独房へ
[美しき悪魔]
■1933年■クラウディス 十八歳
(1)
イタリア。南部刑務所。
男子自由監房内。
受刑囚番号3062番、クラウディス。
彼が牢屋内で目覚めると、男を潰し眠っていた。背を上にして。
男の胸部に広がる色彩豊かな入墨に短く悪態をつくと頬の方向を変え、鉄格子の先を見た。
既に囚人たちが自由に朝陽の中を行き来している。
クラウディスはもう一度眠りたくて頬の方向を戻し、目を閉じた。
男子監房の中は適度に今の時間、会話が流れている。
比較的自由な行動が許されるが、脱獄だけはまずかった。即刻射殺される奴等をこの一年で三人見ている。
朝陽が背を差し、眠気を再び軽やかに誘った。
潰している男がどうやら目を覚ましたようで、腕を動かし髪をかきあげた。
クラウディスの閉ざされる真っ黒くて多い睫を見てから、肩を叩いた。
「起きようぜ。腹減った」
「嫌だ」
クラウディスは眠りつづけ、男は首を振って枕に頭を戻した。
「アル」
「あ」
「昨日、監視員が一人お前を睨んでたぜ」
「ほっとけよ……眠りを妨げるな」
クラウディスは頬を胸部におしつけて目を閉じたまま可愛い顔で欠伸をし、艶髪がうねっては黒猫の様に頬釣りして来た。
男は髪を指先で撫でてから、上半身を起した。
クラウディスは不機嫌そうに目を開け閉じ、肩に頬を乗せると目を開けた。
「気をつけろよ……全ての奴等が俺等側の正当じゃねえ」
「ハハ」
クラウディスは短く笑ってから牢屋の先から、顔を男の首筋に向けた。
男の背後のモノクロ写真が貼られた壁に手をつき、クラウディスは微笑し、離れて行った。
牢屋から出て歩いていき、自己の牢に久し振りに戻るとまた野良猫がいた。
質素な寝台の上で丸まって、毛玉のように寝息を立てている。
クラウディスの牢屋の中は何も私物が無いに等しい。壁紙のポスターも無い。雑誌も無い。本も無い。CDも無い。ダーツの的もなければ、キリスト像も十字架も無い。アクセサリーも無かった。(ナイフは足首に括り付けられ、)金はクラウディスしか開けられない箱の中だった。
十着の黒のストトラと靴下、四本の黒のパンツ、二足のブーツ、四着の上着、ベルト、箱、それ以外は無かった。
皮パン、ブーツ、バックルベルト。それがクラウディスの常の格好だった。雪白の肌の両下腕には黒蛇が入り、左胸部には黒い対コブラが弧を描く入墨。
瞳と髪が黒く、妖美な微笑みを称える唇は赤い。可愛らしい目元をした麗しい青年だ。
猫が目を開けるとクラウディスの背を見て、またごろごろと喉を鳴らした。
クラウディスは寝台に座って肩越しに猫を振り向いた。
猫はクラウディスに甘え、ニャ-ニャ-言って来る。
向き直り、寝そべって白い天井を見る。以前の入っていた人間がポスターを張ってでもいたのか、小さな穴が開いていた。星座のように。
クローダボスと 見つめた夜空を思い出す。綺麗だった。本当に……。
瞳の中にも映るかのような。
クラウディスは目を閉じ、頭の中にちらつく男の胸部の彩りある苛つく色彩の入墨を、追い出していった。黒く塗りつぶす……。
猫がクラウディスの頬を舐め、耳に噛み付く。甘噛みさせておき、黒く塗りつぶすと、目を開いた。
「おうアル」
「あ」
金髪の痩身囚人が今にも鉄格子の間から入ってきそうな目で手をかけ、クラウディスを見た。
男は入ってきながら、小さく折りたたんだ金を手に出し、クラウディスは受け取った。
クラウディスは監獄内に麻薬を卸していた。警備員を何人も買収し、蔓延させている。
手にした金は七割を月に一度の訪問時にマフィアの人間に渡し、二割を預けて貯金させ、一割を手元に残した。
金を仕舞ってから、男と連れ立ち食堂に向かう。
時々、歩きながら数ある数式が目の前に乱舞した。
数学の数式は時々宙に浮いては囚人同士の喧嘩の声に掻き消されたり、呼ばれて掻き消されたり、邪魔されても別に構わなかった。難解だろうとすでに出来上がった方式だ。
牢屋の横をゴム床を歩いていき、バラバラになっていった数字の数先で回る銀のナイフを手に収め、鉄の階段を降りていく。
横の男は勝手に話し続けていて、クラウディスはポケットにナイフを仕舞い手をかけ降りていった。
警備員が立ち深く被った鍔先の目で、一度クラウディスを狙い定め目を光らせては、影にしのばせる。
両側に牢屋が並ぶ披露目の通路を歩いていき、天井の鉄パイプの入り組む全てが、数にとって変えられる。ミラノの街並の完璧な建築物も、数字に置き換え見える事もあった。
数字にうめつくされ、空に飲み込まれていくような。建築物を見れば、頭の中に一瞬で緻密な設計図が広がった。そういう頭をしている。
クラウディス達は食堂に進み、適当に受け取って席についた。
男は首をゴキゴキ鳴らし、相変わらず野郎しかいなくて色気の無い食堂の中の、綺麗な青少年、クラウディスを見た。
相当目の保養になる。
「アル」
「あ」
クラウディスは白味魚を口に運んでいて、ヒヨコ豆のスープを口に運んでいた。
「お前肉ぐらい食え。魚ばっか食ってるから白いんじゃねえのかよ」
「うるせえな。元が白いんだよ」
痩身金髪男は逆に、異常な程肉を食い過ぎて思える。クラウディスは肉が食べられなかった。
「性格は肉食なのになあ」
男がそう言い、クラウディスは水を流し込むとちらりと男を見た。首にヘッドホンを下げていて、横顔はピアスが光る。繊細な顔つきをした男は骨が浮き、自身も青いほど白い肌をしている奴だ。男の場合、薬で漂白されているようなものだ。
一方、クラウディスはラテン系の健康的な美しい肉体をしている。肌の白さも粉雪かの様だ。
「明日は俺等の激励に女優が来るらしいぜ」
「へーえ。男優の方が魅力的だね」
「お前にはな。曲出してるってんで、CD買う」
「お前、マジでミーハーだよなあ」
クラウディスは呆れてそう言い、食事を終えて立ち上がった。横の売店に行く。
雑誌だとか、菓子だとか、カード、ウノ、下着、規定の歯ブラシ、CDだとか、果物が売られている。
車両整備の役目から入る金はやはり決められた額で、クラウディスにとってはやはり、裏で手にする金の方が動いた。
男はさっそくCDを買っていた。プレーヤーなどは売られていなく、訪問時にもって来てもらうか、裏から手に入れるしかなかった。小型TVやラジオ、新聞、アクセサリーもその裏の闇店で売られているものの、馬鹿の様に高いし、クラウディスはそういうものは必要なかった。余計なものに興味は無い。
月に一度、女性監房の女達とバレーボール交流を持てるという、男子監房者達の至福の時は時々、女優だったりモデルだったり歌手だったりの訪問に変えられる。バンドだったり、喜劇の人間も来たりした。
月に一度のバレーボール交流の時に刑務所の中で壁を隔てて愛を分かち合い、挙式を挙げる人間もいて、どちらにしろクラウディスは女達に声を掛けられる事すら面倒で稀にしか出ない。
今一趣味のわからない男はCDをセットしては聞き始めていた。
刑期は四年。
ようやく一年経っていた。
外に出ることにする。
鋭い目をした警備員達が目を光らせていて、ライフル銃を構えている。
適度にバスケをする人間や、会話する人間、それらが塀に囲まれた中を適当に過ごしていた。
クラウディスはベンチに転がり、目を閉じた。
「………」
一瞬を置き、その場の空気が変った。流れのように。
クラウディスは目を開き、弾丸の飛んでいった青空を見た。
顔をそちらに向け、鋭い怒声の飛び交う先、男が壁に勢い良く駆け上がった。
カルドレだ。
「………」
クラウディスは二日前に話を交わしたカルドレの背を見て半身を起こし、その背をライフルの軌道が追う。
あいつは外に恋人がいて、二十四年出られない奴だ。
クラウディスは、カルドレを撃ち殺そうとした警備員からライフルを奪い警備員はキャップ影から横目で睨み見下ろし鋭く歯を剥き、瞬間クラウディスはカルドレの塀を掴んだ手を撃った。
「………」
カルドレは地面に背を打ちつけ落ち顔を歪め、警備員達が駆けつけその腹を蹴り上に向かせた。
クラウディスはライフルを返し担架が運ばれた為に身を返し、歩いていった。
肩を引かれ、肩越しに警備員の手を払い睨み付け、歩いていった。
「受刑囚3062番。銃器を扱った事による厳罰が下されると思え」
吹き抜け監房に響き、それを無視して歩いて行った。
呼ばれ、クラウディスは入って行った。
所長が机の上の手てトントンと叩きながら、クラウディスを三角の目でじろりと見た。
「受刑囚3062、クラウディス・レオールノ・ルジク。警備員からライフル銃を奪い、受刑囚4750番を狙撃した事によるあるまじき行為により、七日間の独房行きを命ずる。これは、脱獄を図った受刑囚4750番の行動を阻止した事による貢献による短期間の刑罰だ」
普段、争いも起さずに他受刑囚達との交流もしっかり保ち、車両関係の仕事も難なくこなし、数学と建築の博士号も持つために機器関係の知識もあってか指導も良く、警備員受けもいい模範的態度の受刑囚だった。
「退室しろ」
クラウディスは出て行き、そこで警備員に拘束器具をつけられると、反抗することも無く進んで行った。
独房に入らされるのは初めてだった。
「一年目からこれだと、後の刑期が目に見える。滅多な事はするな」
「無駄口が多いんじゃねえのか?」
冷たく睨み見下ろされ、クラウディスは無視して入って行った。
扉が閉ざされ、警備員は拘束器具を外していき、白い項を見てから視線を反らし他の器具を取り付けていった。前方から両腕を回され背後で床から下がる手枷を嵌めていて、クラウディスはその監視官の綺麗にアッシュブロンドの切りそろえられる清潔な白い項を見つめていた。形の綺麗な耳と、こめかみ。かすかに、自己の首筋に警備員の静かな息遣いを感じる。クラウディスはキャップ鍔から覗く、無表情の中の白水色をした瞳をふと見つめた。百九十八の身長から背後を見下ろし、静かな目元をしている。薄い口許も閉ざされ。
背の後ろで下腕を交差され鉄枷が嵌められ、それが天井からの鎖に取り付けられた。
クラウディスは昆虫が歩いて行った灰色の壁を見ていた。その黒い蜘蛛は音も無く歩いて行く。
警備員は拘束を終えると、クラウディスに言った。
「起床時七時、十二時、十七時、二十時、就寝時二十二時に排泄のための拘束が解かれる。食事は七時の朝食、十七時の夕食のみだ」
細身の頬の薄い唇がそう言い、クラウディスは一メートル四方、二メートル四十の高さの空間で警備員に扉側に向かされた。
「就寝時は鉄板が運び込まれ、斜め立ちの状態で就寝に入る」
クラウディスは警備員の影の中の目を見ては、警備員の感情の無い静けさが、クラウディスの目を真っ直ぐと見下ろした。
警備員は拘束器具の入る鉄の箱を下げ、出て行った。
クラウディスはその場に立ち、鉄の扉を見つづけた。
目を閉じ、感覚を静寂な闇に落とした。
時々目を開けると、三十分毎に警備員が細い監視窓から確認しては、引いていく。
他の鉄の扉を締める音や、牢を開ける音、それらが時々無音の中を、重く響いては鼓膜を振動させた。
闇に浮く瞳の無い影が、歩いて行く……。
目を覚ますと、警備員が拘束器具に鍵を差すために胴前の肩越しから、背後を見ているときだった。腰から手を伸ばし、微かに警備員の息遣いを感じる。
クラウディスは無表情の警備員の横顔の口元を見ては、制服と整う髪からのぞく首筋を見た。綺麗な首筋だ。イタリア人では無い。アイルランドか、フランス当りかスイス人だろう。
その細く綺麗な首筋に痣をつけたくなったが、クラウディスは視線を警備員の肩に落とし、その感情を無視した。
警備員は美しい顔立ちをする受刑囚の瞼を見ては、鍵を腰元に戻し、彼の真っ白い肩を見た。漂白されたかの様に白い。純白の域で、反して瞳や長く多い睫、髪は漆黒を称える艶があった。類稀なる麗しさだ。
この受刑囚が、見境無く多くの警備員や受刑囚達と無秩序に関係を持っている姿を見る毎に、綺麗さや艶が増して思えた。微笑を称える色気のある目元も。
警備員は拘束を解くと、鉄の扉から五分間出て行った。
クラウディスは細長い監視窓を見てから向き直り、正直脚が強張っていたので嫌になって来ていた。これを一週間だなんて、冗談じゃ無い。早く板が欲しい。据え置にしてもらいたかった。
五分して警備員が入って来ては、うんざりしたクラウディスの横顔を見た。
「ふ」
警備員がはじめて笑い、クラウディスは横目でちらりと見上げてから視線を戻し、警備員の姿を見つめてしまう前に警備員の肩越しの地面を見つめ、目を閉じた。感情など無視する。
再び拘束され、一瞬の事でクラウディスは口を噤み、心臓を高鳴らせ目を開き、床を見つめた。
警備員の顔を見るといつもの様に表情も感情も無く身を返し、ノブに手を当てた。
「待て……」
咄嗟にクラウディスはそう言っていた為に、視線を反らし口をつぐんだ。警備員は一度横目でクラウディスを見ると、扉から出て行った。
何も考えることを進めずに、クラウディスは床を見つづけ、目を閉じた。
いきなり乱暴に叩き起こされ、クラウディスは二人の年嵩の警備員を見た。
うんざりする事に、鞭を持っている。短いひだが束ねられたものだ。
以前、クローダボスの妻にこれで顔を払われた時は赤くなったものだ。別に痛みはそれほど感じなかったが、嫌になった。自分は虐げられたい人間じゃ無い。
師従関係も愛情も無く、ただ乱暴に従わせる事を誇示してくるだけの物など、ただただ相手の野蛮さに笑えて来る。笑いはしないのだが。
暇な時間を少しは楽しませてでも来る気だろうか。
年嵩の男は腕や胴を鞭払ってきて、もう一人の年嵩の男は笑っていた。クラウディスは壁の染みのような黒い影、蠢き這う蜘蛛を見つづけ、もう一人が警棒を振り上げた鋭い空気で目を開け、そいつを見据えた。
一瞬振りかぶった腕が止まり、男は歯を剥き、警棒を下げた。
「おいここまでにしておこうぜ。このガキはこう見えてマフィアの凶手だったからな。あまりやり過ぎるとキレるぜ」
そう言い、二人はクラウディスをまた残し、ドシンと締め、見えなくなった。
クラウディスは赤くなる腕や胴の熱を無視しながら、暇で天井を見上げた。何も無いのだが。
監視窓を見る。光が差すだけだ。見飽きた。
あの若い長身の警備員があの目元を覗かせてくれればいいものを。
長い時間が過ぎて、ようやく板が運ばれた。
もう三日ぐらいたった感覚だったというのに。
あの警備員では無い他の三人が運び込み、事務的に去って行った。
少しは楽になったが、夜の冷え込みはこの鉄が嫌になるだろう。今はかんがえずに、闇に閉ざされた中を目を閉じた。
気配。
蜘蛛だ。
肩から乗って来て、胴を這って行く。脚がくすぐったい。そのまま胴を通過し、何処かへ行ったようだった。
一睡も出来なかった。目は閉じていても、感覚は置きつづけていた。
完全な光が目を攻撃し、あの警備員が扉を締めた。
日中だけの警備員らしい。他の夜の時間は他の牢屋を回っているのだろう。
クラウディスは解かれた拘束で、腕に駄目だと命令したというのに、警備員の背に腕を回していた。肩に頬を乗せ目を閉じ。
「………」
一瞬警備員の動きが止まり、鎖がその制服の背に揺れた。
肩に手を掛け、妙に安堵して、眠りそうになったがクラウディスは目を開け、壁を見つめては床を見て身体を離した。顔を上げる事無く。警備員は離れた瞬間に落とした鍵を、腕を伸ばし拾った。
ちらりとその場から見おろして来るクラウディスを見つめ、クラウディスは唇を閉ざし視線を背けると目を閉じた。
気配は背を伸ばし、鍵が微かな音を立てる。
頬が染まる真っ白のクラウディスの横顔を見て、一気に自己が崩れそうになったが、警備員は顔を背け出て行った。
クラウディスは自己の行動に溜息をつき、首を横に振った。
これじゃあ先が思いやられる。まさか一日だけで人恋しくなるなんて、思いもよらなかった。しかも一睡も出来ていないと感覚が妙に冴える。眠りたいのに眠れない状態はいつでも感情が切り付けられて光を睨みたくなる。
五分して、扉が開くと警備員の横に所長がいた。
「受刑囚3062番。お目覚めはどうかな」
「最高の目覚めだ」
そう言って置き、所長は片眉を上げた。一目見れば一睡も出来ていないことは分かる。
まあ、ある意味では目の前に色男の警備員をおいて目覚めるのは最高でもあるが、それも徐々に神経が切り詰めて来るだろうから、精神力を持たせなければならなかった。
「君は模範囚のために、交渉の時間を与えられているのだがそれに応じるか。応じる場合、七日間の刑は四日間になる」
「どういった?」
「独房から出た後、奉仕活動のために七日間の地雷除去に向かってもらう」
どちらも嫌だ。
「この場合、ボランティアでは無い為に刑期が四日間返上される事になる。法律上で四年間の刑を言い渡されているために、早期出所する事はできないが、最後の四日間は規定内での監視付きで自由行動が許される」
地雷除去に向かわされるのはまっぴらご免だが、外に出られて、景色が見れる。だがそれと四日間の自由を引き換えにするぐらいなら、一週間、ここで大人しくしていた方がいいんじゃ無いかと思った。
だが、クラウディスは聞いていた。
「二十四時間監視が?」
「当然、拘束が解かれる事も無い。一日八時間両手は自由にされ地雷除去に当ってもらうが、腰の拘束は解かれない。その他の時間は監視員合わせ除去班全員分の食事を作り、就寝はキャンプ横のテントの中に拘束される」
「地雷による受刑囚の被害者は今まで何人挙ってる」
「四名だ」
クラウディスは溜息を着き、それでもしばらく考えた。一度、死のうと思った身だ。人のために役立っておく事も罰当たりな自分にはいいはずだ。
「交渉に応じる」
所長は頷き、横に立つ警備員に首をしゃくった。
警備員が静かに言った。
「独房での刑罰は七日間から四日間へ変更された」
そう言い、機械的に拘束器具を嵌められ、そして扉が閉ざされた。
クラウディスは一瞬警備員の唇を見つめ離れて行った背を見ては、今は閉ざされた扉を見て、床に視線を落とした。
三十分毎の目がのぞき、引いて行っては、時間は過ぎていく。
「なあ」
消えて行く目元に言った。警備員は振り返った。
「朝食……」
「刑罰が四日間に縮小された場合、食事は夕食のみになる」
「………」
クラウディスはうつむいて顔が見えなくなった。
警備員はしばらく見ていたが、身を返し、他の独房の方へ進み、順々に監視窓から確認して行った。二十の独房を確信し終えると、鉄格子の横に立ち、監視を続ける。
そして三十分後にまた繰り返す。
中にはすでに何年も閉じ込められ、生気も無いやせ細った受刑囚も多かった。残忍な犯行を犯したり、政治的な脅威の脅迫を国にすれば、これは免れない。一生出ることも出来ない連中だ。精神を来したものや、精神が逆に強くなったもの、削ぎ落とされたもの、其々だった。
誰もが目の中の闇は変らない。
クラウディスは蜘蛛を見ていて、その黒い蜘蛛は今は床を這っていた。細い窓から差す光を避け、歩いている。何か物音が、重く低い音だが、それがする毎に高速に壁側へ引いて行った。
腹が減った。蜘蛛を食べたい。
だが、なんだか蜘蛛の人生を終らせるものなんだった為に、目で追うだけにしていた。
長かった。
日が傾き、そして赤い夕光が満ちた。
十七時の扉が開き、真っ赤な光を背に、警備員の黒い影が入って来た。
あの若い警備員だった。夕方になっても。
「昨日、夕飯が無かった」
「起きなかっただけだ」
確かに、昨日は夕陽の時間は寝ていたようだった。
一日半食べていなくて、拘束器具を解かれ、赤く染まる首筋を見つめてはクラウディスは警備員を見つめた。
漆黒の大きな瞳は赤い夕陽できらきらとし、クラウディスの赤く染まる顔立ちは、夕景を優雅に行く猛禽類かのようだった。
拘束器具が天井からの鎖で揺れ、黒い影と赤い光が映写される中に、黒の太い鎖が揺れる……。
その瞬間、食器が全て落ちぶちまかれ、クラウディスは背をドンと背後の壁に叩きつけられるかの様に着いけられていた。その痛みに顔を歪め、それでも鋭い包括に全感覚が奪われ、体中を熱くした。
影の中を見つめ目を閉じ、背を抱き、ずっと。赤い光の中。
赤の加減が変り始めると、警備員は目を開き、目を反らし唇を閉ざして、拘束器具を嵌め、一瞬彼の高い鼻立ちが赤く光る中黒く切り抜かれ、出て行った。
クラウディスは開け放たれた扉の先の黒と黒赤の世界を見ては、瞳がきらきらと静かに光り、潤った唇が艶がかった。赤色に。
よく見かける掃除夫が来て、床を掃除して行った。
よくぺらぺら喋ったり鼻歌を歌っている掃除夫で、その男が言った。
「坊や。夕食抜きかい」
「うるさいな……」
これからまた一日絶食させられるなんて、地獄だった。
掃除夫が笑い、ポケットを探った。一度誰も居ない背後を見てから、クラウディスの口にチョコレートを突っ込んだ。
「………。ありがとう」
チョコレートを舐めながらそう言い、「いいってことよ」と掃除夫はいうと、また歌いながらモップを肩に歩いて行った。
口をもぐもぐさせているクラウディスを見て、警備員は首を傾げ頬を掴んで口を開けさせてきた。
「あ゛ー」
溶けかけたチョコレートを赤い唇の中に発見し、警備員は目を伏せてクラウディスを見てからあの自由人の掃除夫に呆れ、まだ残ったチョコレートを指でつかんで白いハンカチで手を拭き、取っていってしまった。
「あーー」
クラウディスはぽろぽろ涙を流して子供のように菓子を奪われて泣き、頬を離されて涙目で若い警備員を見た。
何も食べないなんて無理だ。絶えがたかった。腹が空いた。
「あーーー」
泣くクラウディスをそのままに、警備員は扉を締めた。
子鴉の様に泣くクラウディスの声が響き、そのまま夕方も夜に突入すると、夜警の二人組みに変った。
クラウディスは空腹を覚えながら、チョコレートの味を思い出していた。
切り裂くような声でクラウディスは顔を上げ、その方向を見た。
年嵩の警備員達の怒声。微かに、叩きのめす音がする。獣の様な声は、人だ。
薬漬けにされた鰐のような声がする……。闇の中を、美しい声にも思えた。
その夜、あの二人組みが来る事は無かった。
ここからは星は見え無い。光が差し込むだけだからだ。天体が望めない……。
だが、光が差し込むだけまだ良かった。
三人の男達がまた板を運んで来た。事務的に設置し、去っていく。
クラウディスは目をとじる事も無く、差し始めた月光の白を見た。
ずっと、見つめていた。
また不眠の朝が来て、あの若い警備員では無かった。
「………」
どんよりとした目元をした四十代ぐらいの警備員だ。堅く閉ざした口元は髭に覆われ、どちらにしろ感情は無さそうだ。
クラウディスは機械的に運ばれて行く板を見て、五分後に扉が開き、拘束されて扉が閉まった。
その日は一日、あの若い警備員は来る事は無かった。ただ、あの嫌な二人組みは来て、夕食を持ってきたのは良いが、拘束も解かずに食べさせてきて嫌だった。
頬を汚してきて、そのあがらう中で、徐々にクラウディスは赤い夕陽の中、目をみるみる見開いた。
血のグラスがぶち巻かれたかのような赤。
乱雑な言葉と無理矢理入れられる食器、液体、物体、味覚。
「………」
一瞬後、自分が叫んでいるのだと知った。その瞬間、気を失っていた。
いきなり発狂し気絶したクラウディスを見て、二人は口を閉ざし、力無くうな垂れる項を見た。
乱暴に頬を叩くが目覚めなかった。
罰が悪くなり、二人はそのままに出て行った。
クラウディスが目を覚ますと、何だか記憶が無かった。
夕食をまた抜きにされたんじゃないかという事だけを身体は訴えかけてきている。
食べ物の匂いがした。
コンソメの匂いだ。闇の中で、それだけに神経が行っていた。結局、朝になっても板は来なかった。
朝陽が差して、扉が開けられた。
またあの髭だ。
「今日が最終日だ」
それだけ言い、拘束を解き、五分してもクラウディスは動かずに、そのまま拘束され扉が閉められた。
その最後の一日はずっと眠っていた。




