日常小話・目隠ししておやすみ
萬屋家の日常の一コマ。
長男と三男、小学生の頃の思い出話。
「夜が明けるのは希望だなんて、誰が決めたんだろう」
豹雅は体を胎児のように丸め、向こう側を向いたまま喋る。
「きっとその人は、僕みたいに、友達に意地悪されたことないんだろうね」
何で「意地悪する」奴を「友達」なんて呼ぶんだと思ったけど、それは、豹雅なりのプライドなのかもしれない。
「いじめ」だなんて思いたくない、認めたくない、自分はそんなことされるような人間じゃない、というプライド。
豹雅と幼馴染のリエは、幼稚園の頃から折り合いが悪い。
リエのやつ、蓮花、樹里、伊吹とは、仲が良い、又はそれなりに上手くやってるのに、何故か豹雅(たまに俺にも)には当たりが強い。
ちょっとしたことで怒るし、ちょっとしたことで叩く。
見兼ねて誰かが止めに入ると、リエよりも早く、豹雅の方が「僕が悪いことしたから、リエちゃん怒ったんだよ。だから、リエちゃんは悪くないんだよ」と言いながら、ふにゃっ、と笑う。
泣きたいのをこらえて、無理して笑ってるようにしか見えなくて、辛かった。
小学校に入ると、リエの豹雅に対する当たりはますます強くなった。
隣のクラスだったけど、何をされてたのかは、風の噂で知っていた。
でもあいつは、俺が何を訊ねても、「僕が悪いことしたからリエちゃんが怒ったんだ」とか、「ふざけてただけだよ」とか、また笑ってごまかすんだ。
小学生になって、少しだけ大人っぽくなったのか、泣きたいのをこらえるような顔は見せなくなったけど、そのヘラっとした笑みからは、悲しみと寂しさを感じた。
そして迎えた、小3の遠足。
歴史博物館とお菓子工場を見学することになっていたから、みんな嬉しそうで、学校では月の初めからその話題で持ちきりだった。
もちろん、俺も、他の兄弟たちも、遠足が楽しみで仕方なかった。毎晩毎晩、「あと何日だね」「お菓子工場に行ったら、お土産とかくれるかな?」なんて話をして、期待に胸を膨らませていた。
豹雅も、俺たちと遠足の話をしている時は、ニコニコ笑っていたし、会話も弾んでいたから、遠足が楽しみなんだなと思っていた。前日の夜までは。
普段は寝つきのいい俺も、さすがに遠足の前日となると、何だか落ち着かない。
何度も寝返りをうって、瞼の開閉を繰り返して、ようやく、うとうとし始めた頃に、闇の中に豹雅の姿が見えた気がした。
見えた、というより、脳裏に浮かんだ、という方が正しい。
闇が薄まり、だんだんとイメージが、明るく、広がっていく。
芝生の上、みんなが思い思いの場所にレジャーシートを広げて弁当を食べているところ、豹雅は1人離れたところで、疲れた顔して弁当をつついている。
真新しいはずの白い靴下は泥にまみれ、すぐ脇には同じように泥にまみれた、豹雅お気に入りのレモンイエローのズック。
そこに先生が来て、声をかける。
『豹雅くん、小川に落ちたって聞いたけど、怪我してない? 何があったの?』
豹雅は、悲しみの色を宿した目を先生に向け、ヘラっと笑うと、
『ふざけてただけです』
「豹雅、起きて」
居ても立っても居られなくなり、隣の布団で眠る豹雅の身体を揺すった。
「なんだよぉ、こんな時間に」
と迷惑そうではあったけど、声はハッキリしていた。
「寝てた?」
「起きてたけど、どうしたの?」
「ん……眠れなくて。少しお話ししよう」
「えー」とか嫌がるかと思ったのに、豹雅は存外素直に「うん」と頷いた。
「明日はいよいよ遠足だな」
「そうだね」
「楽しみ?」
「楽しみだよ」
豆球の明かりでも、豹雅が嬉しそうに笑うのが見えた。
「本当に、楽しみ?」
「ハツは楽しみじゃないの?」
「楽しみだけど」
なんて言おう。俺が見たさっきのイメージは、間違いなく、未来の出来事。
明日の遠足で、豹雅は、小川に落ちて……というか、たぶん、リエに落とされて、足元を泥だらけにしてしまうんだろう。
それをそのまま、豹雅に伝えていいものかどうか。
「何? 何か嫌な予感する?」
豹雅が心配そうに半身を起こす。
みんな、俺の「嫌な予感」が100%的中するのは知ってる。
「嫌な予感というか、」
「何か見えた?」
「見えた」
「何が見えたの?」とは聞かなかったから、豹雅も察したのかもしれない。
「そっかぁ」
起こしかけた身体を布団に戻し、豹雅が、口元を歪める。何だかじれったくなった。
「おまえ、何で、リエにいじめられてるの言わないんだよ」
「いじめられてない」
固い声で豹雅は答える。
「いじめじゃないよ。ちょっと、ふざけてるだけ。リエちゃんは」
「おまえは?」
「意地悪されてるな、とは思ってる」
「嫌じゃないの?」
「嫌に決まってるじゃん」
豹雅はため息をつき、向こうをむく。
「夜が明けるのは希望だなんて、誰が決めたんだろう」
豹雅は体を胎児のように丸め、向こう側を向いたまま喋る。
「きっとその人は、僕みたいに、友達に意地悪されたことないんだろうね」
なんて言ったらいいのかわからなくて、黙ったまま、豹雅の背中を眺めるしかなかった。
「この時間が一番楽しいなー」
仰向けになり、両手を天井に伸ばして、歌うように豹雅は言う。
「明日は遠足だな。歴史博物館とお菓子工場の見学、楽しみだな。お弁当は何かな。バスの中でどんなことして遊ぼうかな……楽しみだなって待ってる時が、一番楽しい」
「わかる」
「でも、楽しい気持ちは、すぐ、しぼんじゃうんだ」
手をゆっくり下ろし、目元を自分の腕で覆う。
「……今日は、登校中に、歩くのが遅いって怒られた。算数の時間に、黒板に書いた字が汚いって怒られた。音楽の時間に、歌が下手すぎて聞いてられないって怒られた。給食の時間に、僕がよそった味噌汁の量がおかしいって怒られた。掃除の時間に、リエちゃんの机を倒したらわざとだって怒られた。帰りに下駄箱を覗いたら、バカって書いた紙切れとゴミが詰めてあった」
長い息を吐き、
「明日は何を言われちゃうんだろう。明日は何をされちゃうんだろう。朝なんて来なければいいのに。ずっと夜のまんまがいい」
胸のあたりがぎゅっと絞られたみたいに痛くなる。心臓が一際大きな音をたてたあと、一気に加速し始めた。
ドキドキしながら、そっと豹雅の手を目から外してみた。豹雅は泣いてなかった。腕をつかむ俺のことも全然気にならないみたいに、ぼーっとした目で、天井を見上げてる。
「……本当は僕だって、めんどくさいし、嫌なんだよ」
「……うん」
「でも、リエちゃんは、『全部豹雅が悪いんだからね。だから、あたしは怒ってんだからね』て言うんだ」
「うん」
「そんなの違うよね。僕が全部悪いわけじゃない。僕にも悪いところあるけれど、リエちゃんは、僕のこと嫌いだから、意地悪してるだけなんだよ」
「うん」
「でも、そうやって反論すると、リエちゃん、ますます怒るし。他の女の子たちはみんなリエちゃんの味方だし。先生もリエちゃんのこと信用してるから、何にも言わないし」
「うん」
「『男の子は、どんな理由があろうと、女の子に手をあげちゃダメだ』ってお母さんが言うから、怒ったり、叩き返したりできないし」
「うん」
「女の子に生まれればよかったなぁ。そしたら、僕だって、怒ったり、叩き返したり出来たのになぁ」
「おまえは、そんなことしないよ」
豹雅が目だけ動かして、俺を見る。
「おまえ、優しいからな。女の子になったって、絶対そんなことしない」
本当に、そんなこと思ってたら、男女関係なく、怒ってるし、叩き返してる。
豹雅は、兄弟喧嘩だって、自分から怒ったり、手をあげたりすることはしない。
どんなに怒られても、叩かれても、いつもじっと、我慢してる。そういう奴だ。
豹雅は「そっか」とだけ言った。
「ずっと夜の中にいたいな。こうやって、目隠しして」
もう一度、自分の腕で目を覆おうとしたから、代わりに俺の掌を置いてやった。
「ハツの手はいつも冷たいね」
「心があったかいから」
「そうだね」
「そこは笑うとこ」
「本当にあったかいよ。ハツはそういう奴だよ」
鼻をすする音。手のひらにじんわりと熱が伝わってくる。また心臓が痛くなってきた。
「明日、遠足、行く?」
「……本当は、行きたくない」
「俺も行きたくない」
「何で? 楽しみにしてたんじゃないの?」
「楽しみにしてた、フリしてた」
嘘。本当は楽しみにしてた。さっきまでは。今はもう、どうでもいい。
「朝が来ないように、目隠ししててやるから、おまえは寝な」
「寝たら朝が来る」
「そのための目隠しだよ」
そんなことを小声で囁きあってるうちに、俺も豹雅も、いつの間にか眠ってしまった。
本当に希望の朝が来るまで、豹雅の夜がいつまでも明けないといいな、と思いながら。
結局、遠足は行かなかった。正確には、行けなかった。
秋の夜は意外と冷えるものだ。2人して布団もかけずにそのまま寝てしまったため、仲良く風邪っぴき。
馬鹿みたいだって笑いあった。風邪で身体は辛かったけど、心の中は晴れやかだった。




