〈二〉 コンパートメント
ウィルフレッドは、出会い頭のような人懐っこさを失った代わりに、必要以上に踏み込んだ質問をしてくることはなかった。列車の旅は長い。気ごころ知れた友人ならまだしも、今日が初対面の相手とコンパートメントを共にしているのだ。無理に気を張るよりは、各々の時間を自由に過ごすべきだという考えは共通していたのだろう。ほとんどの時間を、本を読んだり外の景色を眺めたりすることで過ごした。
正直、このコンパートメントに顔を出したときよりも今のほうが、彼を好ましいと思った。
静かに景色を眺める横顔は、同い年とは思えない大人びた色があり、そこには彼の過ごしてきた時間が覗く。純粋とはいえず、それなりの苦労を重ねてきたように見える。きっと、わたしの知らない事情があるのだろう。わたしと同じように。
幾つかの駅を過ぎ、見える景色が賑やかになってきたころのことだ。
そろそろ日も昇りきり、胃の中にいる虫が自己主張を激しくしてきた。
わたしがバスケットの包みを開けはじめると、ウィルフレッドが本に落としていた視線を持ち上げる。
「昼飯?」
「うん」
「じゃあオレも食べよっと」
そう言って、ウィルフレッドも鞄の中を漁り始めた。
「べつにわたしに合わせる必要はないと思うけど」
「まあね。でも、メシは誰かと食ったほうが美味いに決まってるだろ。それに、オレも腹減ったんだ。わざわざ合わせてるわけじゃないさ」
「……そうだね」
なぜだか、そう言うウィルフレッドの顔に、ベベさんが重なった。
今頃、どうしているだろうか。
浮かぶ思い出を振り切るように、わたしは言った。
「ウィルフレッドは、変なひとだね」
「はあ? なんだよ、いきなり」
「だって、玉の輿とか妙なこといったり嘘吐いたり……悪いやつみたいに振る舞うのに、根はすごくいいひとに見える」
「……なに? やっとオレの良さに気づいたの?」
良さ、というと些か語弊があるように感じる。
ウィルフレッドは相変わらずにやにやと不遜な――出会い頭の純朴な笑みはどこへ消え去ったのか――笑みを浮かべながら、窓枠に頬杖ついてわたしを見つめているけれど、そう居心地が悪いものでもない。わたしはただすこし黙って、頭の中で適切な言葉を探した。
「そうだね。少なくとも、さっきより今のウィルフレッドのほうが、わたしは好き」
途端にウィルフレッドは咽た。
片手に持っていたビスコッティが喉に引っ掛かったのだろうか。飲み物らしいものに手を伸ばすこともできそうになかったので、わたしは自分の水筒を渡した。中身はベベさんの淹れてくれた紅茶が入っている。わたしの好きな、蜂蜜入りの。
数口含むと、ようやく落ち着いてきたらしい。礼をいって返してきた水筒を受け取りながら、わたしはウィルフレッドの手許を見た。
「それだけ?」
「なっ、にが?」
まだすこし喉に違和感があるらしい。わたしは再び、水筒を押しつける。
「お昼ご飯。それだけ?」
「ああ……大したもん作れるわけじゃないし、……」
一度黙ったあと、それでもわたし相手に取り繕う必要もないと彼は思ったのか。外へ視線を移して漏らした言葉は、先ほどまでに比べてひどく頼りなかった。
「オレ、親戚から嫌われてたんだ」
「……」
「だから金もないし、昼飯用意することもできなくってさ。棚に隠してあった菓子をくすねてきたぐらい。水なしじゃ食えないけど、これは村にあるパン屋で買ったやつだからまだウマいんだ。おばさん料理が致命的でさ、ソレ用の非常食全部持ってきたから、しばらくはあいつら空腹かクソ不味いメシ食うかの二択しかなくなるぜ。いい気味だ」
「……そう」
「もちろん、ザカライアに行ったらそういう心配もなくなるだろ。すげえ豪華な食堂があるって聞いたし、金だってかからない。あいつらには一生かけたって食えないようなメシを、腹が破けるぐらいたらふく食べるつもりさ」
彼は嘘つきだ。ぼんやりとそう思う。
「どうして、嫌われてたの?」
そう尋ねると、ウィルフレッドは意外そうな顔をした。
表情の答えは、意外とすぐにわたしにもたらされる。
「わかるだろ。持たざるものにとっては、持つものは羨望や、畏怖の対象だってこと」
「……〈魔法〉のこと?」
「ああ。みんな気味悪いって」
「そんなの……」
「もちろんオレだって、その奥に隠された本音ぐらい見えてるよ。気味悪い以上に、やつらは羨ましかったのさ。自分や自分たちの子どもは普通の持たざるものなのに、居候のオレが特別だってことがね。ザカライアから手紙が届いてからは滅多なこともされなかったけど、それでもまるでいないように扱われてた」
「……なんだか昔の魔女狩りみたいね。異質なもの、特出したものを排除しようとする……」
「ああ。くだらないよな」
ウィルフレッドは軽く言ってみせたけれど、伏せた睫毛は震えているようにも見えた。
わたしは望んでひとりになった。彼はきっと、違うだろう。
バスケットを手繰り寄せて、中からもうひとつの包みを取り出す。ベベさんはいつもわたしに「もっといっぱい食べなきゃいかん」と多めに食事を与えてくれていて、今回もそうだった。わたしの膝に乗った包みと、中身はきっと一緒だろう。庭で取れた野菜と、炙ったベーコンを挟んだサンドイッチ。
わたしはそれを、ウィルフレッドに差し出す。
思いのほか、冷たい眼差しが返ってきた。
「……何?」
「これ。食べて」
「言っておくけど、別に同情されたくて言ったわけじゃないよ。もうオレの本性なんて見透かされてるし、ザカライアに生まれは関係ない。特にやましいとも思ってないから言っただけだ。勘違いしないでくれ」
「わかってる」
施しのつもりではない。わたしは返した。
「でも、一緒に食べたほうが美味しいって言ったのは、ウィルフレッドでしょ」
「…………」
「わたしも、そのとおりだと思うよ」
ウィルフレッドは、だいぶ長いこと、包みを目の前に悩んでいたようだった。
眉間の皺は彼にはどうも似合わなくて、わたしはすこし唇をむずむずさせた。この感覚が何だったかわたしはずいぶんと忘れていて、恐らく奇妙な顔をしていたのだと思う。ウィルフレッドがほんのすこしだけ、眉尻を下げたから。
しばらくしてから、ようやく、ウィルフレッドは手を伸ばした。
彼が包みを解いて口に運ぶのを確認して、わたしも口を開けてサンドイッチをかじる。
わたしもウィルフレッドも、思いのほかお腹が空いていたらしい。何口か無言で食べ進めて、わたしは再び、彼にお茶を勧めた。
蜂蜜の甘さが浸みた紅茶で、ようやく彼の喉は潤ったらしい。
「……美味いな」
「でしょ」
そこで気がついた。このむず痒い感覚は、崩れる唇は、笑うためにあったのだ。
わたしたちは、ようやく、顔を見合わせて笑った。
サンドイッチを食べ終えたあとは、ウィルフレッドのくすねてきたクッキーを分け合って、それを食後の菓子代わりにした。わたしのバスケットにはまだアプトンなどの果実が入っていたけれど、どうせまだ列車での旅は続く。そのころに二人で食べるのでも不都合はないはずだ。
昼食を食べ終えたころには、わたしたちも沈黙に飽き、すこしずつ言葉を交わすようになった。
もっとも、内容はザカライアのことや〈魔法〉のことが主だ。
「ウィルフレッドはどんな〈魔法〉が得意なの?」
「移動魔法かな。しょっちゅう悪さをしては色んなとこに逃げてたからさ」
「なにそれ。ほんとの話?」
「ホントだよ。木の上でも屋根の上でも逃げられるし、足もちょっと速くなるみたいなんだ。周りに風が舞うカンジでさ。陣を描けば全然違う場所にも行けるよ。ザカライアに着いたらやってみせてもいいぜ」
「ウィルフレッドがヘトヘトになっていなければね」
「なんだそれ。あと、ウィルでいいって」
「はいはい」
あしらうように頷くと、「ほんと随分態度が変わったよな」と返された。
呆れているのか、組んだ足がぶらぶらと揺れている。
「最初はオレの質問にもまともに答えてくれなかったくせに」
ウィルは案外根に持つタイプらしい。
「あれはウィルがくだらない演技なんてしてたからでしょ」
「ああ。でもロゼッタが相手じゃなければ、きっと人当りがいいな、いい人そうだな、って思われてたはずだぜ? ロゼッタのほうが変わってんだよ」
「そんなことないわ。それに、他にも嘘ばっかり」
「他?」
考え込むように腕を組んでから、ウィルは「なんのことだよ?」と首を傾げた。
その動作に、ウィルは嘘を自覚しているのではないか、とわたしは唇を尖らせる。
奇しくも、彼が言った嘘と、同じ格好をしていたからだ。
「身に覚えがないの? その動作。ウィルが嘘を吐いた相手と同じ格好よ」
「なんだそりゃ」
「言ってたでしょう。ここに来る前に別のコンパートメントに寄ったって。黒いスーツの男が同じ格好をしてたって言ってたはずだけど?」
「ああ。でも、あれは嘘じゃないぜ?」
「え?」
「だから、ホントのことだって。ここ来る前に幾つか覗いたんだけど、そのどれもが黒服の男で陣取られてさ。一度は会話も試してみたんだけど返事は返ってこないしちょっと気味悪ぃじゃんか。だからどうせなら、と思ってロゼッタのいるところに入ったんだ。大人しそうだったし、ザカライアの案内も持ってたからとりあえず安心できる相手だと思って」
ウィルの言葉がわたしの耳に次々と届けられる中で、わたしは軽く息を吸い込んで、ようやく活発に動き始めた脳に酸素を送った。指先はするりとリボンを解き、青磁色の髪を梳かす。
思い返してみれば、たしかに、ウィルがわたしの言葉に反応したのは演技のことを指摘してからだった。黒服の男なんていないと指摘したとき、わたしは彼がとぼけていると思ったけれど、もしそれが本当なら?
ウィルが乗ってきたのは一度目の停車駅。
彼が乗車したときに既に先客として席についているのなら、乗車はわたしより前か同じかのどちらかだけれど、前者の可能性はわたしが乗ったときの車掌の言葉から消されるはずだ。
――――黒服はオールストンから乗ってきた。
それも、わたしが乗車したあとに。
けれど、何のために?
――――導きだされた答えは単純で、そしてそれ以外にありえそうもない。
「……ウィル、時刻表持ってる?」
「え? ああ、持ってるけど……」
怪訝な顔のウィルから半ばひったくるように時刻表を受け取り、わたしは再び広げた地図と並べて時刻表のページを捲った。
先ほど停車したのはエベリーだった。もともとこの列車は長距離運行用だから、停車駅の間隔はそれぞれ長い。しかし窓の外の景色も賑やかになってきたから、そろそろ各駅との間隔は短くなってきたはずだ。
考えを巡らせていると、広げた地図の向こう側から、不満げなウィルの顔が覗いた。
「おい! なんなんだよ、どうしたんだ? そんなにいきなり慌てはじめて。心配しなくてもこの列車はマーリンフリードまで行くはずだぜ」
「それは知ってる」
「じゃあなんで……」
わたしは一瞬迷った。伝えるべきではない。
けれど、そこでふと、先ほどウィルが言ったことを思い出す。
時にして数十秒ほど悩んだものの、結局目的地は同じな上、学生生活を共にする相手だ。これっきりで付き合いの終わる相手のような対応はできないと思ったら、腹も括れた。申し訳ないけれど、ウィルには巻き込まれてもらうことにするしかない。
「追われてるの」
「え?!」
「黒服の男たち、わたしを追ってるんだと思う。わたしはウィルのひとつ前の駅で乗車したけど、その村はすごく辺鄙なところで、何人も乗ってくるような場所じゃないの。多分、わたしの後をつけて乗ってきたんだわ」
「な、なんで……」
「……わからない。けど、このまま大人しくこの列車でマーリンフリードまで向かうわけにはいかない。どこかで別ルートを探さなくっちゃ」
すこしだけ嘘を交えてから、わたしは瞳をウィルの黄金へと合わせるように見上げた。
ウィルは馬鹿ではない。人によって演技の使い分けが出来るのだから、少なくとも頭の回転は速いほうだろう。
わたしの視線から意図を読み取った彼は、僅かに息をつめた。けれどそれも束の間のこと。すぐに視線と、そしてこの流れから逃れられない運命を悟ると、背凭れに身体を預けてからがしがしと赤毛をかき回した。
「――ああもう! 本性はバレるし、ロゼッタのコンパートメントなんかに入るんじゃなかったよ!」
「思いのほか早く、ウィルの実力を拝めることになってよかったわ」
「オレは散々だけどね!」
それでも、拒否する様子は見えない。
代わりにわたしの手から時刻表を取り上げたウィルは、不機嫌な表情ながら、裏腹の言葉を紡いだ。
「あとでガッポリ報酬もらうからな!」
「ありがとう。ウィルってやっぱりいいひとね」
「うるせえ! 無駄口叩いてないでさっさと別ルート決めようぜ」
唇はへの字型なのに、頬は赤い。ウィルはどんどん色んな顔を見せてくる。きっと彼の過ごした時間がすこし捻くれたように見せているだけで、本来は演技がなくとも人好きのするような、素直なひとなのではないかとわたしは思った。
もっとも、今決めるべきは追っ手を撒く方法である。
わたしは地図を膝の上に広げたまま、髪を結うために指先をあくせくと動かし、同時に頭も回転させる。まるで指先に絡まる髪で、思考の舵を取るかのように。
ふと、視線は次の次の駅へと、列車のように停車する。
「ねえ。サールビーは?」
「サールビー?」
ウィルは一瞬怪訝な顔をした。
「そりゃオールストンよか都会だろうけど、そこまでデカい駅でもないだろ? その先どうやってマーリンフリードまで行くんだよ」
「ええ。だけど近くに、アズライト・パレスがあるの」
「……!」
わたしの意図を察したのだろう。ウィルは勢いよく時刻表のページを捲り、腰に付けた懐中時計を引っ張り出して見比べる。ウィルが見ることができるように、わたしは地図の向きを直した。
オールストンはもとより、エベリーやサールビーも駅としてはそこまで大きくない。そもそも乗車するほどの用を持つひとがいないのだ。自然、地方からの客を乗せた――もしくは、都会へと出てゆく客を乗せる――長距離列車ぐらいしか通らず、それも一時間に一本通ればいいところだろう。オールストンなんかは午前に一度、午後に二度しか通らないので、一度逃すと全ての予定が狂ってしまう。
けれど、わたしたちが焦点を合わせるアズライト・パレスは違う。
鉄道駅のなかでは言うまでもなくマーリンフリードがいちばんの大きさを誇るけれど、アズライト・パレスもまた、地方との連結部となっているため、東部や西部にかかわらず、列車の出る本数が多く路線も通っている。寝台車やわたしたちが乗っている長距離列車はもちろんのこと、特急や鈍行も、頻繁に通るらしい。
もしも、追っ手に悟られずアズライト・パレスに向かうことが出来るなら。
或いは、追っ手に悟られても特急にさえ乗ってしまえば。
わたしたちは、謎の黒服を撒くことが出来る。
「……アズライト・パレスからは特急が三十分おき、鈍行なら十分おきでマーリンフリード行きが出てる。時刻表どおりに進むなら一時間後の特急には間に合うはずだけど……」
「列車が時刻表どおりに進むと思う?」
「ありえないな。荷物を下ろしたり、黒服から見つからない逃げるのでも時間はロスするはずだ。そう思うと二十分は余裕を見ておきたい。それに……」
「それに?」
「…………」
「なにか気になることがあるなら言ってよ、ウィル」
「いや、……ロゼッタはさ、俺に移動魔法を使わせるつもりだろ?」
「……?」
考えていることがそのまま透けていたことには驚かなかったけれど、歯切れの悪さにやや嫌な予感がした。ウィルの頭の回転の速さを思えば、追われているのはわたしだけ、ならば自分はこのままマーリンフリードに向かっても何の支障もないということに気がついてしまうはずだ。
わたしは彼を下目から窺うように頷き、「ウィルがよければそのつもりだけど」と言葉を切り、言外に問いかけた。
すると、ウィルは大きくため息を吐いた。まるで息を吐かなければ言葉も紡げないかのように。
「話に乗っといてなんだけど、オレ、誰かと一緒に、しかもある程度の距離を陣移動したことはないんだ……」
気まずそうなウィルの顔が、みるみる内に見えなくなった。時刻表とキスするのではないかというぐらいに顔を俯かせたからだ。
わたしは、正直言ってすこし気が抜けた。
なんだ、そんなことか。と思ったからだ。
そしてそれは実際、唇からも零れ出る。
「なんだ、そんなこと?」
「そんなことってなんだよ! 上手くいくかわかんねーんだぞ!」
「大丈夫。ウィルならきっと出来るよ」
「オレの〈魔法〉見たことないだろうが!」
「ないけど、わかるよ」
わたしを見つめる顔には「ウソだ」という文字がでかでかと書かれているように見えて、わたしはどうしたものかとすこしだけ肩を竦めた。気がつけばもう次の駅に停まる。十分ほど停まったあとは、また走り出すだろう。サールビーに着くまでには計画を決めなければならない。
きゅっ。
リボンを結び直しながら、「大丈夫」とわたしは繰り返した。
願わくば、これがウィルの不安を取り除く魔法の言葉でありますようにと。
「ウィルにはアネモイのご加護がついてるから」
「…………アネモイ?」
なんだそりゃ。という顔をするウィルを他所に、列車は速度を落とし始めた。