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赤い靴

○月×日 晴れ



 今日、とても素敵な物をいただいたの。


 一緒に素敵な思い出話も聞いたから、忘れないようにそのことを書いておこうかと思って。



 赤い靴を知っているでしょう?


 赤い靴と言っても、カーレーンも、野口さんも関係ないの。我が家にある赤い靴のこと。


 お母さんの部屋に昔からある、ガラスケースに入れた赤い靴、一度くらいは見たことがあるわよね?


 鮮やかな赤、リボン型の飾りがついたエナメルのパンプス。


 小さな頃から見ているけれど、あれは私たちが産まれるずっと前から家にあるんですって。


 お母さんの部屋にある赤い靴は、買ってきたのをそのまま飾ったようにピカピカしていて。だから、靴は本来足に履いて使うものだけど、あれは履くためじゃなくて、飾るための靴なんだと、子どもの頃からずっと思っていたの。


 でも違ったみたい。だって今日、お部屋を覗いたら、お母さん、鏡の前であの赤い靴を履いて、腰に手を当ててポーズをとっていたんだもの。


 モデルにでもなった気分だったのかしらね? 笑いをこらえるのが大変だったわ。


 鏡越しに目があって、お母さんはぎょっと目を見開いたかと思うと、すぐに振り向いて、照れ臭そうに笑った。


「急にどうしたの?」


 私が訊ねると、お母さんはまたポーズをとって見せた。


「ちょっと履いてみたくなってね。でも、さすがにこの歳でこの赤い靴はないか」


「そんなことない。とても素敵。でも、それは靴の形をしたオブジェじゃなかったの?」


「とんでもない。これは祥子おばさんに貰った靴なんだから……て言ってもあんたは知らないか」


 なれないヒールによろけながら靴を脱ぐと、お母さんはいとおしそうにパンプスを撫でながら言った。


「この靴はね、祥子おばさんの素敵な思い出がつまった、お母さんの大切な宝物なの」


 それからお母さんは赤い靴にまつわる思い出話をしてくれた。


 祥子おばさんというのは、お母さんの伯母、私たちから見れば大伯母にあたる人。もともとあの赤い靴は、その祥子おばさんの物だったそうよ。


 祥子おばさんは、中学を卒業すると、知り合いのつてで、あるお屋敷で住み込みのお手伝いさんとして働きだした。物語に出てくるお城みたいに大きくて、とても立派なお屋敷だったと、おばさんは言っていたって。


 そのお屋敷には旦那様と奥様と、おばさんより三歳上のご子息がいらっしゃって、皆様とても穏やかで優しくていい人たちだったそう。


 おばさんはお手伝いの中で最年少だったから、お屋敷の主人を始め、奥様、ご子息、先輩のお手伝いさんたちにもとても可愛がられていたって。


 中でも特におばさんに目をかけていたのが、ご子息。歳も近かったし、一人っ子だったから、おばさんのことを妹のように思っていたみたい。


 部屋の掃除は祥子おばさんにしかさせなかったし、勉強の時間にこっそり抜け出しておばさんに会いにきたり、他の人に内緒で高級なお菓子を差し入れしてくれたり。おばさんのお仕事がお休みの日には、色んな面白い場所に遊びに連れていってくれた。


 まるで、生まれながらの兄妹みたい。周りの人は、そんな二人を見て、いつも愛しむように微笑んでいたって。


 穏やかで、朗らかで、優しい、素敵な男性。田舎から出てきたおばさんは、今までそんな方に会ったことがなかったのね。


 ご子息をお慕いする気持ちが、恋だと気付くのに、そう時間はかからなかった。


 でも、ご子息は、祥子おばさんのことを可愛い妹としか思っていなかったから。


 その証拠に、ご子息は祥子おばさんに自分の婚約者を紹介した時に、


「身の回りの世話をしてくれている、お手伝いの祥子ちゃん。僕は妹みたいに思ってるんだ」


 って言ったんだって。


 一方、婚約者のお嬢様(こちらも美人で聡明で穏やかな素晴らしい女性だったそう)は、


「僕の未来の妻だよ。僕の一番大事な人なんだ」


 って紹介したって。


 でもおばさんはショックなんか受けなかった。


 自分は田舎の村から出てきた、なんの取り柄もない世間知らずの小娘。そんな頭の悪い小娘に、旦那様も奥様もご子息も先輩たちも、みんな優しくしてくれる、笑顔を向けてくれる。ましてやご子息は、こんな冴えない田舎娘を実の妹のように想って、可愛がってくださっている。これほどの幸せはきっとない。それなのに、これ以上いったい何を望むというの?


 おばさんは、自分を本当の妹のように思ってくれる一方で、婚約者のお嬢様を深く愛し、誰よりも大切になさる、そんなご子息が好きだった。自分の恋が実らずとも、おばさんは十分幸せだったのね。


 あの赤い靴は、祥子おばさんが18歳の誕生日を迎えられたとき、ご子息から頂いたものだそうよ。


「初めて出会ったときは、可愛らしい少女だった祥子ちゃんが、美しい女性に成長したお祝いだよ」


 ご子息は照れたように笑いながらおっしゃったそうよ。おばさんはどれほど嬉しかったことでしょうね。


 やがて、ご子息様はご結婚され、おばさまはおばさまで別の男性と結婚し、お屋敷の仕事をやめた。お屋敷の方々とも交流がなくなって、それきりみたい。


 結婚し、お屋敷をやめたあとも、おばさまは戴いた靴を大切に保管していた。それが、お母さんの部屋に飾られていたあの赤い靴。あの靴にはおばさんの淡い初恋の思い出が詰まっていたのね。


「そんなに大切な靴を、何故おばさんはお母さんに譲ってしまわれたの?」


「子どもの頃から約束してたのよ。おばさんにこの話を聞いた時、この靴が欲しくてたまらなくなってね。靴は履くものなんだから、履かない譲ってほしいってお願いしたの。実際、おばさんはもったいなくて、この靴を一度も履いたことがなかったっていうしね」


「で、譲って頂いたと?」


「ううん。おばさんは『あなたがおばさんに負けないくらい素敵な女性になったらね』って笑ってた」


 茶目っ気のある方だったのね、祥子おばさん。


「そして、お母さんはおばさんの御眼鏡に適うような素敵な女性になって、この靴を頂戴した、ということなのね」


「まあね。でも、そんな簡単な話じゃないんだけど」


 靴の中に指を入れ、お母さんは一枚の黄ばんだカードを取り出した。


「……高2の3月だったかな。健康が取り柄だった祥子おばさんが突然倒れたのは」


 その日、お母さんは試験の追試を受けていて、おばさんが病院に運ばれ危険な状態だという話は、家に帰ってから、おばあちゃんに聞いて知ったそう。


 自分も行きたかったのに、何の連絡もよこさず追試の方を優先させるなんて、ひどい親だと、お母さんはむくれて、でもすぐに思い直した。自分が行ったって何が出来るわけじゃない、むしろ邪魔になるだけ。それに、


「もう、二度と会えないわけじゃないんだから」


 自分自身に言い聞かせようと、あえて声にした言葉は、何だかひどく頼りなさ気で、逆に不安を煽られただけだったって。


 やっぱり今からでも行こうか。間に合わないかもしれない、でも家でじっとしているわけにもいかない。


 おばあちゃんに病院の場所を聞こうとしたその瞬間、玄関の方から、カタンと何かを落としたような音が聞こえた。


 靴箱の上に置いてあった花飾りでも落ちたんだろうか? と思っていたのに、あったのは見慣れぬ赤い靴。


「何処かで見たことがあるはずなのに、すぐには思い出せなくてね。靴の中に入っていたこれを見て、ようやくわかったのよ」


 お母さんが私に手渡したカードには、細い字で、


『約束通り、美しい女性に成長したあなたに贈ります。いつまでも元気で』


 と書かれていた。


「祥子おばさんが亡くなったと連絡が入ったのは、それからすぐ。悲しかったし、悔しかったけど、あたしが忘れてた赤い靴のこと、おばさんはちゃんと覚えててくれて、最期にわざわざ届けに来てくれたんだって思ったら、結局嬉しい気持の方が勝っちゃったんだよね」


 おばさんが初恋の思い出を大事にしていたように、お母さんもおばさんとの思い出を大事にしていた。だから、赤い靴を部屋に飾っていたの。


「でも、靴は履くものでしょう? せっかく譲って頂いた靴を履かないで飾っておくだけなんて、おばさんに対して失礼にならない?」


 お母さんは何かを察知したように、靴を胸に抱き締めた。


「貸して、なんて言うんじゃないでしょうね」


「いいえ。履かないなら、その靴、私に譲ってくださいなって言いたかったの」


「なにいってんの。これはお母さんの宝物だって言ったでしょ」


 お母さんは靴を元通り、ガラスケースにしまい、満足そうに頷いた。


「これでいいのよ」


「せっかく可愛いのに残念ね。気が変わったらすぐに教えてね。樹里にあげたら嫌ですよ」


「気が変わることなんてないから、安心しなさい」


 お母さんは何故か勝ち誇ったように笑っていたわ。


 望みはなさそう。可愛らしい赤い靴、いろいろな想いが込められた素敵な靴、あれを履いてお出掛けしたら、普段の何倍も楽しかったでしょうに……諦めるしかなさそうね。


 と思ってから5分もたたないうちに、


「蓮花、この靴あんたにあげるわ」


 と赤い靴を持ってお母さんが部屋にやってきたものだから、どうかしちゃったのかと思ったわ。


「どうしたの? 頭でも打った?」


「あんた、靴が欲しいんじゃなかったの?」


「それはもちろん。でも、さっきは駄目だって言ったでしょう? 気が変わるのが早すぎじゃない?」


「気が変わったんじゃないの。あたしだって手放したくないんだけど」


 お母さんは机の上に赤い靴と、あの黄ばんだカードを置いた。


「読んでごらんなさい」


 カードについたシミやシワはさっき見たものと変わりはないのに(といってもシミやシワの具合を正確に記憶しているわけではないのだけれど)、そこに綴られた言葉は、明らかにさっきと違っていた。


「……『美しい女性に成長した、あなたの娘に譲っておやりなさい。靴は飾るものじゃなくて、履くものだって言ったのはあなたでしょう?』」


 カードを読み終え、顔をあげる。目があうとお母さんはニヤリと笑った。


「……確認しますけど、このカード、お母さんが書いたのではないのよね?」


「そんなことして、あたしに何の得があるのよ」


「じゃあ、いったい誰が?」


「そんなの決まってるじゃない」


 お母さんは肩をすくめ赤い靴を一瞥すると「大事に履きなさいよ」とだけ言って、部屋を出ていった。


 机の上に残された黄ばんだメッセージカードは、ほんの少し目を離した隙に綴られたメッセージが消え失せ、ただの黄ばんだカードになっていた。


 祥子おばさんってば、本当にお茶目な方ね。


 そんなわけで、私は祥子おばさんから、想い出がいっぱいの素敵な赤い靴を戴いたというわけなの。


 半世紀も前の代物なのに、汚れも傷みもまったくない、おばさんもお母さんもそれだけこの靴を大切にしてきたという証拠ね。


 見ているだけで楽しくなってくる可愛い靴、ためしにお部屋で履いてみたら、私の足にぴったりで、ますます心が弾んだ。


 祥子おばさんの淡い初恋の思い出、お母さんとおばさんの切なくて優しい思い出の詰まったこの赤い靴で、どこに行こう? どんな思い出を作ろう?


 おばさんやお母さんに負けないくらいの素敵な思い出をたくさん作るんだから。







「というわけで、来週の日曜日はみんなで動物園に行きましょう」


「何で動物園?」


「久しく行っていないからよ。たまにはキリンさんに会いたいじゃない?」


「俺はライオンとゾウとヘビが見たい! お菓子もいっぱい持ってこ!」


「たかだか動物園ぐらいではしゃぎすぎだから……あー、でも、パンダは見たいかも」


「パンダ舎は込んでると思うよ。僕は猛獣コーナーと小動物コーナーが見れればいいかな」


「初亥はどう?」


「俺はどちらかというと水族館派なんだが……強いていうなら、ハシビロコウが見たい」


「ああ、あの目付きが悪くて、あんまり動かなくて、何考えてんだかわかんない不気味な鳥ね」


「何がいいんだかわからないけど、はっちゃん、昔からあれ好きだよねー」


「好き……というか、気になる存在ではある」


「じゃあ、来週の日曜日の動物園行きは決定ね」


「雨降らないといいな!」


「てるてる坊主でも作ろうか?」


「……あのね、小学生の遠足じゃないんだから」




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