また会いましょう。
○月×日 薄曇り
今日、懐かしい友人にあった。
友人、と言っても、知り合ってから実際に話をしたのは三回くらいしかなかったんだが。
でも、彼女と過ごした時間は、何というか、すごく、濃く、深かった。ただの知り合いという言葉ではすませられない、そんな存在で、心の通った友人だと、俺は思っている。
彼女のことを話したことはなかったと思う。
初めて会ったのは、今から5年前。
小6の夏休み。カナヅチだった俺が、ようやくバタ足で泳げるようになったことから水泳に目覚め、毎日市民プールに通っていた時のことだ。
人気のない、午後3時のバス停のベンチに腰掛け、うつらうつら船漕ぎしていたら、
「何してんの」
と左側から声がした。
せっかくいい気持ちだったのにと、恨めしい気持ちで声の主に目をやると、いつ来たのか、俺の隣に女の子が座っていた。
背は高いが線は細い。短く切った赤茶けた髪と、Tシャツ短パンからのぞく日焼けした肌は、健康・健全、元気いっぱいな田舎の少年といった感じだった。
「お兄ちゃん、何してんの?」
少年みたいな少女は再度そう言い、どんぐりみたいな眼を瞬かせた。
「バスを待ってるんだよ」
バス停にいる人間が、それ以外に何をするんだろう、と意地の悪いことを思った記憶がある。
「ふーん。寝てるように見えたけどな」
少女は歯を見せて笑った。肌の色は黒いのに、対象的に歯は白かった。
「お兄ちゃん、何処から来たの?」
「隣の街だよ。バスで15分くらいかな」
「ふーん。何しに来たの?」
「プールに泳ぎに来たんだ」
「一人で?」
「一人だよ」
「友達は? 一緒じゃないの?」
「一人だよ」
単調なやり取りを繰り返し、少女はまた「ふーん」と言ってから、「お兄ちゃん、友達いないんだ」と失礼なことをのたまった。
「いるよ、友達」
ただその時は、夏休みも中盤に差し掛かり、みんな、海だの山だの田舎だの遊園地だの、家族との用事で忙しくて、都合がつかなかっただけで。
「お兄ちゃん、一人っ子なの? お兄ちゃんとかお姉ちゃんとかいないの?」
「兄弟はいるよ。でも兄ちゃんと姉ちゃんはいない。俺が一番上だから」
俺の言葉に少女は目を輝かせて、
「お兄ちゃん、本当にお兄ちゃんなんだ!?」
「そうだよ。五人兄弟の一番お兄ちゃんなんだ」
「すごいね! いいなぁ、あたしも弟とか妹欲しいなぁ。兄弟がいっぱいいると楽しそう」
この少女は一人っ子なんだなと思った。兄弟が多いのは楽しいだけじゃなくて、大変なこと、めんどくさいことも多いけれど、基本的には楽しいから、「そうだね」と頷いておいた。
「お兄ちゃんたちは仲悪いの?」
「そんなことないよ」
「ふーん。お兄ちゃん、兄弟に嫌われてるの?」
またもや聞き捨てならないことを言われた。若干ムッとしながら、「何でそう思うの?」と聞き返した。
「だってお兄ちゃん、一人でプールに来たから」
他に四人も兄弟がいるのに、誰も一緒に来ないのは仲が悪い、もしくは嫌われているからではないか、少女はそう考えたらしい。
「そんなことない。下の兄弟たちは、みんな俺のことが好きだよ」
長い付き合いだからそれは自信を持って言えた。俺自身、おまえたちのことを、何よりも大切に思っているから。これは現在進行形。
「小さな頃は……そう、君みたいに小さな頃には、何をするにも五人一緒があたりまえだったよ。でも、大きくなるにつれて、だんだん一人一人、好きなこと、嫌いなことが変わってきたから、今はいつでも一緒ってわけにはいかないんだ」
それでも俺の記憶が正しければ、最初の数日はみんな付き合ってくれたんだよな。
「ついこの前までカナヅチだった初兄を一人でプールに行かせるなんて、自殺幇助に等しい重罪だよ!」
と、大袈裟なくらいに俺を心配してくれた樹里を筆頭に、同じく俺の身を案じた蓮花、ただ単純にプールで遊びたかった伊吹、ヒマだった豹雅と、結局五人揃ってプールに行ったんだ。
初日はよかった。みんなで仲良くプールで泳いで、楽しい一日を過ごせた。
翌日には体力がなくて肌が弱い豹雅が「筋肉痛と火膨れがひどいから」と、リタイア。
そんな豹雅を気の毒に思った蓮花も、豹雅の側にいると言ってついてこなくなった。
三日目には「プールあきた」と伊吹が消え、四日目には「監視員がいるし、あたしがいないほうが初兄も楽しいでしょ?」と俺に気を遣ってか、兄と妹の二人きりでプールに来るというシチュエーションに恥ずかしさを感じたのか、樹里も付き合わなくなった。
それでも泳ぐことの楽しさを知ってしまった俺は、一人で毎日プールに通い、夏休み明けにはバタ足・息継ぎなしで25メートル泳げるようになったんだから、なかなかたいしたものだと思う。
それはさておき、少女はみたところ小学校1年生くらい。近くに人の気配はないし、こんなところで一人きりで遊んでるんだろうかと気になった。
「ところで、君は何をしてるの?」
「何もしてないよ」
「何もしてないの?」
「うん。ただ、ここにいるだけ」
何もしてない。ここにいるだけ。思いもしなかった妙な答えに、なんて言葉を返せばいいのやら、少し戸惑った。
「……何もしないで、ずっと1人でここにいるの? 誰か、お友達とか、お家の人、お母さんとか一緒じゃないの?」
「一緒じゃないよ。でも、ママはあそこにいるよ」
少女が指差した先は、バス停の向い側に見える古びたアパートの右から2番目の部屋だった。
ベランダに白いプランターが2つと、しなびた朝顔の鉢植えが見えた。
「あそこが君の家なんだ」
「うん。でもママは引っ越すかもしれないって言ってた。最近、ママ、元気ないんだ」
子どもらしかぬ長いため息をつき、少女はベランダを見上げる。
「それは心配だね」
「でも、大丈夫。あたしがいるから、そのうちきっと元気になるよ!」
それから少女は、ママがどれほどに素晴らしい女性かを語りだした。
少女のママは小さな雑貨屋で働いているらしい。美人で、働き者で、周りからの評判もいい。
料理と裁縫が得意で、休みの日にはお菓子つくりや、縫い物をして過ごしているらしい。窓辺で揺れている黄緑色のカーテンもママのお手製だと言っていた。
それから、少女のママは植物も好きで、今はベランダで朝顔と何種類かの野菜を育てているようだ。
「ね、うちのママ、すごいでしょ!?」
誇らしげに胸を張る少女にとって、ママは自慢の母親のようだった。
「君はお母さんが大好きなんだね」
「うん! あたし、世界で一番ママが好きなの!」
ニカッと歯を見せて笑う姿が、なんだか眩しく見えた。元気で明るくて、まるで太陽みたいな子だ。
そう思っていたら、通りの向こうからバスがやってきた。
「お兄ちゃん、また来る?」
「うん。プールにはまた明日来るつもりだよ」
「じゃあ、またここでお話ししよっ」
俺が答えるよりも早く、彼女は「じゃーねー」と手を振りながら走り去った。忙しない子だなと思った。
次の日もプールに行った。いつもと同じようにベンチに腰かけうとうとしていたら、肩を叩かれた。
「また会ったね、お兄ちゃん」
昨日と同じように、いつやってきたのか、少女が俺の隣にいた。太陽みたいな笑顔がまぶしかった。
「こんにちは。今日も一人だね、お兄ちゃん」
「こんにちは。君も今日も一人だね」
もし、また会えたらあげようと思って持ってきた飴玉を差し出す。
「食べる?」
少女は首を振って、
「ありがとう。でも、食べられないんだ」
「飴は嫌い?」
「ううん」
「虫歯でもあるの?」
「ちがうよ。でも、食べられないの」
「食べられない」とは、どういうことだろう。何か重い病気なんだろうか。
俺が何を考えているのか気づいたのか、少女は困ったように視線を泳がせた。
「食べられないならそれでいいよ……そういえば、君の名前は何て言うの?」
「名前?」
他意はない。名前を聞いてなかったなと思ったから訊ねただけ。なのに、またもやまずいことを言ってしまったのか、少女はますます困ったように、もじもじと手をいじりだした。
「名前……名前はね、」
「言いたくないなら言わなくていいよ」
「そうじゃないんだけど」
真夏の太陽に雲がかかったみたい。少女の困ったような苦しそうな顔を見ていたら、こっちまで困ってきてしまった。
「名前の話はやめようか」
「違うの。あたし、名前がないの」
絞り出すように、発した少女の言葉に、俺はますます困惑した。
そんなことがあるわけないだろうに。もし、少女の母親がとんでもないうっかりもので、出生届を提出していないというならわからないでもないが……まずそんなことありえないし、本当にあったとしても、最低限、産まれてきた子どもに名前くらいはつけるだろう。
苦し紛れの嘘にしては、これは無理がありすぎる。
そんな嘘をつかなきゃいけないほど、名前を言いたくない理由があるのか。
「あ、その顔、お兄ちゃん、信じてないね」
少女は頬を膨らませ、俺を睨み付ける。
「本当に、まだ名前がないの。だってママはあたしのこと知らないから」
『知らない』とは、どういう意味? どうもこの少女の言うことは、要領を得ない。子ども特有の妙な妄想の産物だろうか。
「そういえば、あたしもお兄ちゃんの名前聞いてないよ」
俺が何か言いかけたのに気付いたのか、少女は遮るように早口でそう言った。
「そうだっけ?」
「そうだよ」
まだ気になることはあったけれど、これ以上突っ込むのはやめよう。そう思い、鞄の中から小さなノートとペンを取りだした。
「俺はね、『はつい』って言うんだ。こういう字を書くんだよ」
ノートに書いた「初亥」という字をじっと見つめ、少女は「はつい兄ちゃん」とぽつりとつぶやいた。
「変な名前だろ」
「ううん、すごい、かっこいい! 名前があるなんていいなぁ」
ふふっと楽しそうに笑い、
「あたしのママも、素敵な名前をつけてくれないかな」
まったくおかしなことを言う子だ。名前がなくて、母親は娘の存在を知らなくて、でも、いつかは素敵な名前をつけてほしいと願っている。この少女の頭の中には、どんな世界が広がっているんだろうと思った。
「あ、ママだ!」
嬉々とした少女の声につられ、向かいのアパートのベランダに目をやる。
ベランダの柵にもたれて、こちらを見る女性と目があった。
少女の話だと、「ママ」はとても美人で働き者と評判らしいが、失礼だが、俺にはとうていそんな様には見えなかった。
寝起きなのか、ボサボサの長い髪を無造作に一つにまとめ、パジャマ代わりだと思われる、ヨレヨレのTシャツに色褪せたハーフパンツを身につけていた。
化粧をしていないその顔は、遠目でも、Tシャツに負けないくらいくたびれているのがわかった。
ちゃんとした格好をしたら、それなりに、綺麗で明るく溌剌とした働き者の母親なのかもしれない。でも、俺が見た、少女の母親(と思われる女性)は、自分の身にかまける余裕もないほど、何かに疲れているようだった。
「あの人が、君のママなの?」
隣に座っていた少女は、いつのまにか立ち上がり、目を見開き、ベランダを見つめていた。
「どうしたの?」
「タバコ吸ってる……ママが、タバコ吸ってるの」
少女の声はかすかに震えていた。今、自分が見ているものが、信じられないとでも言うように。
たしかにベランダの疲れた様子の女性はタバコを吸っていた。
「女の人でも、タバコを吸う人は、たくさんいるよ。君のママもタバコを吸う人なんだろ」
もしかしたら少女の前では、吸ったことがなかったのかもしれない。だから、少女はこんなに驚いているのだろう。俺は勝手にそう解釈した。
「ちがう。そうじゃないの。そうじゃないんだよ」
ぐっと拳を握りしめると、少女はアパートに向かって駆けだした。俺に何も言わず、こちらが声をかける間もなく。
何が何やら、さっぱり事情がわからない俺は、とりあえず、もう一度、少女の母親が立っているベランダを見た。
少女の母親も、さっきと同じように、じっとこちらを見つめている。
てっきり、自分の娘の見ているのかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
虚ろな目は、何もとらえていなかった。目をやった先に、たまたまバス停と、俺と、あの少女がいただけ。
タバコを口に挟み、息を大きく吸い、また吐き出す。ひどく緩慢とした動作。
ぼんやりとした、心ここにあらずといったその姿に、妙な胸騒ぎを感じた。
あの少女はどうしただろう? もう、家についた頃じゃないんだろうか? ここからじゃ、何の音も聞こえないし、部屋の様子もわからない。母親も部屋の中を気にする素振りを見せない。
視界を遮るように、バスが俺の前に横付けされた。
ドアが開くなり、窓際の席を陣取り、アパートを見た。
ベランダに女の人の姿はなかった。部屋に戻ってしまったのかと、よーく目を凝らしてみると、柵の向こうに何かが動いているのが見えた。
しゃがみ込んで、泣いているんだ。気付いた時にはもう、バスは動き出していた。
あの場所に戻ったって、俺に何かできるわけじゃないだろう?
次の停留所で浮かせかけた腰を座席に戻し、そう思った。
それから十日ほど、プールには行かなかった。
台風の影響によるプールの臨時休業、たまった宿題の片づけ(俺の宿題ではなく、主に下三人の宿題の手伝いだが)、旅行から帰ってきた友達の土産話につきあったりしているうちに、あっと言う間に時間が過ぎてしまった。
夏休み最終週の月曜日。朝から日差しが強く、それはそれは暑い日だった。
いつもと同じ時間に、バス停のベンチに座り、アパートを見上げる。
窓は閉め切られ、ベランダに置いてあったプランター類は片づけられていた。
「また会ったね」
声をかけられ、振り向いた。いつ来たのか、黒いワンピースを着た少女が、俺の隣に腰掛けていた。
「久しぶりだね、お兄ちゃん。元気だった?」
嬉しそうに訊ねる少女に 、俺はすぐに返事ができなかった。
「十日も来ないから、どうしたのかと思っちゃったよ。でも、また会えてよかった」
「君は、」
なんて続けたらいいのか、言葉を選びながら、慎重に喋る。
「君は、元気だった?」
「うーん。元気なような、元気じゃないような?」
俺には、元気がないように見えるよ。そう思ったけど、言わないでおいた。
二人黙ってベランダを眺めた。風にたなびいていたお手製のカーテンも外されて、ずいぶんと寂しい窓になった。
「ママはタバコが好きだったんだ」
あっけらかんと、少女は言い放った。
「でも、やめたの。あたしがいたから。好きなもの、やめるのって大変だよね。あたしのママってやっぱりすごいよね」
十日前に会ったときと変わらない。少女は母親が大好きで、とても誇らしく思っていた。
「君のママは、どうしてる?」
「引っ越しちゃった」
「どこへ?」
「遠いところ」
「君は……行かないの?」
「行けないの。だってママは、あたしを捨てるために引っ越しちゃったんだもの。ママはあたしがいらなくなったんだよ」
「そんな、」
そんな悲しいこと、笑顔で言うなよ。そう思ったが、少女の気持ちを考えると、何も言えなかった。
「あたしのパパはね、本当はもう他の子のパパだったんだよ。それでも、いつか結婚しようね、2人で幸せになろうねって約束してたんだって」
「でもね、」と、そのままの明るい調子で、少女は続ける。
「あたしがママのお腹にいるって知った途端、パパはだんだんママに冷たくなっていったの。それでもママはパパが好きだから、約束したから、頑張ったんだけどね、駄目だった。ママはひどく傷ついてた。どうしたらいいのかわからないって、すごく苦しんでた」
口を開いても、どうせ気の利いたことは言えないんだから、俺はただ黙って話を聞いていた。
「あたし、ママがあたしのママになる人だって知ってたの。だから、ずっと、ママのことを見ていたし、声も聞いてたんだ。毎日楽しかった」
目を閉じて、記憶に残る幸せだった日々を思い出して、少女は楽しそうに笑った。
「でも最近、ママは泣いてばかりだったから、あたし、元気出してって励ましたくて、会いにいったの。だけど、ママはあたしに気づかなくて、どうしよう、幸せになるはずだったのに、何でこんなことになっちゃったんだろうって、ずっと言ってた。苦しんでるママを見たくなかったから、ここに来てたんだ。退屈だから、バスを待つ人に話しかけたんだけど、誰もあたしに気付かなかった。何でかお兄ちゃんだけは、あたしに気づいてくれたんだよね」
「きっと俺が普通の人間じゃないからだろうな」
冗談で言ったつもりはなかったのに、「何それ」と少女は笑った。
「君はこれからどうするの?」
「一度帰って、また、その時がくるのを待つんだ」
どこへ帰るの? どのくらい待つの? とは聞かなかった。彼女が帰る場所はとても遠く、待つ時間はとても長いというのはわかっていたから。
「寂しくなるね」と俺が言うと、少女は「残念だけど、仕方ないよ」と肩をすくめて見せた。
「あたしがいたところには、今のあたしみたいな子がたくさんいた。。あたしのママは違う、あたしは絶対にそうならないって思ってた。でも、世の中って思い通りにいかないものなんだね」
7、8歳の少女が頭をかきながらそんなことを言うなんて、おかしいだろう。
「ママは仕事を辞めて、引っ越して、全部やり直すんだって。いつまでも泣いてるわけにはいかない、今度こそ幸せになるんだって。あたしのママは強い人。だから、あたしも泣かないで、またこっちに来られるように頑張るんだ!」
胸を張って元気いっぱいに宣言する少女。その小さな胸には、どんな想いが秘められていたんだろう。俺には想像も出来なかった。
「君はずっと笑っているね」
「うん。ママがね、いつも笑顔を絶やさない、元気いっぱいな子になってほしいって言ってたから」
そう言いながら、少女はニカッと笑った。
「君は、本当に、ママが好きなんだね」
「もちろん。あたしのママは世界一だよ!」
強いな、と思った。
勝手な理由で、少女の命が、未来が、幸せが、奪われようとしてるのに。
奪おうとしているのは、他でもない、大好きなママなのに。
それでも、少女はママが世界で一番好きだと言うんだ。
得意そうに歯を見せて笑う少女の姿が、陽炎のように揺らめいた。
「そろそろ時間だ」
黒いワンピースを翻し、ベンチから飛び降りる。
「もうすぐ、消える。お兄ちゃんともお別れだね」
透け始めた掌を見つめ、少女は寂しそうにつぶやいた。
「本当は、あたしもつれていって欲しかった。今のママと一緒に幸せになりたかった。でも、仕方ないの。ママが悪いわけじゃない。だからあたしは、ママを恨んだりしない」
ぐっと拳を握り、少女は顔を上げた。
「お兄ちゃん、お話聞いてくれてありがとね。生まれ変われたら、また、お話し聞いてね」
少女の言葉に頷き、消えかけた頭をなでてやった。
「君は幸せになれるよ。絶対に。次に会えたら、今度こそ名前を教えてね。それから、太陽みたいな元気な笑顔も見せてね」
やっぱり気の利いたことは言えなかったけど、少女は「うん。またね!」と元気よく頷いて、蜃気楼のように俺の前から消えていった。
頭を撫でたはずなのに、何の感触も残っていない右手。今までのこと全てが、真夏の日差しが俺に見せた夢だったんじゃないかと思うくらい、あっけない終わりだった。
それでも俺は、自分が見たものを信じていた。
あの後、しばらくして、アパートは取り壊され、今はプールの駐車場に変わってしまったけれど、心のどこかで、いつかまたあの子に会えるって予感があったんだ……まあ、今日の今日まですっかり忘れていたんだが。
図書館に寄った帰り、電車が遅延していたため、バスを使おうと思ったのも、あの子に会うため、決められていたことだったのかもしれない。
バスから降りてきた、若い女性と、五歳くらいの小さな女の子。
目があうと、その大人しそうな見た目とは裏腹に、豪快に歯を見せて、少女は笑った。
「また会ったね、お兄ちゃん」
あ、って思った瞬間には、バスの扉は閉まっていて、去りゆくバス停では元気よく手を振る女の子と、目を丸くする母親らしき女性が見えた。
五年前と雰囲気が全然違うから、わからなかった。
でも、あの太陽みたいな明るい笑顔は変わってなくて、一瞬見ただけだったが、胸のあたりが懐かしさと、再会の喜びで、じんわりと熱くなった。
また会えた、本当に会えた。奇跡のような出来事だと思った。
次に会うときは、もっとゆっくり話がしたいな。
今度こそ、あの子の名前を訊かなくちゃ。
☆
「本当はわかっていたんでしょう?」
「何を?」
「女の子の正体ってこと?」
「そりゃ初兄がわからないわけないよね」
「それもあるけれど、その女の子とお母さんの行く末。嫌な予感してたんでしょ?」
「え、そーなの?」
「してた。でも、はっきりと、どんな結果になるなんてことはわからなかったよ。彼女のことだって確信があったわけじゃないしな……わかってたって、止められやしなかっただろうし」
「でも、その女の子はちゃんと別のお母さんのところに生まれてきたんだから、ハッピーエンドだよね?」
「女の子はね。彼女の元お母さんて人はどうなったのよ?」
「わからない。が、何処かで幸せに暮らしていると思う。というか、幸せであって欲しい」
「何でー? 不貞働いたんでしょ? 不幸になっても仕方ないじゃん? 自業自得じゃん?」
「あなたは本当にそういうところ、シビアよね」
「それに相手にだって問題アリなんだから。お母さん側だけ不幸になるなんておかしい。不公平」
「幸せに決まってるよ。僕はあったことないけどさ、きっとその子の元お母さんも、いっぱい悩んだはずだもん……そうじゃなかったら、元お母さんだって、彼女だって報われないよ」