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プロローグ

 ――――太陽がなくてはいのちが育たないように

 ――――雨がなくてはいのちが枯れ果ててしまうように

 ――――この世を構築しているのは正と負、陰と陽

 ――――どちらが勝ってもどちらが欠けても

 ――――セカイはきっと続かない




     それが、この世の理。




「だから、――――もそのまんまで、いいんだよ」






    そう言ったのは、果たして誰だった?









 鐘の音で目が覚めた。


 瞼を擦りながら、ぼんやり聞こえる鐘の数を確認する。五つの残響が輪唱のように広がってゆくのを耳で感じ、すこし迷ったものの、起き上がることにした。予定の時刻より早いけれど、なにが起こるかわからないのだ。準備にとれる時間は多いほどいい。

 壁と同じ真っ白の床に足の裏を下ろすと、ただ冷たさが触れて身体の中心に登ってくる。わずかに足を引いたのは驚いたからだ。昨日までは室内履きを使用していたけれど、今日はもう出発の日。夜の内に詰められるものはすべて詰めてしまった。わたしはぺたぺたと音をさせながら洗い場に向かって顔を洗った。顔を拭くための布は大家のベベさんが毎朝置いてくれている分があるので、ありがたく使わせてもらう。魔法みたいにやわらかく、室内に置いていてもどこかあたたかいそれに、触れることはもうない。そう思うと、手を離すのが名残惜しかった。


 水を注いだグラスを、今や空っぽになった棚まで持って行く。

 唯一置いてあるのはたったひとつの写真立てだけ。それの前にグラスを置いて、わたしは静かに指先を組み合わせた。くちびるの中でだけ呟いた言葉は、室内には響かない。水には波紋さえ、浮かばない。



「もう行くのかい?」



 身支度を終え、鐘の残響が六つとなったころ。

 ベベさんが薄く開いたままだった扉を開け、そう声を掛けてきた。

 心配そうに眉の尻尾が下がっているのに、口許は笑みによる皺が寄っていた。ベベさんはいつでも絶え間なく笑顔を浮かべているひとだ。わたしとは違う。そこがとても、好ましいと思う。



「はい」

「寂しくなるね」

「きっとわたしなんかより素敵なひとが来ますから」

「未来が見えるわけじゃあなかろうに」


 咎めるような口振りに、わたしはすこし、続きに迷う。

 すると、すかさずベベさんは続けた。


「それに、どんなにいいひとが来たってね、それはあんたじゃあないんだから」

「……ベベさん」



 ありがとうも、ごめんなさいも伝えることができないまま、わたしはベベさんの腕の中に包まれていた。

 わたしより低い背。くしゃくしゃの髪に鼻先を埋めるようにすると、庭で育てているチャマレーのいいにおいがした。気持ちを伝えることは得意じゃないから、わたしはただ、彼女の背に腕を回した。指先で背中におまじないの魔法陣を描いた。それは、ベベさんにこの先も幸福がありますようにという、ささやかな願い。


 離れると、ベベさんは扉近くのサイドテーブルへと置いたバスケットを取り上げた。



「餞別だよ。持っておいき」

「でも、わたし、昨日までの家賃しか渡してない……」

「いいんだよ。この家を出るもんには毎回振る舞うことにしてるのさ。それにどうせ行きの列車じゃろくなもん売ってないんだから」

「ベベさん、乗ったことあるの?」

「ない。けどわかる」

「未来が見えるわけじゃあないっておっしゃってたのに」

「それはそれ。あんたのために、って作られた食事のほうがうまいに決まってるじゃあないか」

「……ありがとう」



 今度こそ伝えられた言葉は、わたしが口にするとどうしても薄っぺらくなってしまう。けれどベベさんはとても嬉しそうに頬を緩めると、バスケットを持ったまま部屋を出た。わたしもトランクと、入りきらなかった荷物を入れた鞄を持って後に続く。



 最後に、部屋を振り返る。



 残ったのは、ベベさんから借りたときの――わたしが住みはじめたばかりのころとかわらない、ちいさな部屋。空の本棚。何もかかっていないコート掛け。開きっぱなしのクローゼット。ベッドメイクはきっとベベさんがしてくれるだろうけれど、すこしでも、と綺麗に整えたベッド。

 棚の上にあるグラスの前で、ふたりの姿が揺れていた。


 忘れ物はない。わたしは扉を閉めて、足を踏み出す。




 すべてはこの地から、わたしの――――ロゼッタ・アリソンの名を、消すために。




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