〈八〉 許嫁
わたしたちの目の前に立ちはだかったのは、ひとりの小柄な少女と、その脇に控える大柄な男だった。
玉蜀黍のように輝く黄金色の髪はくるくると螺旋を描くようにして顔の両脇に垂れ、残りはハーフアップに纏められているとはいえ腰ほどの長さがある。晒された額や頬など露出した肌は白く、唇は薔薇色。唇と同じ色の瞳はぱっと目を惹くほどに綺麗で、きゅっ、と引かれた顎やぴんと立つその姿勢、上等なレースがあしらわれた服装のどこを見ても、上流のそれだった。一目でわかる。身分はきっと相当なものだ。
逆に、男はといえばやや猫背気味で、髪は無遠慮に長い。それでいて前髪がジグザグであったり、服装が真ん中から右半分がシャツ、左半分はオーバーオールとなっているあたり、整っているとは程遠い。顔色は土気色。口を半開きにして、今にも涎が垂れそうな姿は、彼女の清潔感とは正反対だ。恐らくは、彼女の護衛や付き人の類だろう。
彼女は腕を組みながら、わたしたちを値踏みするように上から下まで眺め倒した。
わたしたちのぼろぼろの格好を見たせいだろうか。まっさらな額に据わる眉の尻尾が吊り上がる。
「あなたがた、何をしていらっしゃるの? ここは一等客以外立ち入り禁止でしてよ」
「あ、いや、オレたち、ちょっと人を探しに来ていて……」
「だまらっしゃい! どんな理由があろうと例外はございませんわ!」
ウィルの人の良さそうな笑顔に目もくれず、肩に掛かる髪を手の甲で払うようにして、ぴしゃりと言い放つ少女。外見的にはわたしたちより幾分幼く見えるものの、それは背丈が平均より低いからであり、実際の物腰や雰囲気が抱かせる印象はもっと上だ。
この列車はザカライア行きの生徒たちだけで埋まっているわけではない。けれど、きっと彼女も“そう”だろうという確信があった。
わたしたちと彼女の間に割り込むような形で、男が大きな身体を前に出してきた。彼女を守ろうとしているのか。わたしとウィルは一度顔を見合わせてから、再び二人に視線を戻す。
仕方がない。
「そうね。だったら外の二人を呼んでこないと」
ピクリ。少女の肩が揺れた。振り返らないということは、外のデッキに誰かがいること――さらには、外のデッキに“誰が”いるかを知っているのだろう。
ちらりと横目でウィルを見ると、彼も軽く肩を竦めてからわざとらしく残念そうな口振りで言葉を続ける。
「確かにな~~。オレたちもそうだけど、あいつらも一等客じゃないからな~~」
「はあ? あなたがた、なにをおっしゃっておりますの? あの二人がそんなはず……」
「だってさ、オレたち、あいつらと同じコンパートメントなんだぜ? 二等車の。オレたちがダメなら、あいつらだってダメってことになるだろ」
「なっ、……あのお二人があなたがたと同じ客室を使うなんて、冗談もいいところですわ!」
「これが冗談じゃないんだな。オレたち、オトモダチだからさ。なっ、ロゼッタ」
「……。まあ、そういうことだから。ごめん。すぐに連れて帰るから、そこ、通ってもいいかな?」
ひょっとしたら、ジェレミーはわたしとは一緒に戻りたくないかもしれない。ということは、この際黙っておくことにした。いっそ本人から拒絶の言葉を得ることもできたなら、あのコンパートメントから出る理由にもなるはずだ。そうなる前に、きちんと謝罪しておきたい。
デッキに通じる扉の窓をすっかり隠してしまった男も、彼女も、しばらくは微動だにしなかった。陰に隠れているせいか、僅かに俯くとすぐに表情が見えなくなる。廊下の窓から見える外の景色ばかりが表情豊かで、遠くに見える煙突から噴き出す煙が、列車の向かう先を白く濁しているようだった。
いくら待っても答えが返ってこなかったので、わたしとウィルはお互いに頷き合ってから、足を踏み出すことにした。答えが返ってこないということは、ほとんど肯定だと思ったからだ。
けれどその判断に反し、男も、少女も、その身を引くことはなかった。
むしろわたしたちが一歩進むと同時に、男もこちらへと踏み出したのだ。
「お断りいたしますわ」
男の陰から姿を覗かせた彼女は、もはや俯いてはいない。凛と背筋を伸ばし、薔薇色の瞳に炎を宿してわたしたちを見据えていた。
胸元に飾ってあるハート型のロケットペンダントをぎゅうっと握り締めると、彼女は言った。
「わたくしはステファニー・ハートフィールド。誇り高きハートフィールド家の娘であり、ジェレミー様をお守りするのが未来の妻であるわたくしの役目。たとえこの身が朽ち果てようと――――ここを通すわけにはまいりませんわ!」
「………………」
「………………」
どれほどの時間、言葉を失っていたか分からない。列車が揺れ、足場が不安定になったのか、少女――名乗ったところによると、ステファニーがぐらついて胸を張った姿勢を崩して初めて、わたしとウィルはため息を零すことができた。
「…………………あの、別にオレたち、ジェレミーたちをどうこうするつもりは全然ないんだけど……」
「そんな上辺だけの言葉でわたくしが騙されるとでも? あなたがたが何者かなんてわかっていますわ!」
「えっ」
「ジェレミー様の命を狙っている、暗殺者なのでございましょう?!」
「ええええぇええ………?」
ウィルはため息を吐くみたいに疑問の一音を伸ばし、わたしを見つめる。他人の感情の機微を察するのはそう得意ではないわたしでもわかる。これは、面倒臭がっている顔だ。
それに憤慨しているのか、はたまた別の要因からか、ステファニーは身に着けているワンピースの裾をドレスのようにはためかせ、男の前に再び踊り出る。比喩ではなく、言葉どおり。くるくると回りながら出てきたステファニーが今から歌い出したとしても、わたしは驚かなかっただろう。むしろ、今流行りの舞台女優かと一瞬疑った。
「あの、なんで暗殺者だって思うの? わたしたち、自分でいうのもなんだけど、結構普通の子どもだと思うんだけど……」
「もしかして、妄想癖?」
「はああ?! あなたわたくしのことをなんだと思ってますの……?!」
「あ。イヤ。女の子はほら、そういう、想像力? がオトコよりたくましいって聞いたことある気がしてさ」
「わたくしは別に想像力だけで物を言っているわけではありませんわ!」
「は、ははは。だよなあ……」
さらさら信じていない上っ面の笑顔でウィルは頷いたものの、わたしはステファニーの言葉は信頼できるものであると感じていた。
たしかに、いくらジェレミーが普段から命を狙われることに慣れている様子だったといえど、わたしたちのような子どもを誘拐犯だと疑うのは少々飛躍が過ぎる。もちろん子どもがそんなことをするはずがない、という先入観は危険だろうけれど、もし万が一子どもの暗殺者がいたとしても、この列車だけは犯行現場に選ばないはずだ。
なにせ、ザカライア行きの子どもたちが乗車した列車なのだ。才能に溢れた少年少女は正義感に目覚めるのも早いだろう。それに、皆がきっと、自分の力を発揮できる機会を待っている。
思い込みは確かに強そうではあるけれど、彼女がはっきりと言い切るには何か理由があるはずだ。わたしは言葉を割り込ませないように、先ほど行った質問に対する返答を待った。
ステファニーは、ぎっ、とわたしたち二人を睨みつける。ちいさい身体のせいか、上目がちの睥睨はまるで威嚇最中の猫みたいだ。
そうしてもたらされた答えは、存外単純なものだった。
「だってだって、この列車に乗る前にもあなたがたはわたくしの! わたくしのジェレミー様に!! 空飛ぶ絨毯で突進していたじゃありませんの!!」
「ああ……あれを見てたのか」
「なるほど。納得した」
「いや、納得の前にまず否定しようぜ。っつかあれはだな、コントロールの問題で別にあいつを狙ったわけじゃ……」
「まあ! この期に及んで白を切るとはなんてふてぶてしい!」
「むしろさっきから真実しか話してないんだけど……」
「わたくしと同い年程度の子どもですもの。きっと事情がおありなのだろうと気づかぬふりで見逃すつもりでしたけれど、あなたがたは見た目と違ってなかなか狡猾そうですわ」
「え? 聞いてる? オレの声届いてる?」
「届いてないんじゃないの……」
「ごちゃごちゃうるさいですわよちょっとおだまりっっ!!」
肩で息をするほどに声を張り上げると、ステファニーは大きく足を開き、右手を男の前に掲げるように持ち上げた。
親指と薬指を重ねあわせ、そこに力を込めてゆく。
見えない魔力がそこに集まっていくかのように、終始黙ったままだったお人形のような男が、腕や足に力を漲らせてゆく。
「わたくしが、ここできっちりあなたがたを成敗してさしあげますわ! このステファニー・ハートフィールドを敵に回したこと、後悔するがよくてよ!」
――――パチン!
魔力を一気に放出するように指が鳴ると、空気が変わった。
「ブルーノ! やっておしまいなさい!」
声が響くやいなや、わたしたちの目の前に影が飛び出してくる。先ほどまで従順に黙っていた男だ。こちらの懐に入るための体勢を心得ているかのように、姿勢は無駄なく低い。
そして男が近づいてきたことで、わたしたちは悟った。
それが“お人形のような男”なのではなく、本当に“お人形”なのだ、ということを。
土気色の肌は紛れもなく土だから。
涎が垂れそうな唇の切れ目からは僅かな草が覗き、ところどころに小石が混じる。
――――メックルカルフィ!
真っ直ぐな列車の廊下だから、逃げ場はない。かといって〈魔法〉も使えない。ウィルも先ほど使い果たしたばかりだし、わたしも――いや、もしものときのためにピアスは身に着けている。けれど、こんなところで使ってもいいのだろうか。これはほんとうに緊急用だ。わたしは一瞬の時の狭間で、長い時間迷った。
でも、ウィルには助けてもらった。出会ったばかりのわたしに、友達でもないわたしに、手を差し伸べてくれたのがウィルだった。
そう思ったら、自然と身体はウィルの前に飛び出した。
ステファニーの人形は腕を振り上げて、わたしたちに強烈な一打を繰り出さんとしている。
わたしは右手で耳にあるピアスに触れた。そしてその指先をすぐさま離して、両の手を合わせ――――
炎が上がった。まばゆい橙の。燃えるような赤。
「ステフ。――――そこまで」
まるで時が止まったかのようだった。
わたしたちに突進していたメックルカルフィが、腕を振り上げたままその動きを止めていたからそう思ったのかもしれない。
ただそれは、動きを止めたわけではなく、正確には止めさせられているのだった。
わたしたちの目の前に、いつのまにかそびえ立つ大きな影。その影が土の腕を止めるかのように、赤い炎を腕に纏わせていた。
こちら側に向けた背中には長い尻尾のような髪が揺れている。
「マ、っ、マシュー!」
ウィルが驚いて声を上げると、マシューはわずかにこちらを振り向いて、軽くウインクを落とした。
炎は決して小さなものではないというのに、列車に被害が及ばないようしっかりとコントロールがされている。その状況で笑みを浮かべられるのは、ザカライアに招かれているということよりも、誰かを守ることへの慣れを感じさせた。集中が途切れていない。
「ダメだよ、ステフ。許嫁のことが心配なのはわかるけど、この二人は危険じゃない。キミのブルーノを使うのはやりすぎ」
「でっ、でも! 万が一ってこともありえますでしょう!」
「そりゃそうだけど、万が一で殺しちゃったらどうすんのさ。それにリリシィの痕跡ぐらい感じたでしょ? 少なくともジェレミーがリリシィの力を使ったのなら、それがジェレミーと、それから俺の判断ってことだよ」
「……それは」
「まあ納得しないならそれでもいいけど、わかってる? それってつまりは、ジェレミーの判断が間違ってる、って言ってるってこと」
さすがにジェレミーの名を出されると、ステファニーは不本意な様子ながらも異を唱えることはしなかった。
ふと視線を二人から外すと、逸れた視界の中にデッキへと続く扉を開き、背を預けているジェレミーの姿があった。リリシィの姿は見つけられないけれど、かといって抱いている様子もない。ひょっとすると、マシューの炎を留めているのはリリシィの力なのかもしれない。
ジェレミーがそこにいることには、ステファニーも気がついているのだろう。なにせ〈わたくしの〉ジェレミー様なのだ。ぐっ、と薔薇色の唇を噛み、横目に動かした瞳は気配を察して諦めを宿した。
ステファニーが握りしめた拳で、ぐりぐりとこめかみを掘るように押しはじめると、それが退避を示しているのか、メックルカルフィがするすると身を引いて後ろ向きに主の元へと戻ってゆく。それに伴いマシューも炎を収め、空になった両手をポケットに突っ込んだ。
土の従者が主のもとに戻った途端、その姿を見てステファニーは悲鳴に近い声を上げる。
「あああーーー!! マシューあなたっ、火加減は気を付けてっていつもいっているじゃありませんの!!」
「え? また焼けてた? 結構弱火だったんだけど」
「全っっっっ然弱火じゃありませんでしたわよ!! レアにしろなんて高度なことまで要求いたしませんからすこしはミディアム寄りにするコントロールを身に着けたらいかがですの?! あああぁぁあまた腕が戻らなくなって……お腹までパッキパキに……苦労して造ったのにまた作り直しですわ……」
「それを言うならステフもでしょ。美的センスを疑うっていうか、ブルーノその辺の犯罪者一歩手前みたいになってるじゃん。もうちょっとカッコよくまともに造ってやれないの?」
「うるっさいですわよ余計なお世話ですわ放っといていただけます?!」
「二人とも、友だち……アー、知り合いなのか?」
あまりにも砕けた会話に、わたしたちは置いてけぼりを喰らう。
もっとも、ウィルが差し挟んだ問いは答えを聞かずとも明白だった。そもそもステファニー自身が二人の名前を知っていたのだし、許嫁というからにはジェレミーと一度くらい顔を合わせて話したことがあるのだろう。そうなれば、マシューとだって言わずもがなだ。
マシューはステファニーの脇に控え、頷いた。わたしたちからはちょうど、マシュー、ステファニー、そしてリリシィの光を肩に乗せたジェレミーの三人が斜めに並ぶ形だ。
「ジェレミーの許嫁だからってのもあるけど、俺たち幼なじみでもあるんだ。ハートフィールド家の別荘がオドトワールにあってさ」
「ジェレミー様とは小さい頃からの仲ですの」
ふふん。と顎が持ち上がり鼻が高くなったかと思うと、ステファニーはくるりとワンピースの裾を翻し、いつの間にか脇を通り抜けようとしていたジェレミーの腕に小さな腕を回す。
今しがたまでの眉間の皺はどこに行ってしまったのか、「ねっ、ジェレミー様っ」と腕に寄せる頬は、柔らかな微笑みで満ちていた。
ジェレミーは相変わらず無表情だからどう思っているかは分からないものの、短く発したひと言は、きっとステファニーの求めるようなものではなかったはずだ。
「戻る」
「あ、もう行くの? じゃあ俺も」
「ええっ! そんなっ。というか、お二人ともほんとうに二等客室にいらっしゃいますの?」
「うん。ステフは一等でしょ?」
「…………わたくし、今から二等に変えますわっ!」
「今からじゃ空きがないって」
「じゃあお二人とも、わたくしが一等にお部屋をとりましょうか? もし空きがなくとも、なんならわたくし、同じ客室でも構いませんことよ。ああっ、ジェレミー様と同じ空間を共にできるなんてっ、べっ、べつに不埒なことは考えておりませんけれどもでもでも~~~っ」
「いや。ステフ、俺もいるからね……?」
「結構だ」
「もうっ、ジェレミー様ったら! 照れなくってもよろしいんですのよ―――――!!」
腕を逃がさぬように掴もうとした動きをジェレミーが躱し、そのせいか頬を膨らませたステファニーが不満げに後を追ってゆく。置き去りになったのは、腕と腹部が焼けて固まってしまったブルーノという名のメックルカルフィと、わたしとウィルだ。
すぐにマシューが振り返り、「二人も戻らない?」と声を掛けてきた。
ウィルは悩むことなく足を進めたものの、ステファニーの視線が痛い。おまけに、わたしは先ほどの件もある。進退に迷って、ステファニーから逃げるようにマシューの瞳を見つめてから――プラチナブロンドの背中へと移った。
目が合ったわけではない。
けれど、その声はわたしの意図を汲んだようなタイミングで放られた。
「怒ってない」
「……え?」
雲みたいな巻き毛がふわりと揺れる。途中で躊躇った頭が見せるのは耳と左側の頬だけだ。
言葉の意味を考えていると、マシューがわたしの名前を呼んだ。唇の端を持ち上げて、「しょうがないよね」とでも言いたげに、一度ジェレミーに逃がした視線をわたしへと戻してゆく。優しい眼差し。
「戻ろうぜ、ロゼッタ」
ウィルの声が風となって、背を押されたように感じた。
足を踏み出し、最初はゆっくりと、それから駆け足になってステファニーを通りすぎ、ウィルの隣へと並ぶ。
「あなたたち、――――ほんとうに、何者ですの?」
振り返ると、憤っているとも戸惑っているのとも違う、ひたむきな眼差しが、わたしたちを見据えていた。
「わたしはロゼッタ・アリソン」
「オレはウィルフレッド・ナイトリー。ただのしがない……ザカライアの新入生だよ」