音楽コンクール
舞台上、闇と白の反転。
クラウディスは目を見開き戦慄いては体中が震えだし、手足が硬直した。美しい声が徐々に震えだし小さくなって行っては楽器の音が掻き消していく。混迷を来していく
そして、赤に染め尽くされた……。
その瞬間に、弾かれたかの様に舞台中心で赤を切り裂くような発狂声が轟いて、録音者達は一気にぞっとし、警備員の演奏者達は一斉に、気絶し倒れたクラウディスを見てはタカロスが駆けつけた。
エリザベスは舞台に駆けつけ、ジョニスマンがぐったりするクラウディスを引き起こし頬を叩いた。
完全に気を失っている。
まるで、天使のようだった声が、生身を悪魔に引き裂かれたかのような声に、観客達も心が乱れて闇に突き落とされたかのようだった。
荘厳なシャンデリアの暖色の灯火が戻り、赤に染まっていた彼等が元の暖色に照らされると鋭い目を幕側に向け、担架を運ばせた。
「レオ!」
高い女の声が響き、観客席の方から走って来てはレコード録音者達のブース横を通って舞台に駆け上がって来た。
気絶した息子を抱き寄せて、ぐったりする頬を撫でる。
「レオ? レオ」
クラウディスは母親の声に意識をうすらうすら戻していき、ぼやける目を開けた。
タカロスとジョニスマンは引き、エリザベスがクラウディスの姉妹か恋人らしき人物の肩に手を当てた。
レコードを録音する人間達にメルザが視線を上げ、我に返った録音者達がスイッチを切った。ライブ映像を撮影していたクルー達もストップをかける。
「母さん……」
「目覚めたのね……良かった」
母ローザはクラウディスの頬を撫で、ベルトバックルが光を反射し、黒に銀のピンストライプが入ったスラックスと、黒のタイトなTシャツという整い統一された装いをした長身の演奏者達を見回した。
その中の緑色の瞳のドイツ人が彼女を引かせ、クラウディスを立たせた。クラウディスは吐き気と調子の悪さで足の力が抜けていて、肩を借りないと立ち上がれなかった。
司会者である某刑務所の理事長が咳払いし、このチームの一時演奏中断を伝えた。
バックラウンドに来て、楽屋に戻ると彼等は楽器を置いてから、すこぶる顔色の真っ青な受刑囚3062番と、恋人のお嬢様かと思ったら母親だった女性を見ては、顔を見合わせた。
エリザベスがクラウディスの横に来てから視線を覗き込み、脈拍を確認するとまだ乱れていたので落ち着かせるために肩を撫でた。
スタッフがドアを開け、様子を窺ってきた。
「No,5の皆さんは、明日の開演、No,7の前の演奏に引き伸ばされる事に決まりました。お嬢さんも本日はゆっくりお休みください。これより演奏されるNo,6の演奏もお聴きになっても構いませんよ。席は無いですが、スタンディングも可能なので」
スタッフはそう言うと走って引いていった。
「お嬢さん……」
母ローザは息子を見て、そのクラウディスは背を向けていじけていた。
「息子がすみません」
「いいや。ハプニングはよくある事だ。息子さんも安静にしていれば問題は無いでしょう」
彼等は視線を楽器を仕舞い、母親に気遣ってクラウディスの肩を叩いてから楽屋から出て行った。
エリザベスが室内に残り、受刑囚のいる廊下のドア前にジョニスマンとタカロスが立ち警備し、他の人間達に鑑賞に行かせた。
アルデとメルザが顔を見合わせてから軍団に続き、タカロスに頷いてから歩いて行く。
ローザはクラウディスの背を撫でてから、エリザベスを見上げた。
「息子さんは、以前から何かの発作でも?」
「いいえ。あたしの知る範囲では……」
「そうですか……」
クラウディスはエリザベスに視線を送って首を振り、悪夢にうなされた事だとか、発狂がうんぬんなどを母親に報せないように示した。エリザベスは頷き、にっこりと母親に微笑んだ。
「美的感覚の優れたお子さんですので、きっと、鋭い色彩と音に神経が刺激されたのだと思います。訓練時、色彩照明の指示は無かったものなので。申しわけございません、お母様」
ローザは何度か頷き、クラウディスの背を撫でながら胸部を抑えていて息をようやくついた。
「小さな頃からこの子には様々なものに触れさせてきたものですから、感覚が通常の人よりは鋭いのね。神経質になり過ぎないようにね。レオ」
「だいじょうぶです。もう収まったから。普段は飲んで食べて笑ってる」
「ふふ。そうね。聞いたわ」
「でも、母さんが来たなんて驚きました」
彼女は横のソファーに座ると膝に手を添え、頷いた。
「ボランティア団体の友人からこの話を聞いたの。生憎彼女は公演日前に海外のシンポジウムに経ってしまったんだけれど、是非とも着たがっていたわ。あなたに言うと、また何か心配させると思って」
クラウディスは頷き、一度彼女の肩を引き寄せると離し、彼女は微笑んだ。
「大丈夫なの? あたしは夕方には戻らなければならないの。このまま共に帰れたらいいのに、出所したらどうかミラノに戻って来て欲しいわレオ。これ以上は言わないけれど」
クラウディスは母の手を取ってから、立ち上がらせた。
「心配はいらない。こんな事もはじめてで、これからもきっと無いでしょう。だから、どうか」
「本当?」
クラウディスは笑顔で頷き、母も頷いた。
作曲家がドアを開け入って来て、起き上がっているクラウディスを見た。
「もう平気のようで何よりだ。大丈夫か?」
「大丈夫だ」
聞き覚えのある声にローザは振り返り、瞬きをしてその彼を見上げた。
「………。リチャルドじゃない」
「え?」
クラウディスは母とピアニストの顔を交互に見て、女精神科医は精神が危ういピアニストを見た。
「高校振りね! 全く社交にも顔を出さなくなったから、心配していたのよ。あなたも音楽鑑賞に?」
彼は気まずそうに天井を見て項を掻き、クラウディスは片眉をあげて、三十四歳の母親と同級生だったらしい悪魔崇拝者なピアニストを見た。母は高校をパリ大学附属高校に通っていた。とはいえ、ローザは出産の為に高校一年で中退したのだが。そしてそのままイタリアに戻りルジク一族の人間と結婚した。
やはり相手も良家出だったのかと、クラウディスもピアニストも互いに思ったのだった。
クラウディスの場合は、ローザがあの冷酷な人種が多い上流貴族ルジク一族の冷めた次男に嫁いだ事は有名だったのだが。
「ああ、まあ今はなんていうか、彼等に曲を提供してるっていうわけだ」
「それは特殊なことをしているのね。とても素敵な事だわ! この子はあたしの息子のクラウディスよ。あなたご結婚は?」
「いや。独身だ……」
「まあ、そうなのね。いつでも声をかけてくれれば、いい方を紹介する」
「ありがとうローザ」
ピアニストははにかみ、ローザは微笑んでからクラウディスの背に手を当てた。
「この子がごめんなさい。もう大丈夫だと言う話だけれど、あたしは明日の公演には出ることが出来なくて」
「息子さんの事は俺たちに任せて」
そう言ってからピアニストは甘い顔の態で微笑んだ。エリザベスを見てから、彼女は頷いた。
「じゃあ、俺は行ってるよ。こうやって会えてよかったよローザ」
「ええ。あたしも同じよ。あなたの作曲した曲、とても素晴らしくて良かったわ。是非ともこれからの活躍も応援してる」
「ああ。ありがとう。俺も君のこれからの幸せと旦那さんの活躍を影ながら応援させてもらうよ。じゃあ、またどこかで……」
はにかんでからピアニストは引いて行き、廊下に出た。
ジョニスマンが横目で見て来て、ピアニストは歩いて行った。
クラウディスはあんなピアニストの顔を見た事は初めてだったので、母の横顔を上目で見てから、聞いてみた。
「以前告白された過去でも?」
「え? ああ、……そうね。あったわ。彼があたしの為に素敵な曲を作って歌ってくれたのよね」
「ああ、なるほど……」
「あたしはその時代、お付き合いしていた殿方がいたから結果的にね、断ったんだけれど……」
それは色々な意味で気まずかったわけだ。
そのローザが付き合っていた相手というのが、今も友人のセルゾだったのだが……。もちろん、今は一切の関係も無いし、昔の話は昔話の種で収まっているのだが。第一、セルゾとローザの過去の関係をローザの夫は知らない。
セルゾとは今は何でも分かり合えている気兼ねの要らないいい友人同士の二人だ。
クラウディスがもしもそのセルゾの名を出せば、今度は母の手前、クラウディス自身が気まずい状況に置かれるのだが。なぜなら、セルゾというのはレッツォの父親だったからだ……。
「会場に行きましょう」
クラウディスはそう言い、エリザベスは視線を渡してきた。もう平気なので、頷いておいた。
ドアから出ると、タカロスとジョニスマンが彼等を見た。
「その節はどうも」
面会所で見ているタカロスにローザは微笑み、タカロスも口許を微笑ませた。
「警備員の方々だったのね。道理で皆さんしっかりしてる。この子が心配をかけてしまってすみません」
「いいえ。こちらへの気兼ねはなさらずに」
タカロスが丁寧にそう言い、三人の斜め背後をジョニスマンと共に歩いて行った。
会場に来ると、半分の人数が演奏を聞いていた。他の人員はこの場にはいない。
「どうか席でお聴きください」
「いいのよ。あなたと居させてちょうだい」
クラウディスは微笑み、舞台側を見た。
今は落ち着き払った暗褐色の照明が闇をつくり、演奏されている。軽犯罪で刑務所に入った男女の受刑囚達で、舞台再度には鋭い目をした警備員が仁王立って警備していた。
壁に背をつけ、心を澄まして聴き入る……。
第一日目の公演が終了し、クラウディスは警備のタカロスとアルデを背後に、母親をファサードでのリムジンへと見送った。
黄金に輝く中を、光を跳ね返すリムジンの中にローザは腰を滑らせ、ルジク一族の運転手が慇懃に礼をし、扉を閉ざした。
窓が降り、白とベージュ、黒、時に薄桃色で統一された中のローザがクラウディスを見上げ、その手を取った。
「レオ。風邪や病気には絶対に気をつけるのよ」
「はい。母さんも」
彼女は頷き、しっかりとクラウディスの手を握り締めてからタカロスと、もう一人の青年を見上げてから頷き、扉横に立つ運転手に目配せした。運転手は「畏まりました」と言い、クラウディス坊ちゃんに慇懃に礼をすると、運転席へ進み収まった。
ローザはクラウディスの手を撫で、微笑んで手を戻した。
リムジンは発進し、クラウディスは母の乗る照明の跳ね返るリムジンが進んで行くのを、ずっと見つづけた。
彼は向き直り、俯いて歩いて行った。
タカロスとアルデは顔を見合わせ、その背後を歩いた。
絢爛な玄関から中へ進み、これから宿泊するホテルへ行くのだが、その為に楽器がホールに運ばれて来ていた。
ニッカがタカロスとアルデの楽器も運んで来ていて、彼はクラウディスを見下ろすと、笑ったのが恐かった。
ロイドが持つ縄で腰に再び拘束器具が嵌められ、進んで生かされる。
背後にぞろぞろと見張り警備員がついて来ているので、視線が突き刺さって痛い。
このままホテルへ向かう。
てきぱきと彼等は楽器を運んでいき、バスに乗り込む。
バスに乗り込んだ横に作曲家のピアニストが座り、クラウディスに聞いて来た。
「驚いたな。まさか彼女の息子だったとは。道理で麗しいわけだ」
「相当べっぴんな母親だな。若かったじゃねえか」
ジョニスマンが座席を振り返りそう言い、クラウディスは頷いた。
「俺は高校時代、彼女に憧れていたんだ。彼女はそれは人気者で、ほがらかで明るくて気丈で気が利いて出来た女性で可愛らしかった。彼女の為に作った恋歌が一体何曲あったことか。そういう男は実に多かった。彼女にギターで弾き語ったり、講堂に呼び出して歌を捧げたり、グラウンドの中心からヴァイオリンを奏でて愛を叫んだり、そんな奴等ばかりだった」
「頷けるな。あそこまで可愛い顔してると男共が自己を見失うのも分かるぜ。あの目で潤ませられたらたまらねえわけだ」
「自己を見失おうが手には入らなかったけどな」
「おい。お前の親父はどうやら相当強引に迫ったようだな」
「そうじゃない。そういう父親じゃ無い」
とはいえ、ローザに強烈に惚れこんでいる事は分かっているのだが、一体どういうプロポーズだとかをしたのかは知らなかった。ああ見えても冷めた父親でもミラノ男なので、やはり口説きにかけてはどんな洒落た言葉も出て来るものだ。
その時代、セルゾとはもう付き合ってこそはいない時期だったのだが、ローザが他の男と付き合っている付き合っていない関係無しに、初対面で惚れたので声を掛けその場で指輪をあつらえさせては微笑みその指にキスを寄せ、その夜から一週間を彼女の為に宴を急遽開かせては、四日目で自家用ジェットで一族の所有する城へ招き、宴を続け、昼はボート、乗馬、気球、ポロ観戦をし、そして七日目の夜に初めて一晩城で夜を共にし、妊娠した。
ダイマ・ルジクはそんな息子チェレステオに驚き、赤子が生まれたと同時に即刻DNA鑑定をさせ、間違い無く息子とローザとの間の子供だったために貴族令嬢、ローザ・ラヴァンゾとの婚姻を承諾した。
まあ、やはり相当強引だった。
受刑囚のピアニストは見張りの警備にオッドーとジョニスマンが着けられ、クラウディスにはタカロスとロイドがつけられた。
ロイドはアルデに、メルザと浮気はするなと釘を差して、オッドーにはもしかして抜け出してエリザベスと浮気をするかもしれないと思いながらも、ドアを締めた。
クラウディスはようやく手錠と縄を解かれ、手首を擦った。
ソファーに沈んで顔をクッションに押し付け、黒髪を乱した。
「もう平気か?」
ロイドが横に座りそう聴き、クラウディスは頷いた。
「何で発狂した。もう三度目という事だぞ」
「………」
クラウディスは答える事が出来ずに、顔を押さえた。
タカロスはクラウディスの肩を引こうとしたロイドの肩に手をおき、背後へ行かせた。
彼はクラウディスの横になるソファ横にしゃがんでは、見え無い顔を覗き込んだ。
「色彩に反応したのか?」
「………」
「言ってもらう。これからあるようだと、お前を独房で面倒見なければならなくなるからな。お前が嫌だろう。あの場にい続ける事は辛い。四日間だけでも辛さが分かった筈だ」
「何でも無い」
そう顔を上げ、タカロスはその頬を撫でてから顔を見つめた。
「お前が心配だ。今に立ち直れなくなったらどうするんだ。もしも、俺に言い辛いとしても、女医には言ってみろ」
「何でも無いんだ」
「おい3062」
ロイドがクラウディスの手首を掴み起き上がらせた。
「お前があの場で発狂したっていう事の重大さが分からないわけじゃ無いんだろう。大人数の一般市民を目の前に凍りつかせて、何も無かったじゃあ通用しない。不信感なんか与えて刑務所の存亡に関る事だ。何が原因だ」
「刑務所での事は関係無い!!」
クラウディスが手を払って走って行ったのを、タカロスが咄嗟に足を引き倒して手錠を掛けた。
クラウディスは暴れてじたばたし、引き立たされてタカロスとロイドを睨み見上げた。
「お前は囚われている身だ」
タカロスはそう言い、ベッド横の支柱に手錠で拘束してからクラウディスを睨み見て颯爽と歩いて行った。
クラウディスは暴れて支柱を蹴散らし枕やシーツを投げ飛ばしてナイトテーブル上のグラスを投げ割って、タカロスが戻って来て項を押さえつけて黙らせ、クラウディスは暴れてじたばたした。ロイドは通信機で報告し様としたが、その前にクラウディスは顔を押さえて肩を震わせ黙り込んだ。
顔が見え無い。
タカロスは項から手を離し、溜息を吐き捨ててから踵を返し離れて行った。
ロイドは通信機を戻し、首をやれやれと振ってからソファに座った。
クラウディスは頬をシーツにおしつけては、手錠をじゃらつかせて顔を押さえた。
ロイドはタカロスに目配せして気を落ち着かせ、タカロスは頷いてから壁側に置かれたセッティー横のコモドに腰をつけた。
サックスが吹きたい気分だった。
自己の楽器を練習することにした。
ケースから出し、頭の中の楽譜を思い描きながら、精巧な部位を組み立てていく。まるで、鋭い特殊銃器のような形の楽器だ。形も黒い。そして金の金具が鋭く光る。
ロイドは一度、片胡座にケースを載せセッティーで楽器を組み立てるタカロスの瞼を見てから、受刑囚3062番、名前は愛称アルというのでは無く、どうやら ≪ レオ ≫ という名らしいのだが、そのライオンと名付けられた白黒で巨大な猫野郎の背を見て、透かし彫りの施された先へ向かい、コーヒーを淹れに行った。
溜息さえ楽器の一部となり取り込まれて、細胞に息づき体の一部となって導きあう。楽器の先までも血脈が通ったかの様に音を発し、体温さえも感じては、まるで全身から共鳴される音が響く。思い描く通りの音が、まるで息遣いや言葉を発するように繊細に紡ぎ出され、同じ人の耳に届く。体の心までも。神経に至るまで。
クラウディスは視線だけでタカロスを見つめて、曲を聴きつづけた。
単一で聴くと、優しく貫かれるような鋭さの中に、なんともいえない複雑さが根底にある。
タカロスの楽器は音が二重構造で出て来る代物で、管木製のマウスの片方を浮かせた舌の下部に入れ単純な音を出し、もう片方の管の金のマウスを舌の奥まで入れて複雑な音を繊細に出す。
それが左手の金のコードで膨張した音になったり、鋭くなったりして音階が刻まれた。右手では複雑な音を出す為の金のコードがまるで整列したキーのように並んでいて、それを操る。スコープかのような鋭い筒の先から複雑な音が出て、その下に多少長めに伸びる広がった筒の先から単純な音が出た。
スタイリッシュな楽器で、気を抜くとすぐに聴いたことも無い様なめちゃくちゃな音が出て来るが、それはもう出なかった。
まるで、混沌と静寂の中のカオスを、美しく渦巻かせるかのような音だ。時々、粒子の様に優しげなダイヤモンドの粒が淑やかに輝くかの様に。それが繊細さを突き上げさせると、それ自体がまるで黒の鎖で宇宙から吊るされたシャンデリアかのように厳かに頭上に渦巻くかのようだった。カオスを天に持って行かせるのではなく、静寂を天へと誘うかのような……。
タカロスの雰囲気によく合っていた。彼の紡ぎ出されるからだの音楽が、よく捕らえられている。
首をもたげ吹いていたのを、死を司るといわれる番人、アヌビスの様にそろりと天に向けて吹き鳴らし、天へとまるで突き抜けては遠くまで、とどくかのようだった。
貫いて、その先にある渦巻く透明な闇の混沌をも粒子に変えさせるような。
肉体を羅漢しきった楽器は生きているかの様に艶を帯び、タカロスの体の横に下ろされた。
視線を落とす絨毯に繊細なくっきりとする影が落ち、タカロスは楽器を小さな円卓の上に立てた。
翌朝四時。
ロイドは常に六時半まできっかり熟睡している。蹴っ飛ばそうが目覚めない。
一日置きの日勤から引き続く夜警は、深夜二時に交替され、二時半にはロイドは就寝に就き、四時間の睡眠でサイクルされていた。
一日置きに五時に仕事をあけられる。
クラウディスは頬を枕につけ目を開き、タカロスは丁度、ベッドから離れて行った時だった。
クラウディスは思い切り身体をはね起こしてタカロスの背に突っ込んでいた。瞬時に振り返り床に肩からのめったクラウディスを見下ろし、腕を引き立たせた。
クラウディスは中腰のタカロスの肩に頬を乗せ、上目で彼を見つめた。タカロスは朝陽が差す中を銀に鋭く光る腰元の手錠を見ては、拘束したままクラウディスを引き寄せた。
「タカロス。俺の事……」
愛して欲しい。そんな事がいえなかった。確実に自分はタカロスに惚れていた。タカロスも自分に対してそうなのだと信じたくて、仕方が無い。
歯止めを利かせてきた物が全て箍が外されバラバラになって歯車が弾き飛んで行く。
全てを忘れさせてくれる……辛かった色彩の心情も。
そして、いきなりの事にタカロスは閉ざした口許を、引きつらせた。
クラウディスはドア側を見た。
オッドー、ジョニスマンを見た。横に、副所長もいた。副所長がソファーに座った。
ロイドは五時の今、まだ目覚めない。
作曲家が拘束されてジョニスマンの横に立っていて、オッドーが副所長の背後に立っていた。
「どうやら、朝から体力のほうに問題は一切無いようですね。本日二日目の公演にも出演可能なようで」
ぎろりとクラウディスとタカロスを見てから、タカロスは身につまされる思いで溜息を抑え、前方を見ていた。
「早朝からあなたの身を案じられるお母様からの連絡があったので、その事を伝えておきましょう。一切、問題が無いようなので、そうこちら側からお母様へと連絡をお渡しします」
副所長はそう言うと、立ち上がって踵を返し、颯爽と出て行った。オッドーは意地悪そうに肩越しにタカロスを見てから、ジョニスマンは肩を竦めて作曲家の背を押し歩いて行かせた。
「………」
「ごにゃごにゃうるせえぞ……」
不機嫌な声が後ろから響き、ロイドがシーツを上まで引き上げまた眠りを貪った。
手錠を嵌められ、腰に縄をつけられるとクラウディスもピアニストもホテル廊下を進んで行った。
食堂につくと、既に決められた朝食のセットが決められたテーブルに並び、進んで行く。
他の刑務所の者達も合同で宿泊し、そしてこの食堂に集まっていた。一様に各々の刑務所内での拘束器具が使われている。
出入り口に警備員が立ち、目を光らせていた。
麻薬所持や、万引き、置き引き、器物破損、職務妨害、横領、詐欺師、悪徳商法、酔っ払い運転、盗み、こそ泥、そういう様な犯罪をこまごまと犯した者達が中心だ。
警備員の人間ばかりが多く揃うのは、他にニチームあった。彼等は話を交わしては、内容は聴こえないが手短な情報交換かと思った。
クラウディスとピアニストは席につかされ、朝食を摂るように言われた。
警備員の多い所の他チームには、質の悪そうなすれた顔をした女の受刑囚が五人がいるチーム。それに、もう片方のチームは警備員達のみだ。
女達はパワフルに声を張り上げ歌うプログラムで、筋肉質なハードな切れのあるダンスも踊られる。警備員達がバンド演奏をする。パンフレットでは顔に鋭い傷が横に走る女がメインの声を担当しているらしく、四人が粋なコーラスと共に手拍子が入る。一様に、黒のスーツに白のTシャツ、それに黒のフェードラを被って、胸元に赤の薔薇を挿している写真が載っていた。
彼女達の中のスパイラルパーマのブラジル系の強面女がクラウディスにいきなり顔垂れてきて、横の美人な黒人が首をしゃくってその受刑囚に「やめときなよ」と言って食指を進めた。ブラジリアンは顔をふいと反らしてテーブルに向き直った。
クラウディスは首を傾げてフォークを手にし、背後のテーブルにつく他の刑務所の男が声を掛けて来た。
「ようお嬢ちゃん。お前、何やらかしたんだ。え? 中学生か? 家出で保護されたのか? 学校の硝子割っちまったのか?」
クラウディスは頷いておいた。
「それとも食い逃げしちまったか」
「鑑別所からも出してんのか!」
何故だか笑いが起き、何故かパンを奪われたのでクラウディスは顔を上げた。
「可愛い面してんじゃねえかこのお嬢ちゃん」
クラウディスは目を引きつらせ、オッドーが腕を掴んで無視しろと目で言った。クラウディスはふんと顔を反らして男のテーブル前から、自分の分と男の分もパンを持って行った。
その瞬間、笑っていた奴等が一斉に笑いが止まり、ロイドはつまらない喧嘩なんか買ったクラウディスの背を見た瞬間、フォークをテーブルにつきたて立ち上がった男達を見た。こういう奴等は自分より弱いと決め付けた奴にはでかい態度を取る雑魚でしかない。
クラウディスは二つともパンを食べて振り返って立ち上がった男の横から背を伸ばし男の背にする目玉焼きとサラダも口に運んだ。
「………」
メルザが噴き出し、唖然とする男はもぐもぐと食べているクラウディスを瞬きしながら見て、青筋を立てて殺気立ったからフォークを構えた男をタカロスが脇を取って椅子に叩き付け座らせ、あちら側の警備員は何も言うでもなく、テーブルにつく六人はタカロスを見てからテーブルに向き直った。
クラウディスは自分の目玉焼きも食べてからオッドーのサラダにまで手を出したので拳骨された。
ブラジリアンが可笑しそうに「あのお嬢ちゃんたいしたたまだね。昨日ぶっ倒れたってのに今日はもうこうだ」と横の金髪娼婦のような女に言っていた。クラウディスは目元を引きつらせ、無視しておいた。どちらかというと、どうやら逆に馬鹿にしていたよりも母性本能的に心配していたようだ。相手は性質悪そうなために本心はわからないのだが。
クラウディスはグラスを口に持って行った瞬間だった。
いきなり背を蹴り散らされてあやうく硝子を割るところだったがテーブルにごつんと落とした。
先ほどの男だ。クラウディスの目が変わって殴ろうとしたために銃口が背に付きたてられた。クラウディスは肩越しにオッドーを睨み見上げ、男はオッドーを見て口を閉ざし、舌を打って向き直った瞬間だった。
入り口側で銃声が轟いた。
入り口側のテーブルの人間達がニグループ、一気に走り出したのだ。筋肉で出来上がった入り口の警備員達が扉を閉ざし、周辺の警備員達が一斉に十六人を取り押さえ、その瞬間会場中のテーブルが引っ繰り返され便乗乱闘が始まり警備員達が騒動を無線で伝え、先ほどの男がまぎれてクラウディスの肩を強引に引いた。
タカロス達はやはり手際が良く、手にする縄や強烈な鞭でバシッと抑えて行き、タカロスの背後でクラウディスが椅子を引っ繰り返して吹っ飛んで行った。
クラウディスは腕っ節があるわけではなく、武器の扱いに長けそして体のばねが優れていた。
混乱する会場中が殴り蹴り騒ぎ投げを繰り返す中、クラウディスの殺気が目覚めない内にタカロスが走って行った。
クラウディスの上に跨り立ち椅子を振り上げた男を蹴りつけ、クラウディスを引き起こそうと手を伸ばした時だった。
「………」
タカロスは背後を振り返り、その場にどさりと倒れた。
アルデは目を向け犯罪者を三人拘束すると駆けつけた。ジョニスマンとオッドーがライフルを天井に轟かせ怒声を張り上げ一斉に大人しくさせ。ニッカが恐ろしい突進力で五十人ばかりを一気になぎ倒した。
中心に犯罪者達が集められ一斉に銃口が向けられ、アルデはタカロスを引き起こした。
クラウディスは目を見開いて倒れたタカロスを見て、弾かれたように駆けつけた。
「スタンガンにやられただけだ。心音はある」
クラウディスはアルデに肘鉄され気絶した犯罪者を見てからタカロスを見た。
スタンガンが転がっていて、メルザがそれを手に取り奪われた警備員を呆れ見た。
ピアニストは既に目を回して気絶しているのだが……。
タカロスはしばらくして気絶から目覚めた。クラウディスは安心して胸を撫で下ろした。
朝から騒動が起きたので、コンクールは中断されるかどうするかの会議が開かれるようだった。
「練習してきたもの馬鹿みたいに水の泡にするんだなあいつ等」
「刑期喰らってることの方が馬鹿らしいっておもってるんだろう」
ピアニストは口はしにテープをはりながらそう言い、クラウディスはその横顔を見た。
終身刑を喰らっているピアニストに「自分は脱獄したいと思わないのか」とは聴かなかった。そんなもの、外の世界のほうが魅力的なんだから出たいに決まっている。
「あんた、何したんだよ。母さんは何も知らない」
「君には言えない」
クラウディスは相槌を打ち、ピアニストがクラウディスの横顔を見た。
「君は何をしたんだ。ローザは知っているのか?」
クラウディスは曲げる膝を見ながら何も言わなかったが、しばらくして小さく頷いた。
無言が続き、その後も会話は無かった。
ドアが開き、副所長がロイド、アルデと共に進んできた。
「コンクールは?」
「予定通り、開かれます。さあ、劇場へ向かうための準備を」
ロイドが二人を拘束し、歩いて行かせた。
この見張り警備員二人が、どうやら兄弟らしい、とこの期間でなんとなく感じ取っていた事だった。依然、タカロス以外の警備員の名前は知らないのだが。この場には居ないエルダのことも未だにベータだという以外に本名は知らない。
他の刑務所の犯罪者とも衝突があってもいけないので、六組は其々バラバラに移動する。警備員のみのあとの一組は問題無く、他の警備する刑務所の人間達の補助に分かれて向かった。
その為に、警備員達と二人の犯罪者の時のクラウディス達は、極めて静かに安全な態でホテルのホールを進んで行っていた。他の騒ぎを起こした四組の軽犯罪者達は物々しい雰囲気で拘束が強化されて歩いて行かされたのだが。
女達五人のグループはまた唯一、五人ともあの騒ぎの中を、椅子が飛び交い食器が飛びパンなどが飛んでいてもお構い無しに、椅子に座って朝食を食べていたのだが。無論、移動も別に何も起こさなかった。だが彼女達も重犯罪を犯した危険人物たちに変りは無かった。彼女達からしたら、ほんの暇凌ぎの茶番事だ。
バスにのり、会場へ向かって行く。
クラウディス達は一番初めのナンバーなので、準備を始めるために緞帳の降ろされた舞台へ進んだ。
スタッフ達が準備をしながら場所を示してきて、引いて行く。
緞帳の向こうの音は聴こえない。マイクロフォンの音声は聞こえた。
挨拶をしているのだ。それに、チームの紹介も。
録音型のファンファーレの後に、緞帳が上がって行く。
闇に落ちる観客は最前列の人間達の顔が暖色に照らされている。白のライトが下斜めから照らしてきていて舞台上は温かく、そして顔は熱い。初めのエントリーの場合は、まだ舞い上がるような埃やチリは無い為に、透明感のある空気だった。
クラウディスは精神統一をしながら闇を見つめていた。
バンドが流れ出す。
メルザは明光風靡(風光明媚?)で幻想的なポルトガル語の一曲目、クラシカルで美しい二曲目までを弦楽器を弾く。木管楽器は地獄から天国へと昇天するようなシャープで鮮烈な三曲目、軽快でリズミカルな四曲目、そして南国ジャングル調でパワフルな五曲目だ。そして五曲目でパワフルにメルザも共に声を張り上げ、他の男警備員達もあわせ歌う。
パンフレットには各グループごとの頁に、歌詞や伊訳、その他翻訳も記されていた。
クラウディスが突如発狂したのは、三極目の事だった。初めは静かに低い音が重なって行っては、徐々に雷鳴のように天が開けて行く。そして美声を張り上げ、天と地の混沌と神々の光を余す事無く歌う曲。音でまるで光と闇が見えるかのような。美声で一気に情景が切り開かれ、世界の誕生と昇天が眼前に広がる楽曲だった。
その、吹き荒れる嵐から進んで天と地の戦いの序章の場で、照明効果が加わり中断に陥ったので、今回は激しいフラッシュ照明は中止となった。
はっきり言えば、昨日の公演は身の毛もよだつような時間だったので観客達は様子を窺うかのような目をしているものの、曲が始まったと同時に、心の安らぎを得始め顔が和み始めていた。舞台からは客席の顔は見え無いが、不思議と身に染みて伝わる。
クラウディスは歌い始めがまたの前奏の中、瞬きをして薄闇の中、一列目のCレーンを見た……。
スラックスの脚を組み、革靴を揺らし、手を膝に組み添えている。
「………」
ミスターグラデルシ。
クラウディスは口許を引き締め、薄闇の中の彼を見た。
彼の指の純金が静かに主張する事無く光り、そして、あの独特の顔つきが、微笑した。
クラウディスは身につまされる思いでそのミスターグラデルシの微笑を見つめ、目を閉じ耳に流れ込んでは身に侵食してくる落ち着き払った美しい旋律の中を、唇を開いた。
野太い貝のような深い音が後押しし、重厚さが増していく。
花鳥風月の女性的ロマンティシズムな中にも、侵食するぬくもりだ。
クラウディスの艶の様な瞳に光が差し、赤く染まる唇がポルトガル語を滑らせる。透明度のある切なさから安堵の温もりの時間へと。
全てが連鎖するように紡がれる音の調べ一つ一つが流れ、乱舞する。身体を鼓動させてくるようで、そして優雅な流れに身をそのまま浸るような。
音とは心地良いものだ。体の水分から透明に浄化されて行くかのような。
神秘的な鉄製の音がしんみりと呼鐘され、徐々に竹音と、輪唱される。
闇に住み着くかのような、透明なる音は縛られる事も無い崇高さもある。
竹音が四節で響きはじめる。
清流のように紡ぎ出される第二章が、硬質の木を打たせ響かせる。
二曲目に入ったばかりだ。
クラウディスの中に、恐怖が無いわけではなかった。
あの時の恐れが連鎖されるような、そんな感情。クラウディスはタカロスに抱きつきにいきたくなったが、それでも声を出しつづけていた。
もしも、目の前に、もしもミスターグラデルシの横に、ダイマ・ルジクが座っていたのなら、絶対に自我など保つ事など出来なくなっていた。
背後から立ち昇る紫煙のような静かな三人の金管楽器。
クラウディスはクラシックにあわせ、歌い始めた。
流離う……風の扉を行き
砂漠の先へ促され
彷徨える魂の砦を探し求む
我は愛情深き手を翳し 砂を落とす
遥か先から流れいずる光の乱舞は
少女達の足並みに思える煌き(人魚になり)
砂漠を潤し悠久の海底を呼び覚ますならば
我は愛情深きまなこで 深海を見つめ
流離う……波の狭間に揺れ流れ
起源の時へと孵る生命は
その殻を割り、鋭い破片で過去を傷つけ
新しい未来を造り変えては
流離う……お前とお前の間を
控え室に戻る前に、通路を拘束された次の順番の人間達が警備員に押され歩いて行く。
クラウディスを見て男が、絶対にお前等よりいい物演奏してやるという目をたぎらせて歩いて行った。
女精神科医が肩越しに振り返っていた顔を戻した。
「きっと、あの彼はあんたが気になってしかたがないのね。よくある単純な心理だわ。ああいう男は子供っぽい程お熱を後々上げるの。自分の強さや上位を示して、最終的には良く見られたいのね。気になる可愛い女の子に」
「俺は男だ糞ッ垂れが!!」
クラウディスはもうカンッカンに怒って男の一団の背に怒鳴り、誰もが茫然として振り返った。役立たずだったあの刑務所の警備員達も。
怒った顔のまま控え室のドアに入って行き、警備員達は可笑しそうに笑ったのだが。
「ひいっ」
クラウディスが女の子のような声を上げ、背を向け座っているミスターグラデルシに飛び驚いた。
足を組み、背凭れに片肘を掛け、顎を上品に引く横目でクラウディスに微笑した。
黒ジャケットにタートルネックで、ウェーブ掛かる短い髪を流している。
クラウディスはドアで立ち止まって、ニッカが知らずに進んでクラウディスを歩いただけでなぎ倒した。
「ぎゃ!」
「?」
ニッカは一人で倒れている3062番から、初老の品がある男を見た。何者なのかは分からない。
ニッカは背後に視線を渡してから、後続の人間達を引かせて扉を閉めた。
クラウディスは立ち上がるとミスターグラデルシを見た。
「素晴らしかった。坊や」
「どうもありがとうございます……」
「もう体の加減はいいのか」
「はい。ご心配お掛け致しましたが、ご覧の通り」
「それは良かった。お前の母から連絡を受けてな」
「わざわざご足労頂いただなんて」
「いいや。気に掛ける事など無い」
グラデルシは微笑み、立ち上がるとクラウディスの前まで来た。頬に触れ、俯くクラウディスの瞼を見た。
手首を取り、その両下腕の黒蛇の入墨を見ては相変わらず白黒人形の様に可愛い顔を見る。
「何故こんな事をした」
これはミラノから離れる前日に、地下にあるタトゥアッジョの店に立ち寄り彫らせた物だ。
二度とミラノに帰らないつもりで。悪魔の巣窟タルタロがあり、辛い悪夢と、美しかった記憶が交差するから。
そしてシチリアに彼は流れ着いた。
「もうこちらの世界には戻らないつもりか」
「俺が出所すれば、父は勘当してくる事でしょう」
「あいつは会場にいる」
「………」
クラウディスは視線だけを上げ、俯いて目を閉じた。
「お前の父もお前を心配している気持ちは変らない事だ。一人息子でもあるからな」
「跡取としてでしょう」
「思ってもいない事を言うな」
確かにそうだった。父親を憎んでなどいない。彼に申し訳無いことをしている事も分かっていた。
「お前に顔を見せに来る事は頑なとして無いのだろうが、心に留めておく事だ。昨日の事をローザから聞いて、急遽パリへ来たんだからな。元はどうやらお前の母は、叱咤を避けお前の父にも話を通さずにきていたようだが、その事を報せてもあいつはローザを攻めることなど無かった」
クラウディスは床を見つめてから、小さく頷いた。
「ところで……」
クラウディスは顔を上げ、きっとさっきの事だと思って口を閉ざした。
「男たるもの、どの様な状況に落ちようとも暴言を吐く事は最大の恥だ。分かっているな」
「はい……申しわけございません」
「お前の祖父が知れば、いい顔は決してしないだろう。何故刑務所という場にお前が収容されたのかの経緯は不明だが、自己まで流されるようではお前自身の発展は見込めない事だ。間違った事を行なえば刑罰が下る。それはお前の幼少時代からお前の祖父より、十二分に叩きつけられてきた事だろう」
「はい」
ダイマ・ルジクの名が出た瞬間、全身がもやもやと冷たくなって行くことがわかったが、気を確かに保っていた。
グラデルシはクラウディスの肩に手を置き、軽く叩いてからすっと身を返し、離れて行った。
向き直ると、クラウディスに微笑んだ。
そういった、グラデルシのアルゼンチンタンゴが染み付くために覗く彼の日常的な洗練される立ち居振舞いを見て、一瞬どんなに刑務所から出て行きたくなったことか。それでも、クラウディスはその足並みから視線を再び上げた。
「いずれ、お前が出所した後に」
そう言うとミスターグラデルシはクラウディスの横を颯爽と歩き、ドアから出て行った。
クラウディスは目を閉じ、何度も息を吸い吐いた。
しばらくして背後のドアが開き、女精神科医が声を掛けた。警備のタカロスとニッカ以外は会場へ向かっていた。
「面会は済んだようね」
「ああ」
クラウディスは壁際のスツールに座りうな垂れ、髪を両手でかきあげた。
項を抑えたまま目を閉じ、溜息を抑えた。
タカロスはエリザベスの横から顔を覗かせ、先ほどのどこかセクシーだった男が去って行ったのをクラウディスのところへ来た。
会話の内容は聴こえてはいたが、終始クラウディスが緊迫した声だった。
社交界の大物は顔が一般に出回ってはいない。何者なのかは不明だった。
「会場へは向かわないの?」
「いや。いい……」
「俺は行くぜ」
ニッカがそう言い、タカロスが返した。
「ああ」
担当のタカロスだけを残し、エリザベスも歩いて行った。
クラウディスは閉ざされたドアからタカロスを見て、腕を伸ばして腹部に抱きついた。
タカロスはドアからクラウディスの黒髪を見つめ、そのタイトな黒Tシャツの背に手を当て頭を抱き、壁に頭をつけた。
妙な感覚だ。
ミラノに戻る事は嫌なのに、タカロスがいるなら刑務所が苦じゃ無い。
確かに外界は魅力に溢れているが、それでもこうやって此処にいたいのだ。
「俺に厳しくしてくれてもいいのに……」
囁く様にクラウディスは言い、タカロスはクラウディスの艶髪を指で撫でながら「ああ……」そう小さく言った。
分かっている。だが確実に、理性を失って行く。
クラウディスはタカロスを見上げ、その瞳は潤んだように見つめてきていた。
「タカロスになら……」
虐げられたい
その言葉が囁きに消え、タカロスは明確に表されたそのクラウディスの瞳の感情に、顔を反らしきつく目を閉じ、口許を閉めた。
「そんな事を言うな」
わななく声で言い離れて行き、クラウディスはその背を見つめてきゅっと口をつぐんだ。拳を握って感情を抑え、目をきつく閉じ俯いた。
タカロスは白革のベンチに座り、あちらを見ていた。
クラウディスはスツールから立ち上がり、鏡前に来てその四角いスツールに座ると、電気をつけてドレッサーの上を見た。
女警備員の本が置かれていて、それを開いたが頭になど入らなかった。
「飲め」
驚いてクラウディスは背後を見上げ、タカロスが淹れたコーヒーを見て頬を染めて顔を戻し頷いた。鏡に映る背後のタカロスに全身真赤になる。
「ありがとう……」
「いいや」
クラウディスはカップを傾けると、ソーサーに置いてから本を閉じた。
鏡に映るタカロスは、背後へ歩いて行き、そしてテーブル向こうのベンチへ戻った。長い脚を組み、その態さえも魅入ってしまう。
雑誌を開き、時々しっかりとクラウディスを上目で見て確認した。
鏡越しに目が合い、クラウディスは本の表紙に視線を落とし、目を閉ざした。
シタゲラレタイ
その言葉が、タカロスの脳裏に静かにリフレインした。闇に静かに落ちるかの様に……。
独房で上がって来た視線に、どんなに耐え切れなくなった事か。自己を抑え、理性を保ち続けるためにはクラウディスは魅力的過ぎた。
鎖の重みも、あの微かに触れる肌も、微かな息遣いも、甘やかな麗しい視線も、その闇色の瞳の奥にある、強固とした頑なな芯も。時々覗かせる首元へ注がれた猟奇的な空気感は、静寂を縫って濃密に伝わった。
貪り尽くしたくなる色気がクラウディスにはある。禁じられた危険な欲望を誘う様な。
「………」
タカロスは立ち上がり、歩いて行きクラウディスの背後に来ると、肩に手を置き台に手をついた。
流れるようにタカロスの両手が肩に絡まり、クラウディスはタカロスの腕に手を当てた。
このまま、そうだ。
食べられてもいいのかもしれない。
彼になら。
そうやってでなら、消えても構わない。生きて行く辛さなんかいらない。
四人の愛すべき彼等を死なせてしまった全てを、浄化出来なくても、タカロスになら。
クラウディスはタカロスの腕を引き寄せ、タカロスはクラウディスの肩を強く抱きしめた。
「開けるぞ」
ガチャッ
タカロスは背を伸ばしドア側を見て、アルデを見た。アルデは二人を見ると、首を通路にしゃくった。
「会場に来い。割と良い」
「さっきの奴等か?」
クラウディスは憮然としていたが、父がいる会場には足が重くて向かう気がどうしても起きなかった。
だが、興味はあった。それにプログラムの中の他のチームにも興味がある。
「今は二曲目だ。そろそろ三曲目に移るだろう」
拘束されクラウディス達は進んで行き、通路を歩いた。扉を潜って横通路を歩くと、再び扉を開けて闇が広がった。
それに、一斉に音のオンパレードも。
クラウディスは一気に心踊り、わくわくして笑顔で客席背後を進んで行き、演奏者達が後ろに立ち聴いている中を進んで行った。
「………」
途中から現れた三人に、一番後部座席にいたクラウディスの父親は口を噤み、鋭い横目で息子の影を追っては、視野から消え、前に向き直った。背後の離れた方へ来ると、父親に気付く事無く小さく話し始めている。
「凄いな。見かけに寄らず音楽してる」
クラウディスはピアニストにそう言い、ピアニストは頷いた。
「この楽団の彼らも作曲をしているからな。元々思い入れもあったんだろう。彼らの場合は十二年前からチームを組んでいて、過去四回コンクールで優勝しているって噂だ」
「へえ。プロだったのか」
柄は悪かったのだが……。
「十二年って、何やったんだ」
「常習犯という奴さ。同じ様な軽犯罪を繰り返してしまう手の。出ては捕まり入っては出てを繰り返している人間は多い」
クラウディスは相槌を打ち、光っている舞台上の彼らはまるで別人かのようだった。
吹きながらターンしても背にチャックは無かったし、どうやら本人たちに間違い無いようだ。
オンパレードが繰り出されるパワフルさの渋みの中にも、清々しい感じもあって軽快だった。動きも時にシャープな中に面白さも含ませる。舞台慣れしている様だった。ストリートジャズを街角や煉瓦で囲まれたスポットで聞いている様な感覚だった。どこか洒落た風も強い。
オッドーはこの手のジャズが好きらしく、合わせて軽くリズムを取っていた。その真横になんと女精神科医がいて、微笑んでいた。
絶対に雰囲気が良い……そう思ったのだが。
「えっ」
クラウディスは口を抑えて視線だけを下げ、腕と足と組み座る背を見た。見慣れたシルエットの黒革グローブの片手をアームに乗せ、いつもの様にその先を鋭い手指の中指と薬指を添え撫でては、人差し指で軽く叩きを繰り返している。
父親だ。
父親は絶対音感があり、いつでも音の一つ一つをああやって手で捕らえていた。癖のような物らしく、無意識下のことのようだ。彼の中に独自にある三弦に分ける音高と音階と音域を、左手指が表している。その為に、未熟だった時期のクラウディスのヴァイオリン演奏や子供達の音楽コンクールに父親が来ることは一切無かった。妻に言われてクラウディスも連れ行く教会も、父親がここだと言った以外の教会には行かなかったのは、鐘の音や合唱など、パイプオルガンが最高峰にプロ級であったその礼拝堂のみであって、実際は彼自身が礼拝をしている姿などクラウディスは見た事も無かった。無宗教者だとは分かっているのだが。
鋭く細身な背の高級な仕立ての紳士服は、やはり神経質さが覗く。いつでも堂々と構えていて、怜悧な目元はいつでも冷静にクラウディスを見据えた。時に判断が厳しく冷たいが、その分母親は優しかった。あまりクラウディスは父親と会話を交わす機会は無かった。顔を合わせる場面もそうだ。
消し炭色に銀ピンストライプはシャープな形態が洒落ていて、やはり父親らしい空気感の個性がある。白のシャツが不思議とラフに白く浮き、そして赤の胸元の花が映えた。腕時計の小物も洒落ている。いつでも、紳士服のスーツの内側は洒落た柄のシルクだという事も分かっていた。
いつでも屋敷に帰り、妻との自室へ向かい、釦を外してはベストの横に覗くその柄に惹かれることもあった。幼少の頃。ある時は群青の牡丹の花だった。ジャケットを妻に預け、透明感と芯のある香水が微かに香りスレンダーな長い脚を颯爽と進めさせる。黄金の懐中時計のチェーン先の時計を、鋭い手が取り、時間を確認しては妻を向き直って上目で見つめては、そっと頬にキスを寄せた。ローザも頬を染め、微笑んでから小さな白黒の縫いぐるみのようなクラウディスに気付くと照れたように母は笑った。父親は咳払いをして颯爽と歩いて行った。
そういう記憶が、ふと甦った。
ミスターグラデルシは近くには居ない。他の貴族仲間はいないようで、どうやら二人で訪れているようだ。珍しい組み合わせだ。
クラウディスはぶっ倒れそうな程固まっていて、それに気付いた女精神科医がやってきた。
「座りたいの? 席は無いけれど、せめて壁に背を付けていなさい」
「大丈夫だ」
「そう?」
「ああ。ありがとう」
一度肩越しに背を浮かせ父親がクラウディスを、あの鋭い顔つきの中の目で見て来て、クラウディスは口端をはにかませ、父親は片眉を上げてから向き直った。
女精神科医はクラウディスの父親の顔は知っているので、その後頭部を見てからクラウディスを見て、クラウディスは下唇を噛んで黒猫の様な顔で顔を険しくていていたのが可愛くて可笑しかった。まるで三歳児のような顔だ。
アルデはミラノの有名な富豪の男に思い当たってその背を見た。横に立つ3062番を見た気がした。3062番の背後から拘束しているタカロスは舞台を見ていて、聴きつづけていた。
「おい小僧」
ニッカがトントン肩を叩いてきて、クラウディスは見上げた。膝を上げてきたので、まあ座れとでもいう風だったが、人間椅子にするのも悪いし、なんともつかぬ顔で遠慮しておいた。
舞台を見るとN0.6チームの最後の曲に入った。
落ち着く感じの重厚さと洒落た感じのある曲で締めてきて、そこで初めてグランドピアノの演奏も高く入った。
中心でスツールに座ったトランペットの黄金が天を向きワインレッドに照らされ、茶褐色に落ちて行き闇に吸い込まれて行った。
黄金に瞬き周りの人間達の黄金の楽器がうねりパワフルに最後が流れ吹き鳴らされた。
盛大に拍手が巻き起こり、その中で影が進んできていた。
「ヘイあんた。二日目は良かったじゃないか」
あのブラジリアンが微笑しクラウディスの肩に腕を回して顔を覗き見て来た。
カタコトのイタリア語でそう言い、舞台のほうに腕を広げた。
「あたい等がやるのは奴等の次さ。それまでにはいることだね」
そう髪を掻き乱して去って行った。最後の金髪娼婦女がクラウディスにウインクして、警備員に背を押されて歩いて行った。
写真とは違う装いは、やはりヌードカラーに柔らかい素材のパンツスタイルで統一された物で、どこか奔放さがあった。
司会者が長々と話していて、次のチームの説明紹介をしていた。
五人一斉に驚くべき肺活量の声楽が、まるでアマゾネスのように勢い良く発されて度肝を抜かされた。まるで襲い掛かる瞬間の獣やアナコンダのようだ。貫禄と勢いがある。
挑発的に金髪娼婦が色目を使っては、一遍の狂いも無い曲とターンが唸った。圧巻させられる。たまにドラ猫の様なシャウトが長身でグラマラスな黒髪ボブの女から発され彼女は足の付け根からにゅっと長い脚が伸びて猫のような立ち姿だ。
高くダイナミックな声が三人から発される。太鼓がドンドドンドドンと鳴らされシンバルがリズムを刻む。
「おいいい女だな」
ニッカが珍しくそう言い、どうやらあのリーダー女に心奪われているようだ。確かに、大柄な風も雰囲気が重なる。
目を剥き威嚇する様に声を、両手を広げ切れのある声を出し、歌詞は無いのだが迫力があった。
最後は爆音かのような声が複雑に絡み合い轟き、終焉を迎えた。
拍手が巻き起こり、盛大に歓声が沸きあがった。
次のチームは、なんとクリスタルベルだった。
幻想的な森の情景が浮かびせせらぎも感じるような。それが、無骨そうないかつい男達が整列して脚にずらりと黒の足枷で鎖に繋がれ背後に其々切れ気味の顔の警備員を仁王立たせ鳴らしているので、その美といかつさと神経質さのミスマッチさがなんとも言えなかった。
逃亡を試みた八人で、其々大きな手に小さなベルを持ち、リンリン鳴らしているので可愛かった。
クリスタルの風鈴を鳴らす左端の男と、鉄の棒でクリスタルグラスの縁を撫でる左端の男はボコボコになっていて、クリスタルの呼び鈴を手に鳴らす二番目の男も目に真っ黒な痣が。大振りのクリスタルベルを音符ごとに持ち替えて鳴らす三番目と四番目は双子らしく、顔が同じだった。しかも同じ場所に痣があって同じ場所にガーゼが貼られ、鼻にティッシュが突っ込まれていた。
相まって崇高な音が流れている……。
そんなわけで、かなりの綺麗さから拍手が沸き起こっていた。そんな中を鎖で繋がれ鉱山を掘り起こす囚人達の如くゴトゴトと連れて行かれたのだが……。
次のチームは、警備員のみのあのチームだった。
何だか恐い男達で、黒金属のサックス全種類は二機ずつで、ソプラノサックスのみは無い。それと銀のシャープなトランペット四人。
その黒と銀の黒人軍団だ。筋肉質な大男から、スレンダーなチーターのような男までいる。
ニッカも元々はあの刑務所の警備員が出身だった。極悪非道な奴等のみが収容される完全独房制の刑務所。もちろん、自由監房など存在しない。
渋く心打つような曲が、以外に無国籍の情緒を醸して演奏される。誰もがパイプ椅子に座り、バリトンサックスの二人は両サイドに立ち静かに吹き鳴らした。まるで、闇の中に住まう静寂の番人かのように。だが決して暗澹としているわけでは無く、終始黄金の強烈な光が鋭く書け回る中を燻し銀のような時間が流れた。
時に覗く黒の中の白い目や白い歯が浮き、銀が鋭く光っては、温もりのある木管打楽器が入り、艶を与えた。
まるで空間を蛇が静かにのたうつかの様に、流れて行く……。
大人の時間、というものが引き潮のように引いていき、細波のような拍手が沸き起こった。
ザッと敬礼すると、ライフルを構えるかの様に回れ右し、彼等は幕へ引いて行った。
同時に、第一部終了の緞帳が降ろされた。
父親は著名人なので、犯罪者として手錠を嵌める自分が声を掛けるわけにはいかなかった。一気にどんなことになるのかは分かっている。
照明がついた瞬間観客達が徐々に動き出し、見知った顔がクラウディスの父を見ると笑顔で話し掛け、クラウディスは咄嗟にタカロスとロイドの背に隠れた。タカロスの腕と銅の間から見ると会話を交わしていて、鋭い横顔は変らない。
エリザベスはクラウディスの肩を叩き、フランス社交界の夫婦と話すダイマ・ルジクの息子を見てから、孫のクラウディスを見た。
「無理しないで」
クラウディスは頷き、気まずくて仕方が無かった。
「どこか息子さんに顔立ちの似た女の子が舞台で歌っていたので、とても驚きましたよ。世の中には似た顔の者がいると言いますからね。しかし、素晴らしかった」
そう顔を知っている貴族の男がそう言っていて、婦人が続けた。
「息子さんはお元気?」
「ああ」
真後ろで飛び跳ねているほど元気だった。
クラウディス自身は手錠を嵌められているので、まさか出て行く事など出来ない。父親の世間体もあった。父親はその夫婦と共に会場を一度はなれて行き、クラウディスは安心して息をついた。遥か遠くで、ミスターグラデルシの背は横の人間と話していた。
ようやくタカロスの背にしがみついていたのを顔を覗かせ、タカロスは耳を赤くしていたのを、ロイドが気付いて肘で突いた。タカロスは口をつぐんで咳払いし、クラウディスは会場をきょろきょろと見回していた。
クラウディスは慌ててバッとタカロスの後ろのニッカの後ろに隠れて身体を小さくした。
三グループも知り合いがいたからだ。右端の方に、五人グループのミラノでの友人。左側後ろに同じ学校だった三人の女子。中心レーンの真中よりにパリ社交での男女の友人六人組み。そのパリ社交の人間と同じ学校だった女三人が笑顔で話しながら歩いて行き、クラウディスはオッドーに怪訝そうに見下ろされながら目だけで追っていた。
五人の友人達は最新のコレクションやオーダーメイドに身を包んでやはり洒落ていて、あちら側の扉から会場を出て行った。
何故こんなにいるんだと思いながらも、落ち着かなくてずっと警備員の間に立っていた。
客席に来た黒い警備員達が歩いてきて、ニッカに話し掛け始めた。言葉は通じなかった。
クラウディスを見下ろしたスレンダーでスタイリッシュな国人が、自分の被る黒のフェードラをクラウディスに被らせ、その男ともう一人がニッカに挨拶を手短に交わし黒ジャケットの中の黒のサスペンダーに手を掛け(シャツは黒の丸襟)喫煙するために歩いて行った。他の警備員達はそこに落ち着き、タカロス達とも話し始めていた。
クラウディスはフェードラを目深くかぶっておいた。その姿もやはりシャープにセクシーで可愛かったのだが。
クラウディスはロイドに背を向け壁側を見ていて、会場が再び暗くなった。
肩越しに顔を覗かせ、暗闇の中でロイドが肩越しにクラウディスを見下ろすと顎を取り、そっとキスを寄せた。
クラウディスは離れて行った唇を闇の中で見つめ、頬を染めてから横に戻って緞帳の降ろされる闇の先を見た。
司会者のブースが照らされる。
第二部が始まる。
#5へ戻り、クラウディスはベッドに座ると一息ついた。
タカロスが外した手錠を手に収め、腰元からクラウディスを見た。黒のジャケットを戻し、手を下ろすと進んだ。
白水色の瞳が闇色の瞳を見つめた。
クラウディスは彼の首筋に腕を回し、そして耳元に囁いた。
息の根を止めるほど、首元を噛み砕いて欲しい。
そう、囁いた。
タカロスはクラウディスの瞳を見つめた。
落ち着き払った清らかな気持ちの今のままに、構わない……。
黒髪にアッシュブロンドが混ざり。
クラウディスが涙を流し続ける。狂いそうな程の理性が鼓動する。
手錠が落ちジャランと音を立て、その腰に触れた冷たさにクラウディスは、目を開きタカロスを見た。
タカロスも瞳を開き、彼の漆黒の瞳の中の要望が、真っ直ぐに伝わってきた。
殺してくれ。
その心が……。
クラウディスは手錠に手を掛け、タカロスの片手を引き寄せそれを持たせ、もう片手も引き寄せもう一つの輪を持たせた。
銀の鎖で充分、白の首筋を窒息させる事が出来る。
だがそんな事など、ゆるやかな死生観の空気の中を、静かに横たわるのみで、哀しい事だった。
瞳を開いた。
「殺さない。お前は刑期を終え、再び世に出る義務がある。何故犯罪者が検挙されるんだ。刑務所は何故あるんだ。何故俺達がお前達の為にいて、一生を此処で生きるんだ……」
クラウディスの瞳が揺れ、一度も逃げる事など無いタカロスの眸がクラウディスの目を見つめた。
冷静な白水色の眸から、涙がたまりタカロスは顔を反らし白い肩に落としてクラウディスの肩を優しく包括した。
「生きてくれ」
辛くても……。
クラウディスは天井を見つめ、顔が真赤に歪んで涙が流れた。
タカロスの背を抱きしめ声を押し殺し泣いた。
今まで失ってきた者達の為に、今まで約束してきた掛け替え無い者達の為に、今こうやっている自分の為に、そして今終らせようとした自己の為に。生き続ける事で強くなるのだ。
死の判断を下す事の悲しさを、彼も身に染みて分かっている……。
自分に関係の無い人間だとか、仕事上だとか、恨みからの反抗だとか、そうされただとか、隔たりなど一つの生命の終わりには関係が無くなる。確実に、≪死≫が訪れるという事。その人物に。
その事を、重要な事だと思ってもらいたいのだ
分かっている筈だ。クラウディスになら、光に満ちた世界の輝きの中で、何がとても大事なものなのかが。
だから≪闇≫にも増して、クラウディスの漆黒の眸は眩しく輝いている。
あのクローダの死刑囚の判断にさえも、勝るほどの。漆黒の眸には美しい輝きを湛えている。白の笑顔と共に。
契約
今二人抱き合い天へと羽根を広げ心を解き放つ時だよ
さあ 踊ろう二人で
光が溶け合い幸せが待っていると私は涙を喜びとしては微笑みキスをして
そう いずれは別れの時まで幸せ紡ぐ
共に幸せの栄光分ちあえるときがくる
進み始めた船の先には希望と明日が続くから
カモメが飛び立ち船は白い帆を広げて
飛沫を飛ばして嵐を向き合っては
海の彼方に魂の果てが光のヴェールの先に広がる
この緑の島の先に緑蒸す
鳥は羽ばたき白い羽根を広げて飛び立つ白の雲に溶け込む
島の河のせせらぎに輝く光の乱舞をさあ見つめよ
その流れの先には楽園の魂が光り輝く
航路の先に見つけた夢の国は光と神が住む楽園
我が愛する鳥さあ飛びたてと
青の空に飛びたて はばたけ
太陽が光るその翼を染め
光と影彷徨い 流離い ウウ
まだ見ぬ明日へ心に納め両腕に過去を包み歩け
お前だけの誉れだけが待つ
さあ 飛びたて我が砦の女神
光の味方をつけ飛びたて
夢の先から舞い降りた様な大地の恵を手にして
紅の花舞い散り湖面の先揺れてる
闇に浮く花びらが
ひらりひらりと風に揺れる
良い香りで誘う世界はあなたをみりょうするわ いつでも
だから柳の先のあの世界へ
虚無と心を邪悪にとけさせて来て
くれないの花開き 心が満ち足りてく
あなたは優しげに
今は二人別れているの
汽車に飛び乗り他の人の場所へ向かえば
思い出す記憶が闇に思い出せれて
膝をついてホームでなくあなたを見た
再び壊れゆく愛を始めれば二度ト傷つかぬ心を手に出来ると
さよならあなたに今までの私は忘れてと願って
女子自由監房内。
女受刑囚エファは、隣の監房がガシャン、と開けられた音で視線を上げた。
女警備員がくるっと返し二人牢屋前に立ち、そして副所長と受刑囚、その背後に縄を持つ警備員がヒールを響かせ歩いてきては、鍵の開けられた牢屋の前で立ち止まった。
うだうだと歩いていたのは受刑囚の女、ラビだけだった。
お尻を突き出し立っては、エファを見ると拘束される手首を一定の位置に上げたまま、手を振った。
エファはラビに小首を傾げて見せ、ラビが警備員の女に押され牢屋へ入って行ったのを見ていた。
他の牢屋の女受刑囚、テテはエファと目を合わせてから再び二人で牢屋を見た。
ラビは手錠と腰の縄を外され、ようやく手首を撫でた。
上目で自室を見回しては、にっこり笑って向き直った。
「久し振りに帰って来た~!」
そうやって副所長に抱きついて、副所長は驚いて肩をとんとん叩き、ラビはくるくる回ってからウキウキした。
キャンディーも甘いお菓子も無かったのだ。ふわふわベッドも。ただ、料理研究家の料理は美味しかったし、仲良くなった女王のベッドはふかふかだったし、薬剤師が秘密裏で作った酒も美味しかったし、わりと至れり尽せりだった。歌も面白かったしタカロス・ラビルもアルも格好よくって可愛くて、それに彼氏の事もアルからたくさん聞けた。
また早く彼氏に会いたくなってしまった。
副所長と女警備員三人が去って行き、テテが牢屋から出て来ると腰をふりふり振りながら歩いてきては、白猫の様に鉄格子に手をつけ、黒いマスカラの上目で見ては、ピンクキャンディーな艶の唇で言った。
「ねえ。何があったのよ。もう帰って来ないんじゃないかって思ってた」
「一体なんだったの? いきなりあの人らに連れて行かれて長期間拘束されて」
エファも膝を覗かせ黒革が膝を巻き鋭いヒールが牢外に立っては、黒のチタンストーンが光った。黒ペディキュアと共に。
さらりと長い黒髪が揺れると、群青の二重が横目でテテを見た。
テテは上目で微笑んでエファの頬に手の甲を滑らせ、エファは口端を上げ微笑してからともにラビの方を見た。
黒革のショートビスチェの腹部にピアスが嵌められ、黒革のショーツから抜き出る脚は長く、エファは鉄格子に体重を掛け髪を翻し回転しては牢屋を出た。ポールダンサーの様な切れで。
「もしかして、脱獄の手ほどきでも受けて来たの?」
そう、ラビの牢屋の中で浅黒い肌を真っ白に反射させては腰を折り、チェストに肘を乗せては上目でラビに聞いた。元から真っ白なテテはフフと微笑し牢屋にはいって来ては、白ファーのスルーツに座ってぱちぱちとウインクした。
「ね。それって素敵。あたし達も脱獄したいの」
「え?」
ラビは髪に香水の香りを含ませながら髪をふわっとかきあげていたのを、肩越しに彼女達を振り向いた。
黒のデビルと、白の天使のような二人を。
「あたし、外にリムジンで乗り付けて迎えに来てくれる富豪の旦那様が待ってるの」
天使のテテがそう言い、頬に描かれたハートがウインクした。
「あんたは? 本気で考えてるわけ? そうとうトンでるんだけどー!」
「情報によると、方法はいくつかあるって話だよ。≪条件≫っていう奴。この刑務所にはあるんだってね」
「あ~なるほどー……ふ~うーん」
ラビは丸い唇に人差し指を当てきょろんとした視線を斜め上に向けた。、それは今回あった野外活動の事だろうとすぐに察しがついたものの、タカロス・ラビル達はそうは生易しくなんか無い事など、分かっていた。いつ、あのジャケット内側の腰元の拳銃を抜かないとも思えなかったのだから。
もし、あの男の子に生まれた受刑囚アルになら実行できても、自分達はやはり女だ。
「まさか、本気で考えているわけ?」
「その前に、あんたが何をして遊んできたのかをいいなよ子猫ちゃん」
エファはラビの顎を擦り微笑して言い、ラビは言った。
「歌うたってたの。それで、監房の受刑囚達の身の回りのお世話。それだけ。……素敵でしょ?」
「………」
「………」
エファとテテは顔を見合わせてから、瞬きしてラビを見た。
「え? 身の回りの世話? 終身刑だとか言う奴等の?」
「何よそれって、もしかして受刑囚のストレス軽減の為に体の相手とか?」
「やだ。見ず知らずの野郎共に投げ出す体なんか持ち合わせちゃいないね。他になにかあるんだろう? 教えなよ。移動中までに抜け出せそうなポイントがあったとかさ、そういう話」
「ジャガイモはたくさんもらったわ」
「ジャガイモ~?」
エファは目を伏せ気味に口を閉ざし、背を伸ばすとベッドに座ってからラビの顔を覗き見た。
「何かいいことあったね。顔が笑ってるじゃない」
「何? 何があったの? もしかして抱きついてたってことは副所長と目覚めちゃった?」
「違うわよ」
猫の様に笑う上目でふふんと微笑んだ。女王とはそうだったのだが。
「じゃあ何? 受刑囚にいい男いたんだ。終身刑にしとくなんて勿体無いくらいいい男」
「いい男って言えば、素敵な警備員タカロス・ラビルが一度あんたがつれてかれた後に来たよ」
「え? 本当?!」
ラビはあの素敵なジャケット姿とキャップを取ったタカロス・ラビルの素敵な素顔を思い出してぼうっとして、そしてもう一人の素敵なお方、オッドーのことなのだが、彼の事を夢に描いてそのまま白昼夢の中にぶっ飛んで行きたい気分でベッドに転がり肩を抱きしめ背をうねらせた。あの素敵なお方があの可愛らしいアルとキッスしていた姿にもドキドキしたのだが。
あのドイツ人ドイツ人とハイジが呼んでたお方……。




