〈七〉 天才
空色だと感じたのは、彼女の――そう、彼女、妖精は女性だった――纏う服がそうだったからだ。
いや、服とはまた違うのかもしれない。
胸元にある宝石のような装飾は彼女の身体に埋め込まれているようで、それが境界の役目をしているかのように、そこから肌ごと直接、薄らとグラデーションになってゆく。白い肌は雲の白のようだ。雲と同化した空はやがて胸元の下で水平線のような深い青のリボンで遮られ、その下に待つのは海の色。膝丈ほどのワンピース(のように見える)の裾からは白い脚が伸び、それが動くとワンピースはまるで水面のように色を変えた。空色。青色。翡翠色。最初は空だと思っていたけれど、彼女の装いはどちらかというと、海に似ていた。
裾と同じく、彼女の髪も色を変えてゆく。よくよく観察してみると、呼吸によって胸元が上下するのに合わせて、その色の変化は起きているらしかった。ほんの少し白味を帯びた羽根や、肩ほどで波打つ髪はその色はもちろんだけれど、そこから覗く妖精特有の尖った耳と、その耳朶に光る幾つかのピアス。そして斜めに寄せられた前髪を纏めるための、白い花のような髪飾りが印象的だ。
魂を奪われたかのように、ウィルの唇から惚けた甘い呟きが落ちる。
「オレ、妖精を見るのははじめてだ……」
「わたしも。使い手ならともかく、第三者からも視認できる妖精なんて、そうそういないわ。普通に生活して出会えるケースはほとんどない」
それじゃあ、やはり。
ひたむきにリリシィへと移していた瞳を、ジェレミーに向けた。
ジェレミーはいつの間にか腰を上げて、リリシィを迎えに来ていたらしい。
「あなたがわたしたちに傘を向けた理由がわかったわ。あそこまで警戒していた理由も」
ジェレミーの動きが止まる。わたしとほとんど同じ位置にある深い海の蒼で、彼は挑戦的にわたしを見つめ返した。
「あなた、――――〈妖精使いのダルシアク〉ね」
――――――隣国、オドトワール国の名門・ダルシアク家に生まれた天才。
姿に見覚えはなくとも、話に聞いたものは多いはずだ。現に田舎村出身のはずのウィルも顔色を変えた。それほどまでに彼にまつわる話は、キャンベルバッチの西から東まで伝わっている。
なにせ、魔鋼革命はじまって以来の天才になると謳われているのが、他ならぬこのジェレミー・ダルシアクなのだ。
はじめての魔力測定の数値で並々ならぬ値を叩き出し、生を受けた段階から「ザカライア入りは確実」と言われていたらしいと聞く。実際、成長と共にその魔力が衰えることもなく、妖精までを使役する姿はまるで物語の王子様のよう、とはうら若き乙女たちがこぞって語っていたおはなしだ。田舎は特に大きな出来事なんてめったにないから、嘘か真か定かでないジェレミー・ダルシアクの噂はわたしもそこそこ耳にしていた。
妖精使いの王子。二種元素の使い手。気高きブロンドの精霊使い。
菓子屋や魔導具屋などで耳にした覚えがあるだけでもこれほどあるのだから、きっとジェレミーにまつわる噂は山ほどあるに違いない。彼の家柄や容姿が乙女の想像する図にそう違わないせいもあるのだろう。本国であるオドトワールではどう囁かれているのやら。
出会い頭で異様な警戒心を見せたのも、きっとそれによるものだろう。あまりにも卓越した力を持つがゆえに、彼を手に入れたいと願う輩はそう少なくはない。妖精目当てのものもいるだろうし、下手すると身代金目当ての誘拐もありそうだ。実際に対峙してみると大人びているし場慣れもしているけれど、所詮齢十二歳。それが彼の警戒心と、マシューをはじめたした護衛の理由か。
「お前ら、オドトワール出身だったのか」
「言われてみれば、マシューの名字もオドトワールならではよね。そのときに気づけばよかった」
「まあ、自己紹介のときはあえてマシューって名乗ったからね。ほんとはマチューなんだ。でもキャンベルバッチの発音だとマシューのほうがしっくりくるし、俺もこっちの親戚からはそう呼ばれてるから。ジェレミーはどっちでも違和感ないし」
しかし、ほんとうに妖精を使役しているとは驚きだった。妖精は気難しいし、そもそも滅多に人間の前に現れることはない。
改めてマシューの掌の中で横たわる妖精に視線を落とした。使い手がジェレミーであるにもかかわらず、マシューにも心を許している。それはきっと、ジェレミーがマシューを信頼しているから。そしてその判断を信じられるほどに、妖精は主人に心を寄せている。
目を凝らしながらより近くへ覗き込もうとすると、妖精の身体がピクリ、と震えた。
思わず手を伸ばしかけたウィルの指先を遮るようにして、ジェレミーは妖精の身体を持ち上げる。長い睫毛が上がり、再びわたしの瞳と出会う。
「……その呼び方は嫌いだ」
たった一言、そう発すると、ジェレミーはコンパートメントの外へと向かっていく。
「ジェレミー? もう動き出しちゃうよ」
「すぐに戻る」
マシューの呼びかけに振り向くことなく、ジェレミーは硝子の向こう側に姿を消してしまった。
声色も、表情にも変化はなかった。けれど、直前にいった一言が全てだろう。
ジェレミーは、怒って出て行ったのだ。
「……ごめん。わたしが怒らせたんだと思う」
「いや、今のはしょうがないよ。気にしないで」
「にしても、そこまで怒るようなことか? 天駆ける妖精王子、とかよりよっぽどマシだったろ。さっきのやつ」
「ううーん。ひょっとしたら、そっちの方がマシだったかもね」
「どういうこと?」
マシューは、すこし躊躇したように口を薄く開いては閉じたけれど、末に唇を湿らせてこう言った。
「ジェレミーはね、多分、妖精“使い”って言われたことに怒ったんだと思うよ」
「妖精使い?」
「もともと、他人のことってそこまで気にならないタイプなんだ。どう呼ばれようが、それこそ知ったこっちゃないよ。だけど、リリシィの……そのことに関しては話が別っていうか」
あえて暈した言い方をしているのは、ジェレミーのいない隙にどこまで喋っていいか計りかねているからだろう。もとよりわたしたちはそこまで信頼関係を深めているわけでもない。マシューもすっかりわたしたちを信用している、というわけではないのだ、と知って、わたしはすこし、安堵していた。
沈黙が場の支配者となると、マシューは「とりあえず、ジェレミーのところ行ってくるから、二人は座って待ってて」とジェレミーの後を追っていった。出て行く前に、大きな掌がわたしの頭を撫でてゆく。
しばらくの間、わたしとウィルは二人が去って行ったコンパートメントの扉を見つめていたけれど、すぐに列車が動き出してしまったので、迷ったものの先ほどジェレミーが座っていた場所の向かいに二人並んで腰を据えた。わたしがいたのではジェレミーも戻ってこないような気がしたものの、かといって出て行けばマシューの言葉を裏切ることになる。こういうとき、誰のためにどういった行動をとればいいのか。わたしには、とても難しい。
列車の揺れに合わせて、身体が揺れる。心地よい揺れだった。わたしたちが口を開かずとも、列車が立てる音が気を紛らわせてくれる。
窓から入り込む風が頬を掠めて、思わずその行先を追うように振り返ると、こちらを見ていたウィルと目が合った。逸らす理由はない。わたしは見つめ返す。
「…………オレはさ」
そう、ウィルが切り出した。
「あいつが怒った理由、ちょっとわかった気がしてる」
「え?」
「いや、ロゼッタが悪いとかは全然思ってねーけどさ。会ったばっかでそんなんわかるはずねえじゃん。でも、なんつーかな、あいつが怒る理由が理解できないわけじゃない、っつーか」
「……ウィルは、どうして怒ったんだと思うの?」
わたしは、そのあとのウィルの言葉の意味を、結局理解できないまま。
視線をすこし逸らして、窓の向こう側の景色を眺めながら、ウィルは言った。
「リリシィは、ジェレミーにとって、友だちなんだよ」
そのあとしばらく経過しても、マシューたちは戻ってこなかった。
やはりわたしがいるせいだろうか。ここまで連れてきてくれたマシューには申し訳ないけれど、場所を移るべきかもしれない。
ちらりと入口を気にするのと、ウィルが立ちあがったのは同時だった。
同じことを考えていたのだろうかと荷物を手に取ろうとすると、ウィルがそれを制す。コンパートメントを移るつもりではないのか。
「いくらなんでも遅すぎる。探しに行こう」
「でも、わたしが気に入らなくて戻ってこないだけじゃ……」
「だったらそう言うはずだろ。オレたちがここに転がりこんでるんだし。っつーかオレだってあいつのこと気に入ってないし。マシューは別に嫌いじゃないけど、それならそれでひと言ぐらいいってかねえと気がすまねえ」
反論を述べることは簡単だ。けれど、二人に何か起こった可能性も捨てきれない。
「それに、コンパートメント内でじっとしてんのも、そろそろ飽きたって思わないか?」
唇の端っこをいやらしく吊り上げたウィルに、格好の言い訳を用意されては仕方がない。
わたしは荷物を置き去って、コンパートメントを後にした。
廊下の端に駐在している車掌に部屋を空けることを告げ、ついでに長距離列車からこちらに乗り換えたことと、ザカライアからの新入生であることも証明書と共に伝え、手続きを済ませる。ほとんど個人で運営されている馬車はともかく、列車なら現在の所持金がなくとも、ザカライアまでの旅費としてザカライアから支払われるから乗り換えの料金は必要ない。
ついでに、同い年程度の少年がどちらへ向かったかも尋ねてみた。
「ああ、金髪の子と……そのお兄さんかな? 二人なら、ここで立ち話をしたあとにデッキの方へ向かって行ったよ」
「どんなことを話していたか、わかりますか?」
「さあ……百合が怯えているとか、どうとか……」
「百合?」
ウィルは一瞬怪訝な表情をしたが、わたしはすぐにわかった。百合はリリー。響きだけなら、リリシィとよく似ている。
礼を告げて、デッキへと向かう。車掌の案内によれば、この次の車両を抜けたところにあるらしい。
廊下を通る際に覗き窓から見える室内を見ると、やはりそこにはわたしたちと同年代の少年少女の姿があった。わたしたちがもともと乗っていた列車は長距離用だから、キャンベルバッチの西の方からやや迂回するような形でマーリンフリードへと向かう。そのため、ひとの乗降が少ない田舎村を経由する形だったけれど、このアズライト・パレスを通る特急は幾つもある線のなかのメインラインだ。ここからマーリンフリードへ向かう少年少女が多いことも頷ける。
しかし、ひとつ向こうにある車両に乗ったところで、妙なことに気がついた。
先ほどまで乗っていた車両に乗っている少年少女は、それこそ千差万別だった。身なりがそれなりにきちんとしているもの、質素なもの、様々だ。ザカライアに呼ばれる基準は身分や家柄ではなく、本人の持つ〈魔力〉によるのだし、ザカライアに向かう電車賃を気にする必要はない。それにひょっとしたら、ザカライアの生徒かそうでないかを鉄道側も把握しておきたいのかもしれない。やけに子どもばかりのコンパートメントが目立ったからだ。
けれど、今足を踏み入れている車両は、明らかに雰囲気が異なる。そもそも扉には硝子がついていないから中を覗けないし、たまに扉から出てくる姿に出くわすと、それはひどく立派な――いわゆる洗練された物腰なのだ。明らかに身分が違う。きっと一等車なのだろう。ということは、先ほどまでわたしたちがいた車両は二等車ということになる。
けれど、それならば。
なぜ、ジェレミーたちは二等車にいたのだろう――――――?
一等車の最奥に扉があった。こちらだけは外の景色が見えるように、二等車と同じく窓がついていて、硝子越しに話し込むマシューとジェレミーの姿があった。ウィルと一度顔を見合わせてから、その扉を開くために廊下を一歩一歩進んでいく。
そのときだった。
目の前に、数人の影が立ちふさがったのは。