〈四〉 本来の力の使い方
―――ぐるぐると回る。風が。セカイが。わたしが。わたしたちが。
まるで竜巻の一部になったような感覚だった。ウィルと離れたら今にも飛ばされそうで、わたしはウィルの腰に腕を回して必死に巻きつく。多分、台風の日に咲く朝顔はきっとこんな気持ちだろう。景色がどうなっているかはすっかり顔面を預けていたからわからないけれど、きっとセカイが廻るようなという感覚はこういうことを言うのだと、ぐらぐらの頭で考えた。
しかしその回転の終わりも、訪れればあっさりとしたものだ。
突如として風が弱まる。回転数が落ちたのだ。
「――~~~っは、っ」
不意に訪れた地面と、ようやく定まる重力の感触。風の濁流の中における呼吸に慣れていたせいか、豊富な酸素に上手く息ができずにむせ返る。ただ、背中を撫でる手のひらのお陰で、呼吸はほどなくして再び常の状態へと戻った。
「大丈夫か?」
「……ん。平気」
「まだちょっとぐらぐらするだろ」
「よくわかるね」
「初めてのとき、オレは吐いたから」
「なるほど」
壁際までウィルに導かれたあとは、未だに揺れを感じる身体を壁に凭れさせた。まぼろしの振動は、身体が地に触れてさえいればほどなくして消えてゆくだろう。
積み上げた荷物の山の中から水袋を取り出すと、ウィルは再びわたしのもとへやって来た。
「飲んどけ。ちょっとは楽になる」
「……ありがとう」
先ほどとは立場が逆だ。大人しく受け取った。
喉は渇いていなかったものの、冷たい水が胃のなかに落ち着くと、ウィルの言う通り身体の中のぐらつきが和らいでゆくのを感じる。一口含んで返そうとすると、こちらを見てすらいないウィルがすかさず「もっと飲め」と返却を断ったので、わたしは大人しく従った。先人の知恵には倣うべきだろう。
飲みながら辺りを確認すると、どうやらサールビーの駅からすこし離れた路地裏のようだ。袋小路になっているぶん人通りは少なく、おまけに傍らには不要品らしいがらくたが積み上がっている。机、魔灯、安楽椅子。どれももう一度使う気にはならないほどにぼろぼろだったけれど、立て掛けられた絨毯は穴もなくまだ使えそうで、すこしもったいなく感じた。
ウィルは荷物が盗られていないかの確認をしていたらしい。特に騒ぐ様子もないから、荷物は無事だったのだろう。もっとも、天下のザカライアの新入生とはいえ、持ち物が急に華美になるわけでもない。これから得るもののほうが多いのだ。盗られて困るものはさほど無かった。
「これからアズライト・パレスまではまた陣移動で行くのよね」
サールビーからほど近いとはいえ、ここから歩いて向かうのは、追っ手のあるなしを差し引いてもあらかじめ決められた集合時間に確実に間に合わない。馬車を使う手も考えたけれど、元々マーリンフリード行きの列車の切符がザカライアから送られてきていたため、わたしはほとんどの手持ちをベベさんのところの家賃と共に、心づけで置いてきてしまっていた。二人でアズライト・パレスまで向かうほどの料金を持ち合わせてはいない。やはりウィルの〈魔法〉に頼ることになりそうだ。
確認の意味でそう尋ねると、ウィルは僅かに、整った眉の間に皺を寄せた。
わたしはその意味がわからないので、首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、…………アズライト・パレスまで陣移動するの、ちょっと考え直したほうがいいかと思ってさ」
「えっ」
咄嗟に驚いてしまったけれど、わたしはすぐにそれも無理はないなと考え直した。
なにせ、これはウィルにこそもっとも負担のかかる計画なのだ。いくらわたしが多少の補助魔法が使えるといっても、先導する魔法の舵はウィルがとる。わたしなんかの負担と比べれば、その差は歴然だ。
その上、ウィルの魔法は思ったより独自の方法が占める割合が多く、予想よりはるかに補助が難しい。未だに口の中に残る妙な酸っぱさは、水のおかげである程度回復したとはいえ、それはわたしの未熟さを表しているようでひどく苦々しく感じた。
――――それに、黒服はもう追っては来ないかもしれない。
白金の青年は、「捕まえるつもりだったのか」という質問を「外れだ」と言った。それはあの黒服が必ずしも追っ手であったとは限らないかもしれない、ということにもなりうる。
もちろんその言葉をまるごと鵜呑みにするわけではないけれど、一度対峙した限り、青年の力ははるかに強い。あの場でやろうと思えばわたしの鳥籠だって壊せただろうし、ウィルの気配にも実際気がついていたはずだ。それでもなお、わたしやウィルの行動を阻むわけでもなく見送りに徹し、仲間が近くに来ていることを教えもした。本人自身の信頼性はともかく、状況が示す証拠はそれが真実であることをおおむね伝えているように思える。
そうであるならば。
そして、ウィルがそう望むのであるならば。
これ以上、彼を巻き込む理由は何も見当たらない。
「……わかった」
頷くと、ほっ、とウィルは気を緩ませた。猫目の目尻に、薄ら皺が滲む。
わたしは対照的に皺が滲むのは眉間のほうだ。きっとジャンプ酔いからまだ回復していないせいだろう。
「それじゃあ、ウィルはここから陣移動でアズライト・パレスに向かって。もう追っ手も来ないと思うし、わたしはゆっくり向かうから。短い間だったけど、力を貸してくれてありがとう」
「えっ?!」
「本来ならウィルが巻き込まれる理由なんてないのに、巻き込んでごめんなさい。ザカライアで会ったとき、仲良くしろとは言わないから、挨拶ぐらいはしてくれると――」
「――いやいやいや! ちょっと待てって! なに?! なんの話してんだよ?!」
「え?」
「え?!」
「……だから」
「うん」
「……もうわたしには付き合えない、ってことでしょ?」
わたしとウィルは顔を見合わせたまま、しばらくの間薄く唇を開いたままでいた。言葉を続けるべきか、それとも相手の言葉を待つべきか、すこし決めかねていたから。
しばらくの空白のあと、先に音を発したのはウィルだった。
「ちっっっっっげ―――――――よ!!」
「えっ」
心なしか怒っているようにも見え、口調もずいぶんと荒々しい。
理由としてはわたしの考える理由が当て嵌まるようなものだけれど、発する言葉はどうにもそれを「違う」とでも言いたげで、わたしはただただ首を傾げてしまう。
「ここまで来てまた別ルートとかするわけねーだろ!」
「あ、そうか。結局さっき目の前で陣移動見られちゃってるし、そうなると別れても危険なことに変わりはないのか……わたしのせいでごめ」
「だから違うっつーの!! アホか!! おまえはもう少し人の話を聞けよ!!」
「えええ……? ウィル、なんかうるさい……」
「ああ?!」
「もうすこし落ち着いて言って。言ってもらえないと、わたしもどうすればいいかわからない」
「…………」
喧嘩腰になっていたウィルが、ぐ、と言葉に詰まってそのまま続きを呑み込んでゆく。
大きな声ではなくなった分、聞く方としては楽になったけれど、今度は何を言うつもりだったのかがわからないため根本の解決には至っていない。
わたしは、もう一度だけ問いを重ねた。「じゃあ、どうして?」と。
しばらくの間、ウィルは黙ったまま、ただ開いた唇を乾かしていた。けれど、追っ手が来ないかもしれないということは、まだウィルには伝えていない。こんなところで立ち往生している暇はないと思ったのだろう、諦めたように大きなため息を吐くと、首筋に手を当てて、ウィルは言った。
「……気分悪いんだろ。まだ。陣移動はロゼッタに負荷がかかりすぎるから、だから……もうちょっと別の行き方があれば、って思って」
気まずそう、というよりは、ややふてくされているようにも見える。斜め下を彷徨う瞳の上にある眉は吊り上り、唇は不満そうに尖がった。
わたしは、ウィルの言葉の意味を考えた。顎から唇にかけて指を添えるようにして、その言葉から見出せる結論を導き出す。
それは、つまり。
「心配、してくれてるの?」
ウィルは黙ったまま、答えようとしない。さっと背を向けると、がらくたが積み上げられている方に向かってしまったので、わたしはその背に声をかけた。
「わたしのことなんて気にしなくても……」
「気にするに決まってんだろ。バカ。だいたい今さらそんな遠慮するぐらいなら最初からしとけっつーの」
「だって、彼らが何を考えているかわからなかったんだもの。ウィルを残して別ルートを辿ることも考えたけど、ウィルとわたしの目的地は同じでしょう。友人とでも思われて人質にされるかもしれないし、それなら安全なところまで――つまりはザカライアのことだけど――一緒に行動した方がいいかと思って。移動魔法が得意だって言ってたし」
「なんなら力でも借りてやれ、って?」
「まあ、そういうことだね」
「あああぁあ………オレも厄介なやつに捕まっちまったよなぁ……」
言えてる。
そう思ったことは口に出さないまま、わたしはウィルの背に近付いた。
ウィルはがらくたの絨毯を地面に広げ、その傍らに佇みながら何かを考えているようだ。わたしもその隣に並ぶ。
「何してるの?」
「いや……ちょっと試してみようかと思って」
「何を?」
「陣移動なしに、二人でアズライト・パレスまで行く方法をさ」
「陣移動なしに……」
「ロゼッタはさ、オレが本来の力の使い方がわかったら、もっと伸びるって言ってただろ」
先ほどの話だ。わたしは頷いた。
「ちょっと考えてたんだ。力の使い方、ってやつ。それでさっき陣移動したとき、コンパートメントの様子を見てそういえば、ってちょっと思ったことがあるんだけど」
言いながらわたしを一瞥し、目線ですこし下がるように促した。大人しく従って様子を見守る。
ウィルは絨毯に手をつくように片膝を立ててしゃがみ込み、大きく息を吸い込んだ。そして、今度は吸い込んだ息を細く長く吐いてゆく。歯の隙間から漏れ出す息の音。下手すれば周囲の雑音に掻き消されてしまいそうな小さな音は、段々と、息が伸びてゆくごとに大きくなってゆく。
気がつくと、ウィルの吐きだした息が風となり、絨毯の周りに陣を描いている。砂埃が舞い、絨毯の端がぱたぱたと音を立てていた。
ウィルはゆっくりと立ち上がる。掌は絨毯につけたまま。
そしてその掌は――――ウィルが完全に両足で立ち上がっても、離れることはなかった。
ふわふわと宙に浮かぶ絨毯は海で揺られるかのように波打ち、ウィルが一撫でするとそれも徐々に収まってゆく。地上から十数センチほどの高さにあるそれは、まるでそこに見えない地面があるかのように、大人しく主人の来訪を待っていた。
浮遊魔法。
そして、移動魔法をも使うウィルの〈魔法〉は、実際のところ、あるひとつの魔法の応用だ。すなわち、彼がその力を使うとき――――いつでもその身に寄り添う“風”の。
「風の使い手……」
やっぱり、という響きを言外に忍ばせて、わたしは呟いた。
彼の〈魔法〉のことを聞いたときから、そうでないかと思ってはいたのだ。
そもそも、〈魔法〉の得手不得手は種類よりもその術が持つ属性で傾くことが多い。火、水、風、木、土……火属性の魔法を得意とするならば、真逆の水は使い手とは相性が悪かったりする。人によって得意/不得意とする属性の差はまだ解明されてはおらず諸説あるけれど、わたしは、“その属性から愛されていること”が一番の理由だと考えている。火は自分を打ち消す水に嫉妬し、木は己を燃やす火に怯える。だから上手く扱えない。
その点で言うなら、やはりウィルは。
「やっぱり、アネモイの愛息子だね」
絨毯の上に乗り上げたウィルに、わたしは荷物を手渡しながらそう言った。
ウィルはなんのこっちゃとばかりに目を丸くする。
「? さっきも言ってたけど、なんだそのアネモイって」
「ギリシャ神話よ。知らない? 風の神様たちのこと」
「わかんね。そんなんやったか? オレんとこ田舎村だったし全然だぜ」
「ザカライアには図書館も充実してるって聞くし、勉強はこれからでも間に合うと思う。でも、やったほうがいいのは確実。〈魔法〉は神話に通ずるところもあるし、神話にまだ解明されていない〈魔法〉の謎を解く鍵があるって考えている学者も多いから。あと、その辺知っておくと……」
「おくと?」
「バカに思われなくて済む」
「なるほど」
荷物を全て乗せ終えると、ウィルは当然のようにわたしに手を差し出した。
その手を取る前に、ふと、声が零れ落ちる。
「どうして……」
「ん?」
「ウィルは、どうしてここまでしてくれるの?」
悠長に言葉を交わしている場合ではない。けれど、どうしても気になったのだ。
ぴくり、と一瞬動いたウィルの指先は動きを止め、わたしもそれに倣って、持ち上げた腕はウィルのもとまで辿り着かずに宙に浮く。魔法の絨毯に乗ったウィルとわたしとの間に、見えない透明な壁が築かれているかのように、わたしたちはお互いに、言葉を発しないままその境界線を超えようとはしなかった。
差し出した手を一度身体の脇に落ち着かせると、ウィルは、ふっ、と息を吐き出すようにして笑った。ため息のような笑いは、どう受け取ればいいのかわからいまま、風に巻き込まれるようにして消えてゆく。
「……巻き込んだのはお前のくせに、それ言う?」
「否定はしない。でも、だからこそわたしに配慮する必要はないはずでしょう。これからの、ザカライアでの生活もあるわけだし、あなたは取捨選択ができないひとってわけじゃない。なのに、なぜ?」
そもそも、ウィルは頭の回転が速い。わたしが彼の移動魔法を当てにしていたこともすぐに察したし、その場で気づかない振りで身を引くこともできたはずだ。根はいいひとだから多少の良心の呵責はあるかもしれないけれど、単にコンパートメントを共にしただけの相手に、ここまで律儀に付き合うほどの理由はないだろう。
しばらく真面目な顔になったウィルは、その内眉間にどんどんと色濃い皺を寄せた。魔灯が点灯するときのような音がすると思って辺りを見回し、その音源がウィルの閉じられた唇から漏れていることに気がついた頃、ようやくウィルはへの字の唇をまんまるにして、言った。
「わかんね」
「は」
「そう言われてみりゃなんでだろ。別に、会ったばっかでロゼッタに友情とかどうとか抱いてるってわけでもないし、ロゼッタのために死ねっていわれたら迷いなくごめんだね、って思うけど」
正直すぎる。わたしは呆れ半分、ごもっともという気持ち半分で頷いた。「はあ」。
けれど。
でも、と続けたウィルとわたしの間を、風が通り抜けてゆく。爽やかな風。けれどとても力強く、ひとつに結ったわたしの三つ編みは宙に流され、ウィルの癖のある赤毛は獅子の瞳によく似合うほど暴れ回る。それなのに絨毯は揺らぐこともなく、そこに立つウィルは確かな意志と強さでそこにいた。
一瞬。数秒。どれぐらいの時間だろう。
その姿に、視線を奪われたのは。
風の中に立つウィルだけを見据えるわたしに、ウィルは言葉を続けた。
「オレの〈魔法〉を頼りにしてんのかなって思ったら、悪くないなって思ったよ。ちょっとイイ気持ちだった。オレの力が欲しいなら、使ってやってもいいかなって思えるぐらいには」
「…………」
「それじゃダメなわけ? なんかほかに明確な理由とか、いる?」
用意してやってもいいけど、今すぐじゃなくたっていいだろ。
そう軽口を続けるウィルは、すこし不機嫌そうだ。わたしは他人の感情を推し量ることがあまり得意ではないから、ひょっとしたら不機嫌というのも違うかもしれない。ウィルはすぐに鼻を鳴らして、唇の端の片方を吊り上げたからだ。しょうがないな、とでも言っているように見えた。
「納得できないんだったら、一飯の恩ってことでひとつ」
ウィルが再び手を差し出すのと同時に、強い風が吹いた。
今度はわたしの背後から、強く。強く。それは、わたしの背を押すように。
――――あなたがやってるの?
そう尋ねることは簡単だった。
けれどきっと答えは返ってこないだろう。それに、わたしは風がわたしの背中を押すよりも早く、指先を動かしていたから。透明な壁を、境界線を、超えられなかった指を。手を。腕を。
「ありがとう」
壁が割れ、風が吹き込んだ先にある掌に触れたとき、わたしはそう言った。
力強い腕に引かれて、わたしはようやく、宙に一歩を踏み出したのだ。