日常小話・夜のお茶会
萬屋兄弟の日常の一コマ、とりとめのない話。番外編のような物パート3
トイレに行きたかった長男と眠れない長女。
トイレに行きたい。
気付くと、目の前は真っ暗だった。自分が、今、目を開けているのか目を閉じているのかさえもよくわからないくらいの闇。
ここは何処だ? 俺は今まで何をしていた?
なんてこと考えて、5秒後に思い出す。
そうだ、自分の部屋だ。自分の部屋で寝ていたんだけど、トイレに行きたくて、目が覚めたんだ。夜なんだから、暗いのはあたりまえだ。
仰向けのまま、手探りで枕元の時計を探す。ひんやりした無機物に触れる。上のボタンを押すと、ライトがつく仕組みの便利な目覚まし時計。ディスプレイには00:44の表示があった。
時計のライトによる青白い光で、部屋の中がぼんやりと浮かび上がる。隣では豹雅、その奥では伊吹が静かとは言えない寝息をたてている。
トイレに行かなくちゃ。
ふらふらしながら上半身を起こし、這いずるように部屋を出る。まだ身体が寝ぼけてる。トイレが一階にしかないというのは不便だな。
当たり前だけど、家の中はしんと静まり返っている。歩く度に軋む床。呼吸の音がやけに大きく響く。誰も音をたててはならぬ。くだらないことを考えたら、ますます音が気になってきた。
居間の薄い障子紙から、灯りがすけてるのに気づいた。
誰かいる。こんな時間に誰が何をしてるいるんだ。
障子に空いた穴から中を覗くと、座卓の上で顔を伏せる小さな背中が見えた。パジャマから覗く、細くて白い首筋が震えている。
障子を静かに開けて、「蓮花」。
蓮花は弾かれたように顔をあげた。俺の顔を見て、「なあに。驚かせないで」と情けない声を出した。
「何をしてるんだ、こんな時間に」
口に人差し指をあてて、静かにしろというジェスチャー。
「みんな寝ているのだから、もう少し静かにお話しして。こっちに来れば」
蓮花の向かい側に腰を下ろす。座卓の上には紅茶の入ったカップと、小さなバームクーヘン。封は開いてない。
「こんな時間に一人でお茶か?」
「まあ、そんなとこね」
蓮花は決まり悪そうに言った。夜8時以降は何も食べない。11時までに必ず寝る。規則正しい生活を好む蓮花が、こんなことをするなんて。
「腹が減って眠れないのか?」
蓮花は答えない。頬杖をつき、目を伏せて、じっと何かを考えている。
部屋の中は静かだ。柱時計の刻む正しいリズムと、二人分の呼吸音。何だかひどく苦しい。息がつまる。喉をならして唾を飲み込んだ。
ボーン、と、一時の鐘の音がした。
「時々、夜が怖くて、眠れなくなるの」
蓮花が口を開いた。空気がふっと軽くなった気がした。
「不眠症か?」
「そんなたいそうなものじゃない。たまに、だから」
蓮花はうつむく。
「小学生の頃、おじいちゃんの家にお泊まりに行って、同じように眠れなくなったことがあるんだけど、」
「そんな昔から不眠に悩んでいるなら、病院に行った方がいいんじゃないか」
「だから、そんな大袈裟な話じゃないの。なかなか寝付けなくて、布団の中でゴロゴロしていたら、部屋の外で物音がしてね。気になって見てみたら、おじいちゃんが戸棚を漁って、お菓子を探していたの」
何してんだ、じいさん。
「私が声をかけると、腰を抜かして驚いていたっけ」
蓮花は体を震わせて思い出し笑い。その時のじいさんの姿がよっぽどおかしかったんだろう。
「それから二人で、ホットミルクを飲みながら、お菓子を食べた。2つしかないから、皆にはナイショだよって。黄色くてまん丸の……あれはなんと言ったかしらね? とにかく美味しかった」
今度は宙を見つめて、うっとり悦に入ってる。いちいちそんなことしてたら、話が進まない。
「それで?」
「それから、おじいちゃんとお話をしたの」
「どんな?」
「おじいちゃんは夜が怖いって話。怖くて眠れないときは、夜中にこっそりお菓子を食べて、幸せな気持ちで眠るんだって」
「その、夜が怖いっていうのは何なんだ?」
「夜になるとね、昔のことを思い出して悲しくなったり、これからのことを考えて不安になったりするの。不安になると眠れなくなる。眠れないと、まるで自分は世界にたった一人きりで取り残されたみたいな気になって、怖くて寂しくなるの」
「おまえもそうなのか?」
「うん。そうね。そんな感じ」
蓮花はやんわりと、「でもね、」と続ける。
「布団の中で怖くて震えてるより、いっそのこと起きて好きなことする方がずっと気持ちが楽になるっておじいちゃんは気づいたの。だから、こっそりお菓子を食べてたのよ。みんなにナイショでお菓子を食べると、スリルがあって、自分一人だけ特別な気分になるし、食べることでお腹も心も満たされて、安心するでしょ?」
「そうかもしれないな」
俺だって腹が減って眠れないときは、適当に冷蔵庫の中の物食って、腹を満たしてから寝る。
「みんなにナイショでお菓子を食べてやったというスリルと、お菓子美味しかったなあという満足感。そうすると、ようやく楽しい気持ちで眠りにつけるんだって」
時計を見つめ、蓮花はほうとため息を一つ。
「だから、蓮花も眠れなくなったら、夜のお茶会をしてごらん。その時はおじいちゃんも誘ってねって言ってたのに、二度とそんな機会は訪れなかったわ」
「おまえ、さっき泣いてたのか? 俺が声をかける直前」
「いいえ。ただ、おじいちゃんは、今でも夜が怖くて、一人でお菓子を食べては気をまぎらわせているのかしらって考えて、ちょっとうるっときてたけど」
「泣いていると思ったの?」と問う蓮花に、「まあ」と曖昧に返事をした。
座卓の上には手付かずのバームクーヘンが一つ。
「食べないのか?」
「食べる。初亥は、食べる?」
「食べる」
手付かずだったバームクーヘンを仲良く半分こ。
悲しさをまぎらわすために、夜中にこっそりお菓子を食べに来たのにな。
「お菓子も食べずに、じいさんのこと思い出して、うるうるしてたら、意味ないんじゃないか?」
「そうねえ」
蓮花は苦笑い。手の中のバームクーヘンもてあそんで、言い訳でも考えてるようだった。
「次からは、声かけろ」
不安で眠れないから、夜中にこっそり起き出して、お菓子を食べて、お茶を飲む。それはいいとしても、
「こんな夜中に、こんな静かな部屋で、たった一人きりでお茶を飲んだって、余計に悲しくなるだけだろ」
「だって初亥は一回寝たら、朝まで起きないじゃない」
「おまえが起こせば、起きる」
「本当に?」
「……根気よく起こせば、いつかは起きる」
「初亥が起きるより、朝が来る方が早いんじゃない」
蓮花は肩をすくめる。
「いや、俺じゃなくても、隣には樹里がいるし、向いの部屋には、豹雅も伊吹もいる。下には父さん、母さんもいるだろ。おまえが不安を訴えれば、みんな嫌だとは言わないぞ」
もしかしたら、豹雅や伊吹は多少の文句は言うかもしれないが、お茶に付き合うくらいはしてくれるはずだ。
「そんな深刻に考えられても、困るんだけどね」
蓮花は座卓に突っ伏す。顔を伏せたまま、
「ところで、初亥はこんな時間にどうしたの?」
「トイレに行きたくて目が覚めたんだ」
蓮花は顔をあげ、怪訝そうに眉を寄せる。
「トイレに行った帰り?」
「いや、行く途中だった」
蓮花の姿を見つけて、話し込んでしまったんだ。
「行かなくて大丈夫なの?」
「話してるうちに、何処かいってしまったみたいだ」
「それ、身体によくないやつ。我慢してると、膀胱炎になるわよ」
「誰が小だって言った?」
蓮花は一瞬、ポカンと間の抜けた顔をしたが、すぐに破顔して、
「やだぁ、汚い」
と声をあげた。みんな寝てるのだから静かにしろと言ったのは誰だったか。
「それはつまり、俺は尿意も忘れるくらいに、おまえのことを心配しているんだってことだよ」
「あら、やっぱり小さい方なの?」
「そこはどうでもいいだろ」
「大事なことよ。私も兄さんの身体が心配なんだから。膀胱炎は癖になったら大変」
「それはそれは。ご心配おかけして、申し訳ない」
「いいえ、こちらこそ。ご迷惑おかけして、すみません」
そこで変な間ができて、二人して同じタイミングで吹き出した。
バームクーヘンを食べて、紅茶を飲んで、少し話をして。2時の鐘が鳴ったから、部屋へ戻ることにした。
さっきまでの物憂げな雰囲気は消え、蓮花はしごく楽しそうだった。
「また眠れなくなったら、お茶に付き合ってね」
「善処する」
「眠れない時じゃなくても、楽しかったから、時々2人で夜のお茶会しましょうよ」
「それなら事前に予約しといてくれ」
「おやすみ」を言い合って、部屋に入ろうとしたところで、思い出した。
「あそこには、夜なんか来ないよ」
「え、なあに?」
「じいさんは何してるか考えてたって言ってただろ」
振り向いた蓮花の目が大きく真ん丸に見開かれている。
今更こんなことを言う必要はないかもしれないが。
「じいさん、今は、あっち……俺たちには見えない、手の届かない、空の遥か彼方にいるんだろ。そんなところに夜は来ない。怯えることもない。次の人生を、自分の順番が来るのを、のんびり待ってるよ」
蓮花の口元がほころんだ。
「そっか。そうだ。そうだったね。兄さんの言う通りだ」
蓮花はうんうん、と頷き、満足そうな笑みを浮かべた。
「今度こそおやすみ」「寝坊しないようにね」と声をかけあい、それぞれの部屋へ引き上げた。
たまには夜中に目覚めるのも悪くないなと布団に入った途端、トイレに行きたくなった。
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