牙と目
「ハクションッ!!!」
いきなりの事に受刑囚達は目元を引きつらせ口をわななかせ、グランドの番人ドイツ人見張り警備員を見上げ、口を引きつらせながらそそくさとグランドへ歩いて行った。
オッドーはキャップ影の目元を引きつらせ高い鼻の下に指を当てては、グランドの塀前に立つ見張り警備員、アルデが噴出しそうな顔で肩をぷるぷると震わせ横に俯き、オッドーは殺気のある伏せ気味の目でアルデを見ると、ライフルを担ぎなおした。
吹き抜けを飛び越え監房内に響き渡った馬鹿でかいくしゃみに、何事かと二階監房の見張り警備員ロイドが、対角線角にいる警備員に合図を送り、その見張り警備員はオッドーがなにやら男か女か妻にでも噂でもされてくしゃみをしたと断固決め付けで送ったので、ロイドは笑いをこらえて肩を震わせ斜めに俯き唇をプルプル振るわせた。
そんな状況をその見張り警備員は、ロイドの弟アルデに目で送り、アルデが更に俯いて唇までぷるぷる振るわせ始めたので、オッドーが目元をビキビキと引きつらせアルデはその殺気に口を噤み、背を伸ばしたのだった。
もしかしたらエリザベスが自分の噂でもしているのだろかとオッドーは思いながら青の空を見たが、んな筈も無かった。
タカロスのようにわざわざロシアから妻子が来るなんていう事は自分には無い。子供もいないために、ドイツに残る妻はその世話もせずに済んで私生活は好き放題だ。
軍の養成所で医務の仕事をしていた妻が、自分との結婚後、まさか妻自身と同じ様な医者の男と浮気をするなんて、相当切れそうになったのだが。
ロイドの阿呆は女でも紹介してやるとか適当な事を言ってきてばかりだ。
「?」
感触にオッドーは視線だけで光の差す足許を見た。
くしゃみをしたオッドーの足許に、刑務所の野良猫が擦り寄ってきてごろミャンと鳴いた。オッドーは動かないまま放って置き、猫は太陽で温まった革靴の上に寝ころがり始めていた。ごろごろと言っては丸い胴を上にじゃれている。
そのままの姿勢で柔らかい胴を反らし野良猫は眠り始めていた。
オッドーは放っておいた。だが、この猫と自分がまるで同じ様なものなんじゃないかと、自棄に自暴自棄な事が浮かび始める。妻も勝手に他の猫野郎に奪われていい思いをして、その泥棒猫に妻を取られて自分はこうやって遠い地で一人でいるのだ……。
オッドーは下らない考えをやめて監視を続けた。
猫はごろごろとしてはくーくー眠っていた。
そんなこんなで、猫が離れて行くと革靴も裾も毛塗れで目元を引きつらせた。
今日は何事もなく警備を終え、ファンファーレと共に自由監房の巨大な扉が閉門されると、くるっと踵を返し、監房からひいては、夕時に赤青紫に染まる建物から、グラウンドに出た。
刑務所内の建物も塀も海もその濃密な色に染まり、一番星が強く光っている。輝きを誇示していた。空は赤群青をどっしりとした風で地に落としていて、そして時が経ち青紫の空はコウノトリが羽根を広げている。悠々と飛んでいた。
影が黒く降りる中を相方と進んで行き、そして塔の黒い影が一瞬強烈に光っては望遠鏡が回転するライトで光り、また闇に落ちて行った。
面接用の建物へと入って行き、通路を通っていくつも厳重な扉を潜り、通路を進むと本館に入り、保管庫のある二階へ進む。
ライフルを収め、チェックをしてからロッカールームへ向かい、警備員服からようやく着替える。
着替えの最中、部屋着では無くジャケットに着替え、エリザベスに会いに行こうかと手を止めた。
「横顔が何か良からぬ事でも考えているなあんた」
「………」
ギロリと伏せ気味の目で横のロッカーのアルデを見て、また向き直って部屋着を着た。一様に、グレーのTシャツと軍用イージーパンツが彼等の部屋着だ。
ロッカーの中には妻の写真が可愛らしい顔で飾られていて、十字架も掛けられている。
何も妻に、慣れない地の言語も一切通じないようなイタリアに移り住めとは言わないが、年に一度のみドイツに帰る毎にそのまま引っ張ってイタリアまで連れて行きたくなる。
何だか、あのピアニスト野郎が作ったポーランド語の歌を聞いていて嫌になったものだ。
妻のために歌っても帰ってくるような性格でも無いことは分かっている。軍の時代から自我が強かった妻だ。
自室ではなくタカロスの部屋に入って行き、海月の水槽を見た。
エリザベスはまさかあの若造なんかにご執心なわけもないのだろうが、海月をくれてやっている。
背後でドアが開いて、部屋の本人では無く二十一歳という若さの警備員エルダが入って来てオッドーの背を見上げ、ドアを閉ざした。
「タカロスは?」
「さあな。まだ独房だろう」
エルダは頷きながら入って行き、今日はカマンベールチーズを持っていた。
「お前も変った野郎だな。見張り警備員のタカロスに懐いてやがるなんざ、お前の仲間共には一人もそんな奴等はいねえ」
「一緒にい易いんすよ。気使ってくれるし、兄貴分って感じで」
「あまり甘えすぎるんじゃねえぞ」
エルダはにっと笑い、割れていない部分のフローリングに座った。確かに、エルダは面会所の建物内のみの警備員で、その中で、通路、面会の個室、ドアの外、建物内の面会者側の監視、そのポイント毎にローテーションで分かれている。エルダは大体は通路で警備をしていた。時々、面会用の個室に入るのだが。
その為に、一切監房内の警備員達とは普段の関わりなど無い。それでも、自分達の仲間よりもエルダは見張り役警備員の彼等の所によくきていた。見回りの警備員達でさえ、彼等には近づく事も無く私生活さえ一切知らないというものを。ただ、特別監房内の鉄の番人、ニッカがヤバイ事は音からして警備員寮内の誰もが分かっていた……。
タカロスがドアを開けると、既に自室で宴会が始まっていた。
カマンベールチーズが苦手なアルデはそれには手をつけずにいる。ロイドは今日は夜警だ。
「お前、最近変ったなあ」
オッドーがそう言い、タカロスは海月に餌をやっていた顔をオッドーに向け、向き直った。明らかに攻め立ててくる目だった。
明らかにオッドーが苛立っている事が分かる。これでこれ以上酒が加わると、まずい事は分かっていた。
前、オッドーの妻の浮気がわかった時も荒れて仕方が無かった。
命知らずな浮気相手もいたもので、あのオッドーの妻を寝取ったのが、有名大学病院の医学教授だとかで、医者のトップだというのだ。
変に同情などすると酷い事になるので、なにやら今気が立っている触らぬオッドーには祟りなしだった。
オッドーはベッドに肘を乗せ片足を伸ばし、カマンベールチーズを小さく千切りながら食べていて、アルデはなにやら落ち込んでいるオッドーを見てから立てる膝に乗せる肘先の手にグラスを持って、それを揺らしながら横顔を見て首を傾げた。
まさか、エリザベスの元にでも向かおうとした事を、止めたのが悪かったのだろうか。
そうこうしているうちに、オッドーが立ち上がって何も言わずに出て行ってしまった。
「………」
タカロスはそれを振り返り、エルダは首を傾げてからアルデがその背を追い出て行った。
「何だ? 一体」
「さあー。知らねえ。俺、海月見に来たし」
アルデは自室へ入って行ったオッドーを見てからノックし、入って行った。
アルデは壁際のソファーに座ってオッドーの背を見て、オッドーは肩越しにアルデを見てから無視してサイドボードを開けた。
アルデは冷蔵庫からビールを二つ出し、オッドーに渡そうとしたが雰囲気的に恐かったので自分だけあけて飲んだ。
「パリに行った時に妻を呼んで会えばよかったじゃねえか」
アルデがそう言い、オッドーはその横顔を見てから殴りそうになったが、溜息を吐き出してローテーブル上の缶を取り開けて呷った。
「自棄酒なんて」
「変に気遣ってくるんじゃねえよ」
「俺達は仲間だ。あんたに苛立たれると空気が乱れるからな」
オッドーはハッと息を吐き、一人掛けに座って壁を見ては、しばらくして呟くように言った。
「離婚、しちまおうかって思う」
「え?」
オッドーの横顔を見て、アルデは背を浮かせて怪訝そうに眉を潜めた。
「やめておけよ。あんたがいるから一人の時でも安心して浮気が出来るんだぜあんたの妻も」
「そんなの女の勝手だ」
「そうだな。俺が言えた事もで無いが、離婚だなんて」
オッドー自身は妻を愛している。会いにいけないのは淋しいが、妻のほうからは会いに来る事などないのだ。
自分が無様に泣く前にアルデを追い出そうと立ち上がり、腕を引き立たせた。
「出て行け」
「分かった」
アルデは黒く塗られたドアに向かって行き、肩越しに一度見た。琥珀の照明が灰色の影を造る室内で、オッドーの背が淋しげだった。
そこまで歩き、肩に手を置き軽く叩いた。
「畜生」
そう言いアルデの肩に目元を当て、アルデは背を軽く叩いた。
「別にあんたは魅力的じゃないわけじゃない。妻がそんなあんたを近くで見て無さ過ぎるだけだ」
「お前に言われてもうれしくねえ」
「俺は男だしな」
オッドーは離れて行き部屋の小さくて毛足が長い黒猫に餌を上げるために皿に入れた。黒く横に長い棚に立てられた黄金の管楽器横にいたその猫が顔を覗かせ、琥珀の照明に照らされると影を落とし降りて来た。
猫は微かに他の猫の匂いがする主人の足許に擦り寄って、その猫が何者なのかを確認していた。
「悪かったな」
「いいや」
アルデはソファー横に立てられるスタンド横の壁に背を付け、缶を回しながら視線を上げた。
「俺は女史については詳しくないが、彼女はタカロスと関係があるって思い込んでた」
「さあな……」
「彼女はいい人だ。なにか相談にも乗ってくれると思う」
オッドーは相槌を打ち、低い棚上の管楽器横に腰をつけ琥珀の光に充たされ壁に落ち壁に映写される繊細な影を見ていた。
エリザベスに惚れているとか、そういう感覚では無い。きっと、タカロスも彼女に対しては女としてというよりも、もっと違う何かの気持ちで接しているはずだ。タカロスが出会う以前の若い頃から軍の中でエリザベスをオッドーは知っているが、安易な性格でも無い。オッドーを男として見る性格でも無い。何かしらの線を引いて人と付き合っている。
関係を持ったからといって何か特別に思うわけでも無く、好意があって何か色目を使ってくることも無い。ただ、どんと構えているエリザベスの人柄は共にいやすい。
それでも、彼女が母親を失った時のことを思うと、彼女の笑顔を見るたびに傍にいてやりたくなった。彼女は強く生きようとしているが、誰か伴侶でもいればまた変って来るだろうものを。よくそう思う。エリザベス自身は自己が変る事を恐れているが、相手を見つけることでいい方向へと変ることも多い。軍の元で特殊な家族の中で生きて来た為に自らが家族を欲さない気持ちは、若い時代のオッドーは面と向かって言われた事だったが、何も今も結婚したからといえ、彼女を気に留めていないわけでもない。恋愛感情だなんてものは関係無しに、時に診察所まで会いに行って傍にいて話したくなる。
エリザベスはいつでも自分の感情よりも、人のことを優先してあまり自己を出さないが、彼女が彼女の母の形見の十字架を大切にしていることは分かっていた……。
エリザベスは今日も、室内のマリア像に祈りを静かに捧げていた。
あのロザリオを持ち、綺麗な瞼を閉ざしては祈りを捧げている。
東洋人の母親を持っていた彼女は、オリエンタルな顔つきをした美しい女性だ。
静かな祈りが捧げられ、そしてニ十四連目の数珠の最後の祈りを終えると瞳を開き、美しいキャンドルの灯火に照らされる優しげなマリアの微笑を見つめた。生きつづけている自己の心を、後押ししてくれる微笑みの先に、いつでも母の頼りある微笑を思い浮かべて、彼女はやってこれた。
それに、周りにいる人々にどんなに支えられてきたことか。
今のここと言う場所が、安住の自己の地なのだと実感する。
彼女はビロードのクッションに突いていた膝から立ち上がり、ロザリオを首に掛けた。
また父が、彼の進める人の見合い写真を送ってきた。けれど、彼女はそれを断り続けている。軍の人が大体で、時に企業の社長や、父や自分と同じ精神科医の医者が多かった。学者などもいた。どちらにしろ、結婚だなんてするつもりは無かった。もしも、どんなに仕事に関して理解力のある方だろうと、断り続けている。
いつでも、自分の事に関しては半ば最悪の状況を考えてしまう癖は、無くしたほうがいいのかもしれないとは思うけれど、傷つく事が恐かった。今もこうやって、多くの人と付き合う中でも彼等の危険を肌で感じる事さえ怖い。失う事が怖かった。
それを、愛する人を再び失う事になど耐えられるだろうか。
父にこの場を任され、この数年を必死にやってきて、大切な患者達の罪ある意識を見て来ては、始めの内は何度、司祭様の胸に泣きつきに行った事か。それも、この所は落ち着きが出始めていた。
人を失うという事は、自分には辛いからもしかして向いては居ないのではないかと自問する時期もあった。
移動し続ける軍の中で生きつづけてきて、多くの死生観を見続けて来た中でも、やはり他人事などでは無い。軍人、怪我人、家族、多くの人々。
この目で見つづけてきては、今はこうやって落ち着いた中を眸は安堵している。それでも、心はどうだろうか。世界の平和を願う気持ちが自分を一人にする……。
母の胸元に輝いていた汚れたロザリオは、生命の輝きに思えた。母の心が宿っているかのようで……。
彼女は眸を開き、顔を上げて身を返した。
ベージュのコートを着ては帯を締め、内側が縞馬柄のワインレッド革グローブを嵌めた。
オッドーの顔が浮かぶ。彼に会いに行ってしまおうかしら……時に、そう思う。あの時からだ。
悪戯に関係を結んでしまって、ずっと軍の専属医になった時代から、血の気が多い軍人のオッドーからのアプローチを、断り続けていたというのに彼が大人になって、落ち着きを見せてふとした時に頼りある目元を見ると、あの時はその胸にすがりたくなっていた。
半ば、なるようになったからよと言う様に彼にお茶目めかしてベッドに流れ込んでも、自己にそうやって誤魔化しを掛けて、自分は彼の奥さんから一時彼を奪ってしまった。
奪いたくて、奪ってしまったのだ。確実に。
オッドーはいい人だ。柄は悪いけど、決して悪い人では無い。それを分かっていて、奥さんは堂々と浮気などをしていて、それでも夫が何もして来れる距離ではない事を知っている。彼が自分の事を愛している事を知っていて、医師と関係など持って。
それが許せないだなんて、自分にはいえない。それでも、長年彼を知る上では……。
電話の呼び出し音。
赤のハンドバッグの蓋を閉め、キーを手に収めたエリザベスはそちらへ向かい、受話器を取った。
「はい」
「ベスか」
「パパ」
「見合いの写真は届いた頃だと思ってな」
「ええ。そうね。拝見させていただいたわ」
「それでは、日曜の午前十一時に予定を入れる」
「強引ね。相変わらずだわ」
「ああ。お前が婚姻を結ぶまではそうするつもりだ」
父ももう高齢だ。何も、その父を心配させたいというわけでは決して無い。幸せになりたく無い訳でも無い。タカロスとその奥さんやお子さんを見ていると、幸せというものがとても輝いて思えるものだ。タカロスの奥さんは本当に心が強い人で、尊敬する。
「会うだけでも会ってみなさい。いいな」
「分かったわ。でも、結果は分からないわよ」
「まだその話は早い。では、日曜の朝七時に連絡を渡す」
「ええ。いつも悪いわね。ありがとう」
「ああ。お前のためだ」
エリザベスは微笑み、静かに目を閉じた。
「ねえ。パパ」
「何だね」
「時には、お見合いの事とか関係無く、今度親子二人でお茶でも飲みながら話でもしましょうか」
「はは。どうしたんだね。淋しくなったのか? いつでも時間を取る」
「ありがとう」
エリザベスはおやすみなさいと言い、静かに受話器を置いた。
目を開き、顔を上げると歩いて行く。
時間は夜の八時。
サニタリーで赤のルージュを引きティッシュで抑えては、そして颯爽と部屋を出た。
駐車場のクーペに乗り込み、走らせて行った。
検問で警備員に敬礼され、ゲートを潜り進めさせて行く。
灯台からの光が遠く背後から空を貫き走って行き、遠くへ行き着く事無く線を移動させて行く。
星影が小さく光っていて、地平線となる山陰を表していた。
刑務所から離れて行き、道路を走らせつづける。刑務所からの灯台と同じ色合いの白いヘッドライトが、道を照らし走って行く。
よく、その情景には舗装されていない道を進む、ジープの乱雑なヘッドライトの遠い記憶が重なった。虫の声が氾濫し、夏の香りが蒸す。そんな夜をガタガタと走らせ、背後には軍人達がライフルを担ぎ、暗がりに目を白く浮かせて無言のまま揺らされていた。
小さかった時のエリザベスは、母の膝の上に乗り、跳ねて固まった泥の飛び散った窓の外を見ながら、ジープに揺らされていた。その窓には闇の中、白く自分達が映っていた。無言の中、タイヤの音を響かせて。時々、前を見て白く照らされる無骨な道を見ては、眠気に目を擦って、起きつづけていたことを覚えている。
今は現世の道路をクーペで走らせて行き、村が見えてくると、そのバーへ入って行った。
ランプの明りが夜を照らし、白い一定の高さの建物の壁に反射して浮き上がらせている。
「あら。女史」
声を掛けられ、四人掛けの窓際を見た。
女自由監房の見張り警備員の女、メルザは振り返って笑顔で手を振り、メルザを見るとエリザベスはそちらへ向かった。
「珍しいじゃない。メルザ」
「女史も」
互いに微笑んでは、彼女は椅子に座った。
「今日は彼と一緒じゃ無いのね」
エリザベスは、滑らかな黒パンツにVネックの長袖とよく風を含む薄手の黒スプリングコートが私服のアルデを探した。見当たらないままだ。
メルザは肩をすくめては頷いた。
「旦那がね、コンクールの時に使いの人間を寄越して来たのよ。見張りを立てられた感じ。何か、気付かれてしまったのかしら」
「いつでも見張っている側だものね」
「ええ。力が入ってしまうわ。でも彼が可愛くて……」
メルザの夫は若いわけでは無い。将校という位でもあるし、地位もあれば、やはりプライド高かった。
正直、メルザは同年代のアルデに魅せられている。見れば分かる。
「彼も怖い物知らずね」
エリザベスはそう言い、グラスを傾けた。
「いつかは、あたしを奪ってくれないかしらって思うの」
「え?」
メルザの横顔を見て、エリザベスはルージュの唇を閉ざした。
エリザベスの黒いアンゴラセーターから覗く美しい鎖骨にメルザの影が落ちて、彼女は黒艶のボブの髪をエリザベスの肩に預けてはバーのポスターを美しい色の眸が見つめた。
「あたしね……、夫とはずっと関る事無く来たのよ。女として扱ってもらえて無い気がして。相手は軍人気質でお堅い考えの人だから、なんだか扱いづらいっていうか。まあ、変な言い方よね。愛情よりも、形式のみなのね」
「あなた、旦那さんの事どうおもうのよ」
メルザは目を閉ざして首を横に振った。
「もう分からないわ……」
「旦那さんはあなたの事を可愛がりたいと思っている筈よ。年下のあなたの事」
「分かってるわ。でも、あたしは人形では無い、生きた女よ。早まったのかしら。結婚……」
メルザは白ワインのグラスを傾け、その黄金かかる液体を見つめた。その先に、ランタンの蝋燭が揺れていて黄金のワインをイエローダイヤモンドのようにしている。
「離婚することは無いと思うの。ただ、彼との事もずっと……」
「出口は無いのね……」
メルザは頷き、息をついた。
彼女は小さく微笑んでから横目でエリザベスを見て言った。
「ごめんなさい。話を聴いてもらって」
「いいのよ。いつでも聴くわ」
「ありがとう。あたし、あなたのこと大好きよ」
エリザベスは微笑み、メルザも笑った。
「女史はどうなの? 誰か、いい人はいないの?」
「あたし? あたしはいいのよ」
「素敵な女性なのに。世の男達は、我等が刑務所におわす女神エリザベスを知らないのよ」
「ふふ、可笑しな事を言う」
「そう思うわ……あなたは大きな物を手に出来るんだって」
「そうね……いつかは」
エリザベスは小さく微笑み、グラスの氷を見つめた。
ニッカの所のこの所元気の無いクローダの幹部に顔を向け、ニッカはその背を監視していた。
水滴が落ちる地下はその音を浸食させていて、依然、脱獄未遂犯4765番はケツに根っこでも生え、手には蔦でも生えちまったかの様に写真を見つづけていた。その口は縫われでもしたかの様に、開く事も無い。
別に、8465番は元気が無いわけでは無い。主食である人肉が食べれないこの所を、腹をすかせているのだ。猟奇的に。ただ、目の前には常に肉が何体も揃っていた。それも、質は良く無い肉ばかりを見せられている。常に。
鬱蒼としたこの空気は、常の食欲を刺激してくる危険な空気が氾濫し流れている。死と隣り合わせの空気感だ。
汗から漂う先の鉄分、血の香りさえも芳しく鼻腔を充たしていた。彼等を取り巻く皮膚から発される肉の香りは、晩餐を思い出す。
クローダの倅は人肉を食べない人種だった。
それでも、マフィアの幹部や敵対する人間の出た死体は、イデカロの好きにさせていた。その為にイデカロは食した。
だが、潔癖な彼はこの地下牢のような常の乱雑感を好んでいるわけでは無い。その上、肉まで食べる事が出来ないとあれば、血圧は下がる一方だった。
また、じろりと視線だけを上げ、牢屋の中の動く人肉を視線で貪る。白い肌の中の白い目玉の中、小さい感情の希薄そうな眸が、獣のように静かに見定めては男は悪寒を覚え、冷や汗を流した。
あの猟奇的な目に耐え切れずに下手をすれば、即刻鉄の番人に拷問室へ連れて行かれ鉄ゴテを突きつけられる為に、男達はおとなしくしていた。昨日などはいきなり給仕の警備員の腕に掴み掛かって食器を引っ繰り返した男が鉄の番人に連れて行かれ、鎧戸の先から断末魔のような叫び声が木霊した。
それを8465番は小夜曲を聴くかの様な顔で、一度笑った。
人の死が8465番にとっての悦楽だと分かっていた。
闇の底から流れ出しにじみ出る靄のような感情が、混沌と牢屋中を浸食してくる……。
クラウディスは寝苦しい夜を過ごしていた。
闇に浮く食卓……。
血のワイングラス……。
鋭く光る銀のフォークとナイフ……。
鈍く挙る呻き声。
食卓上の石象嵌に、滴り落ちるソース。
足許を流れる冷気……。
視線の遥か先にいる悪魔、ダイマ・ルジク。
侵食する闇の中に、失った彼等の魂が、いる気がする……。
無理矢理口に入れられる人肉。
愛した恋人の。
高杯から、零れ落ちる葡萄の実と、その上の生首。
何度も見る悪夢……。
クラウディスは涙で頬を濡らし、目を開いた。
悲しげな泣き声が響いていて、また発狂されても困る為に牢に入っていたロイドが目を覚ましたクラウディスを見た。
クラウディスはロイドを見ては頬をぬぐってから、口を閉ざして背を向けた。
ずっとクラウディスは、寝言で「カイン」という名を言いつづけていた。顔を両手で押さえて背を上に泣きつづけていて、余りにもすすり泣くので、クラウディスの連れの中の三人も気にして様子を青群青の夜の闇中で窺いつづけていた。
クラウディスは枕に顔を押し付けていて、肩に手を置いたロイドを、漆黒の光も跳ね返さない目が見た……。
ロイドは口を噤みその美しい獣のような目を見ては、首筋に殺気が集中させられ身を引いた。
「!」
首筋に飛び掛られた瞬間、銃声が轟いた。
一階監房を夜警に回っていた警備員が無線で連絡を渡し飛ぶ様に駆けつけては、月光が降りる鉄格子先を見た。
ロイドが首筋を抑え受刑囚3062番を見ていて、3062番は口端から血が派手に流れ、綺麗な白の壁に血飛沫が跳ねていた。それが、闇を切り抜き黒く点を月光に照らされている。弾痕は壁にめりこみ、漆喰のヒビを中心に黄金に光りを発していた。
ロイドはクラウディスを睨み、指の間から熱い血を流しながら警備員に腕を引かれ立ち上がると、ハンカチで首筋を抑えた。
クラウディスの手首を掴み持ち上げ、クラウディスは一瞬でその警備員の腹部に膝を打ち横面を回転し肘鉄し壁に叩き付け、一瞬にして監房中の電気が照らされクラウディスは目を痛めてうめき、警備員達が駆けつけた。
オッドーは血まみれのロイドに背後から脇を取られるクラウディスを見ては、タカロスは殺気立つクラウディスの目を見た。
まるで、クラウディスでは無い。
首筋の肉を食いちぎられたロイドは警棒でクラウディスの項を攻撃し床に崩れさせると、ずっしりと真赤になったハンカチが血をはね落ちた。
タカロスは鋭い目になり床に背を上に抑えられるクラウディスの真っ赤な血に濡れる口の中を指で開かせ見るが、既に口の中に噛み千切った肉はなくなっていた。
食ったのだ……。
真っ黒く多い睫の瞼が閉ざされて肩越しに開かれ見据えてきて、一瞬、猟奇的な瞳孔が開かれた。
オッドーはクラウディスを引き起こし、頬を手の甲で払い飛ばし、クラウディスは欄干にぶつかる前にかわしてロイドを上目で見た。
その妖しく真っ赤な唇が、……美しく微笑した。
「小僧……」
オッドーが突進し、クラウディスは避け損ねて目を見開きオッドーを見上げ、共に欄干から落下していった。
タカロスが腕を伸ばしたが手を掠め、ドサッと音が響いた。
一階監房の受刑囚達はその一点に目を向け、眉を寄せクラウディスを見た。
オッドーは腕を激しく噛みつかれ制服が血に塗れ、上に乗って噛み付いてくるクラウディスの腹を蹴散らそうとしたが、いきなり首筋を舐めてきたから目を引きつらせて粟立った。実際、ヘビースモーカーのオッドーの肌はクラウディスの顔をしかめさせた。
オッドーから降りてケツをついて血を拭っていて、駆けつけたタカロスとロイドはクラウディスを見て、腕を抑えるオッドーを引き立たせた。
「おい。この野郎の主食は菜っ葉なんかじゃなく人間(人肉)の間違いなんじゃねえのかよ」
オッドーは舌を打ち腕を押さえそう言い、飛んでいったキャップを拾い被ってはハンカチで抑えた。噛み千切られた制服が吐き出されて肉片と共に床に落ちていた。
「治療に向かえ。俺とあいつで夜警を続行させる」
タカロスがそう言い、ロイドとオッドーは頷き颯爽と歩いて行った。
クラウディスは腕を引かれ歩いて行かされ、牢屋の中に戻され閉じ込められた。
照明が消され、闇に落ちた。
鉄格子を掴んで上目でじっとタカロスを見ていた。
漆黒の眸は、夜の中の悪魔の様に、闇がいついていた。
デラは口を閉ざしずっと見ていた。丁度状況が何も見えなかったセレは胸騒ぎがしていて、セリとリンは怪訝な顔でクラウディスの牢屋を見ていて、ゾラは完全に熟睡していた。
あのさっきの雰囲気は、尋常じゃなかった。まるでアルでも無かった。
まさか血に塗れさせておくわけにも行かなかった。またその香りで飢餓感か欲望かを触発されても困る。
食堂への通路を開門し、シャワールームのボイラーをつけてきたタカロスはクラウディスを拘束し、連れて行った。
「アル」
デラが自分の牢屋前に来たクラウディスに呼びかけ、タカロスは背を押し構わず歩いて行かせた。
デラは格子に手を当て見続け、完全にトンデでもいるのか、別人のアルの横顔は怜悧で、その眸は鋭かった。きっと、自分の声など聴こえてもいなかったのだろう……。一切デラを見ることも無く進んで行った。
鉄格子のある一番端のシャワールームに閉じ込められ、クラウディスは暴れて鉄格子を叩きつづけた。下腕の黒蛇がそれで真赤になり始め、タカロスは請け負わずに背後で手を組み見据えつづけた。
何度か蹴り続けるとクラウディスはタイルに頭をぶつけ始めた為に額を割る前に鍵を開け頭部を鷲掴んで肩を壁に叩きつけ、両腕を掴み見下ろした。
「大人しく浴びろ」
きつい声音でそう言い、クラウディスは怨念を持った目でタカロスを睨み見上げ、歯を獣の様に剥いた。
乱暴に手を離し鉄格子から出て、クラウディスはその場に座って動かなくなった。一切。
翌朝、狭いシャワールームの中で丸くなって床に眠るクラウディスがいて、真っ白のタイルの中、銀の朝陽がくまなく差し込んでいた。
灰色の鉄格子の影が落ち、肌は真っ白くて眩しかった。
血が乾きこびりついた肌はその血が割れていて、だまになっている。真っ赤な唇の中はやはり赤く、横顔は無垢なものだった。
タカロスは独房へ向かい、鉄格子を開けたロイドがクラウディスを引き起こした。
クラウディスはぼやけた目を開け、その黒い眸に朝陽がきらきらと反射していた。
「……?」
クラウディスは体中が痛くて狭い場所を見回し、一瞬後に眉を潜めてから、口の中の血の塊を地面に吐き出した……。
「う、」
せきを切った様に激しく咳き込み、コルクを必死にまわそうとしたその手をロイドが掴みタイルに手首を叩きつけた。
クラウディスは血を嫌がって暴れ泣いていて、ロイドは許さなかった。
「お前がやったんだ。覚えて無いんだろうがな」
クラウディスは首をぶんぶん振っていて、女精神科医が駆けつけてロイドの肩を引いた。
「お願い。水を浴びさせてあげて」
クラウディスが地面に崩れ、口の中の血を何度もはき捨てて震えていた。
エリザベスは優しくクラウディスを引き立たせては、シャワーのコルクを捻った。クラウディスは泣きながら口に水を溜めて咳き込みながら吐き出していて、背が震えて泣いていた。
「カインというのは誰だ。え?」
クラウディスは首を横にぶんぶん激しく振っていて、ロイドは肩を引きこちらに向かせると涙でうもれる目が眩しい程に光って、真っ白い瞼に閉ざされ俯いて、真っ黒の睫に涙の雫がたまっては煌き落ちつづけた。
掴む手首は震えていて、胸元のコブラの入墨には未だに、黒く固まった血がうねるようにこびりついている。
エリザベスは、プロファイリングの結果、受刑囚8465番が人へ対する極めて深い猟奇的な心理、カニバリズムを持っている結果を思ってはクラウディスを見た。
確かに、同じ人類にも世の中には空腹や飢餓感から、自然的に同じ人間の肉を欲する文化のある人種はいるものだ。それが、猟奇的にともなると、また状況が変って来る。それは、明らかに自然的な空腹からの動物的食欲とはかけ離れたものだ。
完全な闇からにじみ出る死を司る欲望。
一歩間違えれば、ナチュラルボーンキラーになりうる。
これは彼の母親から、幼少時代からの人格を詳しく聴かない事には、釈放は先延ばしにされるはずだ。
所長は、シチリアンマフィアの要人を殺害した事で収容されたマフィアの凶手、受刑囚3062番の本名である、クラウディス・レオールノ・ルジクの生家であるミラノのルジク一族への連絡をついだ。
ルジク一族の執事が連絡を取り次ぎ、ダイマ・ルジクの書斎へとその連絡が渡る。
この時間は息子は既に会社へ向かい、ダイマ・ルジクが出るのは一時間後の事だった。
ダイマ・ルジクは刑務所所長の話を聴き、目を細めさせた。
昨夜、警備員を負傷させたという事だ。
「殺害を目的としてか、警備員の首筋に噛み付き肉片を食しました。以前も、他警備員の首を縄で絞殺しようとした事がありますが、お孫さんは幼少時代から何がしかの猟奇的な部分でもあったのでしょうか」
「いいや。断じてそんな事など無い。孫は私の監視の元、健全に幼少時代を送ったのだからな」
所長は声音に困り切り、項をさすってから続けた。
「一つご確認願いたい事があるのですが、お孫さんは極度の男性嫌悪症を抱えていらっしゃるのでしょうか?」
「というと」
「刑務所の規則上、男子監房内では女人禁制の体制が敷かれています。その上で時に男性同士での関係は見受けられる事だが、お孫さんの場合はそれに加え、激しい嫌悪から来るものか、時にうなされ殺害目的からかは不明だが、襲い負傷させるのですよ。我々側も脱獄を試みた事の無い以上、お孫さんに手を掛ける事はないが、正直困りきっています」
同性に対する嫌悪を持ち始めているのならば、それは成功だ。
「そんなものは単なる夢にうなされているだけの事だろう。そんな部分までは離れた場に住む私には取り締まれん事だ」
冷たくそう言い放たれたので所長は天を仰ぎ、ダイマ・ルジクが続けた。
「それならば口枷でも嵌めて過ごさせればいい」
切られた受話器を見て所長は眉をしかめ、エリザベスは片眉を上げて内容の提示を求めた。
「口枷を嵌めろとの事だ」
「え? まあ、それは手っ取り早いこと……」
クラウディスは完全に憮然としていて、頬をふくらめていた。
鉄製で口許を覆われ、その上から黒革のマスクが嵌められていた。
喋れない。
最悪だった。
デラは雑誌を読みながら憮然とするクラウディスを見てから、可笑しそうに笑って背を叩いた。
「ま、元気出せって」
クラウディスは目元を険しくして顔を反らし、まだ歯の感覚が浮くように強い歯がゆさを覚えていた。
肉を噛み続けた事によることだと、分かっている。
昨日の話をデラやセリから聴いて、まさか信じられない事だった。
視線の先のあの色男の見張り警備員は、首に白い包帯を巻いて微動打にせずに立っている。まったく記憶に無い。
まさかあのキスを交わした警備員に噛み付いたなんて。
反論さえできる口も持ち合わせていない。
しかも朝食さえ抜きにさせられていた。作業さえ許されずに、一人牢屋の中で待機させられ、しかも口には枷が嵌められていたし、自室には本気で何にも趣味に蛍光するものさえなかった為に、ストレッチだけをしていた。だが口で息が出来なかったのでそうは激しいキントレはしなかった。この際、体を苛め抜いてさっさと眠ってしまえばよかったのだ。
昼休みの今は、警備員さえ来ないのでまさか昼食まで抜きにされるんじゃないだろうなと不安になって来た。
第一、食われてはたまらないと野良猫まで監房から連れて行かれた為に、遊び相手すらいなくさっきまでの午前中を過ごしていたのだ。
デラとセレがクラウディスの牢屋に本だとか雑誌を置いて行ってくれた。
クラウディスに食べられてしまっても困るので、美術書は含まれてはいなかったのだが……。
「俺の親族にもいたんだ。人肉食った男」
クラウディスは顔を歪めて雑誌を読むデラの横顔を見て、デラはクラウディスを見て黒髪を撫でた。
「わりとそれで捕まる猟奇殺人鬼は多いんだ。気をつけろよ。そうならないように目覚めるな」
クラウディスは頬を膨らめて枕を抱え、顔をうずめさせた。
涙が出そうになる。自分は望んでそうしたわけなんかじゃ無い。
何度、ダイマ・ルジクの食人を警察に通報し様とした事か。四人の男を殺害し、調理させ、食し、そしてクラウディスにも食させた。
だが、畏怖する相手を検挙させることの恐怖が巨大に深く、脚をからめ取られ闇靄に突き落とされた。
クラウディスは黒の前髪から目を覗かせ、デラの項を見た。口笛を吹き自分の背を向け座って雑誌をめくている。
自分がまさかああいうような首筋に噛み付くなんて、ありえない。
クラウディスは顔を埋めて目を閉じた。
作業開始三十分前のサイレンが響いた。
「じゃあ、俺達は行って来るからな」ci vediamo,チ ヴェディアーモ。sto uscendo,ciaoスト ウッシェンド、チャオ
「鉄格子に噛み付いてるなよ」
セレもそう言って手を振り、クラウディスは伏せ気味の目で見てから、手を振った。
見回りの警備員がまたクラウディスの牢屋に鍵を掛け、歩いて行った。
最終的に、昼食まで抜きにされた。
クラウディスは格子前に立ち、格子を掴んで上目で監房内を見渡した。
グラウンドへの巨大な扉は閉ざされ、西側牢屋の天井間際に細長く続く天窓から、余す事無く光が降り注いでいる。それに、西側各牢屋にも小さな窓が縦に細長くあり、細長い光を伸ばしていた。これから西日へ向かう為に徐々にそれらの光が伸びてくるのだ。
この監房には動かない影が一つあり、もう既に諦めておいていた。
北側牢屋に入る男で、まるで岩のように動かない。巨大な男で、声すら聴いたことは無かった。そこまでは陽が伸びない牢屋の中で、いる。
まさか、いずれあの男の様になるのだろうか。一歩も牢外には出られずに、こうやって喋る事も出来ずに、岩のように動かなくなる。
こうやって気付かないような感情から来る欲望という自己奴隷にがんじがらめにされ、自己というものの捕虜になった結果……。
クラウディスがずっと男を見ていると、男は音も無く視線を向け、真っ直ぐとその目でクラウディスを見た。
クラウディスは上目になり男を見続けた。
年齢は五十代は行っていそうだった。二階監房にい続けるには年嵩過ぎるが、世間の様相さえも気にも留めないかの様な表情だった。
男の牢屋の中には、本、鉄アレイ、ダンベル、クラシックCD、ラジカセ、イヤホン、ペンが置かれている。
クラウディスは視線を上げ、ドイツ人警備員が何かを持ち歩いて行った姿を見た。
鼻も黒革で塞がれているので、匂いに気付かなかったが、食事が載った盆だ。
恨めしそうにドイツ人警備員の背を見てから、その盆は横に細長い穴から男の牢屋に入れられた。
男が受け取り、ドイツ人警備員が身を返し、颯爽と歩いて行く。
クラウディスは手を伸ばし、オッドーはザッと腕を引いてキャップ下からクラウディスを睨み見た。
「………」
「………」
クラウディスは俯き、オッドーはその睫を見てから、牢屋に向き直った。
格子に手を伸ばし、美声を発していたその黒革マスクの嵌められた頬に手を当てた。
可愛らしい顔をして、悪魔の様に凶暴にならなければいいっていうものを。
あの時、演奏と歌を聞いていてオッドー自身が心が落ち着いたのは事実だった。歌詞の内容関係無く常の張り詰めた物も打破されるかのような。
クラウディスは視線を上げ、オッドーの緑色の眸を見た。
何かありでもしたのか、ドイツ人警備員にはいつもの鋭さが無かった。その為に、どこか優しいようにも思える。
視線を顔毎反らしドイツ人警備員は歩き去って行き、クラウディスはその肩を見続け視線を戻した。
オッドーは口を噤み、階段から上がって来るエリザベスを見て微かに歩みが止まった。
エリザベスは段差から視線を上げ、オッドーに微笑んでから昇りきり彼を見上げた。
彼女は彼の横を颯爽と通り歩いて行き、オッドーは微かに視線を通路に落とし、歩いて行った。
エリザベスは一度肩越しにオッドーの歩いて行く気配を追っては、颯爽と歩いて行った。
オッドーは再び、この先の作業場への階段を降りて行くために姿が見えなくなって行く。
クラウディスは目の前に立ち止まった女精神科医を見た。
「あなたには栄養価の高い錠剤を飲んでもらうわ。それと米で出来た青汁の入る栄養ジュース」
クラウディスはうんざりし、首を横に振った。
「あなたは人の肉を欲する気持ちに自覚は無いようだけれど、我々側も何度も警備員達を負傷させられるわけにも行かない。そのためには、あなたの食に関するデータを整えなければならないの。その為に、食事のプログラムを組ませてもらったからそれに従って。何も、ずっと錠剤とジュースのみでは無いから安心して欲しいの。でも、確実に多種類の食材を口に入れてもらいます。もちろん、あなたが避けつづけている動物性たんぱく質も」
クラウディスは首を横にふるふる振り続けていて、閉じる瞼に黒髪が掛かっては嫌がっていた。
「あなたには三日間、錠剤と米ジュースだけで過ごしてもらってその後にこちら側の食事を食べてもらう事になるけれど、それは絶対に全て食べてもらわなければならないわ」残さず食べなさいfinisci tuttoフィニッシ トゥット
肉を食べなくても生きていける。絶対に嫌だ。
「あなたがもしも出所した後、猟奇的に人を襲うようになられても困るの。あなたが、どんなにそれを嫌がっているのかを分かっているわ。そうよね?」
クラウディスは頷き、泣きそうな目で壁を睨んだ。
エリザベスは鉄格子を掴む彼の真っ白い手に触れ、クラウディスは青くなって手を引いて肩を縮め上目になってエリザベスを睨んだ。
基本的に、人肉を欲する人間の一種類には、極度の異性好きが多いものだ。クラウディスの場合はどうやら異性が苦手のように思えた。
「いきなり触れてしまってごめんなさい。でも安心して。乱暴な事など何もしないから」
クラウディスは顔を反らして牢屋の奥へ行ってしまった。
「食事は一日に一度。午後の三時に行なってもらうから、分かっておいて欲しいの」
クラウディスはショックを受けて肩越しに女精神科医を見た。
一日一食だなんて。
「三日以降はしっかりと栄養価の取れた食事を三食食べてもらうわ。三日分の血中や脳波の測定も行なう事になるの。あなたの中で何がいち早く失われ欲する結果になるか。もしも、その三日間の内に発作を起こすようなら一時、完全にこちら側の精神科監獄へ収容させてもらいます」
クラウディスは凄い顔をして嫌がってエリザベスの所に駆け寄っては首をぶんぶん振って鉄格子を掴んで必死で嫌がった。
「賞状が出るか出ないかは、あなたにも我々にも分からない。今までのように野菜や魚介類や穀物だけで過ごして来て、あなたは肉へ対する禁欲をしたからこそ、目の前にある人肉を求めてしまっていると思うの。あなたは赤があまり好きでは無いようだけれど、それも人の血の色だからでしょうね」
(※ ・血は鉄分で出来ているので、鉄の匂いも苦手なはず。血のワインを飲まされているので敏感。
・鉄の口枷だと逆に欲望を刺激してしまう、あるいは拒否反応を起こして精神を追い遣られる。
・それを避けてステンレス製の枷を口につけさせる方がいいのでは。
・だが血ワインは新鮮なので、鉄分の味は酷く無かったかもしれない)
「どうにか克服させてあげたいのよ。普通に動物の肉を食べる事が出来る様になれば、あなたは極度に人の肉を求める事はなくなる筈よ」
クラウディスはぽろぽろ涙を流して俯いた。エリザベスはレースのハンカチを出し、クラウディスの目元に当ててあげた。
自分が人肉を求めるなんて。そんなことなんかありえない。殺された四人との記憶も、魔の時間も、心にありつづけて苦しいというのに。
「……もし、過去に辛いことがあったのなら相談に乗るわ」
まるでそれは、権力のあるダイマ・ルジクの存在を加味しての言葉に思えて、クラウディスは首を横に振った。
クラウディスが口をどうしても当初から割らない性格は、彼の祖父であるダイマ・ルジク氏の存在があるからだと感じる。
だが、このまま刑期中に疲労困憊されても困るし、精神衰弱に陥られても困る。出所後に影響が出る。
実際は、マフィア上の殺人を犯したクラウディスは8465番と同様に終身刑もしくは重刑必死だ。
その上カニバリズムを身に侵食させている8465番の様に、もしも彼が好んで人肉を欲している人種だとしたら、この美しい彼の華麗なる成長の後の闇中の怜悧な晩餐が、脳裏に浮かぶだけでも背筋が凍った。
それを、家族は知らずにいるのだとしたら、出所後は恐ろしい事だ。元の冷静さを取り戻し、あるべき場所へ望んで戻り、8465番の様に微笑しては、血のワインすらも……。暗黒の侵食する中を琥珀が闇に浮き、そこはかとなく精神を浸しては。
今の純粋にそれを嫌悪するこの子が、美しき悪魔になりうる前に、彼の眸の輝きのままに留めさせてあげなければ。
あのダイマ・ルジクの権力と父親の渡してきた一族専属の強力な弁護士で今の刑期に収まったが、問題があるようでは精神的に介抱へ向わせる為に、残りの刑期を精神科病棟へ移ってもらいこちらの完全なカリキュラムを組ませてもらうほうがいいのだが。
「あまり無理はしないで過ごしていてね」
エリザベスはそう言い、歩いて行った。
クラウディスは落ち込んで、その場に立ち尽くした。
火曜日の今日は。週に一度の業者搬入の為に午後の二時に作業が終了する。
クラウディスは皆が早く戻って来たのでうれしかった。
ゾラは瞬きをし、食事だとか言うオセロの白の駒三つと、黒緑色でプラスティックの大きな円柱を見た。
「おい。これからのお前の主食、プラスティックかよ……」
それはプラスティック製樹脂で出来た駒でも塊でも無かった。
栄養価の高い錠剤と、透明なグラスに入ったその色の栄養ジュースだった。
所長と二人の警備員により運ばれてきたそれは、あまりにも粗末な食事だった。
自分ならこんなもんいるかと盆を叩きつけている事だろう。これじゃあまだコース式で選べるこの刑務所内の食事の肉汁の滴る小さなお肉の方がどんなにいいか……。
クラウディスは警備員に黒革のマスクを取られ、後頭部の黒い小さな錠を小さな鍵で開けられ、そしてライフルの銃口を牢屋外から向けられながら、その横に立つ所長がクラウディスを見ていた。
ようやく鉄が外され、クラウディスは息を着いてから、いきなりジュースに手を伸ばした為に警備員に手を払われた。
クラウディスは警備員に頬を膨らめて、じっとジュースを見ていたが、味気もくそも無い錠剤などをはじめ前に出された。
ゾラは顔を歪めてその白くて何の味もしなさそうなコイン大の錠剤を見下ろした。
クラウディスは落ち込んでそれを口に放って舐めつづけた。虚ろそうに舐めている。
「お前これを三日間なんて無理だってぜってー無理」
「うるせえな……」
クラウディスは二つ目を舐めながら、何某かの味を見出そうとしていたが無理だった。三つ目も口に入れて終ると、白目で首をがくんと緑色のドロンドロンの液体を見た……。
「あっはははははははは!! その顔マジで受ける!! 白!!」
ゾラは腹を抱えて脚をバタバタさせ大笑いしている。
「るせえな……」
黒目を戻してジュースを手に取り、上目で警備員を見た。見ながら臭いからして苦いそのどろどろの液体を口に入れた。
「ブフッ」
「………」
ゾラが緑にまみれ、ぽたぽたと横這いに頬杖を付く地面に落ちた。
「お前、馬鹿……ぜってえ今にケツに花火突っ込んでやる……」
「やだ」
まずい。まずすぎる。あまりにまずくて野菜まで嫌いになっちゃいそうだ。
ゾラはえんえんと泣きながら苦い顔を拭っていた。
一口口につけてこれだなんて、ヤバイ事だった。こんなものだけで三日間過ごせだなんて、しかもこれとくればどろどろしていて舌にまとわり付くし逃れ様の無いドロドロ感が口の中を占領するだろう。そして食道も充たして胃をうめつくし、腸まで苦い苦いまずいまずい真緑と……
「うええ……」
「あーあー可愛そうに。ドイツ人とあの角の野郎に噛み付いたばっかりにこれかよ」
「お前、協力してこれを一緒に飲み干そうぜ!」
「嫌だ。お前が口伝いで飲ませてくれるならそのあとの行為つきで協力してやる」
背後で手の平にバシインバシインと拳が収められ、ゾラは警備員を視線で見上げてから顔を戻した。
クラウディスはそのどす黒さまで醸す黒緑の液体の入る大きなドリンググラスを手に持ち、口許を引きつらせながら、男飲みした。
ゾラが口を歪めてそれを見ていて、ちょっとしばらくこいつとはキスは遠慮したいと思った……。
麗しい唇に全て呑みこまれていったその液体は、ガツンと置かれてクラウディスはあまりのまずさに子鴉の様に「あーーー」と泣き始めた。
それも無視して警備員に強制的に連れていかれ、ようやく歯を磨いて口の中の味を全て消し去ってから、いきなりまた口枷と黒革を嵌められた。
クラウディスはうな垂れ、とぼとぼと歩いて行った。
爆破犯がクラウディスの牢屋にいて、その背の高いひょろりとした男をセリは見上げた。
その男は薄い肩越しに顔を振り向けてきて、宇宙を胸に彫る青年セリを見た。
話した事の無い受刑囚で、名前すら知らない。何かとクラウディスが声を掛けている金髪ボーズの男だ。深い瞼の下に鋭い水色の目があり、灰色に見える睫が高い鼻とともに陰影をつけている。チビ時代は、ディズニー映画の悪役に憧れを抱いていたが、そういった細身で顔が整っていてありえないほど背が高いという悪役そっくりに思えた。今浮かぶ中でも、眠れる森の美女の悪い魔女だとか、アラジンのジャファーだとか、白雪姫の継母の女王だとか、そういうのの品があってお高く止まって見下してくる目許の顔つき。口許をいつでもきゅっと引き締め下げていて、あまり話さない。時々クラウディスと共に話の至りで大笑いしているのだが。
セリは引いて行こうと思ったが、その痩身の横を通ってクラウディスの牢屋に入って行った。
ミーハー男、爆破犯のリンドガーは向き直ってセリを見てから、鉄格子に背をつけてオレンジのつなぎを腰で袖締めしてランニングの腰に留めていて、そのポケットに入れたCDウォークマンからの曲を聴いていた。
セリはクラウディスのベッドに転がってデラの雑誌を読んでいて、一度チラリと男を見た。
「お前、名前は?」
リンドガーはイヤホンで曲を聴いていて聴こえなかった。
セリは呆れて雑誌に目を戻した。
クラウディスは戻って来ると、ミーハー男の背を見てからセリを見た。警備員がその前までクラウディスを送ると、踵を返し歩いて行った。
「ようアル」
クラウディスは喋れないので手を上げそのまま入って行き、セリは起き上がってから横に座った。
ミーハー男がようやくイヤホンを取り、ベッド横に座った。
「お前も変ってるよな。アルとしか喋らねえなんて」
ミーハー男も恋人のラビも刑期三年目だった。
セリはクラウディスの半年前に収容されていた。
「別にそうってわけじゃねえ。面倒臭いから喋らねえだけだ」
「へー。でもお前、女子監房に女がいるよなあ。二ヶ月ごとに会ってる可愛い女」
ミーハー男は相槌を打ち、ポータブルCDを見ては操作していた。
リンドガーの共にラヴィレイからこの前手紙が届いた。
ハイジは面白くていい奴だと書いてあった。アルが別房に連れて行かれて何をしていたかは知らないが、ラヴィレイの奴が楽しそうだったから自分も嬉しかった。いつでも手紙には、淋しくて兎のように死んでしまいそうと書かれてある。女子監房の中の詳しい状況をよく送って来ては話の種にしていて、どうやら相当派手なようで個性的な女達も多く、普段は楽しんでいるようで苛められてもいないようなので安心していた。
いつでも手紙の一番下に、ピンクのルージュのキスマークがあり、そしてサインが書かれていた。
元々、ラヴィレイは字が書けなかった。それをここに入ってからは手紙を書きたくて必死に自分で勉強したようだった。そんな姿さえ愛らしかった。今までは理系関係に強い自分がラヴィレイの履歴書を書いたり、遊園地でもエンジニアで金を稼いだりしていたが、やはり無学者で女のラヴィレイには職種が限られていた。
それを、自分で字を書けるようになったことが嬉しかった。
リンドガーは曲をプログラムし終えると、顔を上げた。
喋れないクラウディスにCDウォークマンを貸してやり、「じゃあな」と言って出て行った。
クラウディスは感謝して手を振って見送った。
「あいつ相変わらずとっつきにくいな……」
セリがそう言い、肩を竦めてから雑誌に視線を戻した。
横目でクラウディスの妖麗な横顔を見た。潤った目で暑苦しそうにクラウディスは目を閉じるが口枷は外す事は出来なかった。
セリはクラウディスの上に胴を乗せ、縫いぐるみに抱きつくように目を閉じた。白い手を握り締め、その指を撫でながら。
クラウディスもうたた寝に入って、セリを抱きしめながら眠り始めた。
セリはうなされていて、いつもの宇宙の夢でもなかった。
血生臭い悪夢だ……。濃密な。その中に、彼の女で、連れて行かれた彼女が中心にいた。色が好きな彼にとって、そんな夢、初めて見た。
起き上がると、恋人もアルもいなかった。
見回し、まるで病院のような室内を見る。父親の巨大なマンモス病院かと錯覚したが、違う……。
白衣の女が振り返り、セリはその品のある顔立ちの美人を見た。
「良かったわ。目覚めたようね。自分の名前は言える?」
「本名の事か……?」
「ええ。そう。受刑者番号では無い方」
「サイモン……。サイモン・セリーダだ。何でここにいるんだ? あんた確か監房に何度か来るな」
「あたしはこの刑務所の専属精神科医よ。よろしく。あなた、受刑囚3062番に気絶させられたのよ」
「あいつは口枷をしてた」
「剥ぎ取ったの」
「何だと? じゃあ今は……」
セリは自分の体を見回し、何処にも痛みも走らなければ、怪我も負っていない事を確認した。だが、立ち上がろうとした瞬間背の筋肉が引きつって肩越しに見た。
横に三本、赤い線の痣がある。一部青い。ああ、思い出した。アルが暴れてそれを抑えようとしたら鉄格子に叩き付けられたんだった。そのまま自分は記憶が無い。
「何で暴れるんだよ」
「きっと、話によればあなたが上に乗って眠っていたからね。精神的に不安定な時は特に、人というものは上に重いものを乗せて押し潰されて眠っていると、悪夢を見やすいの。胸部や胴に手を乗せていることさえそう感じる事もあってね。何処かに怪我をおっているときもそう」
「確かに上に乗ってたが……俺そんなに重いかなあ」
セリは標準体重だ。背の高さもクラウディスより多少高い程度だった。
セリが自由監房に戻ると、あの掃除夫がアルの牢屋の中を綺麗にしていた。
元から何も無い牢屋だ。血痕を綺麗に掃除して行った時の掃除夫の背もそうだったが、まさかあいつはもうこの色味の無く、次の受刑囚を入れる為の準備にでも直結しそうな程私物が無い中に、まさか帰って来ないんじゃないか、そう不安を感じた……。




