女の為に、手紙を書いてみなさいと言って文字の本を与えてあげたのがメルザで、彼女は辞書や本を見て独学で頑張って字が書けるようになったのだ。

作業の時以外は殆どが眠っているか、メルザの所にいたが、一年前から彼氏の笑い声を聞くようになると塀にかじりついてそれを聴きつづけていた。

そしてどれぐらいかに一度、中央のグラウンド端にある囲いの中で会える時は、マシンガンの如く喋り続けていた。

彼女は自由監房へ歩いて行くと、その派手さの中に溶け込んでいった。


 「ねえこの生地超綺麗~」

サダが藤色地に銀で繊細な模様が入った薄手の生地を広げて叫んだ。

「これ可愛い~」

裏面がクリーム色で表が薄ピンクの生地を翻してテテが叫ぶ。

「これあたし!」

いち早くグレーと白の蛇柄と黒の皮をかき集めたエファだが他に取る者はいなかった。

「ねえ舞台上だしフェイクでもいいから白の毛皮無いの? 紫持って来てよ」

ラザがそう言い、投げられた白のフェイクファーをラビとヘザが取り合いっこしていた。

「すっごく薄手でチョコレートブラウンの生地があるけど」

ヘザがファーから手を離しそれに飛びついた。

「金の生地は無いの? ホワイトピンクもあわせたいわ」

「丁度、透明な生地に金の模様が入ったものがあるわよ」

「最高!」

ネルは猫の様にごそごそと箱の中を探っていて、

桃色とクリーム色と白色の長い長いコーンロウがついには箱の中に入って行った。そのまま全身も入って行った。

頭を出して見回し、モルフォ蝶の大きなスパンコールが光る青水色のヴェールを持つネルから、サダが目を光らせて取って行った。

「ねえ黒ビロードの細いリボンは無い?」

「ここに巻いてあるわよ。それに焦げ茶もあるわ」

「頂戴!」

「見てよ! スワロフスキが揃ってる!」

「それって本物?」

「値段見るからに高いわね」

「ちょっとは安くしてよ」

闇市のおばさんに言うと、計算機を弾いている。

「白シルクある? ねえ淡いピンクの薔薇の花とかつけたいわ! 白ファーのボンボンも! 金のアクセを光らせるの。蝶の形に織り込んで!」

「黒紫のビロード無い? それでワイドパンツつくりたいわ」

「あたしはこの宝石みたいなランジェリーを見せるわ! 断然そうよ! ストラップの背中にピンク色の石を縫い付けるの。それで、銀の糸で草木レースを背に巡らせて」

「ねえ期間は間に合う?」

「きゃあきゃあ作るの楽しみ!」

「髪に飾る金属、どれにする? 黒い真珠もあるじゃない! 銀の蔓とあわせればいいし、この孔雀の羽根もくくりつけて、それで甲冑みたいにして……」

まるでエファが女らしい女の様にはしゃいでいた。

「馬とか連れてこれる?」

「でも会場が駄目だったらどうするのよ」

「馬皮をつけて、金の甲冑かぶれば代用利くよ」

「誰がやるのよ」

「………」

「………」

「………」

彼女達は騒ぎながら頭の中であれこれ構想して行った。


 男子監房から集められた人員は、結局がクラウディス以外には男二人だった。

食堂には、ドイツ人警備員、その相棒警備員、背を向け座るクラウディス、それにあと二人がいた。

クラウディスが話した事も無い男、7654番の男で、スパニッシュだ。黒髪をボーズにして顎髭が尖り、細い鼻の上の両眼は鳶色で大きい。長身で軍人出だという二十八の男だ。

「断る」

いつでも繋ぎを腰で留め履いていて、上にランニングを着ているのだが、そのしなやかな肉体は大体はベッドに転がり腕を枕に眠っていた。顔に雑誌を載せて片腕をベッドから落として。二階南側監房の中心、猫の監房の隣に入っている。

もう一人は、一階監房に入る男で、いわゆる巨漢だった。巨漢の体にそのサイズのつなぎを着込んでいるので、レモンにしか見えなかった。

そいつはノリノリだった。太ってればテノールのような声が出るわけでも無いと思うんだが……。クラウディスは前に向き直り、現場監督になるオッドーはファイルをめくっていた。

巨漢1999番はロードライダーで、バイクで強盗後、それで警官を十人轢き殺し、路上のバーに立てこもった奴だと記されている。長いウェーブかかる髪をまとめていて剣呑とした丸い目で見て来ている。余罪で、婦女暴行歴が過去二回もあった。

「駄目だ。お前は連れてはいけない」

巨漢は憮然とし、猫を抱え撫でながら引いていった。

「お前達は二人で行なえ」

「俺は断る」

「賞金が掛かってる。それが当れば、自由監房内の二箇所に電気ストーブを取り付」

「頑張ろうぜホモ」

「ホモじゃねえ!」

クラウディスはカンカンにおこり、ふんっと顔を背けた。

「もう一人ぐらい誰かいないのかよ」

オッドーはファイルを捲って行き、元ダンサーを見つけた。男ストリップダンサーで、ショーで肉体的に踊りながらあわせて歌っていたダンスシンガー経歴だ。

横の相棒の警備員に首をしゃくり、連れてこさせる。

しばらくすると、食堂に面倒臭そうに男が歩いて来た。椅子に座らされ、7654番が「よう」とスパニッシュでその男に言った。同じくスペイン人の男で、4567番だ。

その元ストリッパーはサラサラの髪を金髪にしていて、人より白い肌の目の下にあるホクロが色気が有る。体格はスタイリッシュに鍛えられた7654番に似ていて、背の高さも同じ位だ。7654番はよく暇を見ればグランドでバスケをしているし、よく陽に焼けていた。

「何の騒ぎだこれは」

「冬の電気ストーブが掛かった大指令だ」

7654番がそう言った。

「何だと? 本気か」

4567番はドイツ人警備員にわざわざ背を向け座っている3062番の背を見た。

「三人で何やるつもりだ」

「歌らしい」

「じゃあな」

「電気ストーブが欲しくねえのかお前。あの冬の寒さをまた今年も耐え忍ぶつもりか。南伊だろうが石で出来たこの味気ねえ殺風景な施設の寒さを思い出せ。俺は御免だね。どうやらお前、話じゃあ歌は好きらしいじゃねえか」

「俺は女客を目の前にしなけりゃ、口を滑らせねえのさ」

「7654番には声楽の知識は無いようだが、軍の試練でも肺活量が鍛えられたようだな」

7654番は膝に足首を乗せ頬杖を着き、大きな鳶色の目を憮然とさせた。

「断る」

「おい馬鹿が。頷いておけ。電気ストーブが掛かってんだぞ」

「畜生……」

「はいはいはいはいはいはいはいはい!」

「馬鹿押すなよ! 俺俺俺俺俺俺俺俺!」

「いって!」

煩いので入り口を見ると、大人数が倒れこんでどしどし音が鳴った。オッドーは腕を掲げ追い払い、警備員達に連れて行かせた。

「俺歌には自信があるんだって!」

「お前なんか歌ってどうなんだよ! 俺の方が上手いに決まって」

「おい俺を使え! 者共ぎゃふんと言わして」

「おい俺に弾き語りさせたら一番だ!」

「お前はベースで誰かでもぶん殴ってろ! 俺の歌声を聴け!」

「あああああ~~」

「ひゃっほーう!」

オッドーは無視して入り口に群がる者共を追い払わせると牢屋に閉じ込めさせるように言った。

警備員達が刑務所を一斉に出なければならない時は、全員各々の牢屋を施錠され、食事も見回り警備員達が其々の牢屋の穴から与え、出ることは許されない。

大体は、死刑が執行された前後、墓地でファンファーレを演奏するために見張り警備員全員が刑務所を離れる時や、脱獄事件が起きたときは見回り警備員達が背中やケツを強烈に警棒でぶったたいてきて一気に牢屋に閉じ込めて来たり、それや見張り警備員達の吹奏楽イベントの時に閉じ込められる事になる。

三人分のファイルを見ては、その目を見ては言った。

「お歌ゴッコだろうが精々打ち込む事だ。お前等に刑務所暖気の命運は掛かっている」

「押忍!」

と、いう事は少なくとも警備員達の暖気にも関る事にも繋がった。特に、糞寒い冬場のグラウンド前は最悪で、アルデなどはNASAの特殊なシャツを着ているが高い物なのでアルデとメルザしか着用できない。

「今回、オリジナルの曲で挑ませずに既製品の曲で挑む。少しでもハンデになる様な危険は冒さない。リストは三曲。一曲目は『オペラ座の怪人』。低めで肺活量が有る7654番に歌ってもらう。二曲目は」

「ま、ヘイヘイヘイヘイヘイ! ハイリスクだな随分! 俺等をしごくつもりかよあんた!」

「そうだ」

「待てよ。てえと、女も出るのか?」

「………。二曲目は」

「じゃあやってやろうじゃねえか」

「二曲目はショパンの映画『別れの曲』の歌詞がついたバージョンのエチュード、練習曲だ。パワフルで甘い声を持つ4567番を中心に歌ってもらう」

「任せろ。『Wait for you』でも甘く女を骨抜きにさせたからな」

「三曲目は」

「あんたは歌わねえのかよ」

クラウディスがそこで初めて口を挟み、肩越しにドイツ人警備員を見た。オッドーは無視して続けた。

「三曲目は」

「あんた声渋いんだし、渋い路線の路地裏ジャズとか歌えって」

「三きょ」

「あ! 洒落ててアダルトなのとか」

「さ……」

「それとか」

キュッ

「黙れ」

首を締められクラウディスは倒れた。

「三曲目は『グリーンスリーブス』を鈴声の3062番に歌ってもらう」

「おいショパンのエチュードの時だけでも良いからフェドーラ被って踊らせろよ。最高に渋く踊ってやる。おいディル。お前もターンとか教えてやる」

「脱ぐな」

「脱がねえ。金だされねえ場では脱がねえ」

「じゃあ俺が公然の面前で脱」

キュッ

クラウディスは倒れた。

「カセットと携帯ラジカセと歌詞カードを渡す。各自勝手に練習し」

「放任主義だなあんた……それで暖気を及ぼす機器が手に入れられるとでも思ってんのか! あんたは極寒のドイツから来て冬も耐えられるだろうがなあ、俺等みてえなスペイン出は慣れねえんだよ」

「この小僧もどう見ても北イタリア出だろうからな」

「俺の出身地だって石畳で酷い底冷えする場所だ。俺だって電気ストーブ欲しい!」

第一、ルジク屋敷は灰色の石と漆喰や斜めに入る木の梁で出来上がっていて、冬は相当の厚着をせずにはいられなかった。リビングと夫婦の部屋は、豪華で断熱構造にしてあったのだが。夏はジリジリと石は熱いし、毎回七月から八月には熱から逃げる様に避暑地に家族総出で向かった。

「仕方が無い。ストーブの為だ……」

ポン

肩を叩かれた相棒はオッドーを二度見して、オッドーはファイルと歌詞カード、カセットを渡し歩いていった。

「………」

相棒はその背を見てから、向き直り三人を見ては、カセットと歌詞カードを渡し、歩いていった。

「………」

三人は歌詞カードとカセットを持ち、出口側を見た。

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