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ミキとアタシ

 目が覚めると、見慣れた景色がそこにはあった。

 白い天井。

 白い壁。

 薄いカーテン越しに差し込む淡い光。

 そして、静けさを強調するかのような、微かな電子音。


「気が付いたかい?」


 あ、センセイの声だ。

 なんだか今日はちょっと不安気な声色に聞こえる。

 いつもなら、センセイはこのあと、優しく笑いながら、アタシの顔を覗き込んでくるはずだ。

 でも、今日は違った。

 なぜなら、センセイが覗き込んでくる前に、アタシの瞳がセンセイの顔を捕えたから。


「気分はどう?気持ち悪いところはない?」


 アタシと目が合って、センセイは大きく目を見開き、焦ったように矢継ぎ早に問いかける。

 あ、ちょっと待ってセンセイ。

 アタシ今混乱してる。

 そう心の中でつぶやいて、アタシはセンセイから顔を背けて目を閉じた。

 そう、今アタシ、顔を背けた?


「あ……あ……」


 アタシは再びセンセイの顔を見て、声を出そうと試みた。

 するとセンセイは、布団越しにアタシの肩に優しく手を添えて、小さく首を左右に振った。


「無理に話そうとしなくていい。これから少しずつ、練習していこうね」


 そう言ったセンセイの瞳は、涙で濡れていた。






「美樹ちゃん。準備はできた?」


 ママが優しく声を掛けてくる。


「もうちょっと」


 洗面所でぼおっと鏡を見つめていたアタシは、慌てて再びブラシを髪に撫で付けた。


 アタシの名前は、有坂美樹ありさかみき

 17歳。

 私立の進学校に通う高校2年生。

 洗面所から立ち去りかけたアタシは、思わずもう一度鏡を覗き込み、自分の姿を確認する。


「結構可愛いじゃん」


 短めだけど女の子らしくカットされた、ふんわりと柔らかい髪。

 色白の肌に、黒目勝ちな大きな瞳。

 それを縁取る、豊かな睫毛。

 唇はぷっくりとしたピンク色。

 自分で言うのもなんだけど、アタシはたぶん美少女の部類に入るだろう。


「大丈夫?」


 なかなか洗面所から出てこないアタシを心配して、ママが背中から声を掛けてきた。

 不安気な表情が鏡に映る。

 ああ、アタシはこの人に似てるんだ。


「ごめんね。髪型が決まらなくて」


 そう言って振り返ると、ママは突然、アタシの体を抱きしめてきた。


「どうしたの?ママ」


 生まれて初めてこんな風に抱きしめられたアタシは、どう反応すればいいのかわからず、意味もなく両手をパタパタと動かした。


「ううん。ただ嬉しいの。あなたがいてくれることが」


 ママは微笑みながらそう言って、素早くアタシに背を向けた。

 一瞬だけ、その目に光るものが見えた気がした。


「早くいらっしゃい。珈琲が冷めちゃうわ」


 朝の光の中に消えて行くママの背中を見送って、アタシはしばらくその場に立ち尽くしていた。

 ああ、美樹。

 ううん、アタシはこんなにも愛されているんだ。


「人ってあったかいんだな」


 そうつぶやいて、アタシはなんとも言えない幸福感と、罪悪感の入り交じった不思議な感情を噛み締めた。






 アタシが珈琲の香りに酔いしれていると、軽やかなインターホンの電子音が鳴り響いた。


「はーい。どうぞー」


 ママがインターホン越しに明るい声で答えると、がちゃりとドアの開く音がして、床板を踏みしめる足音が近付いてきた。


「おはようございます」


 リビングのドアを開け、アタシと同じ年頃の少年が、慣れた様子で室内に入ってきた。


「ごめんなさいね。卓くん。送り迎えを頼んじゃって」


 申し訳なさそうに眉を下げて言うママに、彼は軽く会釈すると、ダイニングに座るアタシに近付いてきた。


「ほら。ドジ美樹。いつまでのんびりしてんだよ。遅刻するぞ」


 椅子の背もたれに手を掛け、少年はアタシの顔を覗き込んだ。

 この子が幼なじみの江口卓えぐちたくか。

 ふーん。

 イケメンとまではいかないけど、好みのタイプではあるわね。

 襟足は短いけど、少し長めの癖のない前髪。

 丸くて大きな瞳に、意志の強そうな眉。

 アタシと同じブレザーを着てるってことは、同じ学校に通ってるんだ。

 そんなことを考えながら、アタシがじっと見つめていると、卓は急に顔を赤くして背中を向けた。


「早めに出ないとおまえ、まだ走ったりできないんだろ?もう行くぞ!」


 そう言って卓は、ママがアタシに渡そうと手にしていた学生鞄を、軽々と持ち上げた。

 そうしてそのまま彼は、玄関の方へ顔を向けたまま、スタスタと歩いて行く。

 ふふ。

 この子、きっと美樹のこと好きよね。

 くすくすと笑いながら、アタシはふと、リビングのソファーの方からの視線を感じて振り返った。

 そこには、アタシを心配そうに見つめるパパがいた。


「……パパ。行ってきます」


「あ……ああ。気をつけて。何かあったら、すぐに連絡するんだよ」


 意味もなく手にした新聞をたたんだり、広げたりしてそう言うと、パパはテレビに視線を移した。

 パパ。

 あなたにはアタシ、すごく感謝してる。

 だって今、アタシはこんなに幸せだもの。






 右足。

 左足。

 右足。

 左足。

 アタシは一歩一歩確認するように、心でつぶやきながら、地面を踏みしめる。


「こんぐらいのスピードなら大丈夫か?もっとゆっくり歩いた方がいいか?」


 そんなアタシに、素っ気ない表情を見せながらも、卓は何度も振り返り、確認してくる。


「大丈夫。歩けることが嬉しいの」


 アタシが自分の足に向けていた視線を持ち上げると、心配そうに見つめる卓と目が合った。


「まあ……。そうだろうな。よかったよ、本当に。元気になって」


 卓はちょっとしどろもどろにそう言って、アタシに背を向けた。

 ふふ、可愛いい。

 赤くなってる。



 季節は春。

 日差しはあたたかいけど、頬をなでる風は、少し冷たく感じた。

 街路樹の植えられた、閑静な住宅街の歩道。

 見上げると、太陽の光に照らされて、黄緑色に輝く枝の葉が、幾重にも重なり、アタシ達を優しく見下ろしていた。

 眩暈めまいがするほど眩しい世界に、アタシは少し気が遠くなるような感覚を覚えた。


 ふと、背後から甲高い女の子の声が近付いてきた。


「美樹ー!」


 そう叫びながら、アタシ達と同じ制服を着たショートヘアの少女が駆け寄ってきた。

 彼女はアタシの両肩に手を掛けると、心配そうに顔を覗き込んだ。


「びっくりしたよー!美樹が事故にあったと聞いたときはー。もう大丈夫なの?」


 えっと…。少し日焼けした小柄なこの少女は…だれ?


「美樹、もしかして頭打った?覚えてる?アタシだよ。メグだよ。」


 記憶を探るようなアタシの様子を見て、少女の方から名乗ってくれた。

 ふー。

 助かったー。

 この子が糸瀬恵いとせめぐみね。

 覚えとかなきゃ。

 美樹の親友だ。


「忘れるわけないじゃん。メグのこと。久しぶりだから、ちょっと感動しちゃって……」


「美樹ー!」


 咄嗟に取り繕うように言ったアタシの言葉に、メグは涙を浮かべて抱きついてきた。

 しばらくして、落ち着きを取り戻したメグは、今度はアタシの髪に優しく触れてきた。


「随分短く切ったんだね。腰くらいまであったのに」


「手術するのに一度はそり落としたんだ。これでも、やっとここまでのびたの」


 アタシの言葉に、再びメグの瞳に涙が溢れ出した。


「ごめんね。そんなこと知らずに、無神経なこと言って」


「いいよー。短いのも気に入ってるんだ」


 首に腕を巻き付けて泣くメグに、アタシは本気で困ってしまった。


「おい、糸瀬。あまり美樹に寄りかかるな。まだ本調子じゃないんだ」


 それまで黙ってアタシ達の様子を見守っていた卓が、メグの背後から不機嫌そうな顔をしてそう言った。

 その言葉にはっと我に返ったメグは、慌ててアタシの体を解放した。

 卓、グッジョブ。

 ……?……でも、もしかして、メグに嫉妬した?



 それからアタシたちは、ゆっくりと、学校への道を歩き始めた。

 去年の秋口に交通事故にあってから、アタシが登校するのは、約半年振りだそうで、メグはこの間学校で起こった出来事を、ジェスチャーを加えながら、とめどなく話し続けた。

 アタシは適当に相づちを打ちながら、そんな彼女の話を半分上の空で聞いていた。


「うっ……!」


 突然、頭の後ろを殴られたような衝撃に襲われ、アタシは思わずうめき声をあげて、その場にしゃがみ込んだ。


「美樹?」


 異変に気付き、卓とメグも腰を降ろしてアタシの様子を伺った。


「……だ……大丈夫。ちょっと頭痛がしただけ……」


 なんとかそう言ったけど、アタシの握りしめた手にはじっとりと汗が滲んでいた。

 吐き気を伴う激しい頭痛は、波のように次々と繰り返し襲いかかってくる。

 パパ。

 ごめんなさい。

 思った以上に、アタシに残された時間は少ないみたい……。




「やっぱオレ、こいつ家に連れて帰るわ。糸瀬、先生に伝えといて」


 しばらくアタシの様子を見守っていた卓は、メグに向かってそう言った。


「う……うん。そうだね。美樹んちのお父さん、お医者さんだし」


 頭を抱え、うつむいていても、メグがおろおろしているのは、震える声からもわかった。


「美樹。おぶってやるから、オレの背中に乗れ」


 そう言って、卓はアタシの前に背中を向けた。

 アタシはメグに支えられながら、見た目以上に広い背中に寄りかかった。


「ねえ、救急車呼んだ方がよくない?」


 ふと、メグが卓に問いかけた。

 アタシを背負って立ち上がった卓は、一瞬考え込んだように動きを止めた。

 心配してくれてありがと。

 メグ。

 でも、それは困るんだ。

 だって、アタシにはまだ、やらなきゃいけないことがあるから。


「……いい。大丈夫。パパに診てもらいたいから……」


 苦痛に耐えながら、アタシはやっとの思いでそう言った。


「そ……そう?」


 卓の背中におぶられたアタシの背中に触れて、メグは心配そうにそうつぶやいた。


「メグ……」


 学校とは反対方向に歩き出した卓の背中で、アタシは弱々しく親友の名を呼び、彼女の方へ手を伸ばした。


「なに?」


 弾かれたように、メグはアタシのそばへ駆け寄り、口元に耳を寄せた。

 アタシは痛みを堪えて、出来る限りの笑顔を浮かべた。


「メグ、ありがとう。大好きだよ」







 アタシは卓の背中で揺られながら、激痛と失神に繰り返し襲われていた。


「……河……行きたい……」


「河?」


 卓は、少し首をアタシの方へ向けた。


「夕日……よく見た……河……」


「ああ、河川敷か。また今度にしようぜ。今日は早く家に帰った方がいい」


 早足で歩き、少し乱れた息で、卓は突っぱねるようにそう言った。


「たぶん……アタシには……今度はないよ……」


「え……」


「……お願い……」





 河川敷の土手は緑に覆われ、青臭い匂いがした。

 柔らかい草の上にアタシは横たわり、太陽の光にきらきらと輝く水面を見つめていた。

 ああ、外の世界って、こんなに美しいんだ。

 アタシの腰から足元にかけては、紺色の卓のジャケットが掛けられている。

 優しいよね。

 卓って。

 そりゃ、好きになっちゃうよ。


 少し離れた場所で、シャツ姿の卓はケータイに向かって、誰かになにかを伝えている。

 時折、眉をひそめて髪をかきむしりながら、彼は必死に何かを訴えていた。


「すぐに美樹の父さん、来てくれるって。もう少しの辛抱だ」


 ケータイをスラックスのポケットにねじ込みながら、卓が近付いてきた。

 そして膝を落とした彼は、心配そうにアタシの顔を覗き込んだ。

 彼は、アタシの我がままを聞いてくれる代わりに、パパをここへ呼び出したんだ。

 こんな切迫した状況なのに、不安の色に染まった卓の大きな黒い瞳に、アタシはしばし見とれた。


「……ねえ。卓。キスして……」


「何言ってんだよ。こんな時に」


 卓は真剣に怒った表情で、アタシを睨みつけた。


「アタシ……あなたのことが……ずっと……好きだった……だから……」


 力の殆ど入らなくなった手で、アタシは渾身の力を振り絞り、卓の腕を掴んだ。

 卓は、そんなアタシの手をじっと見つめ、しばらくすると、その目をアタシの顔に向けた。


「……なあ、あんたは誰なんだ?」


 少し冷ややかな視線が、アタシの嘘を見透かすように注がれた。


「美樹は自分のことをアタシとは言わない。ミキって言う。小さい頃からずっと」


 アタシは、はっと言葉を飲み込み、哀しみと怒りをたたえた卓の目を見つめた。


「……その顔も、その声も、たしかに美樹なんだ。でも、あんたは美樹じゃない」


 その瞬間、今までにない激しい痛みが、アタシの頭に襲いかかってきた。

 頭を抱えて悶えるアタシに、覆い被さるように、卓は顔を近付けた。


「美樹!」


「……詳しくはあとで……美樹のパパ……ううん、センセイに聞いて……」


「センセイ……?」


 眉間に皺を寄せ、卓は見開いた目でアタシを見つめていた。


「アタシは……美樹の気持ちを伝えるために……美樹の体を貸してもらったの……」


 卓の喉がごくりと鳴った。

 彼の唇は小さく震え、微かに歯が打ち合う音がした。


「……あんたは……いったい……?」


「アタシは……脳以外の機能が死んでしまった……可哀想な女の子……」


 一瞬で、卓の顔から血の気が引くのが見て取れた。


「……そして……美樹は……脳だけが死んでしまった……。事故の時の打ち処が悪くて……」


「……まさか……」


 卓は、青い顔をして、地面に腰を降ろしたまま後ずさった。


「……そう。センセイは、美樹の体に、アタシの脳を移植したのよ……。どうしても、もう一度愛する娘に会いたくて……」


 繰り返しやってくる痛みに、意識を奪われそうになりながら、アタシは卓の頬に震える手を伸ばした。


「美樹はアタシに、外の世界を見せてくれた……。だから……アタシは美樹の伝えられなかった想いを伝えたくて……!」


 叫ぶようにアタシがそう言った瞬間、卓の腕がアタシの体を強く抱きしめた。


「……美樹は、美樹の心は、この体の中に残っているのか?」


 アタシの首筋に顔を埋める卓の声が、涙で震えていた。

 そして、アタシの中で、美樹も泣いていた。


「……うん。だから……美樹の……あなたに伝えたかった想いが……わかったんだよ……」


 いつしかアタシの頬にも熱いものが流れていた。

 涙を流したのも、生まれて初めてのことだった。

 美樹の体を借りたって、長く生きられないことは、なんとなくわかっていた。

 でも、アタシは死ぬまでに一度だけでもいいから、外の世界が見たかった。

 その願いを叶えてくれた彼女に、アタシは何かしてあげたかったんだ。


 前触れもなく突然この世を去ることになった美樹にとっての心残りは、愛する人たちへ自分の気持ちを伝えられなかったことだった。

 両親への感謝。

 親友へのありがとう。

 ……そして、小さい頃からそばに居過ぎて、言い出せなかったせつない想いを……。


「美樹は……ずっと……あなたのことが好きだったんだよ……」


 遠退く意識の中、アタシの唇を、優しくあたたかいものが包み込むのを感じた。

 その瞬間、アタシの中の美樹の魂が光に包まれた。

 その光はどんどん大きくなって、やがてアタシの視界を覆い尽くした。


「あ り が と う」


 どこか遠くで、そう言う美樹の声が聞こえたような気がした。

 そして、アタシの世界は無になった。




挿絵(By みてみん)


たまさんから「ミキとアタシ」のイラストをいただきました♪

とっても可愛くて美しいイラストに感動です♥

たまさん、本当にありがとうございます♬



そのたまさんの作品紹介を。

新説「人魚姫」、「サイレント・マーメイド」。

人魚姫をベースにしながら、最後は幸せな気分になれるお話です。

優しい語り口で読みやすいですが、途中ちょっとスリルもあり、大人向けの童話という感じです。

http://ncode.syosetu.com/n1635bs/


そのワンシーンを描かせていただきました♪


挿絵(By みてみん)

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[一言] 心が涙を流している様な心象を持ちました。 私個人としては、事故にあった美樹よりも、美樹が美樹では無いと気付いてしまった卓よりも、そしてそれに翻弄された周りの人達よりも、美樹の体の中にいた名も…
[良い点] 長緒さんこんばんは!ツイッターではお世話になっています <(_ _)> 今作読ませて頂きました。ツイッターだけでは勿体無い素晴らしい作品だったので感想を。 凄くすらすらと読めましたね。短…
[良い点]  はじめまして、マムシと言います。  美樹の体を借りてでも外の世界を見たいという心と、その事に対しての恩返しをしたいという少女の強い思いが、僕の心を揺さぶりました。  移植手術というのは…
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